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ペルシア史解説②[メディア王国史]


始まりは前2000年代にアーリア系民族が中央アジア地域に移動してきた事に由来する。

彼らの一部は前1250年頃にイラン高原に侵入してきたと考えられ、イラン高原侵入後には3つのグループに分離し、西方面、西北面、南方面に
それぞれ進んで行ったと考えられる。

三方面に移動するアーリア人のイメージ

移動の過程において彼らは現地の農耕先住民と接触し、馬と戦車を用いて、先住民の文明を吸収する形で彼らを支配することに成功する。

支配した後、支配を維持する社会システムの
構築に専念し部族的な家父長制と
宗教の権威を用いて政治的支配の完成に至った。
支配体制下ではカーストを3つに分け、支配者の
権威は血統によって正当性を確保した。

以後イランに定住した彼らこそメディア人であり
彼らが本格的に歴史に登場するのは、アッシリア帝国が勢力を東方に伸ばそうと躍起になってからである

メディアという名称は、イラン北西部に存在する地域名である。加えて、メディア人は単一民族ではなくアーリア人と土着部族とスキタイの
混合集団の総称である。

メディア人の部族詳細

青木健著 「アーリア人」より引用


アッシリアのくびき

前回の記事のエラム史解説で言及したとおりに
エラムのアンシャンやスーサはアッシリアの
衛星国として勢力圏に組み込まれてしまったことを前提に踏まえて、アッシリアが東方へ支配地域がイラン高原全体にまで伸びようとしていた。


第一次メディア王国

アッシリア人が次に狙いを定めたのは
ザグロス山脈の鉱物資源であり、イラン諸地域に勢力圏を拡大することを目的に圧力を加え、同時期に中央アジアからオリエントに侵入し始めた。騎馬遊牧民族の「スキタイ」に挟まれる。
このことから、ペルシア地域は二正面での防衛を余儀なくされる

メディアを取り巻く勢力の位置関係

このような危機を皮切りにメディア人と他のイラン高原定住民族はアッシリアに対抗して、初めて団結し、共同体建設を目指そうと躍進する。

当初こそは部族統合の域を出なかったメディア諸集団は、スキタイと協力関係を築き、スキタイの援助のもとで前672年にメディア部族長である
フラオルテス(フラワルティシュ)が
指導者として独立国家建設に成功したとされる。これこそが第一次メディア王国である。

都はエクバターナ(現在のハマダーン)に置き
七重の城壁を築き、遊牧と交易に適した
都作りをしたおかげで、メディア王国滅亡後も
商業都市として栄えることになる。

ヘロドトスの記述によると、初代メディア王はディオケスと推定していたが、後年の研究に伴いフラオルテス説が確実性を帯びてきたのでこちらの説を採用する。ちなみにフラオルテスはディオケスの息子である。


初代国王 フラオルテス

フラオルテスは軍事力の強化を推進し、
時のヘゲモニーであったアッシリア帝国に
果敢な抵抗を見せ、勢力拡大阻止に成功する。
元々メディア諸集団は馬の飼育を得意としていたため、こうした特技も相まってアッシリアに対する有効打として機能したと考えられる。

メディア軍がアッシリアの首都ニネヴェへの
攻略が失敗して、フラオルテスが戦死すると
スキタイの王マドイェスが裏切りを断行した。

スキタイとアッシリアが協力関係を築き
メディア王国を攻撃したのである。
これを境にメディア王国は滅亡した。
部族連合の域を出ない第一次メディア王国は
アッサリと崩れてしまったのである。

スキタイ政権へ

マドイェスは28年間メディアを支配したものの
あまり大それたことを行ってないのか
記録もそこまで豊富では無い。
マドイェス死後の権力はメディアに帰結する。

第二次メディア王国

フラオルテスの息子キャクサレス
(フヴァ・フシュトラ)は
前625年にマドイェスを祝宴に招いて暗殺
スキタイをコーカサス地方に追いやり
第二次メディア王国を建設した。

キャクサレス王のレリーフ

キャクサレスは軍制改革を徹底し
部族解体の一環として槍、弓、騎馬を中心の
常備軍を設け、地方総督に当たる
サトラップ(フシャスラパーワン)などをシステム内に組み込んで行った。中央集権化を推進する傍ら
アッシリア帝国の切り崩しも計画していた。

アッシリア支配下から独立した新バビロニア王国と手を組み、メディア・バビロニア連合軍は
アッシリアの首都ニネヴェを陥落させた。
これによりアッシリア帝国を滅ぼし、支配地域を小アジアからメソポタミア北部まで広げることに成功した。一連の流れを経て、オリエント地域の覇権を手にした。

キャクサレス死後、息子のアステュアゲス
(アルシュティ・ワイガ)に交代していく。
彼は娘の一人を新バビロニア王国の
ネブカドネザル二世に嫁がせ

また別の娘「マンダネ」を当時イランで
地方政権の臣下だったカンビュセス一世
嫁がせ、対外関係を良好にしようと尽力した。
順調に行けば、エジプトやその他地域を併合し
世界帝国になる素質さえあったが
現実は違った。

察しの好い人ならお気づきかもしれないが、マンダネを嫁がせたカンビュセス一世は後、アケメネス朝ペルシャと呼ばれる世界帝国を築いた
キュロス二世の父親である。
つまり、マンダネはキュロスの母に当たるのだ。

マンダネの産んだ外孫のキュロス二世はメディアに反旗を翻し、優勢だったメディア軍を押し返し
首都エクバターナを陥落させた。
メディア王国はキュロスの元支配王朝であった
アンシャン王朝に吸収され
メディア=ペルシアの同君連合として
世界帝国を築くアケメネス朝に繋がるのだ。
メディア王国の最後の王、アステュアゲスは
ペルシアの地で幽閉され、天寿を全うした。

キュロス二世に敗北し、連行される
メディア最後の王「アステュアゲス」の
タペストリー

メディア人の宗教

メディア王国滅亡以後にも足跡を残した功績は
彼らの宗教である。メディアのマギと呼ばれる
神官をアケメネス朝でもそのまま引き継ぎ、
彼らを最大限活用した。
ちなみに、今日ゾロアスター教と呼ばれる
宗教はメディア王国で神官(マギ)であった
ツァストラァが説いた宗教であった。

当時は宗教的考えと迷信が混合したり
崇拝する神の設定が厳格でなかったため
多様でまとまりのない宗教儀礼が横行していた。
ツァストラァはそれらのに一石を投じて
きちんとした唯一神と善悪の存在を限定した。
一連の宗教改革は以後もアケメネス朝、ササン朝に影響を与え、マギは宗教儀礼を取り仕切る
重要な役割をキープしていった。

あとがきと参考文献

・参考文献
八尾師誠 訳. イランの歴史 : イラン・イスラーム共和国高校歴史教科書.明石書店

青木健著.ペルシア帝国.講談社現代新書.

阿部拓児著.アケメネス朝ペルシア.中公新書.

青木健著.アーリア人.講談社選書メチエ.

青木健著.ゾロアスター教.講談社選書メチエ.

あとがき
やるやる詐欺してすみません。
受験勉強の関係でスマホを自宅に置いて
執筆する時間を設ける努力を怠ってました。
同時並行でアーリア人の総まとめ作ってたんですが、あまりに奥が深すぎたのでこっちを優先させた次第であります。特にスキタイ学は本3冊ぐらいは読み込まないと、とてもまとめられる気がしません。アケメネス朝ペルシャを夏の間に作れたらいいなと思ってます。また、アケメネス朝ペルシャ史を執筆する時は人物の軸にした紀伝体式に執筆しようかと考えてます。
まあ作ってからしっくりこなかったら
普通に編年体にしていこうと思います。

これらのnoteはいずれペルシアの歴史解説を
動画化する時にリマインドするために用いてるので、今のうちに改善点御座いましたらお気軽に
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