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愛を言葉にする必要はあるか

この週末は長年の役目を終えた弊社の倉庫の壁を解体していまして、交通整備的な必要性から大学教員の友人を呼びましたら最終的には率先して解体を進めくれて随分と助かったなと思いました。

(解体の進む役目を終えた弊社井の頭倉庫)

お礼に彼の自宅に色々と食べ物や飲み物を夕方持っていったところ、二人きりの時にお酒を飲みながら彼がポロリと口にしたことが興味深かったのでそれについて今日は少し触れようかと思います。

曰く彼は「愛している (I love you - I love you, too)」という言葉は考えようによっては安っぽい、あまり意味のない言葉なのではないかと言います。彼は自分が父親とこれが最後のお別れになるなというとき、「愛している」と伝えるべきか否か迷ったと言います(彼は西洋人)。

なぜならそもそも愛していなかったら自分はここに父を見舞っておらず、これまでの親子の関係も、これまでのようではなかっただろうし、父もそんなこととっくに理解しているのではないか、と。夫婦の長年の結婚生活に良好な関係も、わざわざ愛していると言わなくても、愛しているから一緒にいるわけだし、愛しているから相手のために朝スープを作ったり、パンを焼いたり、休日花見に出かけようと提案するのではないか、と。

つまり、「愛している」と言う言葉は、愛しているならわざわざ言わなくてもいいし、また、愛していないのに愛していると一応言っておこうということも嘘なのでよくないのではないか、と言うわけです。「愛している」という言葉、我々は子供の頃からそのような歌を聴きすぎたり、映画を見すぎていて、ある種の洗脳の末に、愛する人に愛していると言っているのではないか、と。

そこで僕は個人的にどう思ったかと言うと、そうですね、「映画や歌が耳障りの良い言葉を囁きすぎているんだよ」という意見は、アメリカで何度かアメリカ人から耳にしたことがあるので、そう考える西洋人が一定の数いるのだなということを知っていました。だからそれを聞いていてあまり意外だとは思わなかったんですが、強いて言うならば相手から「(私のことを)愛してくれている?」という質問があったとしたら、こちらは少し本質を欠いた問いだ、とは思います。愛情は相手の行動に見ることができるだろうと思うからです。

しかしながら、「愛している」という言葉自体は相手を喜ばせる力を少なからず持っているでしょうし、今後欧米の文化からこの言葉が減るべきだとは思いませんし、減っていくという風にも思いません(ちなみにバカの壁の著者・養老孟司先生は I love you を「バカなこと言ってる」と一蹴)。また一方で日本人がもっと頻繁に使い始めるべきだとも思わないですが、愛されているか否かは相手の行動からきっとわかるものだろうと考えて自分自身で聞かずとも見極める力は、洋の東西を問わず、自分自身の幸せのためにも持っておくべきではあるなと考えます。僕の友人に倣(なら)えば「尋ねることはあまり意味がないのでは」ということかもしれません。


ちなみに日本人は言葉的にはどういう具合なのか、最後に少し考えてみたいと思います。日本人は皆さんご存知の通り基本的には「察する」文化を持っていると思います。「好きだ好きだよ」と頻繁に言ってるパターンは一般的には稀ではないでしょうか。

僕が「ここはやはり日本だな」と思うのは「お〜い、お茶」という商品が結構メジャーなペットボトルに入ったよく売れている日本茶だということです。

「お〜い、お茶」の開発エピソードはあまり知られていないかと思いますが「お〜いお前、こっちにお茶持ってきてくれや」という意味からきています(意訳)。この商品名は翻訳不能の言わば日本人の察する能力を最大化したフレーズです。そしてそれが商品になり、さらにはロングセラーとして日本の人々に支持されるお茶になっているのですから、日本人からしたら、「愛している」など、鼻から省略された言葉なのかもしれません。



追記:この記事は数日前に書いて、結びの文が思いつかずに放置していました(結局お〜いお茶ネタ)。皆さんの決して知りうることのない部分ですが、少し言及しておくと僕の書き物業には神奈川県出身の若い青年担当者がおりまして、毎度の投稿後の感想は当然ながら、少しでも更新が滞ると記事はまだなのかと催促してきます。これは西澤伊織新聞の頃からの話なのですが、先日の次男の誕生を境に毎日は更新しなくなってしまった僕をまた机に向かわせてくれる大きな原動力になりました。決して表に出てこない奥ゆかしくも夜な夜な(よなよな)せかしてくるマメな担当者よ。彼にこの記事を捧げます。


( 文・写真 / 西澤伊織 )


お〜いお茶 出典↓


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