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邦人作曲家シリーズvol.2:平義久(text:小沼純一)

邦人作曲家シリーズとは
タワーレコードが日本に上陸したのが、1979年。米国タワーレコードの一事業部として輸入盤を取り扱っていました。アメリカ本国には、「PULSE!」というフリーマガジンがあり、日本にも「bounce」がありました。日本のタワーレコードがクラシック商品を取り扱うことになり、生れたのが「musée」です。1996年のことです。すでに店頭には、現代音楽、実験音楽、エレクトロ、アンビエント、サウンドアートなどなどの作家の作品を集めて陳列するコーナーがありました。CDや本は、作家名順に並べられていましたが、必ず、誰かにとって??となる名前がありました。そこで「musée」の誌上に、作家を紹介して、あらゆる名前の秘密を解き明かせずとも、どのような音楽を作っているアーティストの作品、CDが並べられているのか、その手がかりとなる連載を始めました。それがきっかけで始まった「邦人作曲家シリーズ」です。いまではすっかりその制作スタイルや、制作の現場が変わったアーティストもいらっしゃいますが、あらためてこの日本における音楽制作のパースペクティブを再考するためにも、アーカイブを公開することに一定の意味があると考えました。ご理解、ご協力いただきましたすべてのアーティストに感謝いたします。
*1997年5月(musée vol.7)~2001年7月(musée vol.32)に掲載されたものを転載

フォンテックから『平義久オ-ケストラ作品集』が発売になったのが1997年4月25日。ちょうどパリからご帰国されたタイミングでのインタヴューとなりました。平義久さんは1937年東京に生まれ、東京藝術大学を卒業後、フランス・パリ音楽院でアンリ・デュティユー、アンドレ・ジョリヴェ、オリヴィエ・メシアンらに作曲を学ばれ、その後もパリで生涯を過ごされました。エコール・ノルマル音楽院の作曲科教授として多くの後進を育てられ、2005年3月15日、肺炎のためパリでお亡くなりになりました。

平義久インタヴュー

text:小沼純一
*musée 1997年7月20日(#8)掲載

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平義久氏の作品を聴いたのは、もう15〜20年くらい前になる。N響の定期で演奏されたものが放送されたのだったが、そのひじょうに繊細でありながら、ヴァイタルな、それも瞬発的にではなく、持続的にヴァイタルなひびきを聴きながら、当時ぼくは、日本人でこういう音楽が書けるひとがいるんだと、妙に励まされるような気になったものだ。今回平氏が少し長めの帰国をされ、オーケストラ作品のCDが国内盤としてリリースされるのを知ったとき、ぜひ一度お話をうかがってみたいと思ったのは、やはり十代の頃のおもいが深かったことによる。

***

ーあまり日本に戻られていないということですが?

平(以下T)「30年のあいだに7回しか帰国していませんね。初めて行って戻ってきたのが8年ぶり、その後3年、4年、7年とけっこう不規則です。帰ってくるとこの国は全然変わっちゃってて、もうひとつ別の外国を訪れているみたいですね。でもそれがまた楽しくもあります。日本が変わったかどうか? そう、町並みはきれいになりましたね。音楽の状況は……わからないな、僕には。あと、僕のうちは大家族なんですが、ときどき言葉がわからない(笑)。言われている語彙は同じなんだけど、どうもすこしニュアンスがちがうようで。「切れてる」なんて言うでしょ、ああいうのはなかなかむずかしい(笑)。」

ーなぜ「フランス」にいらっしゃったんですか?

T:「16歳のときにはじめてドビュッシーを聴いたんです。それまでは普通の人と変わらず、バッハやモーツァルト、シューマンなんかに触れていたわけです。で、ドビュッシーを聴いたとき、びっくりしましたね。その後でラヴェル、フォーレを知るわけですが、フランスの音楽に惹かれたわけですよ。

 それでやはり最初からフランスに行こうと思った。最初芸大を受けたけれども失敗して、それから経済的な理由でジャズを弾いたりしていました。でもやっぱり、ということで芸大に入って、池内さんに習い、先日講演をした日仏学院でフランス語を勉強して、渡仏しました。

行った年から、ちょうどジョリヴェが先生になったんです。それで師事した。最初のレッスンのときに、賞を獲ることを目的とするような作品に私は興味がない、作曲家にとって大切なのは個性と発明性なんだと教えられたわけです。これは意義深かったですね。自分のやりたいことが出来たと言っていい。

 やはりその頃から、学校のシステムも変わってきました。ご存じのとおり、それまでは毎年コンクールをやっていたわけです。作曲でも演奏でも。それが僕の頃から改革があって、試行錯誤で年間何回かコンサートをやるということになった。コンクールのために作品を提出する、そして先生のおめがねに叶う作品が賞に選ばれるというふうだったわけです、それまでは。それが、実際に音をだしてみる、ということになった。」

ー学んだ後にもフランスにいらっしゃったのは、どうしてですか?

T:「フランスにとどまろうか、日本に帰ろうか二者択一を迫られているときに、委嘱がいろいろとでてきはじめたんです。それを次々とやっているうちに、いつのまにか時間が経ってしまった。」

ー平さんの作品がフランスで受け入れられたのは、ご自分では、どういうところからなのだと思われていますか?

T:「さっきも申し上げたとおり、ジョリヴェについていたので、コンクールなどを気にせずに作曲が出来たというのがひとつ。それから、68年に文楽がフランスに来たんです。僕は日本の伝統芸能のなかでは一番文楽が好きなんですよ。日本にいたときにも年に一回くらい、大阪から新橋演舞場——昔は、国立劇場ではなかった——でやるのを観に行っていました。だがパリで観たときのショックは大きかったですね。感動が、突き刺してくるのではなく、内側から突き破るようにして、あった。こうした自分のなかにあるものが、作品を通して表れてくると、それはフランスの聴衆に新鮮に聞こえたというのはあるかと思います。ちょうど、ブーレーズのような音楽などが一種煮詰まってしまっているようなところで、僕のような作品が出てきたことで。

 ときどき、僕のなかには二つの世界があると言われます。西洋と東洋ということですよね。でも、それは単純に境界線を引いて分けられるものではないと思うのです。渾然一体となっている。だから作品として書かれ、ひびいたときに、どう出てくるか、ですよね。平は二つの世界を幸せに結婚させてると言われたりすることもあります。」

ーぼくは、平さんの作品には、かなりヨーロッパで受け入れられるだけの厚み、ヴァイタリティというものを感じ取るのです。ソノリテはしばしば武満さんの作品に近いものがある、しかし武満さんの作品が一種植物的というか、草食動物的とでもいうか、そういう感触をもっているのに対し、平さんの作品にあるのは、肉を食ってるな、或いは、草食なんだけど、まわりじゅうが肉を食いまくっているのに伍したかたちで草食なんだ(笑)というような気がひじょうにしたのですけれども。

T:「僕はやっぱり仲間の作品を聴いていて分厚さを感じるわけです。ああ、これは自分とちがうなと思う。多分、厚みがフランス人によるとちがうらしいですね。

 僕の音楽のことを、沈黙の音楽と呼ぶひとが多いんですよ。Silence という言葉が無邪気に、無節操にとびかっていて、うるさくてしょうがない。でも、今回日本で出たアルバムには、「静寂の音楽」と訳されていて、とても嬉しかったのです。僕の音楽にあるのは、「間」の問題なんです。間が生きていれば音も生きているし、音が死んでいれば間も死んでいる。」

ーつまり、音と音との関係性のなかで浮かび上がってくるということですね、まさに、フランス語でいうentre(間)というというような。

T:「そういうことです。」

ー平さんはご自分の音楽を、ひびきのよさ、色彩感、祈りというふうに捉えていらっしゃいますが、「祈り」についてお話しくださいますか。

T:「特定の宗教ではなく、排他的にひとつのものに帰依してゆく、そんな意味ですね。」

ー「排他的に帰依してゆく」というのは、どういうことなのでしょう。つまり……ひと/生きものにとってこの「祈り」は何をもたらしてくれるのか、何が起こっているのか、ということなのですが。

T:「そう、むずかしいけれども……純化してゆくということなのではないでしょうか。ジョリヴェが僕の作品についておまえは汎神論(パンテイスト)だと言ってくれたことがあって、そういうところがオレとおまえはおなじなのだと言っていましたが。」

ー《メディタシオン》という作品は、それぞれの楽章がいくつかの火とか水、土というようなタイトルをつけられていますが、そういうところがヘラクレイトス的というかバシュラール的というか、そんなところにも汎神論性のようなものはあるのかもしれませんね。

T:「たしかにそうかもしれません。」

ーたしか講演で、自分はフランスの聴衆に育てられたとおっしゃっていたかと思いますが。

T:「ちゃんと聴いてくれる聴衆がいるということです。作品を提示したら、フィードバックがあるんです。また、反応がダイレクトなんですよ。良かったらブラヴォーだし、傍にやってきて何か言ってくれる。そういうのがあると、いま考えていることを進めていっていいんだなとわかってくるわけです。そういうところは幸福だったですね。」


 平氏は、この8月半ばにはブリス国際音楽講習会にて、6-700人という大編成のオーケストラのために新作を書き下ろし、自ら指揮されるという。また、来年1月には仙台の姉妹都市であるブルターニュのレンヌで外山雄三指揮によるパーカッション作品の演奏が、また3月にノルマンディーのカーンのフェスティヴァルで、テーマ作曲家として、新作のフルート協奏曲を初演されるという。

日本で平氏の作品が積極的にとりあげられることを、ひたすら望んで、このインタヴューを終えたのであった。

(取材協力:フォンテック)


平義久作品集 
[フォンテック FOCD3410(廃盤)]
クロモフォニー I〜VIII(1973)
#P.ストール指揮、フランス国立管弦楽団
モクシャ・ヴィモクシャ(1983)
J.メルシーナ指揮、フランス国立管弦楽団
ポリエードル(1987)
#D.コーエン指揮、フランス放送管弦楽団



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