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残る蝉

はっはっと弾む息が聞こえてきて思わず振り返ると、薄茶色の毛玉が転がるように駆けてくる。黒いリードの先の、やはり黒い服の人はゆっくり歩いているようなのだが、毛玉の動きは軽くて素早い。走るのがうれしくてたまらないようで、灼けた地面に近いこともふかふかとした毛皮を着ていることも物ともせずぴょいぴょいと跳ねる。
街路樹や電柱やらの根元に仲間の消息を聞き、向こうから生きた仲間が来ようものなら鼻先をふんふん擦り合わせて挨拶し、再び鞠のように体をまるくして走り始める。

雲がいつもの倍速で流れている。台風の余波で晴れてはいるが風が強い。街路樹のトウカエデは微かに色づきはじめ、夜は邯鄲やアオマツムシを聞くようになった。
二、三日前にクマゼミの鳴き声を聞いたように思うのだが、何しろ記憶の中のクマゼミの鳴き声があいまいで、はっきりしない。
毎夏、大阪にいた時もあった。多少の苦さこそあれ、わるい思い出ではない。
新大阪に降り立つと、それは遠く地鳴りのように聞こえてきた。北浜で道修町で日本橋で、浴びるように聞いたクマゼミ。強い日射しとセットになって、かの地の夏の記憶を濃く縁取る。東京とは違う眩むような暑さもまた愉しかった。聞き慣れた蝉とは別の音に包まれて、私はその地にいることがただうれしかった。


人間の、老化については生物学的にはあまり深く研究されていないと本で読んだ。否、研究はあまたあるが、いずれも断片的で現象論的であるという。きっとみなおそろしいから、その全体像から目をそらす。生きるがまま、病むがままにはしておいてもらえない私たちの、抗えない老化という変化については誰も明確な道筋を教えてはくれない。ただそれが、プログラム通り進行するものではないということだけはわかっているらしい。それぞれの星がそれぞれの寿命で燃え尽きるように、各々の身体機能がばらばらに緩み壊れていく。あの人は声や頰の張りを保ち、あの人は広背筋と記憶機構が衰えた。


こうしている間にも時は進み、私の身体も変化している。
この頃は言葉をのみこむということを覚えた。少し前なら畳み掛けずにいられなかった一言ふたことを、言わずにおこう、と思うようになった。転がるように走る頃を遠く過ぎて、要らぬ堪え性がついた。これは進化なのか深化なのか、老化か。
あの夏の眩むような光を忘れたくはない。いつまでも自分の足で歩き、虫の音に緩く世界を感じながら生きていたい。
東京を離れることもない日々。この夏も逝こうとしている。




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