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#164 自分の人生をほんのちょっとだけ誰かのために使う

unicef(国際連合児童基金)によれば、2022年度のユニセフ募金総額は、333億8,140万2,754円。

世界中の子どもたちが安心・安全に暮らせる社会の実現を支援するために集まったのがこの金額です。

今では
臓器移植などの高額治療費をクラウド・ファンディングによって支払う事案も聞きます。

多くの人々が自分以外の誰かの幸福を願い行動しているという事実がそこにあるのです。

総務省の2022年の家計調査によると、塾代など「補習教育」の費用がコロナ前の19年と比べ、年収が多い世帯では増加したのに対し、比較的少ない世帯では減少する傾向が出ていた。

コロナ禍に端を発した物価の高騰により、教育格差が如実になっています。富裕層と非富裕層の間における教育費の違いは、両者の子どもたちの未来にも大きな違いとして表れることでしょう。

資本主義経済の中で人が「全てにおいて平等」になることは事実上不可能ですし、それが良いことだとは私も思いません。自分が頑張った分、それが報われる社会というのは、ある意味理想的です。

一方、「機会の平等」は非常に大切な概念だと思っています。
長い歴史の中で、人種、性別、国籍など様々な要素において「機会の不平等」を経験し、多くの名もなき人たちの努力によって解消してきました。
今私たちが解決するべきなのは「経済的な」機会の不平等です。

本来は、その不平等の解決の役割を公教育が担っていますが、教育に関する全てをカバーできるわけでは当然ありません。教員予算や教員の疲弊の問題などもあり、教育現場に余力が残ってはいないように見えます(国家が教育に財源を割くことを強く望んでいます)。

社会における様々な格差を減らすためには、多くの人の協力が必要不可欠です。

人はインパクトのあるもの(例えば貧困地域で苦しんでいる子どもたちの写真や動画)を見ると、そこに感情移入しやすくなります。
彼らの支援をしたい
自分にできることはないか

自然とそういう気持ちになっていきます。

一方、日々の生活の中で教育格差が広がっている感覚を持つのはなかなか難しい。

富める人の周りには富める人が多くいるので、教育の経済的不平等を本当の意味で実感することは少ないでしょう。

以前紹介した上野千鶴子さんの祝辞の中にも

世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。


あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。

との言葉がありました。

社会全体が想像力を働かせ、経済的な障壁をなくすための行動をしていければなと思います。


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