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京から旅へ / インド編 インド仏跡巡礼(25)ラージギル/王の因果①竹林精舎

霊鷲山から西へ走り、さらに北へ上ると「竹林精舎」へ着く竹林精舎は、マガタ国のビンビサーラ王が、釈尊(ブッダ)の在家信者となって建立した、世界初の仏教寺院である。

霊鷲山から竹林精舎までは、車で10分程の距離だが、途中には、同じ、ビンビサーラ王が晩年、息子のアジャータシャトル王に幽閉され餓死した,牢獄の跡地がある。
牢獄跡地はマガタ国の首都・王舎城跡(ラージギル)の中心にあり、城外東の霊鷲山、北の竹林精舎と結べば、ほぼ直角で三角となる。
この狭いエリアに、仏教に帰依し、仏教の発展に貢献した、国王ビンビサーラの仏縁とも云える、二つの因果な物語が残されている。


仏教のおこった紀元前5世紀頃の北インドは、幾つかもの国が対立していたが、中でもマガタ国は、コサーラ国と並ぶ、強国であった。
そして王舎城(ラージギル)は、そのマガタ国の首都として栄えた。
此処はアーリア系住民の新天地であり、伝統的バラモン教の身分制度による習慣や、権威づけが比較的に少なかったようである。

古代インドで長く続いた、バラモンの祭祀や呪文による、階級的支配から、力で台頭してきた王や武士による武力支配へと移行する時代。
同時に、貨幣経済の発展により商工業者が富を生み、自由で活気に溢れた,文化的な都市国家=王舎城(ラージギル)が造られていった。

そんな、先進性を求めるうねりの中で、身分も性の差別もなく平等に“生き方の本質を唱えた”仏教が、人々に受入れられ、多くの支持者(仏教徒や信者)がつくりだされていった、のかも知れない‥

マガタ国のビンビサーラ王は、釈尊(ブッダ)と同じ歳である。
若い頃に、マガタ国を訪れた釈尊を偶然見かけた王は、洞窟で修行中の釈尊を尋ね、会話をかわすうちに熱狂的なファンとなる。

王は、国を半分譲ってもいいから、傍で教えを説き自分を導いて欲しいと申し出るが、釈尊(覚醒前の名は、シッダルータ)は、まだ修行中の身と断る。
だが将来、悟りを開いた時は、必ず教えを伝えに王の元へ戻ると、釈尊(シッダルータ)は約束をする。

そして、悟りを開いた釈尊(ブッダ)は、1000人を超す弟子を引き連れ、約束通りにマガタ国を訪れ、ビンビサーラ王も約束通りに、帰依する。
ビンビサーラ王が、釈尊(ブッダ)と弟子達を歓迎する宴で、寄進した、竹林精舎と、王が登山道を整備した霊鷲山は、釈尊(ブッダ)の活動拠点となり、この地から教えは各地に広まり、教団化も図られた。

竹林精舎はビンビサーラ王が寄進した竹林園に、カランダ長者が精舎を建立し、雨季は此処に、修行者達が定住して、活動(雨安吾)した。
長い雨季は、河が氾濫して移動が困難で、毒蛇の害も多いからだ。“精舎”は修行者の舎宅の事で、立派な寺院建築の意味ではない。

現在、復元された竹林精舎も、掘起された四角いカランダ池を中心に、竹林公園のようであり、大伽藍の跡があるわけではない。
竹林精舎は、平家物語の冒頭の言葉で有名な祇園精舎に比べあまり知られてないが、竹林精舎は南方伝導の要地として、祇園精舎は、北方伝導の要地として、使われていたようだ。
竹林精舎も含め、諸行無常の響きは広く、伝えられていたのである。


ビンビサーラ王が、仏教の発展に果たした役割は、限りなく大きい。
だが若い頃に、二人が出会い、互いに約束をしたと云う「原因」があったからこそ、仏教の礎が築かれる、「結果」が生まれた。
まるで「因果の法則」を地で行くような、釈尊(ブッダ)と王の話である。

だが、そんなビンビサーラ王の晩年は、酷く、悲しい。そして‥釈尊(ブッダ)と王にまつわる、もう一つの因果な物語が残されている。

インド仏跡巡礼(26)へ、続く

(2014年8月29日 記)

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