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#138 SuperTeacherなど存在しない

スーパーティーチャーとは

学習指導面において特に優れた指導力を有し、その実践的指導力に 基づき他の教員を指導し助言する教員

と定義されます。

文科省の施策にも

スーパーティーチャー制度なるものが存在します。

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo1/gijiroku/attach/1420245.htm
教員のキャリアを複線化し、高い指導力を有する教員を「スーパーティーチャー」として位置付け、他の教員の指導や研修会の講師を担当させるなどの取り組みが、各教育委員会において進められているところ。

文部科学省


その制度の内容はともかくとして
個人的には「スーパーティーチャー」という名前に違和感を感じるのです。

権威主義や能力主義を連想させる名称は、現代の教育が目指すべき方法と真逆のような気がします。

武田 信子 (著), 多賀 一郎 (著)の「教師の育て方―大学の教師教育×学校の教師教育」の中で

武田: 学年に 3クラス、 5クラスあったとしてその中にスーパーティーチャーがいると、親たちは自分の子どもがそのクラスに入ることを望みますよね。そのクラスに入れなかった子たちってガッカリするじゃないですか。その時点で、もうまずい学年になりかかるわけですよね。そこを上手く、スーパーティーチャーであっても学年をまとめていく力のある方であればいいんですけど、一人だけ突出したスーパーティーチャーがいると、学年は荒れるなと思いますね。
多賀  すごくいいクラスがあっても、周りが学級崩壊を起こしているという例は、いくつもありますね。
武田  そうすると、周りの先生は悪い先生だって思われてしまいますが、もしかしたらスーパーティーチャーがいるからこそ、他のクラスがガタガタになってしまっているかもしれないという視点をスーパーティーチャーになった人がもっていられる、周りの先生も巻き込んで学年団、学校として動けるところまでもっていける力がないと、まずいだろうなって思います。
多賀  本当にそうですよ。僕もね、 30代ぐらいまでは、俺が俺がという考えでずっとやってきましたが、僕のもっている力を全部発揮したら、間違いなく隣のクラスは潰れるんです。そこで、考え方を変えました。毎年、学級通信を 100枚ぐらい書いていましたが、それを止めて隣の先生のペースに合わせるようにしました。

—『教師の育て方―大学の教師教育×学校の教師教育』武田 信子, 多賀 一郎著


という部分があります。

私はこの二人の会話の中におけるスーパーティーチャーはスーパーティーチャーでは決してないと思います。
非常に厳しい言い方をすれば、自分が培った能力が全て自分によって生まれ、今の自分が誰かに支えられていることに気づいていないただの傲慢さを表した典型のように思ってしまいます。

もちろん得意・不得意はあるものです。
しかし、結局何を持って能力があるかどうかは自身の主観でしかなく、不得意な部分があるのはお互い様です。
スーパーティーチャーなどという存在は本質的には存在しません。

誰かと比較し評価する価値観が児童・生徒の心に育つのは

教員自身がそのような価値観から抜け出せないからではないでしょうか。

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