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「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第八章 大団円(その5)

鮪吉ゆうきちくんの部屋の本棚には、古い図鑑が20冊以上ならんでいた。
はじめて分犬守の屋敷を訪れた日、狛音こまねがインベーダーゲームで遊んでいるあいだ、僕は本棚から取り出した恐竜の図鑑を読んでいた。

図鑑によると、恐竜は1億5000万年にわたって地上を支配していたそうだ。その時代、哺乳ほにゅう類は恐竜が寝静まった夜に息をひそめるように生活していたという。

6500万年前、恐竜は絶滅した。絶滅した原因として、隕石いんせき衝突説などたくさんの仮説が紹介されていたが、僕が気に入ったのは〝哺乳類に卵を食べられた説〟だ。

なんでも鼠ほどの大きさの哺乳類が、いつしか恐竜の卵を食べるようになり、すべての卵を食べつくして、恐竜を絶滅させたというものだ。

まさしく弱者の戦い方だった。小さな哺乳類は長い雌伏しふくの時代を経て、いまや地球上でもっとも繁栄している種となった。圧倒的な力の差をはねのけ、みごと恐竜に打ち勝ったのだ。
力で張り合うだけが戦いじゃない。いろんな戦い方があることを図鑑は教えてくれた。

口からよだれがこぼれ、手の甲にぬれたような感覚があった。
あわてて顔をあげると、プールから顔を出したときのように、ざわめきがよみがえってくる。視線を下にむけると、机がよだれで光っていた。

僕は教室の机に顔をふせ、寝たふりをしていた。休み時間が来るたびに、そうして考えふけっていた。手で机を拭くと、彫刻刀で刻まれた「ドッキリ大成功!」の文字がぼんやりと見えた。

窓際のいちばんうしろの席に目をむけた。まだ視界はぼやけていたが、唯野がいないことはわかった。
黒板の横に貼られた時間割表に目を移すと、だんだんピントが合ってきて、3時間目の「芸術」の文字が見えてくる。つぎは美術で移動教室だった。

廊下に出てロッカーをあけると、アクリル絵具セットが消えていた。今朝、収めたばかりなので家に忘れてきたはずはない。
話し声が聞こえてふりむくと、唯野たちが美術室に向かっているところだった。僕を見てニヤニヤしていた。

すっかり油断していた。ひとりぼっちであることに変わりなかったが、2学期がはじまって1週間なにも起きなかった。
いじめと戦おうと息巻いていた僕は、肩透かしを食らった気分だったが、平穏無事であることに越したことはない。

唯野たちが夏休みにユーチューブの投稿をはじめたと耳にしたので、そちらに夢中でいじめには飽きたのだと思っていた。が、そんなに甘くなかった。絵具セットを隠したのは彼らなのだ。

「俺の絵具セット知らない?」

1学期なら泣き寝入りしていたが、勇気をふりしぼって訊いた。狛音にがんばると約束したから。

「知らねーよ」

唯野は一言で切り捨てると、もっていた絵具ケースで僕を小突いた。岡田たちが冷ややかな笑みを浮かべる。彼らが隠したという証拠はなかったので、それ以上追及することはできなかった。

「ユーチューブの登録者ぜんぜん増えねーんだけど」

彼らは話題を変え、僕のそばから離れていった。

ロッカーに置いていた世界史の図表を取り出し、「オリエント文明の形成」のページを廊下で読んだ。唯野たちとのあいだに十分な距離をつくってから、美術室に手ぶらでむかった。

美術室のなかは賑やかだった。大きな机に学級旗のデザイン画をひろげ、感想を言い合ったりしている。壁には他のクラスの旗のデザイン画が貼ってあったが、担任の似顔絵やアニメのキャラクターを取り入れたものが目についた。

教室のうしろの棚に置いてある石膏せっこう像のあたりに唯野たちはいた。石膏像の顔に股間を近づけてキャッキャと騒いでいる。

「絵具セットを忘れました」

授業がはじまる前、先生のところに行って嘘をついた。美術の先生はおかっぱ頭の糸のように細い目をしたおばさんだ。
先生の机の上には、汚れた絵筆やねじれた絵具チューブがあふれていた。てっきり貸してくれるものと思っていたが、

「光村の家どこだっけ?」

「練馬です」

いやな予感を覚えながら答えると、「取りに帰りなさい」と命じられた。

校舎を出ると、空から降りそそぐ陽射しが目をくらませた。高い空には太陽がぎらついている。
すこし歩いただけで制服のシャツが湿った。9月に入ってもまだ夏がつづいているようで、館林の熱気を思い出した。

校門を抜け、通学路をひとり歩いていた。昼間の住宅街はどこかよそよそしく、石膏像のように白く無表情に見えた。アスファルトに落ちた影は、黒の絵具をチューブから直接塗りつけたように粘りついた。

絵具セットが家にないのはわかっているのに、僕はなにをしているのだろう? 出口のない迷路をさまよっているようだった。

ひとつむこうの通りから、郵便バイクの音が聞こえてくる。狛音に手をひかれ、通学路を逆行したときの解放感がよみがえった。
このまま逃げてしまおうかと思ったが、彼女との誓いが引きとめた。

玄関のドアをあけると、玄関マットの上にスヌーピーのスリッパが置いてあった。母は外出中のようだ。

小次郎が廊下の犬用ゲートから身を乗り出していた。すでにカラーをはずされ、傷は治っていたが、胸の毛はまだ生えそろっていなかった。

まっ昼間に帰ってきた僕をとがめるように、怒声を浴びせてくる。元気になったのはうれしいが、なめきった態度も元どおりだった。相手にしている心の余裕はなく、

「うるさい!」

と怒鳴ったら、小次郎はびっくりしたように一瞬おとなしくなった。
廊下を通り抜け、階段をあがろうとすると、飼い犬に手を噛まれたとでもいうように、背中からいっそうはげしくがなり立ててきた。

押入れに小学生のころ使っていた絵具セットがあったはずだ。アクリル絵具でなく水彩絵具だったが、ないよりはマシだった。

部屋の押入れを探っていると、アサガオの観察日記を見つけ、思わずページをめくった。小学1年生にしてはアサガオがよく描けている。
写生大会で賞をとるくらい絵は得意だった。色鮮やかなアサガオの絵は希望にあふれているように見えた。

ページのあいだからアサガオの押し花がひらりと落ちた。拾いあげると、それは、紫やピンクの絵のアサガオとちがって茶色くちていた。

鯉のぼりの箱をのけ、絵具セットを引っぱり出した。ほこりが舞いあがるなか腰をあげ、ふり返ると、机の上に置いてある首輪が目に入った。
狛音が別れぎわにくれた綱プーの首輪だった。思わず手にとり、制服のポケットに仕舞った。

水彩絵具セットをもって美術室にもどったときには、授業開始から40分が経っていた。遅れを取りもどそうと作品棚にまっすぐ向かった。

授業では体育祭の学級旗のデザインをしていた。投票で選ばれた1作が学級旗に採用される。
中学のころは選ばれて目立たないよう手を抜いていたが、今回は唯野たちを見返してやろうと本気で取り組んだ。力でやり返すだけがいじめと戦う方法じゃない。

男女の狸が手を取り合って太陽を囲んでいるデザインで、館林の夏をイメージした。太陽には担任に似せて目鼻をつける予定だったが、棚から取り出したデザイン画には、太陽に女性器のマークを落書きされていた。
足もとが崩れ、暗い穴のなかを落ちていくような心地がした。唯野たちのしわざだ。

デザイン画の残りを仕上げ、あえて落書きされたまま提出した。
先生に注意されたら、これまで受けてきたいじめのことを洗いざらいしゃべってしまおう。シャツの上から胸ポケットの首輪を握りしめた。

「なにこれ、テレビ局のマーク?」

先生は細い目をひらいて、キョトンとした。なにも言わず立っていると、

「まあ、いいわ」

先生はそのまま受け取った。「はい、つぎ」

拍子抜けして、ふらふらと列をはずれた。なんて鈍感な教師なのだろう。世の中からいじめがなくならないわけだ。
背中に射るような視線を感じてふりむくと、唯野が机の上のバケツで筆を洗いながら、面白くなさそうに僕をにらんでいた。

昇降口の掃除を終えて教室にもどってくると、教室の掃除も終わっており、机は元どおり整然とならんでいた。

窓際の席に唯野たちがたむろしており、ほかには女子が3人いるだけだった。机に荷物が見当たらないので、みんな部活に行くか、帰ってしまったようだ。

伏し目がちに自分の席についた。唯野と目を合わせたら、なにをされるかわからない。窓側の左半身をこわばらせながら帰り支度をしていると、彼の声が聞こえてきた。

「こいつ、俺らとタメらしい。この前、調子乗っててぶち切れた」

「ハタヨウヘイ?」

ハタヨウの名前を口にする岡田の声が聞こえた。思わず目をむけると、唯野は『月刊少年ザウルス』をもっていた。ハタヨウのデビュー作が掲載された漫画雑誌だった。

「おう。ツイッターに烏兎矢うとや先生のこと〈オワコン〉とか書きやがって、〈お前、ぶっ殺すぞ!〉って何度かリプ送ったら、アカウント凍結された。自称漫画家のくせに報告しやがった」

ハタヨウの炎上騒ぎに唯野も混じっていたとは……。殺害予告を送っておきながら、「表現の自由」だとか逆ギレしている。思わずくすりとすると、

「おい、なに笑ってんだよ」

唯野に見つかってしまった。彼は席を立ち、肩を怒らせながらこちらに向かってくる。背筋に冷たいものが流れた。

「いや、知ってるやつのことだったから……」

もごもご言い訳していると、胸ぐらをつかまれた。

「お前、笑ってたよな?」

彼の拳に力がこもる。シャツのえりをねじりあげられ、ボタンが飛んだ。苦しくてのけ反ると、大きな音を立てて椅子ごと倒れ、背中を打った。海老反りになってもだえていると、

「なんだ、これ?」

唯野は床に転がっていた首輪を拾いあげた。……まずい、倒れた拍子に胸ポケットから飛び出したようだ。

「犬の首輪じゃねーか」

彼は僕の上に覆いかぶさり、首に首輪をつけはじめた。とっさに抵抗したが、みぞおちを殴られた。からだの奥から鈍い痛みがこみ上げてくる。
天井をあおぐと、岡田たちが集まってきており、ニヤニヤしながら僕を見おろしていた。

「ひさしぶりに〝ドッキリ〟やるか」

唯野のかけ声とともに、口に極太のセロハンテープを貼られた。四方から手足をつかまれ、教室のうしろに連れていかれる。
あせる気持ちとはうらはらに、からだは砲丸を飲みこんだように、重くうずいて身動きとれなかった。

掃除ロッカーに入れられ、ほうきを吊るすフックに首輪の端をかけられた。
足はバケツのなか。つま先立ちをして、かろうじて首吊りから逃れられるが、足もとはおぼつかなかった。リトマス紙になったみたいに、足の先から恐怖がにじんでくる。

涙が出てきた。怖くて怖くてたまらない。泣きながらバレエのステップを踏む僕を見て、唯野たちは目に涙を浮かべて笑っていた。

「おい、カメラ」

唯野の指示で、岡田はスマホのレンズを僕にむけた。

「この動画投稿したら、10万再生いくんじゃない?」

「バカ、こんなもん投稿したら炎上するわ」

唯野はふざけて撮影中の岡田の背中を押した。うわっと声をあげ、よろけた岡田がこちらに倒れかかってくる。死ぬかと思ったが、とっさに首輪をつかみ、なんとか持ちこたえた。

ロッカーの扉を閉められた。

「ちょい待って、マジ勘弁!」

岡田の声が耳に刺さる。ミントの香りの息がほおにあたった。首をのばすと、扉の通気口からもれた光が、映写機のように宙を舞うほこりをきらきらと照らしていた。

岡田が扉をあけると、爆笑がとどろいた。制服のほこりを払っている彼の目は笑っていなかった。

また視界を閉ざされた。首輪から右手を放し、扉を押したが、外から押さえつけられていた。
ギーという鈍い音を立て、地面が回転するのがわかる。……助けて!! 恐怖に声をあげるが、声はのどにつかえて出なかった。

通気口の光が消え、完全な暗闇に包まれた。手で押したが、扉はビクともしない。ロッカーの扉を壁に向けられたようだ。


★次回の更新は19日(金)です。
(次回が小説の最終回です)

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