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『アウグスト・エッシェンブルク』を読む

『アウグスト・エッシェンブルク』は。スティーブン・ミルハウザー著『イン・ザ・ペニー・アーケード』(白水社・柴田元幸訳)に収録されている中篇である。

ミルハウザーが緻密に構築する物語の中で、天才的な才能を持つからくり人形師アウグスト・エッシェンブルクの葛藤が描かれている。

アウグストは14歳の誕生日に、時計作り職人の父ヨーゼフと共に市の見世物テントに入る。アウグストは、そこで見たぜんまい仕掛けの手品師に魅了され、次のように思った。

内なる心の存在、という錯覚を生み出す力。これこそぜんまい仕掛けの手品師の、もっとも驚くべき点であった。

つまり、アウグストは、手品師という人形がぜんまいではなく、思考する精神によって動いているように感じ、単なる「ゼンマイ=人形の動き」ではないものを作ろうという考えが心に宿った。ミルハウザーはアウグストのことを次のように描写している。

あのくすんだ緑色のテントの中の数分間こそが、ぜんまい仕掛けの芸術に対する自分の情熱を生んだのだ、とアウグストはその後ずっと考えることになる。

           ☆

それを機に、アウグストはからくり人形作りに没頭する。その後、2人の人物がアウグストの前に現れる。

最初の一人は、ベルリンで百貨店を経営しているプライゼンダンツという人物で、人寄せのためにアウグストのからくり人形を利用しようとする下心があった。

したたかな経営者のプライゼンダンツは商売の大原則を知っていた。すなわち、

一、目新しさは必要である。二、目新しさは決して持続しない。二番目の法則はこう言いかえてもよい—今日の目新しさは明日の退屈である。

この法則から予見できるように、アウグストの精巧なからくり人形は、猥雑な安物の模造品に駆逐されてしまう。からくり人形に、アウグストは芸術性を求め、プライゼンダンツは金儲けの役割を求めた。当然、両者の溝は深まり、アウグストはプライゼンダンツの元を去る。

           ☆  

次に現れたのは、若くてハンサムなハウゼンシュタインという名の、自らを厭世家と呼ぶ人物である。アウグストはハウゼンシュタインの知性を認めながらも、彼の心に潜む退屈を敏感に感じ取っていた。アウグストはエッシェンブルクに接し、次のように問うた。

他人の創造性の奔流にわが身を浸すことによって、自分の中の凡庸さを洗い流してしまいたいと願っているのだろうか?

ただし、アウグストがハウゼンシュタインから受けた刺激は小さくはない。ハウゼンシュタインはアウグストがからくり人形作りの芸術性について考えるきっかけをつくった。これはプライゼンダンツと決定的に異なる点である。その場面を、ミルハウザー次のように描写している。

からくりの芸術は彼の運命である。だがそれと同時に、からくりは一種の偶然にすぎないとも言える。彼が本当に大事に思っているのは、もっと別の何か、名前さえない、時間にも場所にも付随的なつながりしか持たない何ものかなのだ。

おそらく、お金に執着する人間、退屈に翻弄される人間には理解の及ばない、そして受け入れ難い言葉である。

ハウゼンシュタインにはベルリンでからくり人形館を開く計画があり、アウグストに協力を求めた。アウグストは同意し、才能を発揮するが、結局はプライゼンダンツの時と同様な失敗に終わる。

           ☆          

疲労と失意のうちに、アウグストは故郷ミューレンベルクに帰る決心をして夜行列車に乗る。夜行列車は直通ではなく、途中で馬車に乗り換える必要があった。馬車の出発時間を待つ間、近くの林で菩提樹の前に座り、夢を見ながらしばらく寝ていた。

私は、彼の夢について考えているうちに、なんとも言えないような人生の悲哀や余韻が伝わってくるのを感じた。

やがて、出発の時間が迫り、アウグストは馬車の発着所に向かって歩き始める。仮に自分がこの場に居て、彼の姿を見ているとすれば、このエンディングの描写はより一層印象的なものにうつるだろう。

私の感想を言うと、その歩調から想像して、アウグストはからくり人形作りを極めるために制作に傾注していく可能性が高い。父のように時計職人として生きていくとは思えない。

           ☆

振り返ると、アウグストの物語の入り口はくすんだ緑色のテントの中でぜんまい仕掛けの人形を見た時であり、物語の出口は馬車の発着所に向かって歩き始める時である。

そして、この中篇を見世物テントに例えると、『読者があまり人気のなさそうな見世物テントに入り、ミルハウザーというからくり人形が語る精緻な物語に驚き、魅了され、堪能した後、現実の世界に戻ってくる』ようなものである、と言える。

『アウグスト・エッシェンブルク』という作品は、ミルハウザーが製作した最高のからくり人形である。


           ☆      

文中の引用は、スティーブン・ミルハウザー著『イン・ザ・ペニー・アーケード』(白水社・柴田元幸訳)に収録されている『アウグスト・エッシェンベルグ』からです。


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