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創造性は関係の中に宿る

少し前に、頭の中がいかにぐちゃぐちゃかを書きました。これは、僕が仕事のほとんどの時間を独りで過ごすことにも原因があるかもしれません。実験や打ち合わせがあるときは、誰かと顔を突き合わせて仕事をしますが、ほとんどの時間は家で独りで仕事をしています。孤独で少し苦しくもある時間ですが、大量の資料を漁りながら思考を巡らすことに最上の幸せを感じます。我ながらとても贅沢な仕事だと思っています。

孤独の限界

ですが、やはり独りで考えるというのは限界がありますし、寂しさを感じることもあります。思考が同じところで延々とループを始め、目的を見失ってどこかに旅立ったまま戻ってこないこともざらです。レポート用紙をメモ帳がわりに、何時間も何日間も同じ話を行ったり来たりしています。

この状態に陥っていることになかなか気づけないのが人間の面白いところだと思います。それでも、ふとした瞬間、気の抜けた瞬間でしょうか、自分の状況を自覚できるときが訪れます。そういうときは、誰かに連絡を取ってみることが多いです。会社の人である場合もあれば、大学時代の後輩などに思いつきで連絡します。冷静に文章に起こすと、自分がすごく迷惑な人だと気づきました。でも、やめません。

相互作用から現れるもの

実際に連絡してみても、その人が答えを持っていることは稀です。ですが、多くの場合に事態は好転します。小一時間も話せば、次に何をすればいいかが決まり、無限地獄から脱出できます。もしかしたら、相槌を打ってくれるだけでもいいような気もします。

孤独な時間が好きと言いましたが、それ以上に議論の時間は大好きです。議論が大好きすぎで、それだけで一日終わってしまうので、意図的に孤独な時間を作っているのかもしれません。研究室時代からこの様な感じで、ホワイトボードを前によく議論をしていました。同期でも後輩でも捕まえていきなり議論を始めるので、面食らう人もいるかと思います。

僕の手が止まる度に、同じ後輩に「詰まってるんだけど、これわかる?」と聞くことがありました。議論を通して、大概の場合は答えにたどり着いていたと思います。ですが、その後輩に「答えを知っているのに、試すようなことはやめて下さい。不快です。」的なことを言われたことがありました。「僕にわかるわけがないのに。」とも言っていたと思います。

確かに、彼が直接的な答えを持っていると思っていませんでしたが、そんなことは大した問題ではないとも考えていました。そして、僕も答えを持っていたわけではありません。そんな二人でも、話してみると前進できていました。これがまさに思考の面白いところです。話す事で、自分の思考を客観視する様な感覚になり、質問をされようものならより明確な視点で反省することが出来ます。質問は誰でもできますが、自分にはできません。これこそが議論が持つ強さだと思います。個人が持っている知識を線形に足し合わせるだけが重要ではないということでしょうか。

収束と発散

僕は議論に種類があると考えています。それは、発散と収束です。先ほどの話は収束を目指したものでした。ですが、思考を発散させることが必要な場合も多いです。特に、テーマそのものを設定しないといけない僕の様な職種では、思考の発散は非常に重要です。そんなときも、人と話すのが解決策になっている様に思えます。

先日、研究室時代の同期と会いました。昼食を食べたあと、小綺麗なカフェでおしゃべりをしていました。「最近どんな仕事してるの?」と言う話になったので、一人でペラペラと語り始めていました。彼は技術系書籍の出版社に勤めていて、博識で相手から話を引き出すのが凄く上手です。

感情を工学的に扱っていて、それを応用して社会に組み込みたいと話していたのですが、いつのまにか「モデルとは何か」「社会とは何か」「数学とは何か」とあちこちに話が飛んでいました。ただ、これが全くデタラメに遷移するのではなく、何かしらのきっかけが存在していたと思います。これは僕の中では典型的な話が発散するパターンでした。完全にランダムな発散ではなく、わずかに秩序が存在する様な発散です。

ランダムとランダム的なものは違っていると思います。構造化されたランダムと言う人もいるかもしれません。ランダムはデタラメで脈絡がないですが、この手の発散的な議論はランダムというには規則性があり、規則性があるというにはランダム的だと思っています。

「知能とはランダムの中から重要なことを選び取る能力」だと言っている人がいます。僕もこれは正しいのではないかと思います。進化論的な考え方になりますが、物事はランダムに生じた変化の中から淘汰を通して適応的なものが残ったわけです。生物進化では自然がふるいの役割を果たしたわけですが、自らの思考やアイディアは自分自身がふるいの役割もしなければなりません。もちろん、それが他者にレビューされる場合や、世に製品となって出た場合には他人がふるいの役割をしますが。

完全にランダムであれば、何かを選び取る基準を持てないように思えます。そういう意味では、構造化されたランダムの様に、微かに法則性を備えたランダム性の様な際どい状態が思考には必要なのでしょうか。そこで、他者との相互作用の中で、何かをアウトソースすることで、選び取る作業に集中できる余裕を自らに与えている様な気もします。

おわりに

今回は、話す事で思考が前進する様な気がするという話でした。ほとんどTipsの様なもので、いつもの科学的な話ではありませんでした。ですが、一抹の真実が含まれているのではないかとも思っています。人間というのは、他人を含む環境の中で生きていく様に進化してきたわけですから、他者との相互作用を活用するということは当たり前のことなのではないでしょうか。よく、自分で考えろとか、わかるまで調べろとかいう人がいますが、それって何が目的なのでしょうか。独力では成し得ないことがあるのを認めてもいいのではないでしょうか。きっと、孤独と関係の間を行ったり来たりする中に新たな発見が生まれるのかもしれません。

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