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エッセイ | タクシーライダー

駅の前を歩いて通り過ぎる。深夜であるため構内に入ることはもうできない。

駅前にはバスロータリーもタクシーの待合所もないため、私は自分の家がある方向へ歩き続けるが、ここからだと15キロ以上も離れているので歩いて帰るつもりはない。

「タクシーを捕まえなければ」という使命感に襲われるが、深夜の中で1人歩いているのも悪くはない。

オフィス街でありながら観光地でもあるこの地域は、夜になればとても静かだ。出歩いている人なんて誰もいない。

少し西へ行ったところに飲み屋街があるため、タクシーはそちらの方へ行ってしまう。そのためタクシーを捕まえることも難しい状況だ。

道路を眺めていても車が1台も通過しない時間があり、「家まで歩き続けることになるのか?」なんて思ってしまう。


「お客さんの叫び声が聞こえたので駆けつけました」そう言う運転手は50代くらいの男性で、清潔感があるわけでもないが嫌いではない雰囲気だった。

目的地を伝えた後、雑談を始める前に唱える口上のようにスラスラと出てくる。自分の自信を見せつけるような言い方ではなく、静かで頼りがいのある言い方であるため、なんだか安心してしまう。

結局10分くらい歩き続けていたため、このタクシーの明かりが見えた時はホッとした。まさかこんなことを思う日が来るとは思いもしなかったが、世界に私1人だけが取り残されたかのような気持ちだった。

その安心感からか、運転手から話しかけられても「今日だけはいいかな」と思えた。


タクシーは静かに私の住むマンションへ向けて進んでいく。意外にも運転手は最初のあいさつ以降話しかけてはこなかった。

車内にはラジオのクラシック音楽番組が流れており、楽曲の合間にパーソナリティーがその曲について短く紹介をする程度で、ずっとクラシック曲が流れていた。

こんなに静かなタクシーにはなかなか出会えない。良いタクシーに乗れたなと思いながら、少しだけうとうとしてしまう。


「次の信号でよろしいですか?」不意に運転手から声をかけられ、慌てて辺りを見回す。もうマンションの近所まで来ていた。

「大丈夫です。信号の前で止めてください」そう言うと「承知しました」と返事がある。

支払いのやり取りをして領収書を受け取る際に運転手の顔が見える。乗った時もそうだったが、笑顔ではないが優しい雰囲気の方だった。

「お疲れさまです。お気をつけて」運転手がそう言うと、私の隣にある扉が開く。


駅の前を歩いて通り過ぎる。今日はどこまで歩くことになるのだろうかと考えると気が重い。

数分だけ歩くと後ろからタクシーがやって来たため手をあげる。

シートベルトを締めながら目的地を伝える。
「以前も似たような時間にそのあたりまで行ったことがあるんですよ」と言う声の後ろではクラシック曲が流れている。

「私の叫び声を聞いて駆けつけてくれたわけじゃないんですか?」と言う勇気はまだない。



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