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#300 授業における「挙手して発言するルール」に意味はあるのか?

 授業中に児童・生徒が手を挙げて発言する。日本の学校の教室では見慣れた光景かも知れませんが、私はあまり好きではありません。それはどうしても発言する児童・生徒が偏ってしまうのと、その方が授業に積極的に参加しているという間違った印象を全体に与えてしまうからです。

 そもそも手を挙げて全体に向けて発言することを強制する意図と目的が私にはあまりわからない。30〜40人から一斉に注目を浴びる中で発言することは、心理的にも負担が大きい。さらに思春期を迎えた児童・生徒は「恥をかくこと」への抵抗感が強い。一歩間違えば、その教科・科目が嫌いになったり、最悪の場合学校に来づらくなったりする。

 もちろんクラス内における信頼関係がしっかりと構築できていれば問題はありませんが、その関係性が確立される以前は、授業者は非常に気をつけなればならない。

 児童・生徒の「発言」には彼ら自身の意図と目的があります。質問や確認、意見の主張などなど。そしてその意図と目的に合わせて発言する相手や人数を自分で選ぶことができる権利があります。その対象や空間を授業者が強制するのはあまりに危険だと私は考えています。

教育のICT教育が進む中、授業中に質問することの難易度を下げる効果があるという記事を見つけました。

 「GIGAスクール構想」の元、鹿児島県内でも児童・生徒1人につき1台、タブレット端末が配布されているそう。そんな中、薩摩川内市にある、県立川内高校でも1年生の数学の時間でタブレットが使われています。授業の担当者である前野弘樹氏は、タブレットを媒体としていつ・どこからでも質問を受けつけています。そんな中、「授業中、なかなか手を挙げて聞くことができない子にも文字で送って、というと結構送ってくれるので、『あ、こんなこと思ってるんだな』と改めて見たりできる」という発見があるそう。大勢の前では発言や質問はしづらいが、個別や意見を持っている子どもたちは大勢いる。今までの挙手制度は、そのような児童・生徒の意見を拾い上げることが難しい。目にみえるものだけを見るという安直な教育は反省しなければならない部分だと思っています。

 できる限り多くの声を拾い上げる機会を担保することが学校教育では必要とされるでしょう。


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