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インド仏跡巡礼(27)ナーランダ大学

釈尊(ブッダ)、晩年の修行の地「ラージギル」の中でも、有名な
聖地を一通り観て、ホテルに戻って昼飯を食べた後、バスは、
いよいよ、釈尊(ブッダ)成道の地「ブッダガヤ」へと、向う。

だがその前に、もう一か所。釈尊(ブッダ)には、直接関係はない
が、インド仏教の盛衰を物語る象徴的な場所へと、バスは向った。

ラージギルから、北西約16kmの場所にある「ナーランダ大学」だ。

かつて「ナーランダ大学」があったナーランダ村は、釈尊(ブッダ)
十大弟子の中で、智恵第一と云われた舎利弗(シャーリプトラ)と
神通第一と云われた目蓮(マウドガルヤーヤナ)の出身地である。

前田行貴氏の「インド佛教巡禮」によると昔から、この辺りは
美しいマンゴー樹林帯だったが、中央に池があって、その池に
ナーランダと云う龍が棲んでいたことが、村の名の由来のようだ。

龍伝説が残るほど、豊かな緑と水に恵まれた環境であるが故に、
仏教徒たちの修行の地としても、最適な場所だったのだろう。

その村の土地を500人の商人がを共同購入し、釈尊(ブッダ)の修行
地に寄進したとされているが、後の世もナーランダは、仏教学研究
の地として、マガタ国の歴代王の保護を受けていった。

そして、427年。「ナーランダ大学」の名のもとに、仏教研学を
中心とする「知」の一大拠点として、世界最古の大学は誕生した。

ナーランダ大学は、5世紀から12世紀に渡り栄え、学生が最も多い時は1万人を越え、教員も1500人いたと云う。

大乗仏教の多くの教えが此処で研究され、その成果はベトナム、
中国、韓国、日本にも伝えられている。

7世紀前半には「西遊記」で有名な玄奘三蔵が国禁を犯してまで、
ナーランダを目指し、多くの試練を乗り越え、学生となっている。

5年の学業を修めた玄奘三蔵は、657部の経典を長安に持ち帰るが、
出国から既に16年過ぎていた。

彼は、62年の生涯を閉じるまでの19年間を膨大な経典の翻訳に、
全力を傾け、後世に「知」の遺産を遺し、去っていった。

ナーランダ大学は、仏教の発展と浸透化に大きな痕跡を残したが、
12世紀の終わりに、イスラム軍の焼き打ちにあい、建物は炎上、
経典は焼き尽くされ、インドにおける仏教は、完全に消滅した。

現在、見られるナーランダ大学は、1916年から発掘調査が行われ
ているもので、規模は東西250M、南北600Mの遺跡が見られる。

往時の規模は、東西10km南北5kmと云われていて、比べたら
333分の1の広さだが、なかなかどうして見ごたえがある。

芝生の広がる中央公園を抜けると、赤煉瓦の高い城壁のような壁が
建ち並ぶ、その一角の四角いトンネルを潜れば、壮大な遺跡群が
眼の前に広がっている。

舎利弗のストゥーパと云われる大塔の周りをぐるりと観て、学生
達の瞑想の為の個室や、各学部各舎の遺跡、煉瓦造りの大階段、
そして、壊された石仏群に、大小建ち並ぶストゥーパ。

眩しい光の中で、芝の緑と煉瓦の赤色が、軽いハーレーションを
おこし、過去へタイムスリップするような眩暈に揺れる。

人影のない大階段の上からいきなり、黒ひげをたくわえ、ターバン
をまいた男達が剣を抜き、ジッと見降ろしているような錯覚が過る。

「あと10分で、バス出発ですよ!!」と、現実の声に引き戻され、
ホットするが、慌てふためき、広い遺跡内を小走りで出口を目指す。

2001年の国勢調査によると、インドの人口に占める各宗教の割合は、ヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒13.4%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.9%、 仏教徒0.8%、ジャイナ教徒0.4%である。

10年以上前のデータなので、今はもっと仏教徒の数が増えている
ようだが、それにしても、仏教が誕生したインドで、仏教徒の数が
こんなにも少ないと、初めて知った時は、驚いた。

なぜ、インドで生れた仏教が、インドで亡んだのか?

その謎を残しながら、バスは釈尊(ブッダ)成道の地「ブッダガヤ」
へと向った。まるで、時の流れを逆進するかのように…

インド仏跡巡礼(28)へ、続く

(2014年12月20日 記)

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