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月に吠える/HOWL(中)

今日は高崎から東京行きの新幹線に乗り込むあたりから、体調が悪い。

まず、手足の先が冷たい。帰宅後ベッドに横たわり、2時間ほど睡魔に引きずられるように眠った。ただ、一瞬起きて二度寝をしようとしたら三重県を震源とする地震があった。そこからずっと寝れなくなった。

4日前になくしたairpodsのケースを探す元気はない。
仕方なく、さほど性能がよくないイヤホンを耳に付けている。

そんな貧弱な私が今、プレイリストとして聴いているのがROTH BART BARONの「HOWL」というアルバム。その中に入っている一曲「月に吠える」にまつわる、父と大切な人の死についての文章をお送りします。

◇ ◇

私がいかにして、この一曲に出会ったかは「上」に書いた。
だから今度は、私の心の中に転がる「小石」と「ケルン」の話をしたい。

正直これから伝えようとしていることが、本当に「伝わる」のかどうか、全く自信がない。書くことが怖くもある。

それでも書くのには理由がある。
今朝、ある山の上空で起きた飛行機事故で子供を亡くした女性に言われた。

貴方が大事にしたい小石のこと、よく分かるよ。
私もね、秋の山道を歩いたときの「落ち葉」のことをよく覚えているの。
ふと自分の足元を見たらね、落ち葉の上に涙の跡があるのよ。

ぽた、ぽた、と。自分が落とした涙の音がした。だから落ち葉を見ると、必ず思い出す。あの時の感情は、何十年たっても忘れない。

今の貴方の気持ちと感覚を、言葉にして、書いておきなさい。
それは「今」でなければ、書けないものだから。
いつかきっと大事なものになる。

だから背中を押されるように、書いてみる。

◇ ◇

私の父が急死したのは昨年2月のことである。
ゆっくりと時間をかけて、この世にいない、ということを受け入れた。
父が存在しない生活は日常となって、私の世界は回るようになった。

ただ、心の中の「小石」として残ってはいる。

それはどうしても、捨てられない石なのだ。
他人から意味がないと思われようとも、だいじに、だいじに持っておきたい。そんな小さな石である。

しかし、私が持っている小石は一つではない。

これまで27年間生きてきた中で、幸か不幸か、死に触れる機会が多かった。いくつもの、私は直接会うことができなかった「その人」を、その人の死を悲しみ「大切に想う人」の言葉を通して、たくさん出会った。

そうして幾つも拾ってきた小石は、山道の道しるべであり、故人を悼む、祈りのための「ケルン」のように積み重なっている。

正直、私は不器用だと思う。
このまま積み上げ続けたら、きっと器である私の心の方が先に崩れるだろうと分かっている。それでも、私はずっとケルンを崩せないでいる。

ところでなぜ、「小石」なのかというと、私の中でなんとなくこんなイメージがあるからだ。

たとえば突然にも大事な人を亡くしたとき、未曽有の出来事に巻き込まれて最愛の人を失ってしまったとき。それはまるで空から大きな石が降ってきて、道を塞がれるようなことだと思う。

あまりに大きな石は、壁となって立ちはだかり、深い陰を落とし、人が前に進むことを阻む。どうしたらいいか分からず、うずくまる人もいるだろうし、傷だらけになりながら、よじ登ろうとする人もいるだろう。そうした時、周りは必ず助けないといけないと思う。

だってそうしなければ、巨大な石のせいで、(最悪の場合)その人自身が、自ら死を選んでしまうかもしれないからだ。

私の場合はどうか。
特に今すぐ、死ぬことはないと思う。
ただ、ずっと苦しいだけだ。

ついでに書いてしまうと、私の母は余命が少ない。
(残念ながら、これは医学の限界で、現実を直視した話である)

父から「突然の別れ」を強要されたかと思えば、
今度は母と向き合い「徐々に死を受け入れる準備」をしなければいけない。

人生には山場があるといえども、ここまで立て続くとは思っていなかった。

そしてつい最近のこと、私は大事にしていた知人の男性を、また一人、山での事故で突然失ってしまった。

つらいことを体験した数だけ、他人に優しくなれる。
そうだと思う。

でも、自分に対してはどうしたらいい?
時々よく分からなくなる。

死にたいとは思わないが、別に、生きている理由もあまりない。いつ死んでも大丈夫な心の準備ができてしまっている。

なぜなら私にとって、失うことの方がずっとこわいからだ。

(下につづく)


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