見出し画像

10年使ったRicoh CX3と「意識の揺らぎ」

・はじめに

ところが写真を見るとき、私たちは決してあともどりできない時間の宿命、それがもたらす意識の揺らぎに、はたときづかされるときがある。[・・・][・・・]撮るのは一瞬だが、見ることには何度でももどれるから、そのたびに変化する自分を見いだすはずだ。
『彼らが写真を手にした切実さを』 大竹昭子

・本題

このCX3はVanNuysのケースに収まり、いつも私のそばで出番を待っている。

サブカメラとして、メモ帳と鉛筆代わりに日常生活の記録用に使ってきた。サブだからといってぞんざいに扱ってきたわけではないが、その存在を特に意識することはあまりなかった。

購入したのは2010年だから、すでに10年経過している。いまどきデジカメを10年も使う人は稀だろう。性能的には古いが、使い勝手に不満はない。今でも十分通用する。ショット数は3500ほどで意外に少ないが、記録されたものは私にとってみんな貴重なものばかりだ。あと10年CX3を使うとどうなるのだろうか・・・。10年後もnoteが存続し、私自身も存在していればnoteに記事として書く楽しみが残っている。

最近そう思いながら、自分の中でこの小さなコンデジの存在感が大きくなってきていることに気がついた。10年間当たり前のように使ってきたコンデジが、私に何かを語りかけているように感じるのである。

CX3がつくりだした写真を時々見かえしているうちに、10年にわたる時間の波に乗ってサーフィンをしているような感覚をおぼえる。CX3と写真が一体となって私の記憶を揺さぶり呼び起こしているようだ。

10年も経過すると、自分の視点に変化が起きることは当然だろうし、いろいろな人のnoteを読んだことで、自分の心境に変化が生じたのかもしれない。その結果、モノとしてのコンデジと記憶としての写真に対する新たな感覚がわいてきた。

・撮影した写真の紹介

これは2010年に撮影したものだが、場所は思い出せない。やすらぎを求めてどこかの山奥に行ったのだろう。コロナ禍では、遠くに行ってリラックスするチャンスがほとんどないから、こういう雰囲気には思わず惹きつけられる。フォトジェニックとかインスタジェニックと呼ばれる写真とは無縁の、こういうありふれた写真がスキである。

画像2

これも2010年に撮った。たぶん柳川の「はりまや」というせんべい屋さんに飾ってあったものだと思う。若松屋でウナギを食べて、近くを散策している時に見つけた。アラーキーさんの写真集「センチメンタルな旅」と柳川の縁は深い。舟の上で胎児のように眠る妻・洋子さんのショットはあまりにも有名である。

画像3

これは2011年の撮影。ネガフィルムのプリントをCX3で撮ったので picture in picture になっている。使ったフィルムカメラのことは思えていない。写した猫は飼い主が引っ越した時に捨てられたそうで、公園で生活していた。人なつこく何人もファンがいてかわいがられていた。私も時々食べ物を持って行き一緒に遊んでいた。だが、この写真を撮った数年後に冬の厳しい寒さが体にこたえたようで天国に行ってしまった。

画像1


・最後に

[・はじめに] の引用を借りるとCX3とCX3によって撮られた写真が10年間という時間に潜む「意識の揺らぎ」を私にもたらしたと言えるだろう。と同時に、自分の意識下でCX3への愛着がひそやかに形成されてきたことは間違いのないことである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?