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#551 「同じ」と「違う」の本質

 中学校の教員免許を取得するには、児童福祉施設での実習が必要です。

 大学生のころの私は、まだ多様性という言葉を真剣に考えたことはなかったし、障がいに対する理解は「未だ不十分な今」と比較しても、それは浅すぎるものでした。

 私はそれまで、自分の身近に障がいがある人たちと交流する機会も少なく、時折電車や町中で見かける彼らとの接し方を全くわかっていませんでした。誤解を恐れずに言うならば、私は彼らを自分とは「異なる人たち」であると認識していたと言えます。

 しかしならが児童福祉施設に行けば、彼らの存在はある意味では自然なものとなる。彼らとの交流は、自分の中の「違和感の正体」や「無知」を炙り出していきます。私たちは誰でも「異なる」のであり、逆に一人のひととして「同じ」であるということに少しづつ気づいていく。

 ある空間では自分の中で自然だと思える彼らを、どうしてその場を一歩出れば何かしら気まずく感じてしまう自分がいるのか。自分の尺度で、自分とは「異なる人」を作り出し、同じであるはずのない人を「同じ人」だと定義していた自分自身を恥じるばかり。

 時代は進み、社会は徐々に、「同じ」と「違う」ことの本質に近づいているように思う。一人ひとりが尊重される価値を再発見する中で、障がいもまた一つの個性であることを理解していく。学校ではインクルーシブ教育が1つのキーワードになる中で、その「違い」をより身近なものと感じ、違いを理解するために学びが必要であるという真理に行き着く。電車の中では、障がいがある人たちの「特性」を伝える看板があるものもまたそのうちの1つなのだと。

 社会は十分な寛容さを持っていないし、私たち一人ひとりの学びも十分ではありません。しかし、小さな積み重ねを経ることで、私たちはまた彼らの個性を尊重し、そして私たち全員が一人のひととして同じ存在であることを理解していくのだと思っています。

 

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