【ショートショート】いのちの本棚。
……てください、起きて」
一人暮らしの僕は、その言葉に違和感を覚えながら目を覚ました。
ぼやけたレンズが、1人の少女を映しだす。
「あの、起きました?」
少女がどこか心配そうに尋ねてきた。
昨日は家で過ごして、いつも通りの時間に眠りについたはず。
なのにどうして今知らない少女に起きろと言われているのか、状況がまったくわからない。
黙って体をおこして、周りを見渡す。
読みかけの本が何冊も積まれたデスク。
シャツが整列しているかのようにハンガーにかけられたクローゼット。
光が差し込む窓。カーテンは開けられている。
間違いない。自分の部屋だ。
ただ目の前にいる制服姿の少女だけが、寝起きの頭を困らせる。
「誰?」
乾いた喉から、思い切って声を出す。
「私は亡霊です。あなたは明日、亡くなってしまいます。だから、せめて最期の日になにかお手伝いをさせていただけないでしょうか」
少女の口から、槍がいくつも飛んできた。あまりにも情報量が多すぎる。
「え、っと……とりあえず着替えていい?それから話を聞かせて」
少女のことを疑うことすら忘れ、着換えて、顔を洗い、2人分のお茶を入れた。
とりあえず、彼女が亡霊であること、明日自分が死んでしまうこと、少女は手伝いがしたい、ということだけ一旦理解したが、まったく現実味がわかない。
「緑茶しかないけど、いい?」
「あ、ありがとうございます」
少女も少女で戸惑っているようだ。
「で、とりあえず話を聞かせてもらおうか」
「はい」
少女曰く、少女は13歳のときに事故に遭い、亡くなってしまったが亡霊として現世に残ってしまったら、人が死ぬ日数がなんとなくだがわかるようになったらしい。
そこで、独り身の人の最期の日に現れ、自分にできることをしているそうだ。
「独り身限定なの?」
「家族がいるなら家族で過ごせるほうが幸せかなって。あと、私は小さい頃に両親が病気で亡くなっちゃって、施設で育ったから……」
少女はコップを両手で抱えながら、話を進める。
「自分は事故に遭ってすぐに助かる命じゃなくなりました。誰にも、何も伝えることができなかった。だから、独りで死んでほしくない。私は死なせたくないんです」
少女の目は熱を帯びていた。
水晶のように澄み切った強い意思を、この亡霊から感じる。
「なるほどね……だから今日僕のもとに来てくれたんだね」
「はい。あの、怖くないんですか」
「怖いっていうか、明日死にますって言われても実感がわかないしね」
「やっぱろ、そう、ですよね……」
「でも大した未練なんてないし、運命が変わらないのなら、君が今日来てくれたことをありがたく思うよ」
少女の表情が和らいだ。
冷え切った部屋の空気が和んだところで、僕は口を開いた。
「……お手伝い、お願いしてもいいかな?」
「もちろんです」
「じゃあ、ついてきてほしいところがある」
机に散らばった本をかき集めてカバンの中に入れ、上着をきて、寒空の下少女と共に歩みを進める。
「僕と同じように、明日死んでしまう独りの人たちって、どういう風に過ごしたか、聞いてもいい?」
「いいですけど……」
少女はいろいろな”最期の日”を教えてくれた。
ある人は物書きで、死ぬ前に1つ作品を書き終えたいから、1日邪魔が入らないようにしてほしいと彼女に言った。
彼女は部屋の外で黙っているだけ。
その人は、日付が変わる直前に作品と遺書を書き終えて、少女にそれらを出版社に送るように頼み亡くなった。
ちなみにその作品が世に出回ることはなかったそうだ。
ある人は、彼女のいうことを聞いて怒り、彼女を突き飛ばして家から出て行ってしまった。
それから1日中、パチンコや競馬といった賭け事の繰り返し。
結果は大負け。
後味が悪いまま息を引き取ってしまった。
ある人は、仕事に追われるビジネスマンだった。
好きなことをしてくださいと言ったものの、彼は仕事仕事と休日にもかかわらずオフィスで最期まで働き続けた。
彼女は書類の整理を淡々とこなすだけ。
ある人は、彼女を死神だといい、彼女を窓から突き落としてしまった。
彼女は亡霊なので無事だったが、その人は自分のしたことへの罪悪感を払いきれず、結局なにもせずにやるせない最期を迎えた。
ある人は、そこそこ名の知れた画家で、彼女をモデルに絵を描きたいと頼んだ。
会話もなく、1日中姿勢よく座るだけだった。
その人の死後、描いた絵は『此岸の幻覚』として小さな美術館に飾られたそうだ。
ある人は、彼女の話を聞き終えた瞬間、人が変わってしまったかのように、犯罪に手を染めた。
追われる身となり、逃げ惑う途中、次の日になり息を引き取った。
「……だいたい、こんな感じです」
曇った彼女の顔を見ると、やるせない気持ちで心が埋めつくされる。
「ありがとう。話してくれて」
「いえ、むしろ聞いてくれてありがとうございます。私の話をちゃんと聞いてくれたの、お兄さんがはじめてなので」
ここまでの扱いを受けてきても、人の最期に寄り添おうとする彼女は、背丈が二回りほど大きい自分よりも頼もしい存在に思えた。
「そういえば、君は僕以外から見えてるの?」
「いいえ、私はお兄さんにしか見えてませんよ」
土曜日の午前9時だから、人通りは少ないとはいっても、はたから見れば独り言をブツブツ言っているように見えてしまっていたことに今さら恥ずかしくなった。
「……着いたよ」
豆腐のような白い壁の小さな倉庫の前で、足を止める。
扉を開けて電気を付けると、相変わらずスカスカな本棚がずらっと並んでいる。
床は積み重なったたくさんの本で埋め尽くされていた。
「ここは?」
「過去の戸籍や歴史書が、紙媒体で保管されている。いわば”情報の墓場”ってところかな」
「”情報の墓場”……?」
「ここにある書物は僕のじいさんと父さんが生涯かけて集めてきたらしい。子供の頃から時々ここにある本を読んだりしてる。でも今や戸籍や歴史書なんてデジタルで整理すればいいからね。ここももうじき市のほうに引き取ってもらう予定なんだ。で、お願いなんだけど、今日はこの書物たちの整頓を手伝ってほしいんだ。これから先、この墓場が役に立つようにしておきたい」
思わず熱く語って少女を置いてけぼりにしてしまったので、一度気持ちを落ち着かせる。
「たいしたお願いじゃないけど、いいかな……?」
「はい。それがお兄さんの望みなら」
少女は笑顔でそう答えた。
そうして日が暮れるまで、2人で床に積み上げられた書物を本棚に戻していく。
「今までお兄さん一人で整頓してたんですか?」
「まあ暇なときにね。じいさんも父さんも整理整頓をしないから。はじめはジャンルごとに仕分けるとこからで、なかなか大変だったよ」
「そういえば寒くない?」
「亡霊になってから、寒さも暑さも感じなくなっちゃったんです」
会話をはさみながら、1つ1つをあるべき場所に供養していった。
これで何冊、本を並べただろうか、もう覚えていない。
ただ彼女が少し疲れていたようだったので、少し休憩しようというと、彼女は本棚にもたれかかって座り込んだ。
近くの自動販売機で買ってきたホットココアを彼女に渡す。
少女は指先をを温めるように、缶を包み込んだ。
「ねえ、1つ聞いてもいい?」
「なんでしょう?」
「君の未練について教えてほしいんだ。」
「未練……」
倉庫にはしばらくの沈黙が流れた。
踏み込みすぎたかな、と思ったとき、少女は口を開いた。
「……私、実は生きてた時の記憶がほとんどないんです。はっきりと覚えているのは、私が横断歩道をわたっているときに、トラックにはねられて頭をぶつけたこと。目が覚めたときには、もう亡霊になっていたから……過去の記憶がわかれば、私はいなくなれるのかもしれません」
「そっか……」
彼女の力になりたい、そう思う自分が心の中にいるけれど、もう残された時間がない。
「そろそろ帰ろうか」
「え、まだ本は残ってますよ?」
「いいんだ、もう十分手伝ってもらった。あとは市のほうに連絡だけ入れておくよ」
「そうですか……」
子供の頃から見てきた景色。最期にもう一度目に焼き付けておく。
もうだいぶ前に亡くなったじいさんと数年前に病気で亡くなった父さんの思いを多少たりともつなげることができるのなら、それで十分だと思った。
それから電気を消し、鍵を閉め、暗い町の中を悲しい顔を浮かべる1人の亡霊と共に歩いた。
ちっぽけな最後の晩餐をして、お風呂に入って、いつも通り寝る準備をしたら、時刻はもう12時に迫っていた。
「そろそろかなぁ」
小さな声でそう呟いた。
ベッドに入ると、彼女は朝と同じように、目の前にいてくれた。
彼女はまだ悲しそうにしていたけれど、目は変わらず澄んでいる。
「私、書物の整頓、続けます。時間はかかるかもしれないけれど、お兄さんの気持ち、無駄にしたくない」
「そっか。じゃあよろしくね」
12時になった。時計が発する鈍い音が、静かな部屋に響き渡る。
「最後に、君の名前を教えてよ」
「……レイ。私、レイっていいます」
今にも泣いてしまいそうな表情を浮かべた亡霊は、小さな深呼吸をして、濁りのない2つの水晶を僕に向ける。
「私、お兄さんに会えて良かったです」
「僕もだよ。今日はありがとう」
「…………」
「おやすみ」
最期に彼女にそう言った。
同時に、急激な頭と心臓の痛みに襲われる。
彼女がぼやけていく、視界が真っ暗になる。
底なしの闇に引きずり込まれていく、でも深くなるほど温かい。
痛みがカラダからすっと消えて、闇の中に溶け込んでいく。
次第に肉も、骨も、黒に蝕まれる。
これを「死」と呼ぶのなら、案外悪くないのかも……
この後、1人の亡霊がしばらくの間うなだれていたことを、誰も知ることはなかった。
……またひとつの「最期」を見た。
それから1週間。今ごろ”お兄さんだったもの”は火にかけられている頃だろう。
外の世界はあっという間に白で覆い尽くされた。
どうやら1983年以来の26年ぶりに大きな寒波が到来したらしいけれど、私には関係のない話。
今日も書物の整頓。といっても、もうすぐ終わる。
お兄さんの未練は、これで報われる。
でも、私は未練すらはっきりしないまま、また誰かの最期を知る。
床に積み重なる残り少ない書物を本棚にしまっていくたびに、やり場のない気持ちは溜まっていく。
すべてしまい終え、梯子から降りようとしたときだった。
ひとつの書類が目についた。
「交通事故記録……?」
その辞書のように分厚い紙束を取り出し、1つ1つの記録を丁寧に読み進めてみると、1つ気になる記録に目が止まった。
私の記憶そのままだ。私の記録だ。
その本を元ある場所に戻し、1970年付近の戸籍を片っ端から調べる。
すると「レイ」という名を見つけた。
お父さんとお母さんの名前。
はじめて、知った。知ることができた。
喜びを感じ取った瞬間、私の心は燃えるように突然熱くなった。
目からたくさんの涙があふれだして、止まらない。
文字がぼやけていく、視界が真っ白になる。
私、やっといなくなれる。
会いに行ける。
「ありがとう、お兄さん」
列島にしばらくの間とどまった寒波が通り過ぎた頃、市の職員が倉庫を訪れた。
かつての持ち主からは8割方整頓しておいたと伝えられていたが、実際は全ての書物が丁寧に整頓されていたそうだ。
1冊のインクがにじんだ戸籍本をのぞいては。