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TVアニメ『魔王学院の不適合者』が拓く批判的思考の地平:「時下り」と「対」に注目して

はじめに

私は次第に理解しつつあった。将来に向かって航行するとは、どこか遠い彼方からの緻密な積み上げの延長線上において、という特別な仕方においてではあるが、今私がここにいる、その現実を引き受けることである、と。
(木庭顕「現代日本法へのカタバシス」同『現代日本法へのカタバシス』羽鳥書店、2011年、79頁)

 2020年9月に放送が終了したTVアニメ『魔王学院の不適合者~史上最強の魔王の始祖、転生して子孫たちの学校へ通う~』が出色の出来だ。本作はそのタイトルが簡潔に示す通り、二千年後に転生した魔族の始祖、「暴虐の魔王」ことアノス・ヴォルディゴードが、平和に慣れて弱体化した子孫と衰退を極めた魔法を叩き直すという物語で、いわゆる「最強系主人公」の無双譚の一つとして世間の耳目を集めている。
 本作でヒロインの一人を演じる夏吉ゆうこも、ダ・ヴィンチニュースのインタビュー記事(2020年9月19日公開)の中で、次のように述べている。

やっぱりアノスが最強すぎて、ちょっと木の枝を振ったくらいで山がなくなったり、飛ばされたりするわけですよ(笑)。そういう、「アノスがちょっとひと振りしたらそうなるよな」って納得してしまうシーンも、ほんとにこの作品ならではの素敵なポイントだなあ、と思っています。それだけじゃなくて、ちょっと胸が熱くなるシーンもあって、毎話毎話の構成がすごく楽しみですし、感情がジェットコースターしてます(笑)。アニメを観ている間、感情の振れ幅がすごく生まれるので、皆さんにとっても、そこがハマるポイントなんだと思います。

 「感情ジェットコースター」とはナンパ師/ヒモ用語で、女に貢がせるためにエンターテインメントを提供するという男の姿勢を言い表したものだが、夏吉ゆうこの上記発言も、「最強系主人公」のアノスに惹かれる心理を役者自ら開陳したものと見てよいだろう。このように、本作は「最強系主人公」という要素ばかりがクローズアップされがちだ。しかし、本作を快作たらしめているのは、むしろ他の要素ではないだろうか。キーワードは「時下り」「対」(Paar)である。本稿はこの二点に注目することで、過去に陣取って現代を斬る批判的思考への接続を行うものである。

「無双」の構造と「時下り」

 一般に、主人公が転生して「無双」する作品においては、転生前と転生後の落差が利用されることが多い。すなわち、転生前より転生後の方が文明・技術などの水準が低いため、主人公は転生前の経験や知識を動員して、転生後の世界における特異点となることができるというのが「無双」の構造である。本作の妙味はこの構造を、時代を遡るのではなく時代を下る筋で維持している点にある。
 ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』に顕著なように、主人公が過去から未来へタイムトラベルをする場合、現代の先進的な文明・技術などに感化される展開となりやすい。また、純然たる同一世界での時渡りではないにせよ、発展段階論のような思考が作品の前提に置かれていることは少なくない。いわゆる「ナーロッパ」を舞台とした作品群は、日本人の考える「中世ヨーロッパ」(この認識の当否は別稿を期したい)を現代日本よりも発展段階の低い世界として描く傾向にある。また、異世界からの来訪者が日本の現代文化(特にポップカルチャー)に屈服するという筋書きも珍しくはない。作品を網羅的に紹介することが本稿の目的ではないため、ここではさしあたり、うかみ『ガブリールドロップアウト』、シネクドキ『エルフさんは痩せられない。』、樋口彰彦『江戸前エルフ』の三作品を挙げるにとどめておく。
 ところが『魔王学院の不適合者』は、時代を下ったら世界が衰退していたという前提で主人公が暴れ回るのだ。「暴虐の魔王」ことアノスは一般家庭の子供、すなわち混血/雑種の魔族として転生する。二千年後の世界では、混血の魔族は始祖の血を完全に受け継ぐ「皇族」に劣後する地位に置かれており、転生したアノスも例外ではなく見下されることになる。しかし、アノスは純血至上主義の皇族を圧倒的な実力でねじ伏せ、皇族を含めた女たちを侍らせていくのだ。本作はいわば、神武天皇が「海の王子」に転生して堕落した右翼を掣肘し、内親王を掌中に収めるとともに親王と友情を育むというような話であり、そう考えると、作中でアノスが皇族からたびたび敵意を向けられるのも容易に理解できるのではないだろうか。
 こうした時下りを考えるうえで重要なのが、木庭顕「現代日本法へのカタバシス」という著作である。この著作は雑誌『法学教室』に2002年から2003年にかけて連載されたのち、木庭の論文集『現代日本法へのカタバシス』(羽鳥書店、2011年)に収録されて刊行された文学作品だ。その梗概を簡潔に述べてみよう。「現代日本法へのカタバシス」は、1580年のナポリから2001年の東京にタイムトラベルをした人文主義者ジョヴァンニが、未来から過去に向けて友人の法学者ロベルトに宛てた書簡の一部を、現代日本に生きる「私」が邦訳したという体裁をとった作品だ。16世紀のイタリア人文主義者の口を借りて、現代日本における政治システム(res publica)、デモクラシー、市民法(ius civile)の不在を舌鋒鋭く批判している点、そしてジョヴァンニが最終的にナポリへの帰還を取りやめ、「何らかの形でこの社会で身分を得て生きていこう」(木庭『現代日本法へのカタバシス』、79頁)と決心する点が独創的である。以下では「現代日本法へのカタバシス」を引用しながら、『魔王学院の不適合者』との接点を探っていく。

「カタバシス」と批判的思考

 「現代日本法へのカタバシス」は序盤から、東京というコンクリートジャングルに対して批判を浴びせることを躊躇わない。

私が降り立ったこの地にも、確かに堅固で巨大な建物の密集が存在するが、それはローマの虚ろな都市ほどにさえも形態というものを持たないのである。……第1に、どこまでが都市であり、どこからが領域であるのか、都市は延々と砂漠のように続き、どこで切れるのか分からない。凡そ社会に基本的な意味というものを発生させる基盤が無いのであるから、人々の精神的困難はどれほどのものか。
(木庭顕「現代日本法へのカタバシス」同『現代日本法へのカタバシス』羽鳥書店、2011年、11-12頁)

 そのような「凡そ社会に基本的な意味というものを発生させる基盤が無い」地に生きる人間の思考・行動パターンも、次のように斬って捨てられる。連載当時から18年を経過した今になって読み返すと、VTuberや安倍・菅政権に対する批判にも見えてくるのは面白い。

私が辿り着いたこの時代、人々は全ての事柄において、実際のものよりも代替物を好む。とりわけ似姿(imago)や画像(figura)である。これらを実在であると信じているのである。否、それも当然で、それらは実際に生きているのである。つまり自発的に動き、働きかけ、恩恵をもたらし、危害を加える。……ならばこれらが写し取った相手方の実在の方は全て不要になるのも当然である。(同書18-19頁)

そもそも、選挙は高々貴族政の属性であり、くじ引きにより評議員や政務官を選ぶのでなければデモクラシーとは言えない、ということはアリストテレスを読むだけで明らかである。しかしここでは、選挙さえやっていればデモクラシーが存在すると言うらしい。選挙をしたからと言って、選ばれた評議員が「多数者」そのものであるわけではない。このような誤解をしたポリスは一つもなかった。(同書21頁)

 「現代日本法へのカタバシス」は、新自由主義(藤崎剛人に言わせれば「有能/無能世界観」)の氾濫に対する嫌味も忘れていない。なお、次の引用箇所は、2020年現在においては「上級国民」なる謎概念の先駆けだと評価されそうであり、言論の地平においても本邦の衰退は窮まったとの感慨を禁じえない。

「上位にある者も下位にある者と(maiorum cum minoribus)」という観念はひっくり返って、「下位にある者も上位にある者と(minorum cum maioribus)」のようになる。上位にある者の自由を下位にある者も享受せよ、というわけである。もちろん強者はその「自由」を制限されずに済む。下位にある者はそれを享受する条件を持たないが、それは下位にある者の落ち度であるというのである。(同書24-25頁)

 もちろん、権力的な関係にとどまらず、ビジネスの世界における思考・行動パターンも徹底的に批判されている。

彼らは同一の対象物、特に土地、の上に複数当事者間の極めて曖昧な(duplex)関係を意識的に作りだし、そしてこの方法によってしか信用(fides)、即ち社会的結合(societas)、を形成しえないのである。しかもその危険性に気付いていない。(同書45頁)

複雑な関係を重畳的に創っていくのは彼らの性向であり、あらゆるところにそれは見られる。しかもそうしておいて或る時どちらかがそれを裏切るのである。どちらがうまく裏切るかの駆け引きを楽しんでいるとも言える。
(同書66頁)

 さらに、批判の矛先は知識人(ここでは大学教員)にまで向かっており、もはや全方位射撃(Rundumschlag)の様相を呈している。

しかし『ローマ人の法』(原文ママ)を教えるというこの法律家は少しでもキケロを読んだことがあるとは思えない。その言語を厳密に理解しようとつとめたことがあるとは思われない。否、市民法の基本についてさえ全く知らないに違いない。(同書38頁)

レナート〔筆者注:イタリア大使館に勤務する男で、ジョヴァンニを匿う人物〕はかくして私という陪審員を前にして、全く反キケロ風に、自ずから、彼らの頭の中には市民法は存在せず、法学者というものも存在しない、ということを印象づけることに成功した。……私のような素人にも、彼らの無理解は一点にとどまらないと思われる。(同書65頁)

 以上のように「現代日本法へのカタバシス」は、ジョヴァンニの目を通して現代日本の抱える諸問題を透視し、黄金期の堕落形態として散々に批判する。ところが最終章では、思わず吹き出さざるをえないご都合展開が待っている。ジョヴァンニは将来有望な日本の若者たちと出逢い、現代日本も捨てたものではないと考えるに至るのである。

或る日私は不思議な若者達と会うことになる。……彼らは何とラテン語を読むのである。その中の一人、若い女性、が私にエラスムスのことを尋ねて来るではないか。素朴とはいえ、紛れもないラテン語で。しかもその発音はわれわれのものよりは遥かに古代のローマ人のものに近い。別の若者はシゴニウスとボダンの関係について言って私を試してくるではないか。……
(同書75頁)

私はしばらくの間自分がどこにいるのか、いつの時代にいるのか、忘れた。イタリア語もラテン語も放り出して私に構うことなく彼らが自分達相互の議論を始めたとき、私はふと気がついた。そう、君のところに帰る方法に気がついたのである。希なことに、少なくともここには、カタバシスの通路が達しているのである。否、私は確信していた。このような道というものはどこにでも通じていてどこからでも発生しうるのだと。そうであれば、それをつたって私にも君のところに帰るチャンスがあるのである。(同書76頁)

 この記述は明らかに木庭周辺の知的サークル、すなわち木庭が目をかけている研究者や学生がモデルになっており、読んでいて気恥ずかしさを拭えないという問題はあるが、『魔王学院の不適合者』第4話の終わりでアノスがこぼす「なかなかどうして、ここはよい時代だ。こんな世界を俺は作りたかった」という台詞を考えるうえで見逃せない記述だ。
 アノス役を演じる鈴木達央は、ダ・ヴィンチニュースのインタビュー記事(2020年9月13日公開)の中で、役作りに関して「スマートな上司でいてほしい」というディレクションを受けたことを明かしている。

田村さんと大沼さんはずっと「スマートな上司でいてほしい」と言っていて、そこがけっこうキモになっていて。俺の中では、二千年前から現在と呼ばれる世界に転生してきてるから、ちょっと時代劇っぽい感じでもいいのかなって。もう、『水戸黄門』のように印籠を出すことがアノスの強い力で、シャキっとやるのが『暴れん坊将軍』みたいな。それを、「もっとスマートにしたい」って言われたときに、自分の中で固めちゃってた部分がほぐれて。……「スマートな上司」って言葉で、人が劇的に変わる様に対しての受け入れが、すごくできた気がします。

 「スマートな上司」が何の謂いかについては、ニコニコニュースのインタビュー記事(2020年9月26日公開)の中で、鈴木達央自身が整理してくれている。

スマートというのは仰々しくなっているものをよしとしない。そうじゃないところでカタルシスを出してほしいというディレクションでした。ではスマートさはどうしたら出るのかと考えたとき、転生した世界に対して、物事の捉えかたをもっとフラットにしないといけないと思いました。そうしないと、すべてに対してひとつひとつリアクションを取らないといけなくなると。……スマートな上司というのは、上の位にいてはいけないんです。目線を下げないと。

 上記インタビュー記事から分かるのは、本作が「最強系主人公」という表面的な要素にフォーカスした演技プランで構成されてはいないということだ。重要なのはむしろ、時下りの末に、アノスにかけがえのない友人ができ、彼が「なかなかどうして、ここはよい時代だ」と考えるようになったということだ。そして、これは彼が現代に屈服したことを意味しない。彼はまず過去に陣取って現代を斬ったからこそ、かけがえのない友人たりうる者を見極めることができた。この一見すると迂遠な手続は、「現代日本法へのカタバシス」で執拗に繰り返された批判的思考の痕跡に近いと評価することができる。木庭は「カタバシス」という標題について、前掲論文集のはしがきで「『カタバシス』は冥府への下降を意味し、過去への通路を指示するが、ギリシャ・ローマを専門とする私にとって、むしろ現代日本に『降りる』ことこそが冒険を意味するというアイロニーである」と述べていた(木庭『現代日本法へのカタバシス』、i頁)。アノス、そして鈴木達央にとっても、二千年後への転生が「冒険」であったことは言うまでもないだろう。次節ではその「冒険」の結果、出逢えた友人たちについて取り上げる。

「対」とは何の謂いか

 本作はいくつかの「対」(Paar)を物語の原動力として効果的に用いている。本稿ではその中から二組の対を取り上げる。一組目は双子の姉妹、ミーシャ・ネクロンとサーシャ・ネクロン。二組目は二千年の時を越えて約束を果たした二人、アノス・ヴォルディゴードとレイ・グランズドリィだ。
 ミーシャは、転生後のアノスが最初に出逢う少女だ。ミーシャは皇族のネクロン家の生まれでありながら、双子の姉のサーシャとは異なり、混血同様に扱われて見下されていた。それもそのはず、ミーシャは「本来は存在しない存在」だったのだから。一人を二人に分離する秘術「分離融合転生(ディノ・ジクセス)」によって、ミーシャの心は胎児の頃サーシャから分けられた。姉妹は15歳の誕生日を迎えると合一し、より強力な魔族に生まれ変わるという細工を施されていたのだ。ミーシャとサーシャは双生児ではなく、いわば「半裂き」であった。アノスはこの哀れな対を救うべく、「暴虐の魔王」の力で理不尽な運命を粉砕する。姉妹は「半裂き」から真正の双生児となり、無事15歳の誕生日を二人で迎えることになる。
 この「半裂き」の姉妹、ミーシャとサーシャには、楠木ともり、夏吉ゆうこという二人の新人声優が配されており、半人前の成長譚と新人声優の成長過程が二重写しとなって現れてくる。楠木ともりは前掲のインタビュー記事の中で、「長い時間をかけて演技を詰めていって、……技術的にも、作品に対しての気持ち的にも、今まで触れてこなかった感覚がすごくありました。……演じる部分以外でも、より俯瞰で作品を見つめる機会になったので、わたしにとってターニングポイントになる作品だな、と思います」と述べており、夏吉ゆうこも「まだ声優になって日が浅くて、現場でメインキャラクターを演じることにも慣れていない中で、すごく緻密に演技について向き合っていただいたので、得るものがすごく多かったです。……キャリアを重ねて、いつか恩返しをしたいです」と述べている。また、主演の鈴木達央も前掲のダ・ヴィンチニュースの記事の中で、「人が1クールでこれだけ成長するところを、初めて見た気がします」と二人の成長を評価している。役者自身の述懐および他の役者からの評価に鑑みて、双子編(第1話~第4話)に役者との二重写しを看取するのは我田引水ではあるまい。
 ネクロン家の姉妹の問題が解決すると、物語は二千年前からの因縁を主軸として展開していく。アノスは二千年前、長引く戦争を終わらせるため、人間の勇者カノンに自分を討たせた。何度倒れても立ち上がる不屈の魂を持ったカノンは、アノスが唯一好敵手として認めた人間であった。アノスは転生後もカノンのことが頭から離れない――自分が転生したのなら、カノンもまた転生を遂げているのではないかと。そんな中、「錬魔の剣聖」と名高き実力者のレイが魔王学院に転入してくることになる。アノスは自分と正面から打ち合える転校生に二千年前の好敵手の面影を見るのだった。
 双子編に続く魔剣大会編(第5話~第8話)、勇者学院編(第9話~第13話)は、多少の賑やかしはあれど、アノスとレイの対を際立たせた構成となっている。二千年前にアノスが敢えて討たれた後、人間たちは「暴虐の魔王」が平和を望んでいたという事実を受け入れることができなかった。アノスの遺志を継いだカノンも当然白眼視され、自分が守ったはずの人間たちによって殺されるに至る。深い悲しみに沈んだカノンは、アノスをこれ以上悲しませないために、アノスを守るために、アノスが「暴虐の魔王」として転生する未来自体を聖剣で断ち切った。こうしてアノスは一般家庭の子供として転生することとなった。そして、カノン自身も度重なる転生を経て、今度は自分が偽りの魔王として討たれるために、魔族の転校生としてアノスの前に姿を現したのであった。
 二千年前の約束を果たすべく、主人公を追いかけ続けるレイを演じるのは、鈴木達央の盟友とも言うべき寺島拓篤だ。アノスとレイの対、即ち鈴木達央と寺島拓篤の対は、濃厚なブロマンスを見せつけてくる。最終話アバンでの二人の掛け合いは、近年のTVアニメの中でも屈指のクドキであろう。「魔王アノス、俺はまだ見せていない。人の優しさを、お前が望んだ本当の平和を」とレイは語る。そして「行かせてもらう、君を守るために」とレイが仕掛ければ、「行かせはせぬ、お前を守るために」とアノスが応じるのだ。「君が、君こそが、僕のたった一人の勇者だった」というレイの独白は愛の告白も同然であり、作中の全ヒロインを後景に退かせてしまった。二人の衝突と共闘は、『新妹魔王の契約者』(2015年1月期)の中村悠一vs杉田智和、『旗揚!けものみち』(2019年10月期)の小西克幸vs稲田徹に勝るとも劣らない名試合として記憶されるべきだろう。
 これほどまでに対が強調された作品を、「最強系主人公」の無双譚として片付けてしまうのはあまりに不十分な見方ではないだろうか。本作の主眼は無双どころか、双数(Dual)にあると言うべきである。双数とは、単数(Singular)と複数(Plural)の中間的な文法形式であり、有名どころでいえば、古代ギリシア語アッティカ方言、サンスクリット語、アラビア語といった言語に見られる。双数はラテン語にすら形跡を残していないため、そもそもこの文法形式自体を知らない読者も少なくないと思われる。そこで、ベルリン大学の創設者であり、言語学者としても知られるヴィルヘルム・フォン・フンボルトの所説を紹介して、双数について補足しておくことにする。
 フンボルトは「双数について」(Über den Dualis)という1828年の論文の中で、次のように述べている(なお、引用中のドイツ語は筆者が原文を確認して補ったものである)。

双数はいわば〈二〉という数の集合的単数形(Collectiv-Singularis)だということになる。……双数は、多数性の形式(Mehrheitsform)でもあれば、ひとつの閉じた全体の表示でもあるのだから、単数形の性格と複数形の性格を同時にあわせもつことになる。双数が経験的にじっさいの言語においては複数形を取りがちだということは、この二つの観点のうち前者〔多数性の形式であるという観点〕のほうが民族の自然な感覚により多く訴えるものをもつことを証明するものだが、しかし、双数の意義深い精神的用法はいつでも集合的単数形という後者の観点を取るだろう。
(ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(村岡晋一訳)『双数について』新書館、2006年、25頁)

言語の根源的本質のうちには、ある変更不能の二元論がひそんでおり、言語活動の可能性そのものが呼びかけと応答(Anrede und Erwiederung [sic])によって条件づけられているのである。思考でさえも、社会的存在への傾向(Neigung zu gesellschaftlichem Daseyn)を本質的にともなっており、人間は、すべての身体的・感覚的な関係は別にしても、みずからのたんなる思考のためだけにでも、〈私〉に対応する〈君〉を切望する。(同書31頁)

言語を介して実現される他者と〈私〉の結合によってはじめて、人類全体を刺激するようないっそう深遠で高貴な感情が生まれ、そしてこの感情が、友情や愛やすべての精神的な連帯において、二人のあいだの結合を最高のもっとも親密な(höchsten und innigsten)結合にするのである。(同書32頁)

 フンボルトは双数や人称代名詞に着目して、「すべての言語活動は対話(Wechselrede)にもとづいて」いる(同書30頁)という対話的言語論を主張する(ただし、本稿では人称代名詞については取り上げない)。これは訳者の村岡晋一によると、「言語は〈私〉と〈君〉のあいだにおいて成立するという主張、『話すこと』と同時に『聞くこと』が言語の本質的な構成契機であり、『話すこと』はつねに『聞くこと』によって浸食されている」という主張である(村岡晋一『対話の哲学――ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』講談社選書メチエ、2008年、148頁)。すなわち、「言語の理解はいつでも不完全であり、非理解ということを必然的に含む」(同書、149頁)。「我」と「汝」の間の非理解を前提とした対話的言語論は、モノローグの思考を問い直す契機となってくるのだ。本稿ではこれ以上対話的言語論を声優・アニメ批評の観点から掘り下げて検討することはしないが、本作を「最強系主人公」の無双譚とみなすのがいかにも独我論的な見方であることは、これまでの記述から既に明らかであろう。ネクロン家の姉妹の和解も、アノスとレイの二千年越しの決着も、双数という文法形式が示唆する「変更不能の二元論」を具体的な関係に落とし込んだものであり、アノスが一人で実現したものではないということをゆめゆめ忘れてはならない。
 最後に、本作のバイプレイヤーにも若干触れておきたい。なんといっても、豊崎愛生のコメディリリーフが冴えている。『慎重勇者~この勇者が俺TUEEEくせに慎重すぎる~』(2019年10月期)の女神リスタルテに続き、転生後のアノスの母親を表情豊かに演じた彼女は、憑き物が落ちたかのように絶好調だ。あまり原点回帰という言葉を使いたくないが、『アキカン!』(2009年1月期)で聴かせてくれた充溢と決壊が還ってきたかのようだ。2010年代には「構えさせる声優」の代表格だった豊崎愛生。彼女を虚心坦懐に聴ける状況が再来するとは感慨深い。「愛生が好き! 素直になって 言えたらどんなに SO HAPPY」ということで、スフィア結成から干支が一周せんとする今、もはや親衛隊の喧しい雑音を気にする必要などなかろう。そして、石原夏織以下8名で構成されるアノス・ファンユニオンも聴き逃がせない。最終回に声優の合唱が流れるアニメは名作というジンクスが再確認されたのではないだろうか。このジンクスは、『R-15』(2011年7月期)の偉大さを何度でも思い出させてくれるわけなのだが。

おわりに

 『魔王学院の不適合者』に見られる批判的思考の萌芽は確かに痛快だが、そこには一つの大きな弱点が残っている。それは類比される「現代日本法へのカタバシス」も抱えている弱点だ。本稿の結びとして、これらの作品の弱点について考えてみることにする。
 「現代日本法へのカタバシス」において、ジョヴァンニが現代の東京で最初に出逢うのがイタリア大使館勤めのレナートで本当によかった。もしジョヴァンニが成田空港にでも飛ばされて、「私は難民です」などと口走ったら、入管に引っ捕らえられて恐ろしい事態になるところだった。「人の心理のどす黒い暗部を利用する思想や魔術への一層の傾斜と過酷な宗教的迫害の時代」(木庭『現代日本法へのカタバシス』、4頁)を逃れたつもりが、世界有数の外国人迫害国家にタイムトラベルすることになるとは、ジョヴァンニも木庭も思いも寄らなかったことだろう。ジョヴァンニはある種の権威(auctoritas)によって現代日本を裁いているが、実際にこのような「無双」は可能なのだろうか。ジョヴァンニはよるべない存在である。そんな状態で過去に陣取って現代を斬ったら、果たしてどうなるだろうか。ここで欠如しているのは、身分証明書を持たない外国人など、入管は簡単に収容して、肉体的・精神的な暴力で屈服させられるのだという視点である。作品に触れてひとしきり痛快な気分に浸った後で、一歩立ち止まって考えるべきは、たった一人で流れ着いた者がいかに無力かということだ。この点を看過してしまえば、『魔王学院の不適合者』も「現代日本法へのカタバシス」も絵空事で終わってしまう。
 とはいえ、こうした弱点を抱えつつも、まずは過去に陣取って現代を斬る批判的思考を成立させなければ話にならない。重石のように我々を苛み続ける過去があるとして、それを「自虐史観」の一言で否認していくのは、時間遡行による無双の模倣である。歴史修正主義者は一騎当千の妄想に取り憑かれているが、歴史の澱は決して一人の力で払拭などできはしない。歴史修正主義者が日々醜悪な振る舞いを見せれば見せるほど、時下りの末に現代を斬り、いくつかの対が織りなす美しい未来を拓いた「アノス様」の物語はますます魅力的なものとなり、我々を次なる批判へと向かわせる契機を生み出し続けるのだ。
 そして、「暴虐の魔王」が永遠平和(der ewige Frieden)を望むなら、我々は勇者カノンを殺した作中の人間たちの轍を踏まぬよう、日本国憲法9条改正に反対すべきなのではないかという問題が次に控えているが、ここから先の議論は本稿の埒外であろう。こうして「主戦場」は木庭顕『憲法9条へのカタバシス』(みすず書房、2018年)へと移っていくのである。

参考文献(2022年1月12日追記)

木庭顕『現代日本法へのカタバシス』羽鳥書店、2011年(新版:みすず書房、2018年)。

村岡晋一『対話の哲学:ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』講談社選書メチエ、2008年。

ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(村岡晋一訳)『双数について』新書館、2006年。

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