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普通になりたい僕にできること

僕は欠けた人間だ。
周りと同じ「普通」が僕にはどうも難しく、皆が足並み揃えて歩むとき、僕はいつも一歩遅れてスタートを切る。

特に拗らせているのが対人関係だ。
幼い頃から感情表現や自己主張が苦手で、それを求められる対人コミュニケーションはとても苦痛だった。
今でこそマシにはなったが、学校ではずっと無口だったり、お店で会計をするのに店員さんの元へ行けなかったり、実の親にすら感情や体調不良を伝えることに躊躇していた。

そういう生まれながらのコミュ障が起因して、人前で上手く喋れず孤立したり、性別や年齢などその場に合った振る舞いができなかったりとコミュニティではいつも馴染めず、そんなこんなでまともに社会に出れた試しがない。
周りに合わせることが苦手な上、そんな僕を心配する母の過保護から、僕は「自由」を追い求めるようになっていった。
小学校の習字の時間、好きな熟語を書くとなったとき書いた熟語が「自由」だったくらい、その頃から僕は自分らしく生きることに憧れていた。

そんな僕は、「性」というバイアスで縛られがちなものがとても苦しかった。
思春期という一番「性」を意識する時期、僕はクラスメイトから性別らしからぬ声や仕草を馬鹿にされたり、自分の性別とは逆のトイレに押し込まれたりという意地悪をされた。
どちらにもなりきれない僕は、どちらでもない性に憧れるようになった。

そういう人間が大体行き着くものが「性適合手術」で、僕も早くこの体をどうにかしたくて手術費のためにバイトを始めた。
もはや手術することが人生の全てであり、手術していない自分の体なんて最大の恥で一番のコンプレックスだった。


しかし小学校中学校フリースクール通信高校全て逃げて中卒となった僕がバイトなんてできるはずなかった。しかも飲食バイト二つの掛け持ちだ。
集団行動を伴う上で「普通」が求められる社会は「自由」とはかけ離れた、僕にとって一番の拘束だ。
不登校時代のように、バイト前は不安でいっぱいで体が重く、泣きながら準備をしているうちにやはりポツポツと遅刻や当欠が増えていった。

片方のバイト先のオーナーさんにその事を伝えると「休んだ方がいい」と除籍を進められた。
手術費のことや今まで逃げてきた自分を考えると休めなかったが、オーナーさんからやんわりと「迷惑がかかっている」ことを伝えられ、僕は休むことにした。

当時の母へのメール

今まで散々「迷惑」をかけてきた僕は迷惑をかけることがトラウマだったので「迷惑がかからない方」を優先した。

しかしこうなってしまったのも自分の甘ったれた根性のせいだ。
僕はその日から「強くなること」に執着して行った。
そして自分の弱さ、できないことを見つめるたび、周りの人ができている「普通」を求めるようになった。


・・・


仕事なんて大抵の人間が「つらい」「行きたくない」と思いながら行ってるもんだ。僕はその「つらい」という段階で行けなくなってしまう。

SNSで仕事を頑張って体調不良を起こし弱音を吐き、みんなから慰められてる人を見ては、自分の弱さが後ろめたかった。
その人達はボロボロになるまで頑張ってるのに、自分はこの程度のストレスに打ち負かされ嘆いているなんて。

大して傷ついてない自分は全然頑張ってないのに逃げた甘ったれで、甘える資格なんてないのに弱い自分を表に出すのがダサくて恥ずかしくて気持ち悪かった。
同時に努力を認められる人達が、慰められる人達が羨ましくて、そんな身の丈に合わない醜い嫉妬や「慰められるほど頑張ってない弱いだけの自分」を誤魔化すために強がるしかなかった。

病院で診断を受けてから、コミュニケーションや社会など「できない」に目を向けるたび「障害」とか「病気」に行き着いてしまう自分も嫌だった。
SNSで見かける「病気を名乗ることで同情を稼ぐ人間」にはなりたくないし、世間や身内からの「障害者だから甘えられていいな」という声を聞くたび申し訳なくて、実際それで散々迷惑をかけてきた自分が不幸を名乗る資格なんてないからだ。
いつからか、僕はハンデなんてない「普通」を名乗ることで、知らないうちに誰かの加害者になることから身を守った。
でも、そんな「普通」や「強さ」に執着するたび僕の「変」や「弱さ」はどんどん拗れて剥がれて、隠すほど表に露呈した。


・・・


周りと明らかに劣っている自分や、手術費のことを考えて焦った僕は、市販の風邪薬を使って「ドーピング」することでギリギリ「普通」に足並み揃えるような最低野郎だった。

しかしそういうものは、体制がつくことに反比例して副作用はどんどん強くなっていく。
僕は代用品として医者に強い精神薬を出すように泣きついたが、当然患者の判断で出されるものではなかった。
そしてその精神薬も「他の頑張ってる人」には出されてるもので「自分はコレを出されるほど限界まで頑張ってない」という気が更に僕を追い込んだ。

そうやって自分に鞭を打つ日々を送るうちに、僕はどんどん弱ってしまい、とうとうもう一つのバイトも休むことになってしまった。

当時の母とのやり取り

悔しい思いをするたび、こうやってとりあえず母にぶつけて甘えていた。
自分の今後やるべき判断をずっと母に任せて生きてきたから、わからなくなったとき、できないことは全て母に話して判断して貰っていた。

だからこそ反抗して無理に掛け持ちしたり、反対されていたバイトをやったりしては怒られ、そして失敗して泣いて帰ってきては「ほら無理だったでしょ」と言われてしまう自分の無力さがもどかしかった。
母にとっては僕が失敗することなんてわかりきっていて、今までも失敗してばかりだから期待すらされなくて、やりたいこと進みたい道全てできない前提で話されることが悲しかったけど、僕もずっと学ばなくて、できないのは事実なんだ。


だから僕が泣くたび、母のことも泣かせてしまった。
僕はなんて親不孝者なんだろう。僕はいつできるようになって、期待して貰えて、褒めて貰えるだろう。

それでも母はいつも僕を心配して慰めてくれる。

「ママなんて失敗だらけなんだから」
「ママみたいになっちゃうよ」

そう言って僕の髪を引っ掛けるささくれだらけの母の手は、ゴツゴツ骨ばっていて温かい「頑張ってる人の手」だった。

僕が4歳くらいのときから女手一つで二人の子を養う母の仕事は介護士だ。
ただでさえ休みなんて少ないのに、4日連続夜勤なんて当たり前、他人の糞尿と罵声暴力を浴びるような、体力的にも精神的にもたかが飲食バイトとは比べ物にならない仕事だ。


僕が泣くたび、母は自分が泣いてきたこと、失敗してきたことを話す。

自分がうつ病だったこと
離婚したばかりの頃は生活保護を貰っていたこと
自分も散々面接に落ちてきたこと
自分も散々仕事に失敗して怒られてきたこと
そうして仕事を転々としてきたこと

だからこそ、似たような僕を一番に心配して過保護になってしまうのだろうが、それでも僕は母が失敗だらけのダメ人間だとは思わない。

僕がすぐ学校やバイトに行けなくなってしまうのに対して、母は何時間何連勤と働き続けて僕達を食わせてやってるからだ。
僕が皿洗いやちょっとした料理すらできないのに対して、母は仕事帰りの疲れきった体で毎日晩御飯を作ってくれるからだ。

そんな母の温かい手は、とてもダメ人間のものとは思えないのだ。

母はよく僕の手を「白くて細い綺麗な手だねぇ、蚕ちゃんはハンドモデルになれるねぇ」とニコニコ褒めてくれる。そして自分の手と比べては「ママなんてゴツゴツ、指の太さが全然違うね」なんて笑う。
母の言う通り、僕はささくれ一つなく日焼けすらしてない何の苦労も知らない手をしていた。せいぜい、白くぷっくりとした惨めな線が数本手首に残っているくらいだ。

ダメ人間とは、僕のことを言うのだ。
同じように手を比べても、同じ失敗だらけでも、恥と貶したのは母と正反対の方だった。

・・・


復帰までの二週間はなるべき姿と今の自分を整理し、インターネット上でのキャラを安定させる時間に使うことにした。

ネット上の自分が安定してないとリアルに影響を及ぼす程リアルよりネットで生きてきた僕は、リアルを安定させるにはネット上の自分を先に安定させないといけないという、今までリアルから逃げてきたツケが、更にリアルから逃げる羽目になってしまうような負のループを断ち切らなければならなかった。
本当にしょうもない人生だ。

しかし、今の僕は自分の弱さに目を向け理想を追い求めるあまり情報処理能力が劣ってしまったことでバイトを休む羽目になったのだ。
復帰のために休む原因となったものに目を向けるなんて、こんな状態では安定以前に整理すらままならない。

それでもやらねば気が済まないので、手をつけてはみたがやはり作業は上手く進まず、あっという間に休みを消化してしまった。

・・・


休日も終わる頃、月に二回通院している病院の日、僕は待合室で項垂れていた。

帰りにシフトを確認しに行こうと母から提案を受けたとき、今まで曖昧に過ごしてきた甘い時間が嘘みたいに目覚め、急激にバイト前の不安感がドクドク押し寄せてきて鮮明なリアルに襲われた。



また憂鬱を殺して体を起こさなきゃいけない日々がやってくる散々迷惑かけてどんな顔して復帰すればきっとまた行けなくなるこんなに休んでどうして良くならないのみんなできてることなのに僕だけ逃げてる大した苦労もしてないくせに甘えてるだけだズルいなんでこんなこともできないの僕ずっと頑張れてない弱いのもきっと言い訳だみんなも呆れてるだから誰もいなくなる今までの事も我儘で迷惑なだけ変なんだよ気持ち悪いこの先どうしよう大人になるまで貯金間に合わない手術どころか一人で生活することもできないんじゃずっと社会に出れず一人でこんな風に生きてくのやっぱり死んだほうがよかった自殺しようかなもう生きれない生きたくない夢もきっと叶わないんだどうしよう怖い


そんなことをぐるぐる考えてるうちに時間は過ぎ、いつものカウンセラーの先生がやってきた。

「また余計なことを言ってしまっただろうか」と心配する母を置いて、僕は涙と鼻水でぐしゃぐしゃのまま先生とカウンセリングルームに向かった。


・・・


先生は「つらかったら無理に話さなくても大丈夫」と言ってくれたが、落ち着くよりも今後の不安を解決したかったため、息を詰まらせながらも僕はカウンセリングを始めることにした。

前回のカウンセリングでは、自分の弱い部分を無くそうと頑張るつもりがかえって悪化し、もう一つのバイトも行けなくなってしまったことを話していたので、今回はその休みの期間にしていたことや今後のことを話した。

そしてぽつりぽつりと、抱えるだけの己の弱さを全て零した。


「何で普通のことができないんだろう」


一番重く伸し掛る十字架をそう嘆く僕のしゃくり声だけが部屋に響き渡り、より一層悔しさやら情けなさやらが込み上げた。

大きな問題もないのに学校もバイトも同じように体調不良や強烈な不安感から動けず行けなくなってしまい、まともに社会に出れた試しがないことを聞いた先生は「それでも面接を受けたりこうやって病院に来れる犬井さんは社会に出れないわけじゃない、学校やバイトに限った問題じゃないはず」と他の原因を尋ねた。


確かに僕は人と遊ぶ予定にも憂鬱になってしまい、準備に遅れ遅刻をしたり恋人とのデートをドタキャンしたりと、社会に限った話ではなかった。

しかし、先生が行ったように病院に行くことはできるので「外に出ること」や「行かなければならない予定」が問題ではないようだ。それに病院も同じ外の場、人と話す社会の場である。

学校やバイトなどは僕の不得意なものだらけで楽しくないし「拘束されるもの」という認識が強いから憂鬱になるのはわかる。
しかし、遊びの予定は好きな人との時間であり、遊ぶこと自体が嫌なわけではないし、実際遊んでる時間は楽しいものだ。

では何が憂鬱なのかと考えたとき「準備の時間」がまず浮かんだ。

社会も同じく準備に起きるまでが一番気力を使うが、身だしなみは最低限で済むのに対し、好きな人に会うとなるとそれなりに身だしなみを整える必要がある。

次に「拘束されること」拘束自体は社会の方が苦痛であるが、冒頭で語ったように僕は対人関係が得意ではない。

それに僕と遊んでくれる唯一の友達は学校時代の友達だ。昔ほど口下手ではなくとも、学校での僕は無口だったために「大人しい真面目な子」という印象がついてしまったため、今更素の自分を出そうにも出せない。

そう考えてみると、病院は身だしなみも最低限で済むし、人と話すと言っても殆ど自分の話だし、何より「社会の場で一番隠す必要があるもの」を診てもらう場なので「仕事をするための気合い」や「この人と関わるときの人格」を用意する必要もない。


とは言え、理由がわかったところで対処ができなければ意味がない。というか、みんなができることが僕にはできない原因が未だ不明のままだ。

仕事なんてみんな行きたくないもので、みんなつらいと思いながら行っている。同じつらさを抱えているのに、何故僕は行けなくなってしまうのか。

そんな問いに先生は「確かに仕事なんてみんな面倒に思いながらやっている」と笑い「でも、みんな勤務時間の全てに100%気力を注いでいる訳じゃない」と答えた。

しかしそれは僕も同じで、だからこそできないことが不甲斐ないという返しに、今度はこう答えた。


「犬井さんはお皿洗いのバイトが『単純作業で簡単な業務なのに何故できないのか』と言っていました。確かに調理やホールに比べれば楽な仕事かもしれませんが、4時間も5時間もずっと立ちっぱなしでお皿を洗い続けるのは私もしんどいし、少なくとも私は絶対できません。
自分に合う仕事は人によって違うもので、その得意の範囲も限界までの範囲も違います。
どんな業務でも熟せる人もいれば、私のようにこうやって人の話を聞くことしかできない人もいます。だから心理士は私にとって一番楽な仕事なんです。」


「得意も限界も人それぞれ」

それは、小学校の道徳の授業で習うような、誰しもがわかりきってる当たり前で、実際他の人に同じ相談をしたときも「犬井には合ってないのでは」と同じ答えが返ってきたのだ。

しかし、僕はずっと学校や対人関係などの「社会」という「みんなが"当たり前"にできること」ができなくて、そんな当たり前ができないのは全て自分の努力不足であり「逃げてきた」「甘えてるだけ」という認識が強く、バイトだって殆どの人がどんな職でも大体行けてるものだから「その職が合わなかっただけ」なんて思えず、バイトという同じ「社会」自体から逃げているのだとばかり思い込んでいた。

多数派か少数派なだけで、そんな"当たり前"の中にも「人それぞれ」が細かく存在するなんて、それこそ当然の事実のようでも、僕にとっては目から鱗が落ちるような答えだった。


他の人にも同じ相談をして、同じ答えが返ってきたのに、腑に落ちたのは先生の方だった。

何故なら他の人は、僕の「できない」を"当たり前"に熟してる方の人間だったから「こんな"当たり前"のことができないのはおかしい」という認識が、どうしても拭えなかったのだ。

嘘を吐いているとは思ってないし、相談に答えてくれたことは勿論有難いし、その人の話が駄目だった訳ではない。
ただ僕のバックボーンやら世間一般の"当たり前"を考えると「合わないだけ」というのは、原因としての信憑性がいまいち結びつかなかった。


・・・


では逆に、何故先生の話で腑に落ちたのか。

医師なんて普通の人以上の「当たり前」を熟せてるもので、そりゃ治療のために話を合わせるものだ。それに僕は綺麗事でしかない嘘や、相手のためにならないような、話を合わせるためだけのお世辞が何よりも嫌いだ。
そんな話を合わせてたとしても、先生の話をこんなに素直に受けとめられるのは、それこそ先生のバックボーンにある。


先生が僕を担当することになった初めましての頃、少しオーバーでひょうきんな話し方の先生を「変わった先生だな」と思っていた。

病院でも学校でも、今まで出会ったカウンセラーは大体物腰が柔らかいだけで、話すこともみんな同じような、ただ治療を進めたいだけの薄っぺらい親切を述べ、どんな感情も行動も全て「治すべきもの」として否定される。
だから先生のようなカウンセラーは初めてで珍しいものであった。

そんな先生のオーバーリアクションが、他のカウンセラーと違って薄っぺらく見えないのは、僕の行動全てを「治すべきもの」として否定することがないからだった。

先生は、僕の意思を個人の感情として第一に尊重して、その上に「心理士目線の話」を乗せるような、とても丁寧なカウンセリングをする。
そして、僕が傷つかないような言葉遣いを心がけて、少し現実的な話をする際は「少し嫌な話かもしれないけど」と理ってから話を進める。


そんな心理士としての先生が時々話す「先生という一人の人間としての話」は、僕が先生を心理士としても「一人の人間」としても信頼する理由の一つだ。
先生は治療のための「心理士としての知識からの話」だけでなく、個人的な自分の経験や感情を語るような、先生らしくない先生だった。

自分も意見するのが怖くて人に合わせてばかりで、友達に初めて本心や要求を話すとき、震えながらボロボロに涙を流して話をしたこと。
そんな自分だからこそ、人の話を聞くのが一番楽であること。

「私は人の話を聞くことしかできないから」

自分のことを話すとき、先生が一番よく言う台詞だった。だからこれは本心であり、ずっと自分に感じてきたものなんだろう。
そんな先生という一人の人間性が垣間見えることが、この人の言葉を心から信用して良いのだと思える理由だ。

僕がどうしてもできないものが、先生にとってはそれしかできないものであること。
先生の放つ「人それぞれの当たり前」で、僕はようやく「合わないだけ」を理解したのだ。


・・・


そして僕が「合わないだけ」ということを、更にもう一歩信用するために、先生はもう一つ僕の呪いを解いてくれた。


「犬井さんはよく『逃げてる自分が情けない』と言いますが、私には全く逃げてるように見えません。こんなに真っ直ぐ立ち向かって体当たりする人他にいない、見たことない。」


カウンセラーとは、親にも見せないような痛々しい傷口をズル剥けにして診てもらうのだ。
人間の弱さを沢山見てきたであろう先生にこんなことを言ってもらえたとき、僕がずっと後ろめたかった「弱さ」が、届きそうもなかった「強さ」として初めて認められ、ようやく許されたような気がした。

前も先生は、僕のこんな泥臭さを「貴方って本当に素敵な人」と笑ってくれた。
独り言のように呟いていたそれは僕の密かな宝物で、不意に思い出しては誇りに思っている。

そんな先生が言うのなら、僕も「得意」を見つけて、それで夢を叶えるためにも、もう少し頑張って探してみようと思った。


・・・


口上でのお喋りが難しい僕は、幼い頃から身内にすら自分の気持ちを上手く伝えることが出来ず、モジモジしてるうちに怒鳴られ、更に萎縮してはメソメソ一人で泣いていた。

その代わり、文章に書き起すことやイラストや歌に表現することが得意で大好きだった僕は、いつも一人でお絵描きや小説を書いていて、国語や図工の作品では賞をとることが多く、学校では一番をとっていた。

そして、大人しい分誰よりも感情に敏感で潔癖だった。
上手く言葉にできなくて、気持ちを汲んで貰えなかった自分を重ねてしまうから、理不尽なことで泣いている人の痛みを思うと苦しかった。
苦しかったから、そんな思いをして欲しくないんだ。

そして、そんな無力な自分だったから、人の役に立てる存在になりたかったのだ。

「誰か」という「自分」を一番救いたかった。

だから、そんな僕にできること、これが僕の唯一の希望なんだ。

先生が僕にくれた言葉を紡いで、同じように悩んで頑張ってる人に届けたいな。
当たり前にも「できない」があること、そんな自分にもきっと何か「得意」があること。
僕の活動が、言葉が、汲み取れなかった誰かの感情を刺して、それで少し救われたらいい。

僕の「得意」が、いつか糧になるのかな。


自分が救われたとしても僕は、やはり幼い頃から変わらない夢を掲げた。

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