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随筆(2020/9/18):「ダメな対等気取り」はなぜ起きるか

0.雑談

(画像の会社をダメと言うつもりはない。少なくとも90年代はちゃんと楽しませてもらったからね)

1.「厚遇」を期待する向きには、「対等な扱い」は、「ダメな対等気取り」に見える

相手を自分と同等に扱うことで、人間扱いとする。
これは多くの人に、人間関係の基本と思われていることだろう。

だが、そんなことは全くない。
むしろ、これをすると怒る人がいる。
「もっと厚遇されるべきなのに、そうされていない」
という。

2.その「厚遇」は、仲間じゃない祟り神に対する、腫れ物に触るような態度ではないだろうか。だったら仲間扱いなんかされる訳がないぞ

「は?

対等に扱われていないということは、ナメられているということだし、いざとなったら粗略に扱われるし、何されても文句言えないというか、文句言っても鼻で笑われるということだろうが。

特に厚遇気を付けなきゃならんところだろうが。
一時的短期的なお客様には出来るが、中長期的な仲間には出来ないような、『お祓い』としての『接待』がある訳だ。
これは、本質的に、

お客様は神様です。

同じ人間であるという保証はない。
というか、人というより、実質的には面倒事概念存在、即ち『祟り神』として振る舞うことがざらにある。
これは、現に、よくあることだろう?

とはいえ、なまじこれを安易に追い出したりぶっ殺したりすると、祟り神の眷属に報復を食らうかもしれない。
そう思うと、追い出したりぶっ殺したりするのもおっかない。祟りとは、不安であり、リスクだ。それを感じる。

祟り神相手におもてなしによる懐柔効くかどうかも分からん。
が、人の皮を被っている相手に、それが効くというのなら、それは大きなリスク管理であろう』

という、だいぶ絶望的で、しかも失礼な話が、どうしても避けられない。

中長期的な仲間になったら、その厚遇

同じ人間相手に、腫れ物に触るように祟り神扱いをしているのと同じであり、要するに侮辱である』

から、やれねえんだよ。

仲間ということをやっているのなら、腫れ物に触っているかどうかってのは、ふつう分かるやつじゃん。
もしこれになっているのなら、本当の意味では仲間になれていないということだから、こうなっていたらマズイ。というの、ふつう社交や処世をやると、かなり大きな問題になってくるやろがい。
そんなことも分からん? 祟り神に困ったことがない? ええ?
自分が祟り神として腫れ物に触るがごとく扱われてきたから、分かんねえタイプのあれなのかな? 困っちゃうなあ」

みたいなことは、実際思う。

3.対等をやる前に済ませておかねばならないこと

そもそも、そういう対等をやるには、仲間でなきゃならん訳だ。
仲間でないところから対等な関係をやろうとすると、腫れ物に触るような対等な関係になってしまう。
「それでよい、麗しい在り方ではないか。これこそが歓待というやつである」
という人もいるのかも知れないが、おそらくそれでは、社交も処世も、上っ面でしか過ごせなくなるだろう。
(俺はそれでいいが、それでは困る人、たくさんいそうだということくらいは分かる。
特に、パートナーシップの場合は、腫れ物に触るようなパートナーシップ、かなり厳しい気持ちになってくるだろう。
お見合いで時々生じる、腫れ物に触るような距離感、実に嫌なものです)

仲間をやれるほどの初歩的なレベルの処世や、
キラキラとした魅力や、
献身報恩がないのに、
対等な扱いをするの、順番が間違っている。

対等な扱いは、人間関係後で効いてくるところで、上の色々をすっ飛ばして、直ちに効いてくるものではない。
「何でこれが直ちに効かないんだ」
と言われても困る。もっと先にやることがあるはずだ。
処世や魅力や献身や報恩をしましょう。やっていきましょう。

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