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随筆(2022/10/19):アノミー的煩悩とガウタマ・シッダールタ(という思いつき)_2.「都市商業→煩悩のアノミー→仏教の支持」仮説

2.「都市商業→煩悩のアノミー→仏教の支持」仮説

2.1.デュルケーム『自殺論』におけるアノミー概念

前回は、仏教主題である煩悩と、仏教のインドにおける主たる支持層である都市商人に、切実な関係があったのではないか。という話をしました。
今回はさらに、この関係から連想されることについて書きます。

何か。

***

社会学古典の一つに、デュルケーム『自殺論』という本があります。

19世紀後半ヨーロッパは工業化と植民地争奪競争の時代であり、また実は自殺率の急上昇が社会問題となっていました。

しばしば、この理由を個々人の貧困や精神疾患に帰してしまいそうになることがあります。

だが、社会学者デュルケームは、
「むしろ、社会問題については、社会的事実を統計で洗ってから実態を見よう」
「個々人の実践の理由は、しばしば個々人にあるのではなく、人的環境としての社会からの影響によるところもある。それに着目しよう」
「このような社会学的な姿勢は、極端にパーソナルに見える自殺においてすら適用しうる」

という姿勢で、非常に人々の耳目を集める本、『自殺論』を書きました。
(確かに注目される刺激的な題材ではあります)

どういうことか?

『自殺論』は、何の予備知識もないと、題名からなんか「個々人の内面」の話のように見えます。
が、むしろこれは
「個々人の内面の源流(の一つ)として、何らかの人的環境を想定し、ここから個々人の内面がどう影響を受けるか」
の話をしている、という、実はかなり意外な印象を受ける内容の本である。ということです。
(意外だと思って下さると幸いです。
私がこれを知ったのは、かなり遅く、再就職の際の公務員試験のさなかでした。
が、私の大学生時代の関心が、社会学の通史に向いておらず、その意味では予備知識はなかったのです。
そのため、『自殺論』の内実については、かなり意外な印象を受けました。
「えっそんな本なの!? 自殺の話って個々人の内面で完結しないんだ!?」
という感じです。)

***

『自殺論』では、自殺には3類型1仮説的類型があります。

  • 利他的自殺(集団本位的自殺)

この本の調査では、一般人よりも軍人のほうが自殺率が高く、軍隊内では工兵や後方支援部隊の兵士よりも戦闘部隊の兵士のほうが自殺率が高いというデータが得られました。
そこからデュルケームは、自殺の1類型として『利他的自殺』を考え、そのメカニズムとして以下のような仮説を立てました。

古い社会や、その延長戦上にある軍隊では、献身自己犠牲が強調されるため、人々はその社会的な価値観のために死ぬ動機があります。
仲間の名誉のために自害したり、主君のために殉死したり、勝つために死地で大暴れして果てたり、負けないために最終防衛線を死守して命を落としたりした人たち。
彼らの行為は、「立派」であり、仲間や共同体にとっては大きな貢献であったのです。

何なら今ですらかなり理解可能な話です。
シリアスに仲間を侮辱されてでも自分だけは逃げ切ろうとする人や、場に対して全体最適的政治的責任を果たす立場の上位者たちにシリアスな敬意を払えない人や、死のリスクのあるシリアスな場から逃げ切ろうとする人は、今でも敬意をもって遇されません。というより、許しがたく感じる人もかなりいるでしょう。

ただ、「利他的」というと、つい我々の感覚では「他人に何かあげたりする」というニュアンスを感じてしまいがちで、メカニズムとして説明されている「人的環境に貢献するため」というニュアンスがいまいち備わってないので、言葉のチョイスにちょっと違和感があるかもしれません。
実際にこの本で意図されていることはこの通りであるので、間違えないようにしてください。

  • 利己的自殺(自己本位的自殺)

この本の調査では、農村よりも都市、既婚者よりも未婚者の自殺率が高いなどと言ったように、個人の孤立を招きやすい環境において自殺率が高まるというデータも得られました。
(宗教別の自殺率の高低差も検討されたのですが、こちらは「データを精査したら、この本の主張するほどには、影響は出ていないではないか」という批判があったとのことです。)

この本でのメカニズムの説明としては、個人と集団との結びつきが弱まることによって、過度の孤独感や焦燥感などにより、この種の自殺が増えるとのことです。また、個人主義の拡大に伴って増大してきたものと考えています。

これも、「利己的」とか「自己本位的」言葉のチョイスに違和感があります。
これらの言い方だと「死にたくて死んだ」というニュアンスを感じます。
メカニズムの説明からは「人的環境から孤立した」という意味合いであり、これは「死にたくて死んだ」という印象とはかけ離れています。
実際にこの本で意図されていることはこの通りであるので、間違えないようにしてください。

  • アノミー的自殺

さて、後で重要になってくる、『アノミー』の話をします。

直感に反しますが、この本の調査では、不況期よりも好景気のほうが自殺率が高まるというデータも得られました。
(こういうことがあるから、統計を取ってデータを分析しなければならない訳です。
直感的に論じていたら、この社会的事実は、社会的事実であるにもかかわらず、まず認識すらされなかったでしょう。)

つまり、どう考えても貧困とは別の理由で起きているとしか考えられない、何らかの自殺類型がある訳です。
この本でのメカニズムの説明として、『アノミー』の概念が持ち出されます。

『アノミー』とは、

社会の規範が弛緩・崩壊することなどによる、無規範状態や無規則状態

wikipedia:アノミー

を指します。

これがどう、類型となるほどのまとまった人数の自殺にかかわってくるのか? と訊きたくなるかもしれません。
この本の説明は、こうです。

集団・社会の規範が緩み、より多くの自由が獲得された結果、膨れ上がる自分の欲望を果てしなく追求し続けることになります。
そして、それはしばしば、実現できません。
そうなると、その幻滅は、大きな無意味無価値の感覚、虚無感をもたらし、これが人を自殺へ至らしめるのです。
「あれができないくらいなら、生きている甲斐がないではないか」
という理由で死ぬ人の話をしているように聞こえます。

「大正・昭和時代の日本の猟奇小説の話か?」
とピンと来る人がいるかもしれません。
個人的にもその辺と同様の文脈であるようにも見えます。

この本の中でも、ここは特に独自性が強く、画期的なところです。

  • 宿命的自殺

これは理論上のもので、データが得られなかった仮説的類型です。

集団・社会の規範による拘束力が非常に強く、個人の欲求を過度に抑圧することで起こる自殺の形態

wikipedia:エミール・デュルケーム

だそうです。

デュルケーム自身は、この自殺類型に関して具体的な事例を挙げていないが、宮島喬は身分の違いによって道ならぬ恋を成就できずに自殺へ至る「心中」がこれに該当するものとしている。

wikipedia:エミール・デュルケーム

「江戸元禄時代の日本の心中物の話か?」
とピンと来る人がいるかもしれません。
個人的にもその辺と同様の文脈であるようにも見えます。

2.2.「都市商業→煩悩のアノミー→仏教の支持」仮説

さて、私はアノミーでピンときたのです。
当時のインドの、特に都市部の、第三身分・商工市民階級(ヴァイシャ)においては、正にブルジョアジーめいてアノミー的状態があったのではないか。
その帰結として、都市の裕福な商人たちの欲望も肥大化したのではないか。
そして、場合によっては幻滅し、虚無感も持っていたのではないか。
そして、そういう時こそ、仏教がたいへん魅力的に映り、だからこそ彼らに支持されたのではないか。

***

初期仏教はだいたい紀元前5世紀頃のものですが、それまでのインドの歴史を見ることで、いろいろ見えてくるものがあります。

後期ヴェーダ時代とガンジス文明
十六大国
詳細は「十六大国」を参照
紀元前1000年頃より、バラタ族はガンジス川流域へと移動した。そして、この地に定着して本格的な農耕社会を形成した。農耕技術の発展と余剰生産物の発生にともない、徐々に商工業の発展も見られるようになり、諸勢力が台頭して十六大国が興亡を繰り広げる時代へと突入した。『マハーバーラタ』によると、紀元前950年頃にクル族の子孫であるカウラヴァ王家が内部分裂し、クルクシェートラの戦い(英語版)でパンチャーラ国に敗北して衰退していった。こうした中で、祭司階級であるバラモンがその絶対的地位を失い、戦争や商工業に深く関わるクシャトリヤ・ヴァイシャの社会的な地位上昇がもたらされた。十六大国のうち、とりわけマガダ国とコーサラ国が二大勢力として強勢であった。十六大国のひとつに数えられたガンダーラは、紀元前6世紀後半にアケメネス朝のダレイオス1世のインド遠征 (en:Iranian invasion of Indus Valley) によって支配されるようになり、他のインドの国々から切り離されアフガニスタンの歴史を歩み始めることになった。
ウパニシャッド哲学と新宗教
詳細は「ウパニシャッド」、「仏教」、「ジャイナ教」、「枢軸時代」、および「六師外道」を参照
紀元前5世紀になると、4大ヴェーダが完成し、バラモン教が宗教として完成した。ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中でバラモンが凋落すると、それに代わりクシャトリヤやヴァイシャが勢力を伸ばすようになった。こうした変化を背景にウパニシャッド哲学がおこり、その影響下にマハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)によってジャイナ教が、マッカリ・ゴーサーラによってアージーヴィカ教が、釈迦(シャカ、ガウタマ・シッダールタ)によって初期仏教が、それぞれ創始され当時のインド四大宗教はほぼ同時期にそろって誕生し、「六師外道」とも呼称された自由思想家たちが活躍した。

wikipedia:インドの歴史

民族移動
→大河川流域定着
→農耕
→農耕技術発展
→余剰生産物発生
→商工業発展

および

古代の宗教権威の優位性
→戦乱による軍事力の優位性

という(ある種理解しやすい)経緯同士の合わせ技があり、第二身分・戦士階級(クシャトリヤ)、および第三身分・商工市民階級(ヴァイシャ)の社会的な地位上昇がもたらされた。という流れが見えます。

***

インドの都市の裕福な商人が、自殺したり猟奇殺人を行ったりという、実践レベルに踏み込んだことをしたかどうかは存じません。
が、都市の裕福な商人が煩悩に悩まされており、煩悩の解法を提示する仏教の支持層であったことについては、
「アノミーだ。前提条件も合致する」
という納得があったものです。

2.3.アノミーによる社会体制変動と、クシャトリヤの新宗教家としての釈迦

また、アノミーのもう一つの顕れ方の話もします。

仏教の開祖、ガウタマ・シッダールタは、シャーキヤ(釈迦)国のラージャ(豪族)の長子でした。(以下、ふつうに釈迦と呼ぶこととします。)
釈迦は、圧倒的に偉そうな第一身分・司祭階級(ブラフミン)ではないが、やはり箔のある第二身分・戦士階級(クシャトリヤ)のしかも王子であり、当時の社会に新風を起こす新宗教家でもあり、様々な経緯により大国の王族たちにも顔が効く。
ということで、当時のヴァイシャにとっては、釈迦

  • 教義が煩悩の解消という自分たちのニーズに合致しており、

  • 政治家ではないが各国への一定の影響力を有する、

  • 社会的にも分かりやすく格が高いクシャトリヤの、

  • ブラフミン体制に風穴を開けてくれそうな有力な新宗教家

として受け入れられていた側面もあるのかもしれません。

(続く)

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