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書くこと、短歌のこと

九月から語学学校に行っていなくて、ほとんどを家か図書館で過ごしている。行動することといえば、アルバイトか、友人とどこかへ観光へ行くか、ご飯を食べに行くか、くらい。今月になって日本にいる親友とそんな話をしていて、突然「じゃあ文学やってみる?」という話になった。というのも、時間が有り余っている今しか、文章など書いていられないのでは?という結論に至ったからである。彼にはこのnoteの存在は伏せているし、短歌を作っていることも言っていない。ただ単に、今の時間がたくさんある状況を有効活用することが目的だったのと、今の生活を文章に留めておきたいと思ったからである。

長い文章を書いたのは久しぶりだった。と言っても10ページ足らずだ。
わたしは彼に、今のベルリンでの生活や今思っていること、恋をしていることをメインに、今まで感じてきたことをエッセイのような、小説のような形で綴った。少しだけ気恥ずかしかったけれど、書くことは楽しかった。書いた結果、完全に彼に向けた私小説もどきになった。

わたしは物語や文章を書くことが好きだ。ただ文章を書く練習や勉強はしていないので、趣味でしかない。きっと文法や文章のスタイルはめちゃくちゃだろう。それでも彼は楽しんで読んでくれているようなので、とりあえずよしとする。


よく、本の最初に「〇〇へ」という表記がある。この本は誰々のために書かれたよ、という意味の。わたしはこの表記に憧れている。
わたしは自分のために文章を書くことは苦手だ。例えば仕事を探す時の動機書とか、日記とか。あとで読み返すと恥ずかしくなるから、だと思う。なにをわたしは真面目にこんなことを書いているのか…と、ふと冷静になってしまうのだ。
反対に、誰かのために文章を書くのは、割と好きだ。
小説とか、物語とか、エッセイとか。知っている相手に書く文章は楽しい。相手がどんな反応をしてくれるか楽しみだし、二人の間だけでしかわからない単語や言い回しをこっそり入れたりして楽しむこともできる。
わたしが文章を書くのは、コミュニケーションのためなのだろうと思う。誰かに贈る物語を書いた著者たちも、そんな気持ちだったのだろうか。


それとは逆に、わたしは自分のためにしか短歌を作らないな、と気がついた。自分の気づいたものや見たもの、感じたもの。短歌には、自分の中で凝縮したものしか詰め込むことができない。連作という手もあるけれど、わたしは一首の中で完結する短歌の方が好きだ。連作にすると、自分の気持ちや感情があちこちに散らばりすぎて収集がつかなくなるのだ。
短歌には、三十一文字という制約がある。また、5・7・5・7・7という定型も存在する。そんな中で、当てはまる文字やくっきりと情景が浮かび上がるような表現を模索するのは楽しい。わたしにとって短歌は表現するものであると同時に、自分の感性を試すものである。
どの言葉を削るか、どの言葉を使うか。とても単純だけれど、わたしにはそれが楽しい。だからわたしは短歌が好きなのだろう。


ドイツに来てドイツ語を勉強して、改めて日本語の難しさというか、独特さを感じている。時々は日本語はやっぱり素敵だな、と思うし、時々はややこしいな、とも感じる。思考は言葉によってを組み立てられる。知っている言葉でしかわたしたちは考えることができないし、伝えることができない。

それと同時に、違う言語によくここまで対応する感情の表現や言葉があるものだな、と驚いている。大抵の言葉は翻訳できるし、なんなら全く同じ言い回しで同じ意味のドイツ語だって存在する。
人間は根本的なところでは変わらないのかもしれない、と思うと、ちょっとうれしい。


最近、一つの物語を書いている。ある人にあてて。
完成するのがいつになるかはわからないけれど、最後まで書き切りたいなと思う。読んでくれる相手のことを考えると、頰が緩む。
そして、短歌をゆるゆると作っている。これは自分にあてて。
片思いをしていることは何度かnoteに書いているけれど、今の自分の気持ちや感情を残しておきたいと思ったからだ。
そう考えるとわたしは結局自分のためにしか文章を書いていないのかもしれない。言葉は思考である。言葉はずっと残る。


未来のわたしが今のわたしの文章を読んでどう思うかはわからない。わからないけれど、未来のわたしが誰か大切なひとと一緒にその文章を読んでいたらうれしいな、なんて思った冬のはじめでした。