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残影(習作方言詩/津軽弁)(+文学小話/方言詩)

残影(習作方言詩/津軽弁)

夕暮れに外サ出でみれば、
ポツポツって明がり点ぐ。

わんつかしけった煙草さも火ぃ付ければ、

「何処サ行ぐンだ」って声。

誰だべど思って首上げれば、
カラスっこ一羽口開げでコッチ見でら。

「何処サ行ぐ」

黒々どした眼ン玉さはなンも映ってネで、
ただただコッチば見でら。

「いや、行ぐ当でもネェんだね。
おめだば何処サでも行げで良いな」って喋れば、
バサバサって音して細セェカラス隣サ寄り添った。

「なも、ンでネェんだね」

薄紫の空サ二羽の影、消えだ。

「なに、何処サも行げネェのはワだげでネがったンずな」
家の中がら晩飯でぎだってカッチャの声。

人どカラスの邂逅は煙草の火よりも短けェ。

―――標準語訳―――

夕暮れに外に出てみれば、
ポツポツと明かりが点く。

わずかに湿気った煙草にも火を付ければ、

「何処に行くのか」と声。

誰かと思って首を上げれば、
カラスが一羽、口を開けてこっちを見ていた。

「何処に行く」

黒々とした眼の玉には何も映っていなくて、
ただただこっちを見ている。

「いいや、行く当てもないさ。
お前なら何処にでも行けて良いだろうな」と言えば、
バサバサと音がして華奢なカラスが隣に寄り添った。

「いや、そういう訳でもないさ」

薄紫の空に、二羽の影が消えた。

「なんだ、何処にも行けないのは俺だけじゃなかったってことか」
家の中から夕飯ができたと妻の声がする。

人とカラスの邂逅は煙草の火よりも短かい。

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文学小話/方言詩

青森県出身の詩人、高木恭造は昭和6年に方言詩集『まるめろ』を出版しました。
津軽弁特有の訛りと方言によって綴られた詩は、海外でも翻訳されるなどの評価を得たようです。

他にも一戸謙三や植木曜介らが津軽弁による文学作品を残しており、現在は特に伊奈かっぺい氏が精力的に活動を続けておられます。

高木の方言詩は出版された当時の方言で書かれたものであり、正直私には読みづらいです。そして、今回初めて方言詩というものを意識して書いてみましたが想像以上に難しい……。

というのも、私は青森市のわりと中心部の方に生まれ、祖父母とも離れて暮らしています。つまり、強い方言があまり身近にはないような環境で育ったのです。

これはあくまで個人的な感覚の話なのですが、津軽弁といってもレベルがあって、
・訛り→イントネーション
・方言→単語
というイメージがあります。
私にはもちろん「訛り」はあります。(津軽弁はきついので、若者世代もわりと訛っている。)だけれど、その育ちのせいか「方言」をあまり知らないのです。

中学で祖父母と暮らす子たちがたくさんの方言を知っていることを知り、高校で市外から来ている子たちの津軽弁のきつさに驚きました。
私の津軽弁ボキャブラリーはきわめて貧弱なのです。

母が祖母に話しかける時の言葉と私に話しかける時の言葉には違いがあります。
方言の数、訛りの強さ、語尾。
当然と言えば当然でしょう、「本気の」津軽弁を開放すれば、私には伝わらないからです。
(ちなみに、今回の方言詩は母に添削をしてもらいました。)

また、方言詩の魅力は朗読によって際立つものと思います。現に発行されている方言詩集のいくつかは朗読CDが付いています。
(私にはまだ朗読をする自信はないのですが……。)

ここからは予告として。
習作としての簡単な内容のものではありますが、今回方言詩を書いてみて、色々と思うところがありました。
今後、数回に分けて、方言詩の習作とともに方言について思うところをつらつらと書いてみようかなと思っています。

いつもより長くなってしまいましたが、少し興味が沸いたという方は次回も覗いていただけると喜びます。

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