TVアニメ『魔王学院の不適合者』が拓く批判的思考の地平:「時下り」と「対」に注目して
はじめに
2020年9月に放送が終了したTVアニメ『魔王学院の不適合者~史上最強の魔王の始祖、転生して子孫たちの学校へ通う~』が出色の出来だ。本作はそのタイトルが簡潔に示す通り、二千年後に転生した魔族の始祖、「暴虐の魔王」ことアノス・ヴォルディゴードが、平和に慣れて弱体化した子孫と衰退を極めた魔法を叩き直すという物語で、いわゆる「最強系主人公」の無双譚の一つとして世間の耳目を集めている。
本作でヒロインの一人を演じる夏吉ゆうこも、ダ・ヴィンチニュースのインタビュー記事(2020年9月19日公開)の中で、次のように述べている。
「感情ジェットコースター」とはナンパ師/ヒモ用語で、女に貢がせるためにエンターテインメントを提供するという男の姿勢を言い表したものだが、夏吉ゆうこの上記発言も、「最強系主人公」のアノスに惹かれる心理を役者自ら開陳したものと見てよいだろう。このように、本作は「最強系主人公」という要素ばかりがクローズアップされがちだ。しかし、本作を快作たらしめているのは、むしろ他の要素ではないだろうか。キーワードは「時下り」と「対」(Paar)である。本稿はこの二点に注目することで、過去に陣取って現代を斬る批判的思考への接続を行うものである。
「無双」の構造と「時下り」
一般に、主人公が転生して「無双」する作品においては、転生前と転生後の落差が利用されることが多い。すなわち、転生前より転生後の方が文明・技術などの水準が低いため、主人公は転生前の経験や知識を動員して、転生後の世界における特異点となることができるというのが「無双」の構造である。本作の妙味はこの構造を、時代を遡るのではなく時代を下る筋で維持している点にある。
ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』に顕著なように、主人公が過去から未来へタイムトラベルをする場合、現代の先進的な文明・技術などに感化される展開となりやすい。また、純然たる同一世界での時渡りではないにせよ、発展段階論のような思考が作品の前提に置かれていることは少なくない。いわゆる「ナーロッパ」を舞台とした作品群は、日本人の考える「中世ヨーロッパ」(この認識の当否は別稿を期したい)を現代日本よりも発展段階の低い世界として描く傾向にある。また、異世界からの来訪者が日本の現代文化(特にポップカルチャー)に屈服するという筋書きも珍しくはない。作品を網羅的に紹介することが本稿の目的ではないため、ここではさしあたり、うかみ『ガブリールドロップアウト』、シネクドキ『エルフさんは痩せられない。』、樋口彰彦『江戸前エルフ』の三作品を挙げるにとどめておく。
ところが『魔王学院の不適合者』は、時代を下ったら世界が衰退していたという前提で主人公が暴れ回るのだ。「暴虐の魔王」ことアノスは一般家庭の子供、すなわち混血/雑種の魔族として転生する。二千年後の世界では、混血の魔族は始祖の血を完全に受け継ぐ「皇族」に劣後する地位に置かれており、転生したアノスも例外ではなく見下されることになる。しかし、アノスは純血至上主義の皇族を圧倒的な実力でねじ伏せ、皇族を含めた女たちを侍らせていくのだ。本作はいわば、神武天皇が「海の王子」に転生して堕落した右翼を掣肘し、内親王を掌中に収めるとともに親王と友情を育むというような話であり、そう考えると、作中でアノスが皇族からたびたび敵意を向けられるのも容易に理解できるのではないだろうか。
こうした時下りを考えるうえで重要なのが、木庭顕「現代日本法へのカタバシス」という著作である。この著作は雑誌『法学教室』に2002年から2003年にかけて連載されたのち、木庭の論文集『現代日本法へのカタバシス』(羽鳥書店、2011年)に収録されて刊行された文学作品だ。その梗概を簡潔に述べてみよう。「現代日本法へのカタバシス」は、1580年のナポリから2001年の東京にタイムトラベルをした人文主義者ジョヴァンニが、未来から過去に向けて友人の法学者ロベルトに宛てた書簡の一部を、現代日本に生きる「私」が邦訳したという体裁をとった作品だ。16世紀のイタリア人文主義者の口を借りて、現代日本における政治システム(res publica)、デモクラシー、市民法(ius civile)の不在を舌鋒鋭く批判している点、そしてジョヴァンニが最終的にナポリへの帰還を取りやめ、「何らかの形でこの社会で身分を得て生きていこう」(木庭『現代日本法へのカタバシス』、79頁)と決心する点が独創的である。以下では「現代日本法へのカタバシス」を引用しながら、『魔王学院の不適合者』との接点を探っていく。
「カタバシス」と批判的思考
「現代日本法へのカタバシス」は序盤から、東京というコンクリートジャングルに対して批判を浴びせることを躊躇わない。
そのような「凡そ社会に基本的な意味というものを発生させる基盤が無い」地に生きる人間の思考・行動パターンも、次のように斬って捨てられる。連載当時から18年を経過した今になって読み返すと、VTuberや安倍・菅政権に対する批判にも見えてくるのは面白い。
「現代日本法へのカタバシス」は、新自由主義(藤崎剛人に言わせれば「有能/無能世界観」)の氾濫に対する嫌味も忘れていない。なお、次の引用箇所は、2020年現在においては「上級国民」なる謎概念の先駆けだと評価されそうであり、言論の地平においても本邦の衰退は窮まったとの感慨を禁じえない。
もちろん、権力的な関係にとどまらず、ビジネスの世界における思考・行動パターンも徹底的に批判されている。
さらに、批判の矛先は知識人(ここでは大学教員)にまで向かっており、もはや全方位射撃(Rundumschlag)の様相を呈している。
以上のように「現代日本法へのカタバシス」は、ジョヴァンニの目を通して現代日本の抱える諸問題を透視し、黄金期の堕落形態として散々に批判する。ところが最終章では、思わず吹き出さざるをえないご都合展開が待っている。ジョヴァンニは将来有望な日本の若者たちと出逢い、現代日本も捨てたものではないと考えるに至るのである。
この記述は明らかに木庭周辺の知的サークル、すなわち木庭が目をかけている研究者や学生がモデルになっており、読んでいて気恥ずかしさを拭えないという問題はあるが、『魔王学院の不適合者』第4話の終わりでアノスがこぼす「なかなかどうして、ここはよい時代だ。こんな世界を俺は作りたかった」という台詞を考えるうえで見逃せない記述だ。
アノス役を演じる鈴木達央は、ダ・ヴィンチニュースのインタビュー記事(2020年9月13日公開)の中で、役作りに関して「スマートな上司でいてほしい」というディレクションを受けたことを明かしている。
「スマートな上司」が何の謂いかについては、ニコニコニュースのインタビュー記事(2020年9月26日公開)の中で、鈴木達央自身が整理してくれている。
上記インタビュー記事から分かるのは、本作が「最強系主人公」という表面的な要素にフォーカスした演技プランで構成されてはいないということだ。重要なのはむしろ、時下りの末に、アノスにかけがえのない友人ができ、彼が「なかなかどうして、ここはよい時代だ」と考えるようになったということだ。そして、これは彼が現代に屈服したことを意味しない。彼はまず過去に陣取って現代を斬ったからこそ、かけがえのない友人たりうる者を見極めることができた。この一見すると迂遠な手続は、「現代日本法へのカタバシス」で執拗に繰り返された批判的思考の痕跡に近いと評価することができる。木庭は「カタバシス」という標題について、前掲論文集のはしがきで「『カタバシス』は冥府への下降を意味し、過去への通路を指示するが、ギリシャ・ローマを専門とする私にとって、むしろ現代日本に『降りる』ことこそが冒険を意味するというアイロニーである」と述べていた(木庭『現代日本法へのカタバシス』、i頁)。アノス、そして鈴木達央にとっても、二千年後への転生が「冒険」であったことは言うまでもないだろう。次節ではその「冒険」の結果、出逢えた友人たちについて取り上げる。
「対」とは何の謂いか
本作はいくつかの「対」(Paar)を物語の原動力として効果的に用いている。本稿ではその中から二組の対を取り上げる。一組目は双子の姉妹、ミーシャ・ネクロンとサーシャ・ネクロン。二組目は二千年の時を越えて約束を果たした二人、アノス・ヴォルディゴードとレイ・グランズドリィだ。
ミーシャは、転生後のアノスが最初に出逢う少女だ。ミーシャは皇族のネクロン家の生まれでありながら、双子の姉のサーシャとは異なり、混血同様に扱われて見下されていた。それもそのはず、ミーシャは「本来は存在しない存在」だったのだから。一人を二人に分離する秘術「分離融合転生(ディノ・ジクセス)」によって、ミーシャの心は胎児の頃サーシャから分けられた。姉妹は15歳の誕生日を迎えると合一し、より強力な魔族に生まれ変わるという細工を施されていたのだ。ミーシャとサーシャは双生児ではなく、いわば「半裂き」であった。アノスはこの哀れな対を救うべく、「暴虐の魔王」の力で理不尽な運命を粉砕する。姉妹は「半裂き」から真正の双生児となり、無事15歳の誕生日を二人で迎えることになる。
この「半裂き」の姉妹、ミーシャとサーシャには、楠木ともり、夏吉ゆうこという二人の新人声優が配されており、半人前の成長譚と新人声優の成長過程が二重写しとなって現れてくる。楠木ともりは前掲のインタビュー記事の中で、「長い時間をかけて演技を詰めていって、……技術的にも、作品に対しての気持ち的にも、今まで触れてこなかった感覚がすごくありました。……演じる部分以外でも、より俯瞰で作品を見つめる機会になったので、わたしにとってターニングポイントになる作品だな、と思います」と述べており、夏吉ゆうこも「まだ声優になって日が浅くて、現場でメインキャラクターを演じることにも慣れていない中で、すごく緻密に演技について向き合っていただいたので、得るものがすごく多かったです。……キャリアを重ねて、いつか恩返しをしたいです」と述べている。また、主演の鈴木達央も前掲のダ・ヴィンチニュースの記事の中で、「人が1クールでこれだけ成長するところを、初めて見た気がします」と二人の成長を評価している。役者自身の述懐および他の役者からの評価に鑑みて、双子編(第1話~第4話)に役者との二重写しを看取するのは我田引水ではあるまい。
ネクロン家の姉妹の問題が解決すると、物語は二千年前からの因縁を主軸として展開していく。アノスは二千年前、長引く戦争を終わらせるため、人間の勇者カノンに自分を討たせた。何度倒れても立ち上がる不屈の魂を持ったカノンは、アノスが唯一好敵手として認めた人間であった。アノスは転生後もカノンのことが頭から離れない――自分が転生したのなら、カノンもまた転生を遂げているのではないかと。そんな中、「錬魔の剣聖」と名高き実力者のレイが魔王学院に転入してくることになる。アノスは自分と正面から打ち合える転校生に二千年前の好敵手の面影を見るのだった。
双子編に続く魔剣大会編(第5話~第8話)、勇者学院編(第9話~第13話)は、多少の賑やかしはあれど、アノスとレイの対を際立たせた構成となっている。二千年前にアノスが敢えて討たれた後、人間たちは「暴虐の魔王」が平和を望んでいたという事実を受け入れることができなかった。アノスの遺志を継いだカノンも当然白眼視され、自分が守ったはずの人間たちによって殺されるに至る。深い悲しみに沈んだカノンは、アノスをこれ以上悲しませないために、アノスを守るために、アノスが「暴虐の魔王」として転生する未来自体を聖剣で断ち切った。こうしてアノスは一般家庭の子供として転生することとなった。そして、カノン自身も度重なる転生を経て、今度は自分が偽りの魔王として討たれるために、魔族の転校生としてアノスの前に姿を現したのであった。
二千年前の約束を果たすべく、主人公を追いかけ続けるレイを演じるのは、鈴木達央の盟友とも言うべき寺島拓篤だ。アノスとレイの対、即ち鈴木達央と寺島拓篤の対は、濃厚なブロマンスを見せつけてくる。最終話アバンでの二人の掛け合いは、近年のTVアニメの中でも屈指のクドキであろう。「魔王アノス、俺はまだ見せていない。人の優しさを、お前が望んだ本当の平和を」とレイは語る。そして「行かせてもらう、君を守るために」とレイが仕掛ければ、「行かせはせぬ、お前を守るために」とアノスが応じるのだ。「君が、君こそが、僕のたった一人の勇者だった」というレイの独白は愛の告白も同然であり、作中の全ヒロインを後景に退かせてしまった。二人の衝突と共闘は、『新妹魔王の契約者』(2015年1月期)の中村悠一vs杉田智和、『旗揚!けものみち』(2019年10月期)の小西克幸vs稲田徹に勝るとも劣らない名試合として記憶されるべきだろう。
これほどまでに対が強調された作品を、「最強系主人公」の無双譚として片付けてしまうのはあまりに不十分な見方ではないだろうか。本作の主眼は無双どころか、双数(Dual)にあると言うべきである。双数とは、単数(Singular)と複数(Plural)の中間的な文法形式であり、有名どころでいえば、古代ギリシア語アッティカ方言、サンスクリット語、アラビア語といった言語に見られる。双数はラテン語にすら形跡を残していないため、そもそもこの文法形式自体を知らない読者も少なくないと思われる。そこで、ベルリン大学の創設者であり、言語学者としても知られるヴィルヘルム・フォン・フンボルトの所説を紹介して、双数について補足しておくことにする。
フンボルトは「双数について」(Über den Dualis)という1828年の論文の中で、次のように述べている(なお、引用中のドイツ語は筆者が原文を確認して補ったものである)。
フンボルトは双数や人称代名詞に着目して、「すべての言語活動は対話(Wechselrede)にもとづいて」いる(同書30頁)という対話的言語論を主張する(ただし、本稿では人称代名詞については取り上げない)。これは訳者の村岡晋一によると、「言語は〈私〉と〈君〉のあいだにおいて成立するという主張、『話すこと』と同時に『聞くこと』が言語の本質的な構成契機であり、『話すこと』はつねに『聞くこと』によって浸食されている」という主張である(村岡晋一『対話の哲学――ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』講談社選書メチエ、2008年、148頁)。すなわち、「言語の理解はいつでも不完全であり、非理解ということを必然的に含む」(同書、149頁)。「我」と「汝」の間の非理解を前提とした対話的言語論は、モノローグの思考を問い直す契機となってくるのだ。本稿ではこれ以上対話的言語論を声優・アニメ批評の観点から掘り下げて検討することはしないが、本作を「最強系主人公」の無双譚とみなすのがいかにも独我論的な見方であることは、これまでの記述から既に明らかであろう。ネクロン家の姉妹の和解も、アノスとレイの二千年越しの決着も、双数という文法形式が示唆する「変更不能の二元論」を具体的な関係に落とし込んだものであり、アノスが一人で実現したものではないということをゆめゆめ忘れてはならない。
最後に、本作のバイプレイヤーにも若干触れておきたい。なんといっても、豊崎愛生のコメディリリーフが冴えている。『慎重勇者~この勇者が俺TUEEEくせに慎重すぎる~』(2019年10月期)の女神リスタルテに続き、転生後のアノスの母親を表情豊かに演じた彼女は、憑き物が落ちたかのように絶好調だ。あまり原点回帰という言葉を使いたくないが、『アキカン!』(2009年1月期)で聴かせてくれた充溢と決壊が還ってきたかのようだ。2010年代には「構えさせる声優」の代表格だった豊崎愛生。彼女を虚心坦懐に聴ける状況が再来するとは感慨深い。「愛生が好き! 素直になって 言えたらどんなに SO HAPPY」ということで、スフィア結成から干支が一周せんとする今、もはや親衛隊の喧しい雑音を気にする必要などなかろう。そして、石原夏織以下8名で構成されるアノス・ファンユニオンも聴き逃がせない。最終回に声優の合唱が流れるアニメは名作というジンクスが再確認されたのではないだろうか。このジンクスは、『R-15』(2011年7月期)の偉大さを何度でも思い出させてくれるわけなのだが。
おわりに
『魔王学院の不適合者』に見られる批判的思考の萌芽は確かに痛快だが、そこには一つの大きな弱点が残っている。それは類比される「現代日本法へのカタバシス」も抱えている弱点だ。本稿の結びとして、これらの作品の弱点について考えてみることにする。
「現代日本法へのカタバシス」において、ジョヴァンニが現代の東京で最初に出逢うのがイタリア大使館勤めのレナートで本当によかった。もしジョヴァンニが成田空港にでも飛ばされて、「私は難民です」などと口走ったら、入管に引っ捕らえられて恐ろしい事態になるところだった。「人の心理のどす黒い暗部を利用する思想や魔術への一層の傾斜と過酷な宗教的迫害の時代」(木庭『現代日本法へのカタバシス』、4頁)を逃れたつもりが、世界有数の外国人迫害国家にタイムトラベルすることになるとは、ジョヴァンニも木庭も思いも寄らなかったことだろう。ジョヴァンニはある種の権威(auctoritas)によって現代日本を裁いているが、実際にこのような「無双」は可能なのだろうか。ジョヴァンニはよるべない存在である。そんな状態で過去に陣取って現代を斬ったら、果たしてどうなるだろうか。ここで欠如しているのは、身分証明書を持たない外国人など、入管は簡単に収容して、肉体的・精神的な暴力で屈服させられるのだという視点である。作品に触れてひとしきり痛快な気分に浸った後で、一歩立ち止まって考えるべきは、たった一人で流れ着いた者がいかに無力かということだ。この点を看過してしまえば、『魔王学院の不適合者』も「現代日本法へのカタバシス」も絵空事で終わってしまう。
とはいえ、こうした弱点を抱えつつも、まずは過去に陣取って現代を斬る批判的思考を成立させなければ話にならない。重石のように我々を苛み続ける過去があるとして、それを「自虐史観」の一言で否認していくのは、時間遡行による無双の模倣である。歴史修正主義者は一騎当千の妄想に取り憑かれているが、歴史の澱は決して一人の力で払拭などできはしない。歴史修正主義者が日々醜悪な振る舞いを見せれば見せるほど、時下りの末に現代を斬り、いくつかの対が織りなす美しい未来を拓いた「アノス様」の物語はますます魅力的なものとなり、我々を次なる批判へと向かわせる契機を生み出し続けるのだ。
そして、「暴虐の魔王」が永遠平和(der ewige Frieden)を望むなら、我々は勇者カノンを殺した作中の人間たちの轍を踏まぬよう、日本国憲法9条改正に反対すべきなのではないかという問題が次に控えているが、ここから先の議論は本稿の埒外であろう。こうして「主戦場」は木庭顕『憲法9条へのカタバシス』(みすず書房、2018年)へと移っていくのである。
参考文献(2022年1月12日追記)
木庭顕『現代日本法へのカタバシス』羽鳥書店、2011年(新版:みすず書房、2018年)。
村岡晋一『対話の哲学:ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』講談社選書メチエ、2008年。
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(村岡晋一訳)『双数について』新書館、2006年。