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うつと向き合う


……
……前回の投稿からどれくらい経ったのだろう?


365日をとうに超えた時間が経っている。
ともあれ、うつ病と診断されながらも、何とか生きながらえたので、この投稿をするに至る。
とりあえず現状報告と今のもやもやを綴っていこうと思う。


うつ病は"寛解"に入っている そうだ。


……「そうだ」というのは、自分ではあまり実感していないので、そう言わざるを得ないのだ。


会社を辞めて約一年は貯金を切り崩しながら、生きていた。でも、貯金には終わりがある。崖っぷちに立たされ首が回らなくなってから、症状は悪化していった。

しかし、捨てる神あれば拾う神あり とはよく言ったものだ。
行きつけの店のオーナーがバイトを探してるというので、それなら…と雇ってもらえることになった。
これが2020年の2月である。コロナ禍が本格化する直前だったのである。
有難いことに私の病気、フルタイムで働けない事も理解してもらえた。

程なくして緊急事態宣言、営業自粛はあったものの、クビにされることはなく、今まで続けている。


どうしようもなく、体調が優れない時は、シフトの前に電話で休む連絡を入れる。
私が居なくても回るポジション(アルバイト)で、店員の理解がなければ、全くもって通用しない欠勤だと思うのだが、それも許してもらえている。


……まあ、しかし、だ。
突発の欠勤はよろしくないものだと思っている。
それは社会人常識であるとも思っている。


前職では「お前が休むとこの案件は死ぬ。つまりお前も会社で死ぬ。」くらいの鬼畜ぶりだった。

(※本当はそんなことないのだが…
余程、福利厚生と人間関係に"あそび"のある手厚い会社でなければ、不可能に近い。)




本当なら週5フルタイムで働ける体力が戻ってきてくれないと生きていけないが、
現状週2~3でフルタイムの半分がいい所である。

貯金が無くなった頃のように、経済面を崖っぷちに追い込めば、働けるように死ぬ気で動くのだろうが、メンタルも死ぬので、本当のことを言うとフルで働けないという真実を他人に伝えるのが滅茶苦茶怖い

現状から体力回復に務めているのだが、全くもって進展がない。体調不良で寝込む日が増えているので、とてもしんどい。外に出歩く気力もない。


でも、診断は"寛解"である。食欲はあるし、精神的に安定はしているのである。この診断との落差が埋まらないままなら、どうしていいのか分からない。正直なところ、治療は暗礁に乗り上げてしまったと思う。


……
…………
先日の新聞でも見たが、コロナ感染~感染後の偏見や冷遇を恐れて周りに言えない人がいるという記事を見た。
ある大学生は、両親にこそ感染した事を伝えたものの、味覚障害が残った事は友人に伝えられないでいる。
流行病(やまい)に罹ってしまったからというだけで、その後、腫れ物扱いされるのが怖いという内容だった。

……

この新聞に載っていた彼の苦しみは、私には近しいものに感じられた。

理解してもらえるか分からないのに真実を伝えるのは、本当に怖い。

理解されないって、すごく苦しい。


心情が痛いくらい伝わる。

…………

「こんな短時間のバイトすら休むなんて、怠け者!」
「やる気あるの?寝てばっかり。呆れる。」
「感染した人には仕事してもらえないので…。」
「え、…関わるのやめよう。。。。」


…………


心無い言葉を直接かけられた訳では無い。でも、そう思われている気がするのは、

自分が匙を投げられる瞬間が分かる、
繊細な感覚の弊害
だ。
この閉塞した社会での生きづらさ、とも言うだろう。




…………………………ただ、私も彼も、

自身の身体と付き合っていく事以外に、現実的な突破口は見いだせないのだと思う。

地団駄踏んだ所で、彼の味覚や、私の精神的不調が完璧に戻る訳では無い。

身体と心と、折り合いをつけてそこそこに生きていくルートを見つけていくのが、地道だけど、幸せに生きる近道だと思う。


だが、1人で実現するのはとても難しい。周りや福祉に助けてもらいながら進める必要がある。


………………………………
…………
今ふと思い出したが、

何のために社会保障にお金を収めているのか
という問いの答えはこうだと思う。

自分が五体満足に動けなくなっても、
生きていけるセーフティを作っておく 


人はいつ死ぬか、いつ介護が必要になるか、いつ大病を患うか、事故に遭うか、全く分からない。リスク回避をしたとしても、その可能性をゼロには出来ない

だとしたら、万が一(以上ありそうだが)、働けなくなる事態になっても、支援医療制度や、社会保障のお陰で、何とか生活を送れる。

何となく納めていた税金のお陰で、五体満足に動けなくなっても、救われているのである。また、そういった制度が、人を見捨てない制度であることで、経済も回っている。大事なセーフティであるといえる。

皮肉なことに、失ってわかる有り難さという言葉の通り、この保障は健康で一般的な人には見えない

かくいう自分もそうであったように、だ。

……………………

……
……話が逸れてしまった。本題に戻ろう。

人それぞれに感じる辛さ、しんどさ、やる事のハードルの高さなんて、本当に千差万別である

電話を掛けるのが、メールより対面で会話するより、めちゃくちゃ苦手という方もいるだろう。
朝決まった時間に起きる事が、ものすごく辛い方もいるだろう。
毎日10分の徒歩通勤でさえ苦痛、運動なんてまっぴらだ、という方もいるだろう。


しかし、だ。

その苦痛が多数か少数かだけで、
辛さの度合いを他人が決めることは、タブーだと思う。

(※具体的に言うと、
皆辛くないって言ってるから、大した事ないでしょ? 
とか、
皆は普通に出来るのに、何でこんな事でつまづくの?
とかである。)



私は週5でフルタイム働くことが出来ない。
それはサボりたくて言ってる訳では無いのだ。

罹患した彼は、味覚が戻らない。
決して後遺症を残そうと思った訳では無い。

ただ、真実を伝えれば
個々の苦痛は世論という天秤にかけられてしまう
……それが怖いのだ。



ただでさえ、思い通りに動かない身体と付き合っていく事は、受け入れるのに時間がかかる。

私が感じている苦痛を、誰かに伝えるには、
世論ではなく、私の言葉を、話を、聞いてもらう必要があるのだ。


ただ、これは、万人ではなく、
本当に近しい関係の人達に分かってもらえれば良いと思う。
(現状はそれすら難しいので、ふりだしに戻る、もやもやを味わっているのだが……)


他人の苦しみに、正しく耳を傾ける
彼/彼女にとっては、耐え難いものである


と捉えられる見方が出来れば、村八分の思いをする人は、減るのではないかと思うのだ。


………………

……

未だに職場で怒鳴られている夢を見る。数年前の話なのに、だ。酷い時は学生の受験勉強の記憶にうなされる。どうして嫌な事にばかり長期記憶があるのだろうと自分を呪いたくなる。
フツーこんな事忘れて当然だろうに、と。

でも、思うのだ。普通という 普通 は存在しない。

私にとっては普通で楽々に出来ることも、誰かにとっては全くもって苦痛でしかない仕事かもしれないのだ。



なんとかもがいて、私の言葉を伝えられるようにしたい。


どこかで一人苦しむ誰かの、言葉を聴きこぼさないためにも。



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