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#293 松村議員の発言からみる「学び」を阻害する思想

 私は「学ぶべきではないこと」など存在しないと考えています。学びは世界の様々な問題や課題を解決できると共に、誰かに対して優しくなるための大切なツールだからです。

 私が小中(公立)の時代、「部落問題」に関する教育は行われていませんでした。大学の教職課程で初めてその話題に触れ、その授業の担当者から、「寝た子を起こすな」という観点から部落問題を扱わない地域もあるという話を聴き、非常に驚いた記憶があります。

 東京都台東区議会の一般質問で、自民党の松村智成議員が性的少数者(LGBTQ)への理解を進める学校教育について「偏向した教材や偏った指導があれば(子どもを)同性愛へ誘導しかねない」と発言していたという記事を読みました。

 松村議員の主張によれば、不当な差別はあってはならないと前置きした上で、思春期は自我の形成に非常に敏感な時期であることを強調。性の多様性を学ぶため埼玉県教委が発行するリーフレットを例に挙げながら「男性や女性の特徴を軽視するような教育を行っては児童が混乱する」とのこと。同氏はまた「自我が形成される前の子どもにあえて教える内容なのか。発言を撤回するつもりはない」と述べています。

 まず物事にはそれを学ぶべき適切な発達段階があることは理解できます。先日Readines(レディネス)についてコラムを書きましたが、自分では処理が追いつかない物事を早い段階から与えられてしまうと、結局学ぶことが非常に難しくなってしまう。

 しかし、思春期は自分自身のことをより深く理解する時期。昨今様々なところで日本の性教育の遅れが指摘されています。「性」とは私たちが生きていく上で避けては通れぬ部分。性に関する正しい知識は自分の身を守り、相手を尊重することに繋がります。性教育には実際の行為以外にもその多様性の部分も当然含まれるべきであるし、松村氏の主張は論理性にかけていると感じます。

 同時に「偏向した教材や偏った指導があれば(子どもを)同性愛へ誘導しかねない」という発言。同性愛に誘導するとはどういうことなのか。記事の中でも言及されていますが、性的指向は自分の心のありようであり、強制されたり矯正できるものではありません。自分が誰を好きになるのかを決めるのはその人自身。彼の「誘導」という発言には違和感を感じるのです。

 ここでふと思う。なぜ彼がそんな発言をしたのか。可能性としては2つ考えられる。1つ目は彼自身が「同性愛」という概念そのものに嫌悪がある。2つ目は政治的意図。同性愛を認めることによって何かしら政治的な不利益があるのかもしれない。
 彼のような多様性を認めることを阻むような態度が学びの枠を限定し、結果情報統制という非常に危険な方向に集団を向かわせることを私たちは国民の目を持って監視して行かなければならないのです。

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