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「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第八章 大団円(その2)

昼前ごろ、机で残暑見舞いを書いていると、狛音こまねがひさしぶりに部屋を訪ねてきた。
みくると仲良くなってから寄りつかなくなっていたが、彼女はノックの返事も待たずにドアをあけると、当たり前のようにベッドのふちに腰をおろした。

「きのうはなかなか寝つけなかったよ」

「……うん」

プードルの公方様は偽物の血筋だと、きのう工房さんから教えられたが、狛音はその話をどう受けとめたのだろう? なんと言っていいかわからなかったので、
「いろいろあったけど、柴犬の公方様の謎は解けたね」

「あたしにとっての公方様はプードルだけ。あいつがなんて言おうと、物心ついたときからそうだから」

狛音は工房さんの言葉を思い出してムッとしたように言った。僕のまくらを手にとり、「もう、あたしには関係ないけど」と横をむく。

「〝夢丸の首輪〟も灰になったしね」

朝食のとき、人間椅子は綱プーの死の責任をとって屋敷を辞めた、と円香まどかさんから聞かされていた。
「先代が亡くなられたとき、老兵はここを去るべきだったのです」――そう言い残し、彼は屋敷をあとにしたという。

人間椅子にとって、人生を捧げて仕えてきた犬守家とはなんだったのだろう? 古きよき時代はすぎ、家の旧習が孫くらいの年の坊っちゃんを死に追いやり、手塩にかけた公方様は自らあやめることになった。
老執事は、年季の入ったカバンに思い出だけをしのばせ、犬守家を去っていった。

「あたしに首輪を譲るって書いてくれた犬彦には悪いけど」

ぬいぐるみのように膝の上にのせていた、まくらを握った狛音の手に力がこもる。「首輪が燃やされたのも、家のしきたりを終わらせるいい機会だったかもしれない」

「工房さんの話してたことが本当なら、そうかもね」

狛音の気持ちに寄り添って言ったつもりが、

「でも、あんなキモイやつに、〝詐欺師〟呼ばわりされる覚えはない!」

彼女はまくらを放り投げた。腕をふりおろしたあと見えた顔は唇を噛みしめていた。「いい機会だった」と言ったのは、強がっていただけなのだろうか。

「……ごめん」

僕は謝った。仲たがいしていても、父親のことを悪く言われるとカチンとくるのかもしれない。自分で言うのと、人から言われるのはちがう。

じゅうたんにぐったりと横たわったまくらは、顔をなくしたぬいぐるみの死体のようだった。

整然と立ちならぶ墓石が残暑のきびしい陽射しを白く照り返している。8月も下旬だというのに、墓地はいぜんと変わらぬ暑さだった。
この時期に制服にそでを通すのは、2学期のたしかな気配を感じて胃が痛くなった。

犬守家の人々と一緒に犬彦くんの納骨式に参加していた。久作さんは長男の死を受け入れ、裏庭の粗末な石の下から先祖代々の墓へと犬彦くんの遺骨を移した。

お経を唱えるお坊さんの声が蒸した空気をふるわせている。焼香を終えた久作さんは目をふせたまま狛音に数珠じゅずを渡し、ぎこちなく数珠を受けとった彼女は墓前に歩みでた。

お墓のそばにある墓標には、犬彦くんの戒名と名前が彫られている。
「平成二十九年十月一日寂」「行年十三才」と連なる文字の墨はまだみずみずしかった。となりに刻まれた久兵衛きゅうべえさんの戒名には、はやくも虫が巣くっていた。

お経をあげる前、僕と久作さんでお墓のふたをあけ、犬彦くんの遺骨を納めた。分厚い石のふたは信じられないほど重く、体調が悪い久作さんの足はふらついていた。

骨壺は小ぶりで軽かった。人ひとりがこんなに小さくなってしまうのかと愕然がくぜんとした。人間の命なんてあっけないものだ。

狛音と入れちがいに、みくるが焼香台の前に立った。段ボール箱をかぶって合掌する偽物の犬彦くんのすがたと重なって見えた。

その背後では、ゆみ子さんが皮肉をいうかわりに、貫禄のある着物姿の円香まどかさんが見守っている。工房さんは納骨式に現れなかった。家族以外には僕と虫江さんがいるだけだった。

墓前で手を合わせたみくるは、狛音のおさがりの制服のスカートをはいていた。
継父ままちちの長男を演じさせられてきたみくるは、屋敷の引きこもり部屋を脱し、その長男である犬彦くんは先祖が眠る石の箱のなかに落ち着いた。2人とも本来いるべき場所にもどったようだった。

箱男 @inukoubou58・2017年8月31日
夏休みも今日で最後。学校に行きたくない……。いきたくないいきたくないいきたくないいきたくないいきたくないいきたくないいきたくないいきたくないいきたくないいきたくないいきたくないいきたくない……死にたい。

焼香の順番を待ちながら、8月31日の犬彦くんのツイートを思い返していた。
学校に行きたくない――むき出しの感情がお経のようにつづられていたが、犬彦くんは9月のあいだ学校に通ったあげく、月が替わった10月1日に自ら命を絶ってしまった。家族に宛てた1通の遺書を残して。

容赦なく照りつける太陽の下、墓地の白い砂地に僕の黒い影が落ちていた。また柿の木で首を吊った自分の影のように見えてくる。

吐き気がこみあげてきて、炎天下にもかかわらず悪寒おかんがした。犬彦くんはいじめに耐えてまで、学校に行く必要があったのだろうか。2学期が恐ろしくてたまらなかった。

学校に行っていじめに耐えていたのは、僕も一緒だった。結局、犬彦くんはいじめに耐えきれず、自ら死を選んだ。
僕は犬彦くんと同じ道をたどっているのだろうか。そう思うと、血も凍るような恐怖におそわれた。

現状を変えるには、いじめと戦うか、いじめから逃げるかしかない。どちらも勇気のいることだった。でも、死ぬことより勇気がいることなんてあるのだろうか。

「……のぼるくん?」

狛音から数珠を渡された。

僕に順番がまわってきたのだ。

納骨式が終わり、墓石のあいだの砂利道を歩いていると、通りかかった墓石にお供えしてあるヒマワリが目に入った。

わずかな花びらだけを残し、すすけた顔でうつむいている。そばに置かれたカップ酒の瓶のふちには蠅がとまっていた。
道に目を落とすと、自分の影のとなりにもうひとつ人影がならんでいた。

「あいつ、柿好きだったんだよね」

うしろから追いついてきた狛音が話しはじめた。
「小さいころ、よく一緒に食べた。庭にあった柿の木に登って、あたしが実を取ってくるんだけど、あいつは下であたしが落とすのを待ってるの。なんでよりによって、柿の木で首吊っちゃうかな?」

狛音の声は涙ぐんでいた。犬彦くんの自殺のあと、柿の木は切り倒された。彼女の胸のなかで思い出だけが熟しているようだった。

なんて答えようか迷っていると、木の幹に抱きつくように、背後からのびてきた手が狛音の腰をつかまえた。手はみくるのもので、狛音はたちまち笑顔になる。

「びっくりした、みくるか~」

「これ、ママがお姉ちゃんにって」

みくるがポケットから取り出したのは、なんと〝夢丸の首輪〟だった。おどろいてふり返ると、円香さんは墓石のかげで休んでいる久作さんに付き添っていた。

「人間椅子が燃やしたんじゃなかったの?」

狛音のうわずった声がした。僕もみくるのほうに向きなおり、

「公方様のお墓のそばに焚火のあとがあったけど」

「銀行の貸金庫にあったって、ママが……」

みくるは僕らに気圧けおされ、首輪を砂利の上に落としてしまう。僕は手をのばしたが、さきに狛音が拾っていた。

「庭の焚火のあと?」

「はい。公方様のお墓のそばに、なにかを燃やしたようなあとがありました」

「人間椅子さんが出ていく前、古い手帳とかアルバムを燃やしてたから、それじゃないかな」

夕食の席で円香さんが教えてくれた。人間椅子が〝夢丸の首輪〟を燃やしたというのは、工房さんのでまかせだったようだ。
もしかすると、工房さんは人間椅子に一杯食わされたのかもしれない。真相はやぶのなかだった。

テーブルの上には寿司桶がおいてあり、特上の握りがならんでいたが、そのなかにサーモンは見当たらなかった。

みくるはサーモンばかり食べたあと、〝綱吉の湯〟にむかった。ひとりで風呂に入るようになったのは、それが唯一の母娘の時間ではなくなったからかもしれない。

テーブルには久作さんの姿もなかった。

「久作さんは食べないんですか?」

「ちょっと食欲がないみたい。寝室でおかゆを食べて、きょうは早めに寝てる」

狛音はすこし心配そうな顔をした。円香さんはその顔を見てとると、ひと口お茶をすすってから、

「犬彦くんのこと、隠し通せるわけないって、久作さんもわかってたと思うの」

「どういうことですか?」

狛音の箸がとまった。

「こまちゃんのお母さんが入院したとき、こまちゃんを館林に呼びよせたのは久作さんなの」

「ママが頼んだんじゃないんだ……」

「ひとりぼっちの娘を心配してっていうのはもちろんだけど、いずれはこまちゃんに家を継いでもらうつもりだったと思う。
久作さんがこまちゃんに興味ないとかあり得ないよ。やっと帰ってきたこまちゃんが、またすぐ出て行っちゃったときには、取り乱してたいへんだったんだから」

池袋の東急ハンズの前で、犬守家の人たちが待ちかまえていたのを思い出した。狛音はあっという間に連れもどされ、僕の手もとにはカワウソのぬいぐるみだけが残された。
たしかに、娘に無関心な父親なら決してとらなかった行動だろう。

狛音は円香さんの話を聞いても、なにも言わなかった。ただ一瞬、口もとをゆるめたように見えた。

夕食のあと、狛音が部屋をたずねてきた。入院中の母から電話があったことを打ち明けられた。

「おばさんから?」

「うん。来週、退院することが決まったって。東京に帰らないと」

「よかったじゃん。また2学期になっても東京で……」

「会えるね」と言おうとして口をつぐんだ。なぜか狛音は浮かない顔をしていた。

「うれしくないの?」

「……うれしい」

とつぶやいて、狛音は顔をそむけた。これ以上、心のなかを読まれないようにしているかのように。

あんなにおばさんの退院を心待ちにしていたのに、どうしたのだろう?
僕はとまどいを覚えたが、抱きついてきたみくるを受けとめた昼間の狛音の笑顔を思い出し、みくると離れ離れになるのがつらいのかもしれないと思った。

いまや2人は姉妹以上の関係になっていた。みくると別れることは、自分のからだの一部を失うような痛みをともなうのかもしれない。

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