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私と短歌について


私はいま、短歌を詠むということについて葛藤している。

わかってもらえないことに怖がっている。私のなかで思い描いている情景が読み手に伝わらなかったら、と思うと悲しい。そうして、わかりやすい言葉ばかりを並べようとする。想像してもらうという一番大事な行為を省かせて、そのままで理解できるかたちにしてしまう癖がある。これが私の詠む短歌において致命的な欠点だと思う。

単純に、言葉を多く知らない、という理由もある。特に、刺激を受けられるような場所へ出かけたり、そういう意識でまちを歩いたり、小さな発見をこころで感じたり、あとから思い沸かせられる風景を持っていたり、と、そういうことをしていないからネタがない。今までの実際の経験から、少ない景色から、絞り出すしかない。かといって、ありきたりな人生ではなかったから、面白いはずなのに、力が付いてこない。

肯定できたりできなかったりするけれど、私は言葉を綺麗に書けるひとだと思う。それなのに、勿体無いことに、引き出しとひらめきが圧倒的に足りない。

承認欲求も私の邪魔をする。短歌作品をツイートして、いいねがもらえればもらえるほどその作品を好きになれる。逆に、いいねがあまりもらえない、つまり他人から評価を得られないと感じてしまうものは、ダメな作品だと勝手に決めてしまう。私は最低だと思う。本人が自信をもって愛してあげるべきものを、そんなふうに扱ってしまう。

しかも、他人の作品に嫉妬ばかりして、嫌な感情がいくつも産まれてしまう。フォロワーがたくさんいて、その比もあっていいねがたくさん付く人を羨ましく思ったり、私にとってはあまり刺さらない作品に、多くの評価が付いていることを受け入れられなかったり、嫌な感情というものは言葉にすればするほど嫌なひとになってしまうからあまり言いたくはないけれど、私は結局、誰かや誰かの作品が憎いわけでは全くなくて、汚い自分に引いている。

どうすればいいかははっきりとわかっている。とにかく数を詠むこと、何気なくでもいいから外に出たり本を読んだり新しい学習をすること、人の短歌から学ぶこと。できることはたくさんある。だから今月は短歌の研究期間にしようと思っている。

ここに書けば、もう少し冷静に向き合えると思ったから、自信のなさを吐き出したかった。短歌というものに魅了されている一人として、もっと楽しめるように、できるときにできるだけ伸ばしてみたい。



これは、今日つくった作品です。

このnoteにたどり着いて読んでくださったひとに私の短歌を感じてもらえますように。

『愛を知る』

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