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でざいん姉さんの「くわしすぎる」プロフィール 〜半生編〜

はじめに

アートディレクター、デザイナーのでざいん姉さんこと佐野五月と申します。

私の生い立ちから、役に立つかわからないドヤ顔ネタまで詳しく書いてみました。
と〜ってもと〜っても長いので、究極にお暇な時にコーヒーでも飲みつつYouTubeでも見ながら、さらっと読んでいただけると嬉しいです。

2017年1月からirohazum(いろはずむ)という屋号で活動しています。

irohazumは「いろは」「はずむ」を合わせた造語です。

●「いろは」は、初心を忘れずクライアントと向き合う
いろは歌で最初の部分であることから、物事の基本や初歩という意味で使われます。
常に「初心を忘れずいちからはじめる」ことをモットーに、クライアントにしっかりと向き合いたい気持ちと、人として常に謙虚でいたい気持ちを込めました。

「はずむ」は、喜びとワクワク
クライアントにとってデザインが未来の喜びのきっかけになること、心が弾むような嬉しい体験となることを目指しています。
また、私自身もワクワクする気持ちを忘れてはいけないと思っています。

アルファベットの綴りが怪しいのですが、逆にそれが世界に一つしかない名前になるかもと謎のポジティブで決定しました。(たぶん他にはないはずです…)

タグラインは「心はずむ、みらいを共創する」です。

クライアントと一緒に楽しい未来を共創していく、一緒に歩んでいく意味を込めました。


実は個人事業主として2008年に開業していましたが、以前は屋号が違い、irohazumとしての活動は2017年からです。

主にロゴを中心としたブランディングやグラフィックデザイン、学校案内や会社案内、書籍、多言語デザインなどエディトリアルも得意です。

最近はクライアントの事業そのものに関わることが増えて、自分で言うのはおこがましいのですがコンサルタントのような動きもしています。


独立する前は主に印刷会社でディレクター兼デザイナー、さらに製版業務や工場への指示、納品までトータルに携わっていました。

勤めていた会社が良くも悪くも「トータルで任せる」方針の会社だったので色々と経験できました。

デザイナー歴は今年で丸22年、23年目に突入しました。
(2022年10月現在)

最近の活動やリンク集をまとめたものです


私はこんな人です

アートディレクター・グラフィック・エディトリアルデザイナー

Twitterでの「でざいん姉さん」

大好きなSNSであるTwitterでは「でざいん姉さん」と名乗っています。

Twitterでは毎日活発に活動していますので、ぜひフォローしていただけると嬉しいです。

でざいん姉さんTwitter


ONLINE上司 グラフィックデザイン課チーフ

上司ニシグチさんが主宰するオンラインコミュニティ「ONLINE上司」のグラフィックデザイン課でチーフをさせていただいています。
主にデザインの添削や相談にお答えしています。


上司がいないクリエイター向けのオンラインコミュニティー「ONLINE上司」



●強みがあるとしたらこれかもしれない

自分で自分の強みを書くのはなかなか恥ずかしいのですが、書くのはタダですしどうせなら書いてしまえと思い記載してみます。

もうこの際、私ってすごいでしょ!とドヤ顔で書きます。大したことないことでも絞り出します。思いついたら追記していこうと思います。

因みに自分の強みなんてわからないので今回の為に、周りの方に質問してみました。
答えていただいた方ありがとうございました!


この業界20年以上の経験

なんかよくあるコピーみたいですが、デザイナーとして丸22年経ちました。(2022年現在)

デザインも印刷もアナログからデジタルに移行した後くらいに就職しました。
若い女子は安室ちゃんを真似、ノストラダムスの大予言に震えつつ何もなかったことに安堵し、iモードが登場した年だったと思います。

なので、PCやそれに伴う印刷技術の進化は体感してきた世代だと思っています。
これまでたくさんのクライアントに会うことができ、様々な案件に携われたことは本当に良かったと思っています。

また、若者は知らない化石ネタも語れるようになってきました。

(例)昔は手製版だったよ〜昔のイラレは透明効果やアピアランスなかったんだよ〜など



製版業務などに携わっていたので印刷のことに詳しいです

印刷会社ではディレクション→デザイン→データ作成→製版→印刷の指示・確認とトータルで経験しました。
その為、ご予算に応じて紙や加工、商品の形などご提案することができるので、ぜひご予算でご相談ください!


作成したデータを自分で製版するので、美しい印刷に繋がるデータの作り方や、印刷ミスが防げるかなどは頭に入っています。
印刷担当の方にすっごく鍛えられました。(変なデータを作ると烈火のごとく怒られてました)


そのため、印刷物を見ただけで、だいたいCMYKで何パーセントなのかわかるのは何気に便利です。


因みに、大量の紙をすぐに揃えたり、紙を素早く数えることも得意です。
印刷会社で習得しました。普段はあまり使う機会はないですが…

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どの分野のデザインもできる(と言われる)

こう言っていただけるとすごく嬉しいです。デザイナー冥利に尽きると思っています。

これまで本当に様々な業種のデザインに携わりました。
スーパー、ガソリンスタンド、子ども向け、スタイリッシュなもの、医療関係、観光系パンフレットなど…

テイストはお堅いものから柔らかいもの、おバカなものまでクライアントさまの要望に沿ってその都度がらりと変わります。

もちろん「私らしさ」は残っていると思いますが、デザインは私個人の作品ではなくてお客様の目的を達成するための手段だと考えています。

なので「好きなテイスト」はありますが「得意なテイスト」は思いつかないというところが強みと思っています。


ふわっとした状態でも依頼できる

いつもご依頼してくださるクライアントさんに「なぜ私にご依頼してくださるのか」を思いきって質問してみました。
「ふわっとした状態でお願いしても情報が整理されて形になっていくので助かっています」
とのお言葉をいただきました…!ううう、嬉しい。


因みにirohazumではヒアリングして情報を整理し原稿から作成しますので「チラシが欲しいけど伝えたいことがよくわからない」という状態でもお気軽にご相談ください。


納品したその先のことを考えて仕事をする

仕事のパートナーでありプロデューサーでもある方に「デザイナーとして、なぜ私を選んでくれたのか」を質問してみました。
「クライアントのその先のユーザーや納品した後のことを考えて仕事してくれるから」とお返事いただきました。

これは本当に嬉しかったです。
この件に関して語り出すとちょっと熱くなりそうなので、今回はこれくらいにしておきます…


イラストを描くのが好きです

子どもの頃は漫画家になりたいと思うくらい絵を描くことが好きでした。

プライベートではゆるいイラストしか描いてないですが、たまに仕事で挿絵として描いています。(描けるものに限りますが…)

イラストも仕事となれば色んなタッチが必要なので、その度に新たな発見があります。
主にiPadでApple Pencilを使用することが多いですが、やっぱりアナログの方が好きです。

今回の記事のイラストは全てアナログで簡単に描いています。
「ゆるい」「なんかクセになる」とご感想をいただいてます。


お仕事のイラスト

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©etomoji Kanaeru

[夢をkanaeruスタンプ]
https://kanaeru.info/archives/2021/03/news/319/


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書籍や電子書籍を作ります

先輩が組版を専門にされていて、駆け出しの頃に徹底的に教えていただきました。

なのでInDesignを使用して組版すること得意としています。

近年ではingectar-eさんの書籍や上司ニシグチさんの書籍に携わっています。


写真のレタッチできます

これは最近知ったことなのですが、分業されている会社も多いとか。最近はソフトで誰でも簡単にできるようになりましたが「印刷物として美しく仕上がる」写真データを作れるのが強みと思っています。

「印刷物として美しく仕上がるレタッチ」について、『まるみデザインファーム』さんのイベントで少しですが語っていますので、よろしければご視聴ください。


写真の切り抜きが得意

会社員時代は1日に100枚くらいパスで切り抜いていたので得意です。速いです。無になります。


Word・Excel・PowerPoint・日商簿記

Word・Excelは2級、日商簿記3級取得しています。
Word 、Excel、PowerPointは学ぶ機会もなく原稿で受けとる程度で、Adobeのソフトは使えるのに扱えないのが嫌で社会人になってから勉強しました。
日商簿記も社会人になってから取得しました。フリーランスになってから複式簿記の青色申告にすごく活用できています。


鋼の女・鉄のハート

この20年、超絶な働き方をしていたので鍛えられたのか、体力、メンタルともに「鋼の女」「鉄のハート」と言われたことがあります。でももうあんまり無理はしたくはないです…
私独自のマインドセットもあります。


落ち込んだ後の復活が早い(と言われる)

周りの方に質問して一番多かった私の印象がこちらです。
「落ち込む時はとことん落ち込むのに、そこから這い上がってくるパワーとスピードが凄い」と言っていただけました。これは心がけていることなので嬉しいです。


会話しながら原稿を入力することができる

これは強みなのか特技なのか誰でもできるのかわからないのですが、結構指摘されるので書いてみました。
会話しながら原稿入力ができます。文字を打つではなくて、原稿を見ながら入力するという部分がミソです。
でも最近は原稿を手打ちすることはほぼなくなりました。

物知りらしい

こちらも周りの方に質問して多かった私の印象がこれです。でも広く浅くです。
わからないこと、知らないことがあると、すぐ調べます。調べることが趣味です。楽しいです。


この後に「なんでなんで君」の章で説明しますが、子どもの頃から何か気になるとずっと頭から離れなくなって「答え」を知りたくなります。
でも、難しいことは全くわからないです。


新し物好き

新しいコンテンツ、ソフト、情報、音楽なんでも好きです。そういう情報を知ること、体験することが大好きです。


本は月に20冊は読むことを心掛けています

本が好きです。多くはないですが月に最低でも20冊程は読んでいます。

最近は文芸よりもビジネス書が多く、Kindleで読むことが多いです。本屋さんにはなるべく行かないようにしています。破産してしまいそうだからです…
最近は音声配信(ラジオ)やYouTubeで学ぶことも多くなりました。


簡単・時短家事

このお仕事は長時間労働が多く、家事に時間を使うのが厳しい中で色々と編み出しました。特に私の作るお料理は簡単で時短なものが多く、安くて栄養バランスも考えているので、いつかレシピを公開したいです。


この仕事が好きすぎる

子どもの時から「家族新聞」や「学級新聞」を勝手に作り、情報をまとめて人に伝えることが大好きでした。
高校でデザインを学び、デザイン・広告業界に飛び込んでもう20年になります。
たくさん辛いこともありましたが、やはりこの仕事が大好きなのだろうと思います。


休日も買い物に行けばデザイナー視点でパッケージを見てしまいますし、街に溢れるデザインを眺めています。
飲食店でメニューを見れば「あ、このフォント○○だ」などと思ってしまいます。この紙いいな〜この印刷いいな〜など。
デザイナーあるあるですよね。


趣味・特徴一覧
●何でも調べる。調べ魔。何かにハマると調べ続ける。
●ゲーム(ドラクエ・FF・戦国無双・パズル系など)
●ライブ・フェスに行く(主に邦ロックと嵐 )
●本が好き。集めるのも読むのも好き(月に最低20冊は読んでます)
●ゲームしながらフラフープできる
●写真
●お酒を飲みながらそれに合うつまみを食べること
●youtubeを見ながらお酒を飲む
●キャンプなどアウトドアでお酒を飲む
●趣味や好みがおっさんと言われる
●「女の皮を被った男」と同じワードをこれまでに4人に言われたことがある
●せっかち
●常に何かと戦っている(ように見える)
●意外とまじめと言われる
●面白いことが大好き
●エンタメ全般が大好き



ここからはこれまでの私の軌跡を書いていきたいと思います。


●幼少期〜高校卒業まで


長崎県佐世保市である家庭の長女として誕生しました。
昭和55年5月10日5時5分生まれで予定日は5日という「5」続きだったことから名前は「五月」と書いてさつきになりました。
なのでラッキーナンバーは勝手に5にしています。

因みに両親が考えていた名前は生まれる直前まで「瞳」だったのですが、5揃いだったことで「五月」に急遽変更したようです。

名前の由来を何度確認しても「5が揃っていたから」とのことでした。

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[2歳か3歳のころ。1歳かもしれない…]


とにかく活発だった

とにかく活発だったと「活発」以外の思い出はないのかと問いたい程「活発だった」と言われます。

当時は全く人見知りをせず誰にでも話しかけ懐くので、行先の見知らぬ方に抱っこしてもらったり、お小遣いを貰ったりしていたようです。

人前に出るのも大好きでした。

3歳くらいの時に祭で私が迷子になり必死に探していたら、なんと私はステージで柏原芳恵さんの「ハローグッパイ」を歌っていたそうです。勝手にステージに上がりカラオケ大会に参加していた模様。
図々しく景品の一升瓶まで頂き帰宅したみたいです。

幼稚園でのお遊戯会では主役のお姫様役をゲットし、リーダータイプで前に出るのが大好き。学級委員長もやっていました。
今では逆にシャイになってしまい、ひっそりと暮らしています。

物心ついた時から女の子よりも男の子とばかり遊んでおり、田舎だったので山を走り回り、大きな岩を見つけたら登り、木を見ては登り、砂山に登り、両手手放しで自転車に乗って田んぼにダイブし、田んぼの溝に浸かって「お風呂ごっこ」などをしていました。

常にどこかを怪我していて、お風呂が辛かった記憶が多いです。

虫も大好きで、ポケットにダンゴムシを入れていて母が悲鳴をあげていたのを覚えています。

今では全く理解できませんがヘビを捕まえて振り回したり、ふでばこにダンゴムシやクワガタを入れて大切にしたり…
(今ではヘビ、虫全てダメです)

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[木とは登るものでした]


男子と同じように少年ジャンプにハマり、その頃ドラクエにもハマりました。
小学生高学年の時はミニ四駆にもハマり、速くてパワーのあるモーターを欲しがったり、バランスの良い車体の研究もしました。

しかし女子の遊びも大好きで、当時流行ったリカちゃんやジェニーちゃんでお人形ごっこやおままごとをするという女子力も忘れていなかったようです。

アイドルも好きで、中森明菜のマネをしたり、工藤静香が大好きでカラオケでよく歌っていました。
特に中森明菜の「DESIRE -情熱-」にはドハマりし、彼女の髪型と衣装に憧れバスタオルを身体に巻いて歌って踊っていました。

今思うと、男子の遊びも女子の遊びも両方やっていたことが、デザインに活かされていると思っています。(本気で思っています)

絵を描くのも大好きで、暇さえあれば描いていました。
母によると活発すぎる私も鉛筆とスケッチブックを渡しておけば大人しくなるので、子育ての必須アイテムだったようです。

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[小学1年生の時のイラストです。細かい部分まで描くのが大好きでした。
どこかに「ねるとん」と「くどうしずか」の文字が…]


なんでなんで君

暇さえあれば大人に「何で?」と質問していました。

「何で服を着るの?」「何でご飯は白いの?」「何で、何で、何で…」
と質問ばかりするので親は大変だったようです。

しつこいので大人の呆れ困った顔を思い出します。今思えば好奇心旺盛だったんでしょうね。

何で「あ」は「あ」と発音するの?とか「何で鼻は鼻っていうの?」と考え出すと止まらなくなり毎日何か疑問を持って質問しては周りを困らせていました。

なんと今でも全く変わっておらず、今では「調べる」という趣味になっています。


中学の先生との出会い

今の私がいるのも、中学の先生方がいたからと言っても過言ではありません。

当時、私の中学では女子は公立高校だけでいうと「進学校」か「商業高校」に行くというのが一般的で(大まかですが)、大学や専門学校への進学、私立へ行くということを親も私も全く考えてなかったこと、当時なりたい職業は漫画家しか思いつかず、とりあえず近所の商業高校を受験するよねという雰囲気が漂っていました。

意外に現実的で漫画家になれるなんて全く思っておらず、商業高校に行って事務や経理の仕事をする自分が想像できないことなどで高校には行かずに働くとごねていました。

先生方は高校に進学するのを説得してくれましたが、頭では理解しているものの、行きたくないのに受験をするのがどうしても嫌だったんです。

それに、この時には母子家庭になることが決定していたので、自分が働くことで家計の足しにでもなればと考えていました。

先生が「佐野は吉本興業に行け」と言ったことを本気で検討する程、行きたくない学科の高校に進学することが納得いかないものだったんです。


運命のスケッチ大会

そんな時にスケッチ大会があって、友人の分まで喜んでスケッチを描いているのを見た先生が「隣の佐賀県にデザイン科がある高校があるよ。佐世保からも通えるし受験してみない?」と提案してくれたのです。

「デザイン科」というものがこの世にあると初めて知った私は興奮しワクワクしました。

何かよくわからんけど、かっこいいじゃないですか。

「デザインがやりたい」
やる気スイッチが入った瞬間です。

県外の高校を受験することを快く思っていなかった親に対し、先生は自宅まで来てくれ説得してくれました。本当に先生方には感謝です…

でもそこで問題が。当時は校区外は合格枠が少なく、とても狭き門だったようです。
しかも志望校は5教科の点数が合格ラインギリギリな上に、全く未経験のデッサンもあったので、先生方が総動員して私の受験を手伝ってくれることになりました。

放課後は美術の先生に毎日デッサンを教えていただき、時間があれば他の先生が勉強を見てくださいました。
どれだけ迷惑を掛ける生徒だったのでしょうか。(単なるアホ…)

不合格でも滑り止めの高校に通う選択肢はなかったので、私にとってあの受験は人生を変える相当大変な出来事で、寝ている時以外は全て受験のために取り組んでいました。

あの時は本当に必死でした。

佐賀県の受験は長崎県の受験より1週間遅くて、皆んなが体育館でレクレーションで遊んでいる間、先生とマンツーマンで受験勉強をしていたのは良い思い出です。

合格発表の日は、隣の佐賀県までなんと先生方も来てくださりました。
「こんな状況で落ちたらどうしよう」
「落ちたら人生が変わる」
…と思っていました。

受験番号は256番。今でもハッキリと覚えています。

無事に自分の番号「256番」を発見して、母や先生方と喜び泣きました。
あのときの気持ちは言葉ではとても表現できないし、先生も毎日の課外授業など大変だったと思います。

本当に合格できて良かったです。
夢に見た「デザイン」の勉強をするために、晴れて佐賀県立有田工業高等学校デザイン科に入学しました。



高校でデザインを学ぶ日々

自宅から高校まで地元の電車とJRを乗り継いで片道2時間かかりましたが、憧れの学校に通える喜びと、本を読む時間になっていたのであまり苦にはなってなかったと思います。

小さい頃から絵を描くのが好きで周りから「絵が上手い人」と認識されていたし、相当自信もありました。

でもその自信はすぐにガラガラと崩れることになりました。クラスの皆は驚くほど絵が上手い。衝撃でした。
思えば初めての挫折かもしれません。

それから世の中には凄い人がたくさんいるものなのだと気付きました。

また、これまで好きで描いてきた絵とデザインは全く違うということも衝撃でした。

「○○を表現し相手に伝わるように」

伝えることを目的に、アイディアを出し形にしていく…
この難しさと楽しさにどんどんのめり込んでいきました。

学校ではデザインの考え方や歴史を学んだり、実技では製図や、タイポ、ポスターなどを手描きで描いていました。

当時は烏口で線を引いたり円を描いたりしていたんです。

絵はへたくその部類だとわかったものの、早く正確に描く授業は超得意で、クラス3位以内には常に入っていました。(デザイン史は苦手でした…)

MacでAdobe Illustratorを使ってデザインをする授業もありましたが、当時は手描きの方が多かったです。
当時はバージョンが5.5でした…!

シアン、マゼンダ、イエローだけの絵の具を使って作品を作るという授業もあって、これは今の仕事でも活かされていて本当に良かったと思います。

とにかく課題が多くて、不良でもないのに終電で帰る日々という、今だったらちょっと問題になりそうな高校生活でした。
自宅に帰れば徹夜で課題。学校でも課題。

高校生の頃から終電や徹夜なんて、その後の超絶な残業の日々の修行をしていたのかもしれません。この頃からタフさは身についていたと思います。

でも、嫌だったとか辛かった記憶は全くありません。
デザインが面白くて面白くてたまりませんでした。受験はとても辛かったですが、あの時に頑張って本当に良かったと思います。


個性豊かなクラスメイト

デザイン科に通うクラスメイトは様々な場所から通っていて、色んな地域の友人と触れ合うことができました。お互いの方言が通じないのも初めての経験だったし、何よりデザインに対する皆んなの意識が高くてとても刺激になりました。

周りに流されない、他人の意見は気にしない、自分を貫くのがかっこいいという意識の子が多かったと思います。

ハッキリと自分の意見を言う子が多く、最初は驚いたものの深い付き合いができるようになりました。

それは趣味や音楽でも同じで、音楽は流行のものより自分が好きなアーティストを探しクラスメイトでよく教え合っていました。

その影響もあって、この頃からロックにどハマりし、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTやAIR、コーネリアスなどを聴いていました。

THEE MICHELLE GUN ELEPHANTが平日に福岡でライブをした時に、私を含めクラスの10人ほどが学校を休んでライブに行ったため、次の日皆んな先生から呼び出されたのは良い思い出です…

さらにこの頃は洋服も既存のものは嫌でよく自作していました。
実家のカーテンをいきなりワンピースにしたり…今となれば笑い話ですが母からするととんでもない出来事だったと思います。


●高校卒業後〜20才


デザインから逃げる

高校を卒業し、地元の印刷会社に就職しました。
なんと私は最初の就職先で耐えきれず3ヶ月で退職しました。

初めての商業デザイン。クライアントが求めるものを作るデザインに慣れず、社風も厳しくてとにかく辛い3ヶ月でした。

だって、お昼休みも私語厳禁だったんですもの…

それにワイワイ楽しく好きなものばかり作っていたので「クライアントが求めるもの」を作るのが面白くなかったのです。

この頃は「これって私じゃなくてもいいじゃん」と思っていました。
デザイナーの役割を何も理解してなかったのです。

しかもまだぺーぺー中のぺーぺーです。アシスタントとして何をしても怒られるし先輩は怖いし本当に嫌だったんですねえ…

今なら「もっと頑張れよ」と思うんですが完全に若気の至りですね。
こちらの会社には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。


東京に行きたいと爆発する ★2回目

子どもの頃から東京にとても憧れていました。
父の仕事の関係で東京に行く機会が多く、大きいビルや人の多さにワクワクし、いつか東京で暮らすのが夢でした。

テレビで見る東京の情報は胸をときめかせ、エンタメも大好きでしたし、高校生の頃洋服作りが大好きだった経験から東京でクリエイティブな活動がしたいと思っていたんです。

そんな気持ちがありながらも色んな理由でしぶしぶ地元の印刷会社に就職し結果耐えれなかったので、このときに気持ちが爆発したのです。

実はこの騒動は2回目です。最初は高校3年生の時で進路を決めるとき。
でも周りから散々反対されて自分は一生地元で過ごすのだと諦めてしまいました。



様々なバイトを経験

その後は2年間、昼と夜と掛け持ちして様々なバイトを経験します。
飲食業やホテルなどのサービス業が主でしたが、ワイワイと仕事が出来てお客様と接するサービス業が本当に楽しくて、この頃はこの仕事をずっと続けたいと思っていた程です。

でも「デザインから逃げ出した」「最初の就職先を3ヶ月で辞めた」ことが常に頭にあってモヤモヤとしていたんですね…

ですがその頃、高校がデザイン科だったことでバイト先のメニューやチラシを作るようになっていました。

どうしたら見やすく情報が伝わるのか、どうしたらこのチラシでお客様を呼べるのか。

自分が作成したチラシを持ってお客様が来店されることや、メニューを見て注文される姿を実際に見たことで、商業デザインの楽しさに気付いたのかもしれません。

もう一度デザインをしっかりやってみようと決意しました。

今だからわかることなのですが、この2年間の経験は本当に役に立っています。

遠回りしてしまいましたが、どんな経験も無駄はないと思っています。むしろ別業種の経験があった方が、デザイナーとして良いのではないでしょうか。



●修行の日々20代


ガッツ野郎

地元の印刷会社に再就職しました。
もうこの頃は本当に辛くて「辛い」という思い出しか残ってないくらい辛かったです。

当たり前ですが先輩と同じように仕事ができない、スキルがないことに辛さと悔しさを感じることが多かったです。

でも一度逃げ出した経験から絶対に逃げてはいけないと自分に言い聞かせ、ど根性精神でなんとか頑張っていました。

当時はちょうど製版や組版がアナログからデジタルに移り変わる頃で、私は社内でデジタル世代と呼ばれていました。

先輩方はアナログの時代を過ごされた「職人」で、若くてぺーぺーなのになぜか自信だけはあった私はよーく教育されており、「できないなら帰れ!」とステンレスの定規を投げられたことは今では懐かしい笑い話ですが、当時の私にはやる気スイッチが入る起爆剤になっていました。

今思うと本当に有り難いことなんですが(定規以外は)当時はただただ悔しかった。

でも、やる気とガッツと負けん気だけは強くて、いつか絶対に先輩たちを超えてやる!とぺーぺーのくせに先輩方をライバル視し、ゴゴゴ…!!!と燃えておりました。

幼い頃の「なんでなんで君」がここでも発揮されたのか「その作業はなぜ必要なんですか」などといちいち質問していました。
仕事をしたくないわけではなく、なぜ必要なのか単純に気になるのです。

理由を聞いて納得した状態でないと求められる仕事が出来ないと考えていましたし、今でもその思いは変わりません。

先輩の作業を止めてまで質問するので、若干叱られつつも先輩方はその都度丁寧に教えてくれました。

ゴゴゴと対抗意識を燃やしているくせに質問ばかりする生意気な新人に、本当に良くしていただきました…

ここで言うのもおかしいですが当時は本当にありがとうございます。先輩方とはでも良いお付き合いをさせていただいています。

(ガッツ野郎だったので、凄く鍛え甲斐があっておもしろかったと10年後くらいに聞きました)

仕事は教えていただいたものの、「デザインは目で見て盗め」のような感じだったので、先輩方が作ったデザインを見ながら全く同じものを作ってみたり、先輩が帰宅すればMacを立ち上げデータを盗み見してデータの作り方を研究していました。

そうやって密かにデータの作り方や色の使い方、文字の組み方を会得していきました。

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そんな感じでぺーぺーから、ひよっこくらいに成長した私は徐々に仕事を任され色んな案件に携わるようになり、その頃からディレクターも兼任するように。

ぺーぺーの時代は怖すぎた先輩方も、私を一人のデザイナーとして受け入れてくれるようになり、色んなことを任せてくださるようになりました。


そして激務へ…

20代前半をほぼ仕事に費やしたものの、ちゃっかりしたことに恋愛の方も忘れておらず、25歳の時にめでたく結婚。

因みに結婚式で上司が祝辞を読んでくれたのですが、なんと大人になっても「彼女は活発で…」と紹介され、友人が「活発って何回言われた?」と聞いてくるほど「活発」だと紹介していただきました笑

「活発」というワードは大人になってもなかなか抜けない印象のようです。


夫婦共に仕事が忙しすぎて二人で残業時間が300時間を超える夫婦で、さらに家事という業務が私に追加されたため、新婚時代はほのぼのラブラブというより、どうやって家庭と仕事を回すか戦いの日々でした。

パートナーは帰宅するのは夜中で、朝は6時に家を出るという過酷な働き方をしていて、私も連日日付が変わってから帰宅し、それから家事して睡眠時間は4時間もあれば良い方。

休日も仕事になることが多く、新婚なのにゆっくり会話すらできないことに危機感を持ったことや家庭を優先したい思いが強くなり、思い切って定時で帰れる印刷会社に転職をしました。

ですがパートナーは転勤がマストの会社で、私の転職と同時期に転勤の話があり、転勤の度に彼に合わせて就職活動をしなければいけないと考えると、フリーという働き方でないと厳しいと思いました。

ここで初めて最初の「独立」をすることになります。


人生の転機30代

独立をしてフリーになりましたが、苦戦の日々でした。

自宅で一人で作業するのもなんか寂しく(今は全くそんな感情はないのですが)社会から切り離されたような気持ちが大きくなっていた頃に、知り合いの方から会社を手伝ってくれないかと声をかけていただいたんです。

フリーでの活動は苦戦していたものの、継続したクライアントさんがいることや独立して活動することを諦めたわけではなかったので、フリーと掛け持ちで常駐の業務委託で勤務することになりました。

詳しいことは割愛しますが、そこが大変でまた超絶な勤務状態に陥ることに。

激務、クオリティ、人間関係…様々な問題が勃発して苦しみました。

余談ですがだいたい夜中の2〜3時に帰宅するのでご近所の方から「夜のお仕事ですか?」と町内の掃除の時に質問されたことがあります…笑

正直、30代前半は仕事に追われて生活していた記憶しかありません…

家庭を守りたい、その気持ちで独立したのに、結局元に戻ってしまったのです。

「デザイン」「クオリティ」「働き方」「なぜこの仕事をしているのか」などと自問自答するようになり、さらに残念なことにパートナーとは解散することになって(!)モヤモヤとした人生への問いは常にぐるぐる脳内を駆け巡っていました。

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全て嫌になる

35才の頃「このままここにいてはいけない」と強く思いました。
それは会社だけでなく住む場所など自分がいる環境全てに対して。

5年勤めた業務委託先を辞め、新たな場所に移ることを考えていました。

そんな中で「不幸の詰め合わせセット」みたいな出来事が続き「頑張っても何も報われない」と全て嫌になってしまったんです。

これまでど根性精神で駆け抜けてきた私も、流石にやる気スイッチオフしてしまい、そこから半年、引きこもりのような生活になってしまいました。

あんなに毎日触っていたillustratorなどのソフトも一切触らず、イラストも描かず、ただただ本を読み誰かが書いたブログを読みあさる日々。

今思えば「自分を奮い立たせてくれる何か」「救ってくれる言葉」を探していたように思います。

ある日、夢を見ました。その内容は覚えてないのですが
「このままじゃ成仏できない!」と言いながら起きたのです!
(私らしい面白い表現ですよね)

永遠にこの状態でいいのか!?腐った自分で良いのか!?
絶対に嫌だと思いました。

その日から後ろを見ない、環境のせいにしない、ただ前に進むと決心したんです。


今思えばなんですが、全て嫌になった原因のひとつに睡眠不足があると思います。

当時から睡眠アプリで記録をとっていて、数年間平均3〜4時間しか睡眠をとっていません。よく生きていたなと思います…

睡眠不足、激務、そこにストレスが加わりメンタルが悪化したのではと考えています。なので、身体が強制的に休ませてくれたのかもしれません。


福岡へ移住

これからの自身の人生を考え考え抜いて、これまでのように会社員とフリーランスの2足のわらじではなく、会社に属することなく生きていこうと決めました。

そこで地元よりも案件が多く、スタートアップが充実していたりフリーで活動されている方が多い福岡市で新たにチャレンジすることに。

他の場所にも住んでみたかったということや、生まれた時から地元で生活し地元しか知らないことにデザイナーとしても人としても危機感を持っていました。

以前から福岡が大好きで毎週のように遊びに行っていたし、仕事で通うことも多かったので土地勘もあります。
なにより地元と近い。電車や車で2時間の距離です。

35歳での決断だったからか周りからは散々反対されましたが、東京行きを反対された若い頃の私とは違います。

「どうしても行きたい!」と感情で訴えず、私が移住して働き方を変えるとどのようなメリットがあるのか淡々とプレゼンをし説得しました。
※プライベートでもプレゼンは非常に有効です

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移住してからのこと

住む場所、会社など自分の環境を全て変えると様々なものが大きく変わりました。

個人事業は継続したまま最初の1年は派遣で働くことは決めていました。

理由は地元以外のデザイン業界を知りたかったこと、長くやってきたとはいえ地元でしか働いた経験しかなかったので自分の腕が通用するのか試したかったのです。

それを決めていたにも関わらず、なんと私は職もなく移住を決行することに。

「福岡に行く!」と決めてから行動が早かったことや「手に職がある」となぜか悠長に構えていたのです…

幸い仕事は移住後数日で決まって、1週間後には働き始めることができました。ほんと良かったです…

しかも最初に派遣された企業は皆さんがよく知っている大企業でした。
ここでの経験は私の価値観が良い方へ大きく変わりました。

詳しいことは書けないのですが、人としての学びが多くありました。

会社の雰囲気がよく、皆さんが楽しそうに働いていたのです。

これまで仕事や人間関係で散々悩んできました。
特に、私が訴えてきたクオリティを上げるとか、きちんとクライアントと向き合うとか、そういうものは周りから受け入れられず葛藤してきましが「やはり間違ってなかった」と思えるような、肯定していただける出来事が多々ありました。

ここでの派遣はたった1ヶ月だったのですが、この1ヶ月で得られた学びはとても大きいです。

笑顔で活き活きと仕事をする皆さんを見ているだけで涙したのは、今だから話せること。それくらい私の心はボロボロだったんでしょう。

その後の企業でも良い出会いがあったり、色んなプロジェクトに携わることができて、パワーアップできたと思います。

専門学校でデザインを教える講師の経験もできて、上手く伝えれないのですが「行動した」ことにより人生とはこんなに変わるのかと実感しました。

出口がないような悩み抜いた日々は本当に辛く厳しいものでしたが、あの日々があったから今があると思っています。
決断をし行動に移して本当に良かったです…!

1年半の福岡での修行の後、2017年1月1日に屋号を「irohazum」と改め新たに活動を開始。

今は地元の案件も多くいただくようになり、地元佐世保と福岡の2拠点生活中です。2拠点生活はなかなか楽しいです。


さいごに

半生を書いてみると面白いものですね。長すぎてすみません!

人生のおおよそを「デザイン」と共に過ごしてきました。

irohazumは経営者と直接やり取りすることが多く、起業までのストーリーを聞く度に熱い想いを感じています。

私自身もここに至るストーリーや想いがあるので、少しでも想いに寄り添えるのではないか、そしてその想いをデザインの力でお役にたちたい!と思って燃えています。ゴゴゴ。

また、デザイナーを目指している方、奮闘されている方にも私のデザイナーとしての半生が何かヒントになれば嬉しいです。

今後はデザインの活動はもちろん、個人活動など様々なことに挑戦していきたいです。
楽しく面白く活発に活動ができればいいなと思っています。

そしてここまで読んでいただいて本当に本当にありがとうございました。

追記

ギルドプロジェクトさんにインタビューしていただきました!
こちらでも半生を詳しくお話ししているので、よろしければご覧ください。


以前登壇した#hirohom_labのウェビナーの内容をYukariさんがまとめてくださいました。
ウェビナーの内容は私のマインドセットをお話しするものでしたが、それを語るには過去の辛い経験をアウトプットする必要がありました。
Yukariさんがとても素敵にまとめてくださってて私の宝物です…!


読んでくださりありがとうございます! 大好きな書籍の購入と、アウトプット活動資金として大切に使わせていただきます✨