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《歌詞考察》たたかい続ける人の心を誰もがわかってるなら—吉田拓郎「イメージの詩」(前編)

こんばんは。InterFace'87です。

前回の投稿からかなり日が開いてしまいました。今回は、70年代Jフォークの神様・吉田拓郎のデビュー曲である「イメージの詩(うた)」について書きます。

この曲は私が小学生の頃、父親の車の中で流れて衝撃を受けた曲のひとつです。単調なメロディーの反復哲学的な歌詞、そして字余りの極み。2001年生まれの私にとっての「歌」のイメージを覆すようで、幼かった私の衝撃の大きさでは、サザンオールスターズの「ミス・ブランニュー・デイ」と並んで最高レベルです。
歌詞も非常に長く、覚えるのに苦労した記憶があります。

YouTubeで曲を検索▶︎https://www.youtube.com/results?search_query=イメージの詩

⒈ 「イメージの詩」の作品情報

この曲は、1070年に発売された吉田拓郎のデビューシングルです(デビュー当時の名前はひらがなで「よしだたくろう」でした)。広島フォーク村というフォーク団体に参加していた時代に作られました(Wikipedia)。
ちなみに、浜田省吾が1997年に拓郎の50歳を祝ってカバーした̅バージョンも有名ですね(この方も私の大好きな歌手の一人です)。

⒉ 1番の考察—学生運動と信じれるもの

ここから歌詞の考察をしていきますが、この歌は非常に長く、とても全てはカバーしきれないので、私が気になった部分だけピックアップします。ご勘弁を。
それから、例によって以下は現代の私たちに引き寄せた解釈で、当時の拓郎のメッセージを明らかにすることが目的ではないことを心に留めておいてください。

歌詞の引用は「うたまっぷ」のサイトから▶︎https://www.utamap.com/showkasi.php?surl=B10847

「これこそはと信じれるものが/この世にあるだろうか
信じるものがあったとしても/信じないそぶり」

これは曲の冒頭部分の歌詞です。いきなり哲学的な感じですね。

1960年台後半は、世界的に学生運動が盛んな時代でした。ベトナム反戦運動や労働運動と結びつきながら、若者たちは権力に対する激しい戦いを展開しました。そして音楽もまた政治的な力を持っていました。

しかし70年代になると、学生運動は徐々に下火になっていきます。70年に描かれたこの歌詞はそうした時代の空気を予感させるようです。若者は信念を失い、ニヒリズムシニシズムに陥っていく。信じるものがあっても、そうした空気の中で「信じないそぶり」をするようになる。
冷戦終結で「大きな物語」は瓦解し、思想も正義も「意識高い」と揶揄される現代の日本にも、こうした空気は流れ続けています。

拓郎は日本のフォークをプロテストソングから商業的なポップミュージックに転換させた人物として語られることも多いですが、この楽曲が最初に収録されたアルバムが上智大学全共闘のメンバーとともに作られたことからもわかるように、初期の拓郎は時代の空気を感じとる鋭敏な感覚深い洞察を歌に表現していたのです。

⒊ 4番の考察—いいかげんな奴らとニヒリズム

「いいかげんな奴らと口をあわせて/おれは歩いていたい
いいかげんな奴らも口をあわせて/おれと歩くだろう」

いいかげんに口を合わせる「いいかげんな奴ら」の姿が描かれています。歩くというのは人生という道を歩くこと、つまり生きていくというイメージなのでしょう。そういう人たちを一緒に生きていく。言い争いもないが、かつて学生がしていたような熱心な議論もない。学生運動家たちへのアンチテーゼとも取れる内容です。

でもこの言葉はなんとなく冷めていて、「嫌だ」という意志もあまり感じ取れない。「おれと歩くだろう」という語り口からは、「そういうものだ」という諦めを見てとることができます。

しかし、私はこれを「いい加減でなにが悪い」という開き直りとは捉えません。ニーチェがニヒリズムを克服するために「神は死んだ」と語ったように、それが「いいかげん」であると認めることで、いい加減な生き方を克服するヒントを探ること。それが聞き手に求められているのです。

⒋ 5番の考察—たたかい続ける人の心

その直後にはこんな詩が歌われます。

「たたかい続ける人の心を/誰もがわかってるなら
たたかい続ける人の心は/あんなには燃えないだろう」

「たたかい続ける人」。まさに学生運動が思い起こされる歌詞です。学生たちの戦いの様子は、テレビなどで見て知っている人も多いでしょう。彼らは普通では考えられないくらいに燃えていた。戦い続ける人の心がそれほどまでに燃えているのは、周りがその熱量の根源をわかっていないからなのだと拓郎は言います。

学生運動が問うたもの、それは戦後日本の社会構造でした。世界のどこかで繰り返される戦争について、日本の責任とは何か。労働問題の原因は何か。これからの日本社会はどうあるべきか。本気で考えれば考えるほど、戦いに身を投じない人々への怒りや、理想的な革命家であろうとするが故の強烈な自己批判・自己否定が増幅し、それらに絡めとられることになってしまったのです。

彼らが暴力に訴えたことは当然否定されるべきでしょう。しかし、そこだけを見て彼らが問うたことすべてから目を背けようとしてはいなかったか。彼らの理念や問題意識を適切に理解しようとしていたか。あるいは理解したふりをして、どこかで戯言と馬鹿にしてはいなかったか。社会がきちんと向き合っていれば、何かが変わっていたのかもしれない…。
そうしたことに思い至った時、現代の私たちはこの歴史にどう向き合うべきか、おのずと自問することになるはずです。

やはりここにも拓郎の社会を見る眼の鋭さが発揮されていました。さらに彼は、それを「イメージ」として語っている。素朴に語りかけられるイメージの詩が、聞き手の心を静かに抉ります。

・・・

一本の記事で書き切るつもりだったのですが、ここまででかなり字数を使ってしまいました。ということで、今回は「前編」としてここで中断し、次回に続くことにします。すみません。
ここまで読んでくださってありがとうございました。興味を持った方がいればぜひ次回の記事も読んでいただけると嬉しいです。

それでは、また次回。

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