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日本人が「さようなら」に込めてきた想いを読み解く

あなたは最近「さようなら」と言って別れたことがありますか? ちなみに私はそれに代わる言葉、「バイバイ」とか「じゃあね」とか「また明日」とかは言いますが、「さようなら」はおそらく使っていないと思います。

作詞家の阿久悠は晩年に「ぼくのさよなら史」の中で『果たして、今の人たちがさよならという言葉を使うのだろうか、と思うことがある。「さよなら」はすでに死語になったのだと気がつ』いた、と言い、その原因として、交通手段の高速化や携帯やメールが日常になり、いつでも繋がっていると錯覚するようになったことをあげています。これが書かれたのは2003年ですが、それから20年以上が経った今、その流れは更に加速しているように思われます。




そもそも「さようなら」とは?

「さようなら」は「さらば」=「あらば」「さようであるならば」のことで、前に述べられた事柄を受けて、次に新しい行動、判断を起こそうとするときに使うとされた接続詞から来ています。

平安時代の頃には徐々に別れ言葉として使われはじめ、後撰和歌集などでその例が見られます。しかし中世以前はまだ「さらば、よし。自害せんと思食おぼしめして」(「太平記」)のように、死に際に使うことが多かったようです。

日本人の心構えとして、事を終えるときにはけじめの言葉を用い、それをもって次に移るという考え方がある。それがこの「さらば」に表れていて、やがて別れ言葉の「さようなら」になっていったのではないか

「やまとことばの人類学」

と「やまとことばの人類学」の著者、荒木博之氏は述べています。

いつでも好きなときに人と繋がれ、ともすれば寝るとき以外は一日中、区切りなくネットにアクセスしているような生活をしている現代人は、そういう意味では「けじめ」をつけなくなったと言えるかもしれません。そう遠くない将来、意識をデジタル化し、永遠に生きることが可能になれば、本当に「さよなら」が死語になるかもしれません。


「さよなら」がもつ哀愁

上記に挙げた阿久悠「ぼくのさよなら史」にはこうも書かれています。

人生の中で別れということに無自覚なら、感性をヒリヒリ磨くことも、感傷をジワッと広げることも、それに耐えることも出来ない。人間の心というのは、いつも少し湿り気を帯びていなければいけないのに、カラカラに乾かしていては味気ない。心に噴霧器で水分を与えるには、切なさや、哀しさや、寂しさの自覚が不可欠である。

「ぼくのさよなら史」

この一文は作家ならではだな、と思わずにはいられませんでした。私も物書きとしてこの感覚は失ってはいけない、と痛感。さよならに限らず、人生にはこう言った別れによる胸の痛みや心が動かされるといった経験はエッセンスとして必要なのだ、と再認識させられました。

そこで思ったことが一つ。それは、家にいながらあらゆることが疑似体験できてしまう現代社会においては別れに限らず、そもそも「実体験する機会」が減っているのではないか? ということ。

例えば買い物一つとってみても、通販を利用すれば家にいながら欲しいものが手に入るし、グーグルマップのストリートビューを見れば、現地に行かずともそこにいるかのような体験が出来てしまう。電話ですら顔を見ながら話せるので、人によっては会わなくてもいいや、という気持ちになるかもしれません。それはそれでメリットもあるでしょう。一方で、そこには感動もなければ感傷もない……。

心が、感情が動くから人間なのだ、と思っている私としては、生まれたときからこのような生活が当たり前の環境で育つ今の子どもたちは将来どうなってしまうのだろう? と危惧しています。


「胸キュン」は人生に不可欠?!

私が20代の頃に経験した、恋人(今の夫)と直に会って一緒の時間を過ごしたあとの、別れ際に胸がキュンとする「あの感じ」は、言葉に表すことが非常に難しいものです。その、言葉に出来ない「あの感じ」はしかし、同じような経験をした方であれば「ああ、あれね」と理解できる感覚ではないかと思います。そのような共通認識があるからこそ、別れを歌った歌や映画(物語)に触れたとき感動できる……。もしそう言った経験をせずとも生きていけるようになってしまったら、「さよなら」を描いた芸術作品は流行らなくなり、最終的には生まれなくなるかもしれませんね……。

次に会うときまでの、会えない期間に感じる寂しさや恋しさや不安……。これをひしひしと感じるからこそまた会いたい、と思うもの。

そのために私たちは「もう帰る時間が迫っている。そういうことなら(さようであるならば)、なごり惜しいけど今日はここで別れましょう。そして再会した暁にはまた感動を分かち合いましょう」という意味を込めて「さようなら」と告げるのではないでしょうか。

近頃では別れがたい「さよなら」の場面はそうそう訪れませんが、日常を今一度見つめ直し、一日の終わりには、二度とやって来ない今日という日に「さようなら」と言って、思いを馳せてみるのもいいかもしれませんね。


***

今回は、「再会を前提としたさよなら」について記述しましたが、「死後の世界を意識しながら使うさよなら」もなかなか奥深いので、また別の機会にご紹介できればと思います。

(参考図書:「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか 竹内整一著)


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