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#398 初期条件に屈しない多様性の理解

 私はたまたま両親ともに大学をでた家庭に生まれ、親戚の多くも大学を卒業していました。そんな私の中には、生まれた時から「大学」が身近にあり、自身が大学に入らないという選択肢はありませんでした。

 両親の教育方針に対し思春期の非常に反抗したものの、勉強が自分の人生を切り開くと言う価値観は自分の中に刻み込まれていましたし、勉強が無駄なものであるという感覚はなかったような気がします。

 学歴社会というシステムの中に、知らずしらず取り込まれて行った私は、その理不尽さに苦労しながらも、やはり履歴書としての学歴を重視していた時期があります。教員になり、たまたま大学進学を念頭においた進学校に勤めた結果、勉強することや、それによって得られる学歴が、この世の中で生きていく上で必要不可欠なものであると強く思っていました。

 
今考えれば、それは自分がいる世界や価値観が世の中のほぼ全てだと感じ、その他は、特殊なケースだとも思う世間知らずな自分がいました。

https://mainichi.jp/articles/20231222/k00/00m/040/300000c

『「日本は緩やかな身分社会」 気鋭の教育学者が懸念する「教育格差」』という記事を見つけました。

記事の中で言及されていますが、学歴という尺度が様々な分野で「初期条件」になる世界では、いわゆる家庭環境や、その家庭環境から紐づいた学習環境によって、学びの質が大きく変わる現状がある。時に、「勉強が大事」であるという価値観がない家庭に生まれた子どもたちにとって今の社会は非常に生き辛い。その子の様々な潜在的な力が開花しないまま、社会に出て、そのまま搾取されることもあるのです。

龍谷大社会学部准教授である、まつおか・りょうじ氏は、教育格差をなくすために必要なことを問われ以下のように答えています。

 自分の経験や視界に入る事例は、社会全体の一部に過ぎないと意識するだけで、より建設的な実践と政策の議論が可能になるはずです。
 もし自分自身の出身家庭のSES(保護者の学歴・世帯年収・職業などを統合した「初期条件」を示す指標として用いられる概念である社会経済的地位『Socioeconomic status、以下SES』)が違ったら、出身地域が違ったら、性別が違ったら、地元の小中学校と同級生が違ったら、高校や大学の受験制度が違ったら――と、想像してみてください。初期条件のうち一つでも違ったら、違う時代や国の教育制度だったら、異なる最終学歴になって、別の職業を選んでいたかもしれない。そうやってデータに基づいて「あり得たかもしれない人生」を考える人が増えれば、初期条件に関わらずすべての子どもが自身の可能性を追求できる条件整備のための建設的な議論が主流になる、と私は考えています。一人でも多くの人が教育格差の実態と向き合い、あるべき教育についてデータを踏まえた上で議論する社会になるよう願っています。

 私も退職後、様々な出会いと環境の変化によって、自分が今まで持っていた勉強や学歴に対する価値観は大きく変わりました。一人ひとりの世界が広がれば、社会の様々な価値観に触れることができる。私たちはある特定の尺度の中で生きるのではなく、自分自身の尺度で、自分の能力を発揮できる環境を求めているのです。


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