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身体が限界を訴えても、休もうとしないのは何故かを考えてみた。

限界の限界を迎えるまでの経緯

現在、療養を兼ねた帰省をしているのですが、先日少し頑張り過ぎて、更に体調が悪くなるという事態に陥ってしまいました。

その日は一日中家の中を整理に駆け回っていました。
もともと私は積極的に帰省する事もなく、加えてこのコロナ禍ですから、数年は実家を訪ねることはありませんでした。
(父が転勤族で、転勤先の住居には何度か行ったことがあるので、全く家族と顔を合わせないというわけではありません)

不要な服や本、ゲームなどを処分するべく、1階と2階を何度も行き来していました。
合間を縫って、愛犬にご飯をあげたりトイレの後処理をしたりもしていました。
その間両親は庭で作業をしていました。
(後になって知ったのですが、景色を見ながらお菓子を食べ、久々の実家を楽しんでいたのだとか。てっきり庭仕事をしてるのかと思ってました)

今の私は、十数分歩くだけで具合が悪くなる程調子が悪くなるような状態。
こんなことをすれば、身体が限界を迎えるのは時間の問題だと分かってはいましたが、休むことはせず体に鞭打って続けていました。

結局、身体が限界を迎えしまい、その日の夕方から翌日の深夜まで、食欲不振でほとんど食事が摂れず、やっと食べても吐いてしまうという事態になってしまいました。

なぜやり続けてしまったのか

振り返ってみると理由は大きく3つあります。
まず第一に、自力でやった分、誰かの負担が減るからです。
後から思えば、箱詰めしたものを運ぶのをお願いする選択肢もあったはずです。
でも、そんなことは微塵も考えていませんでした。

私にとって人に物を頼むということは、時間と労力を奪う行為と思えてならないのです。
ただ不思議なことに、誰かから頼まれたりした際には特別そうは思いません。
期待に添えるよう、出来る限りの事をしていきます。

なぜこのような価値観が身についたのかは、改めて考えてみると、面白い自己発見があるかもしれません。

そして第二の理由が、自分の状態を正しく把握できていない、あるいは体調を軽視している所にあるのかなと思います。

あと少しなら大丈夫だろう。
この程度ならもう一踏ん張りできるだろう。
もしダメだったとしても、その時はその時だ。

楽観的というよりかは、自暴自棄に近い感覚なのだと思います。

第三の理由は、休憩することが周囲にどの様に思われるのか気になるからです。

『あれくらいの作業はできて当たり前』
『私はもっと大変なことをしている』
『この程度で休むなんてやる気がない』

そんな風に思われるのではないかと、怖くてとても休憩なんてできません。
コストパフォーマンスを考えるなら、適度な休憩は重要です。
頭では分かっているはずなのに、途中で休憩を挟むのが怖くて、全部を完璧にやり遂げるまで休憩することができないのです。
それが仕事でも、友達との関わりの中ででも、相手が家族であってもそれは変わりません。

自分よりも他人を優先する理由

第一の理由を一言でまとめるなら『自己犠牲』、
第二の理由は『自暴自棄』、そして第三の理由は『他己評価へのこだわり』でしょうか。

自分の健康よりも、他人の評価の方を重要視している事の現れだと思います。
休職という緊急事態であっても、その考えが変わることがないのですから、程度としてはかなり重視していると思えます。

なぜ、そんなにも評価を気にするのか、もう少し内省を進めていきたいと思います。

もし本当に自分を軽んじているのであれば、私ならきっと、自分がどうなろうが、周囲にどう思われようが、やりたいことを我を通していくことでしょう。

私がとった行動は、相手に認められたいことの表れなのではないかと思います。
褒められたい。喜ばせたい。自分という存在を受け入れてほしい。
そういった、承認欲求が根底にあるのではないかと思います。
加えて、自分自身の優先度があまりにも低いために、無理をしてしまっているのだと思います。

まだまだ時間を要するとは思いますが、自分を客観視する経験を重ねることで、自分の思考の偏りに気付き、理性を持って軌道修正ができていければと思います。
今回は、まずその一歩として、振り返ってみました。

長い文章になってしまいましたが、最後まで読んできただき、ありがとうございました。

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