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「旅館」ーーおばあちゃんと真っ白なシーツ

家の近所に小学校から一緒だった女の子がいた。教室でからかうと、「うっさいねえ。あんたに関係ないでしょ」と叩かれ、いつも夫婦漫才のような掛け合いをしていた。

中学生になったころのある日、学校から帰っていると、彼女がラブホテルから出てきた。彼女の家はラブホテルを経営していた。

「お前、ラブホテルでなにしよったん?」とからかうと、彼女は傷ついたような顔で横を通りすぎた。
いつもと違うリアクションに私は戸惑った。なにかまずいことを言ってしまったのだろうか。

私がそのころ住んでいた家はもとは旅館だった。母方の祖父母が経営していたが、私が生まれたころには廃業しており、そこで祖母と2世帯で同居していた。

家のなかにちょっとした庭園があり、池には石橋が架かっていた。風呂はふたつあり、10以上ある部屋にはそれぞれトイレがついていて、私は部屋のひとつをあてがわれていた。家は古かったが、私の誇りだった。

週末にひとりで父方の祖母の家に行った。母方の祖母に比べると疎遠だったが、毎年父を介してお年玉をもらっており、お礼の電話をかけていた。

夕食のときだった。私が味噌汁をすすっていると、「あら、あなたはご飯にぶっかけないの?」と訊かれた。ぽかんとしている私に、「いや、あなたのところはそういうの好きだと思って」

父方の祖母はよく「あなたのところ」という言い方をした。家老の娘である彼女は気位が高かった。

大人になって知ったことだが、父方の祖母からもらっていたお年玉は、父の財布から出ていたらしい。
父がお礼の電話をかけさせたのは、内孫に冷たい母への当てつけだったという。

子供部屋の話になり、「あなたは自分の部屋はあるの?」と訊かれ、私は得意顔でうなずいた。「うちは旅館だったけえ、たくさん部屋があるんよ」

すると、父方の祖母は蔑んだような目で、「あなたのところはラブホテルじゃない」と言った。私はショックで食事がのどを通らなくなった。

「おかえり」

家に帰ると、母方の祖母が出迎えてくれたが、目を合わすことができなかった。

母からはずっと「旅館」だと聞かされていた。嘘だと言ってほしくて問いただすと、母は「ほんとよ」と答えた。「伯父さんもそれがいやで、高校卒業したらすぐ県外に出ていったんよ」

精液が染みこんだ大量のシーツを洗う、祖母のすがたが思い浮かんだ。祖母がたちまち汚いもののように感じられた。

月曜日、学校に行くふりをして自転車にまたがった。行く当てもなかったが、憂さを晴らすように夢中でペダルを漕いだ。幼馴染みに合わせる顔がなかった。

結局、呉ポートピアランドまで来たが、なかに入るお金はなかった。ロードサイドの書店で時間をつぶしたあと、引き返した。

ヘロヘロになって家に着いたが、学校が終わる時間にはまだ早かった。
自転車を近くにとめて、家の裏側にまわった。家族に見つからないよう、雨どいをつたってベランダから侵入する。ベランダの木戸は古く、鍵はかかっていなかった。

廊下をはさんだベランダの向かいに物置になっている部屋があった。学校が終わるまでここに身をひそめ、あらためて玄関から入ろうと思った。
客室だったほかの部屋よりずっとせまく、部屋には薄くほこりが積もっていた。

壁際にふたつ古い学習机が置いてあった。この部屋は母と伯父が子供部屋として使っていたものだ。

机の引出しをあけると、伯父の名前が入った切手帳が出てきた。切手収集が趣味だったとはじめて知った。
ほかにも引出しのなかには、見たことない10銭の硬貨や東京オリンピックの記念硬貨もあった。私はそっとポケットに仕舞った。

布がかけられた姿見の陰になった壁に、舟木一夫のポスターが貼ってあった。母が昔ファンだったとは聞いたことがある。

姿見のそばの段ボール箱には、木製のテニスラケットが入っていた。高校時代の母の白黒写真を思い出した。
母にも子供時代があったのだと、当たり前のことに気がついた。

窓の外のベランダでは、私のシーツが風に乗って泳いでいた。ぼうっと眺めていると、いつしか真っ白な無数のシーツに見えてきた。

子供部屋で母が勉強していると、洗濯物を取りこみに祖母があらわれる。祖母の髪は黒い。「ご飯じゃけえ、おりてきんさい」「これ終わったら行く」
――かつてそんな会話が交わされていたのかもしれない。

この土地に祖父母が家を建て、ホテルをはじめた。ホテルで稼いだお金で母は育てられ、その母に育てられて、いまの私がいる。
祖母を汚いと感じた自分こそが汚いと思った。

うつむくと、窓から射した西日が足もとまでのびていた。靴をもって、忍び足で玄関におりる。一呼吸おいて、「ただいま」と祖母に声をかけた。

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