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Prefab Sprout “We Let the Stars Go” の歌詞を読むのみならず、訳すばかりか、果てには講じさえする (radioGA 02: 西暦2023年12月15日)




◎マクラ

前略
 私とプリファブ・スプラウトの話も、追々していくことにならざるを得ないんじゃないかとは思いますが。なぜならこのグループは、私がほんとにバカな中学生の頃に偶然に出会って、私の地元の、中学時代に通っていた、学校サボってもそこには通っていたというほど楽しい場所だった学習塾があるんですけど。その塾から自転車で5分の距離にあったブックオフに、このプリファブ・スプラウトのアルバム『Jordan: The Comeback』の国内盤が、なぜか750円で売られていたのですね。で、「中坊がなんでプリファブ・スプラウトの CD 探してんだ」って話になるでしょうね。なぜかというと、根本要さんの『要のある音楽』というラジオ番組がありまして。今でもやってらっしゃるのかどうか分かりませんが、私中学の時にその放送聴いてさ……「なんで中学生が根本要のこと注目してんだよ」って思われるでしょうが、こうやってね説明の必要性がどんどん累積していくのが私ですが。根本要さんのバンドであるスターダスト☆レビューは、大泉洋さんをフィーチャリングして、『本日のスープ』っていうシングルを出して、それが所謂どうでしょう藩士の間で話題になってたのね、私が中学生の頃の話ですよ。で、それで『本日のスープ』の CD を Amazon でね、あの特定の送料が発生してた頃ですよ。いま1,500円以上買えば無料とか言ってるけど……いや違うか、私が少額の買い物ばっかりしてたのか、中学生らしく? わかんないですが、その時に Amazon で……あっ違うな Amazon で CD 買ったのは樋口了一さんのあれの方だな、『1/6の夢旅人2002』のですね。こうしてこんな無駄な註釈をね。樋口さんの『1/6の夢旅人2002』のシングルに入ってるカップリングのね、『words of life』って曲なんかもほんとに素晴らしいですよ。まずビートが素晴らしいですよ、キックとスネアとベースとギターだけで……プリファブ・スプラウトに似てるわけ、やっぱり。音質が良いし、明らかに所謂ブラックミュージックの芯が喰えてる人が作った曲であり、トラックだっていうのが解るね、あの『1/6の夢旅人2002』よりもむしろあの2曲目の『words of life』を今でも、特に今みたいな冬になると聴き直しますが。話戻しますね、『本日のスープ』は十字屋かどっかで買ったんだね。私も鹿児島の地元の、十字屋かどっかで買って聴いてたわけですが、ここでまた説明の必要性が生じますね。「お前の鹿児島の田舎でどうでしょう放送してたのかよ」って訊かれますよね。放送してなかったですよ。ちなみにどっかのストリーミング、どこのサイトだったか忘れたけど、ストリーミング配信っていうのに初めて触れたの、私あの時ですね。で、その今もやってんだかわかんないストリーミング配信サイトで、『ユーコン川160キロ』が配信されてて、当然私の住んでた家は貧乏でしたから、ブロードバンド常時接続回線なんか無かったから、停まるわけですよね、2秒ぐらい再生したら。それで観られないって思うわけですが……「なんでお前中学生の時点でどうでしょう観たがってんだ」っていう説明がまたねぇ生じるわけですが、説明しますが。私が当時見てたウェブサイトで、その管理人さんが『水曜どうでしょう』と天下一品の話ばっかりしてるっていうサイトがあったんですよ。それをだいたい毎日見てたんですよ。道民だったんでしょうね多分。その方が「どうでしょう」「シカでした」って言ってるからこれ絶対面白いんだろうなって思いつつ、配信ではうちの環境じゃ観られないから、うん……て思ってたら、スタッフのブログとかも読むから、テキスト読むしかないじゃないですか、動画観られないんだから。その中に『夢旅人』がどうだとか『本日のスープ』がどうだとかミュージックステーションに出ただとかいう話が入っててさ、その情報だけは入ってくるわけ。で、地元のCD屋行ったら曲がりなりにも売ってるわけですよ、『本日のスープ』が。それで、どうでしょう関連で1番最初に私がコンテンツを手にしたのは『夢旅人』か『本日のスープ』のシングルだったっていうことになるでしょうね。その流れで根本要さんの名前、およびスターダスト☆レビュー知ったわけです。ねぇ、こんなバカな中学生が。あぁ母親が持ってたスティーヴィー・ワンダーのCDに託宣を受けてはいましたが、その流れで「うわあすごい」って初めて思ったのがスターダスト☆レビューでした。で、根本要さんの公式ウェブサイト見てたら、ラジオ番組やってるなっていうのがわかって、あっ鹿児島でも聴けるなっていうのがわかって。うちのラジカセで録音しながら聴いた、初めての回がプリファブ・スプラウト特集だったわけですね。すごいと思いませんかね、この引きの強さっていうのは。
 だからあの、私が radioGA っていうコンテンツ配信してて、なおかつプリファブ・スプラウトがテーマだっていうの見た人は、「あーこの人は前々から菊地成孔さんのファンを公言してるし、成孔さんも『粋な夜電波』でプリファブの『Cruel』って曲の歌詞の解説してらしたから、それに影響されて、フォロワーとして似たようなことをやりたがってるんですね。ご苦労な話だ」って思う人いるかもしれないですが、その人は勘は鋭いかもしれないんだけど、半分しか当たってないです。なぜなら私には、『粋な夜電波』以前に中学生時代の根本要さんの『要のある音楽』体験があるからですね。つまり私は根本さんの『要のある音楽』と菊地さんの『粋な夜電波』という、太刀と脇差を二刀流にして使っているのだということまで分析できないと、ね、何か言ったことにはならないですね。


◎自分の解られなさを解ってもらおうという努力を一切しない人々=双子座生まれ


 ちなみに今私が出した名前、プリファブ・スプラウトの(初めて名前出すか)パディ・マクアルーンという名前、パトリック・ジョセフ・マクアルーンという方と、根本要さんと、菊地成孔さんと、今この話をしている Parvāne の田畑佑樹、私。この4人は、全員、双子座です。根本さんだけ5月末で、全員双子座なんですねぇ。なんでしょうこの双子座、何かあるぜって思わせますよね。根本さんがプリファブの話してる時点でもう凄いし、そのプリファブの話を菊地さんがしていることも凄いし、で根本さん経由で学生時代の私が「うおー」ってなってる、この4人全員双子座っていうね。やばいぜ何かあるぜって思いますよね。ちなみにあの、そうですね、私も6月5日生まれで、パディは2日違いで、菊地さんに至っては私の姉と誕生日が同じっていう、このね。同族感、双子座クラブ感ですよね。ただあの、菊地成孔さんはご自身で頻繁に書いてらっしゃるからわかるんだけど、双子座生まれの人間がどういう奴らかっていうと、自分の解られなさを解ってもらおうという努力を一切しない人々だと言うことができます。私もね Parvāne 以前に、20代にやってた色々思い出してもそうだったでしょうね、説明が必要だったんだろうなって思うんですよね。今でも私の Patreon にお金払ってコンテンツに当たってくださっている皆様の中にもいらっしゃるんでしょうね、「説明が足りないよ」って思ってらっしゃる方、課金してくださってる方々でさえいらっしゃるんでしょうね。これはもう双子座生まれの血の為せる業としか言いようがなくて、ほんとに不徳の致すところなんですけど。例えば同じ双子座生まれのマイルス・デイヴィスやプリンスなんかを思い出しても、説明なんかするわけないだろあんな人たちが、ってわかるでしょう。あんな謎だけ残して死んでいったような人たちが。キリンジの堀込高樹さんも双子座生まれで、『双子座グラフィティ』っていう曲さえ作ってらっしゃいますがね。あの、すごいねぇ私あの、キリンジのファンとねぇ関わりたくないなって思うのは、私も双子座のキリンジファンなりに作品に触れて「おおお」って感嘆してるわけですけど、いわゆる一般的な、多分双子座ではないんだろう人たちが、キリンジの曲や歌詞について、あるいは歌詞のみについて(またもや)語っているのを見てると、あぁって、こう、ね。索漠たる気持ちになってその場から去ろうと思うんですけど。私の同じ誕生日でダニエル・ギルデンロウっていう、 Pain of Salvation っていうバンドの、スウェーデンのミュージシャンがいるんですけど。この方もね、私高校生の頃から Pain of Salvation っていうバンドの CD 買って聴いててさ、プログレメタルっていうジャンルの中には収まらない人たちだよ、一番面白い音楽やってるよこの人たちは、っていう不思議な親しみをもって聴いてたんですけど。そのバンドのフロントマンが私と全く同じ誕生日だっていうことを数年前に知った時は噴き出しましたよね、さすがにね。同じ誕生日の人、ガルシア・ロルカもいるんですけどね。 Pain of Salvation の名盤のレビューなんかを見て、好意的なレビューを特に読んでみると、「うん?」っていうね、「あの、えっと、そっちなのか……」っていうふうに、こうね、 6月5日生まれとしては思わざるを得ないことがあるんですよ。前、今年の誕生日か。私ちゃんとテキストにしたんですが、あのダニエル・ギルデンロウの作品が如何に入り組んでいて、「あの、そんな見せ方したら、えっと、解られないよ……」っていうことをね、同じ双子座なりに分析したテキストがあるんですけど。恐ろしいですよね。だって双子座側の人間からすれば5.1chサラウンドで聞こえてるものが、それ以外の人にはモノラルで聞こえてるかもしれないっていうことなんですよ。これは別にあの、「普通の人には解らないことが解っちゃう俺はすごいぜ」みたいな話ではないですよ全然、恐ろしいことなんですよ。だって、あらゆるマイノリティにはセンサーがあります、人種的にもセクシュアルマイノリティ的にも。センサーを備えていますね。「あっ、この人は同族だな」っていうのが解って配慮したり、逆に同族嫌悪したりするわけですけど、私は双子座ミュージシャンの作品を見ているとねぇ、同族センサーが働いて「いやそれは、ちょっと、すぐには喰ってもらえないよ」とか、「一度にそんな同じ鍋に沢山のものを入れるなよ」とか思ってしまうわけですが、にも拘らず、双子座以外の人たちには、出汁さえ味覚されていないのかもしれない……ということがあって。ね、ゾゾって思うことがありますし、多分私もそういうふうに思われてるんでしょうね、二重にね。双子座同士からも「いや……」って思われてるし、双子座以外の人からは「うーん、いやあ、説明してほしいな」って思われてるんでしょうね。っていうふうに、6月7日生まれのパディ・マクアルーンの作品を今から解説しますが。


 まず一行一行、歌詞の内容を原文を読み上げたうえで、私が当てた対訳を添えていくというスタイルでやっていこうと思います。ちなみに急いでいるわけでもないが、近所のTSUTAYAが閉鎖されてね。今年の春ですか、気づいてなかったんですが私は。それで一般的なプリファブ・スプラウトの日本盤に付いてる対訳がどういう内容なのかっていうのを当たることができなかったので、専ら自分で訳しましたが。ちなみにさっき言った、私が中学生時代にブックオフで750円で買った『Jordan: The Comeback』の国内盤は、なんと、国内盤ライナーノートの内容がカラーで印刷されてたんですよ。これ、海外音楽グループの国内盤をある程度購入した経験がある人にとっては驚きでしょう。だいたい白黒で印刷された、ペラペラした10ページもないようなリーフレットが中に入っている、っていうのが一般的な国内盤のスタイルでしょ。それさえ今出してくれないでしょ、日本の配給会社はね。それにも拘らずですよ、私が最初に開いた国内盤ということになるのだろうか、スティーヴィー・ワンダーのベスト盤はありましたがね。それで『Jordan: The Comeback』買って、ケース開けて、ブックレット取り出したらカラーで印刷されてるわけですよ、日本語が。対訳も添えられてましたよ、「ムーン・ドッグ!」ってカタカナで書かれてたの憶えてますからね。それがねぇどれだけ、金のあった時代の為せる業かっていう。1990年リリースですから、ギリギリバブル感は持続されてた頃でしょうから、それがいかに珍しいかっていう存在で。そのレアな国内盤いま持ってるのかって言われたら持ってなくて。引越の際に、さっき言った『本日のスープ』のシングルとかと一緒に実家に置いてきて、まあ処分されたんでしょうね。高校生なりに「もうこんな音楽とはおさらばだ」とでも思ったんでしょうかね。いま32歳になってこの曲の話をしてるとはね……っていう話も追々、歌詞と織り交ぜながらしていくと思いますが。
 始めましょうか、まず『We Let The Stars Go』に関しては、音源を先に聴いてきてください。ううぅこの曲を初めて聴く方がいる、羨ましい。羨ましい限りですほんとに、いいですね、すごい瞬間に立ち会ってるのかもしれませんね私は。今この動画は YouTube で配信されてるはずだから、 YouTube Music の、無料で聴ける、あの Topic ってついてるほうの音声動画があるでしょうから、そっちに行くのが一番手っ取り早いかな。ただその場合、歌詞付いてないはずなんで、別窓で lyrics 検索して表示してもらう必要がありますが。有料のサブスクリプションサービスに契約してる方は、もちろん歌詞表示される形態で『We Let The Stars Go』の音声トラック読み込んでもらうのがいいですね。ご準備できましたでしょうか? じゃあ1回聴いてきてください。で、帰ってきてください。行ってらっしゃい。


◎複雑な主格と時制の歌詞


 お帰りなさい。ねー、まぁ歌詞の話だけするわけですがサウンドも凄いでしょう。イントロのこのキックからスネアからねぇ、なんて綺麗に録れてるのか。ちなみにプリファブ・スプラウトは2ndアルバムからトーマス・ドルビーというプロデューサーと共作してます。「ドルビー!? ドルビーかよ」ってびっくりした方いると思うんですが、実はこのドルビーさんは、日本の田舎の映画館にすらその名前が冠された音響システムが入ってるレイ・ドルビーさんとは、たぶん血縁無いらしいです。昨日ちょっと検索したんだけど、たぶん苗字が同じだけだね、かつ同業者っていうね。音楽プロデューサー&音響技師っていうね。そのレイ・ドルビーさんの息子さんがトム・ドルビーっていうらしいから紛らわしいですよね。トーマス・ドルビーとトム・ドルビー間違われたんでしょうね、多分しょっちゅう。このトーマス・ドルビーさんはたしかマクアルーンと同年代だったと思いますが、その2ndアルバムが『Steve McQueen』でしたよね。この名盤からずっと組んでらっしゃるプロデューサー。あの、パディ・マクアルーンとトーマス・ドルビーっていう、この幸福なミュージシャンと音響技師のカップリングっていうことがあんまりねぇ、私そんなファンの記事も読まないからアレだけど、言及されないんでしょうかね。あの System Of A Down にとってのリック・ルービンですとか、トレント・レズナーにとってのフラッドですとか、あとはパンテラにとってのテリー・デイトとかと同じように、ミュージシャンとプロデューサーの幸福な出会いっていうふうにセットで言及されるのが普通なくらい噛み合ってるコンビなんですが。マクアルーン=ドルビー組って本当にすごいよ。すごい作曲家と音響技師の出会いがあったもんだなぁと思いますよ。この『We Let The Stars Go』のアコースティックなのかエレクトリックなのかちょっと曖昧な、音響系のエフェクトがとても適切に効いた音……シンセじゃないよねあれ? こういう話し方してて違ったら恥ずかしいんですが、全部の音がまぁ抑制されていて、80年代終わったばかりの音かねこれがって思わされますよね。

 さあ、もういきなり歌詞に入るのが早いでしょうから、行きますよー。お手元の歌詞カード参照しながら聞いてくださいね。冒頭こういう風に始まりますね、 “There was that girl I used to know” っていう、とてもシンプルな切り出し方ですが。過去形ですね、 girl がいました。女の子(単数形)がいました、過去に。その女の子はどのような人物か? “I used to know”, 私がかつて知っていた女の子です、っていうね。誤解の余地が全然無い、中1でも訳せるような文章ですが。そうだなぁ、 was と used to know, この過去形が強調されているっていうことを押さえておいてもらいましょうか。時制が非常に入り組んでいる歌詞です、これは。過去を追憶するだけの内容に思えます、昔を懐かしんでいる人の曲だなっていう。でもね実は、複雑に入り組んだ、現在/過去と割り切るだけではちょっと見失ってしまう。現在の中にも何層かある×過去の中にも何層かあるっていう書かれ方してるんですよ。なおかつ、誰が誰に語りか語りかけているのかっていうのも……まあこの、「私」っていう主話者と、この「昔知り合っていた女の子」っていうこの2者の間柄の話だな、そういう風になるんでしょっていうのはお分かりいただけるしそうなるんですけど。女の子も実際の女の子、本当にこの主話者が知り合っていた実際の女の子と、架空の思い出の中の女の子っていうのが、2つに分かれていて、かつこれを話している人も、過去の自分/現在の自分で、その現在の自分でも現在の自分を忠告している自分/忠告されている自分というふうに分かれているっていうのが……いきなりこういうこと言うと混乱しますよね。ただ、思っているほどシンプルじゃないんだぜこの歌詞は、っていうの踏まえておいてください。


◎「彼女」と燃焼


 2行目いきます。 “She'd tease me about my name” She の次に入っている 'd は would だと考えていいでしょうね。「彼女はからかいました、私を」。この would は will の過去形だから、「彼女は私をからかうことをするだろう」、 will がそのまま過去になって、「彼女は私をからかうことをしました」っていう、この will の指向性が向いてる感じね。→が「彼女」から「私」に向かって向いている。その内容は「からかう」であるということが、この would でとりあえず置かれているって考えてもいいんだけど……私はこの she の次についてる would は、ある癖だと考えたほうがいいと思いますね。「彼女」の癖です。「彼女」は「私」をからかうことが嗜癖化していましたっていうと、精神医学的な言い方なんですけど、「彼女は私をからかうことがもう癖になっていました」。 habit になっていましたっていう風なニュアンスがあると思います。ちょくちょくやってたっていうことですね。「彼女、僕の名前をちょくちょくからかったんだよ」っていう風な内容だと私は思ってます。〔彼女、僕の名前をからかうんだよ〕っていうふうに私、日本語訳つくりましたが。この2行だけでね、だいたい知れてるんですよね、歌詞の内容が。〔むかし知り合った女の子がいたんだ/彼女、僕の名前をからかうんだよ〕っていう、私が作った日本語訳読みましたが。

 続けましょう。 “Fan the embers long enough I sometimes catch her flame”, 動詞です。いきなり動詞で始まるっていうのが曲者です、しかも現在形ですね。この話あとでしますが、“Fan the embers”, embers, 燃えさしとか小さい火、残り火っていうことですが、この ember は蝋燭の火ではないということに注意したほうがいいと思います。私のイメージでは炭火なんですが、イングランド国籍の人にとっては焚火なのかな、ボーイスカウト的なものだと考えていただいていいですが。固形の木を触媒にして燃えてる炎っていうことで、そういったものは扇ぐと、炭火焼やったことがある人は解るでしょうけど、団扇でパタパタって風を送ると炎が消えるのではなく燃え上がりますよね、酸素をさらに送り込まれて。吹子ですね、たたら製鉄みたいなもんですね。空気を送り込まれて、それによって燃え立ちますよね、ああいった焚火とか炭火は。蝋燭は逆に、フッて強い風送られたら消えちゃうわけですが。この ember は炭火とか焚火のイメージだと思っていただきたい。それが “long enough”, fan にかかってますね。扇ぐという動詞の行為の結果が長引きすぎて・充分に・たっぷりもらって、っていうことですね。で、これをどう接続するかっていうのが、次いきなり出てくる “I” に関係してますね。
 “I sometimes catch her flame”, 「私は時々」っていうか頻繁にでしょうね sometimes ってことは。「私」は頻繁に捕まえた、何を? 「彼女」の炎を。これねぇ、この1行で書かれてるんだけど、これ読んだとき私思いました、「私ここ誤訳するな」って思いましたね。あの、外国語読む能力と訳文を作る能力は全く別ですからね。本当ですよ。意味をとって読むだけの話と別の言語に置き換えるっていうのは別の能力であり才能なので、私ここ間違えるなって思ったんですが。まずこの動詞が、どちらも現在形だっていうことが問題ですね。 fan と catch ですね。昔の話してたんでしょ? っていうのが単純にね、不思議に思いませんか? “girl I used to know” のことを追憶している話でしょう。なんでこの fan が現在形なのって思うんですが、合理的に解釈するならば、前の文の “She'd tease me about my name”, この tease が現在形になっているのは前の would の効果ですが、その流れで文が繋がってるって思えばいいですね。つまりそう考えると、この “Fan the embers long enough” の動詞の主格も「彼女」だってことになります。 “She'd tease me about my name” から繋がって、 (She'd) が括弧で入ってて “(She'd) fan the embers long enough”, 「彼女は燃えさしの炎を長く充分にたっぷり扇いだもんだよ」っていうニュアンスですね。それの効果によって、「私」は sometimes, 頻繁に catch, 現在形。これも (would) が括弧で省略されてるんだと思うと解釈しすぎですかね。 I would sometimes catch… ごちゃごちゃするな。「彼女」は燃えさしの炎をパタパタ扇いだよ、それによって「私」は「彼女」の炎をキャッチしたような気分になったようなもんだよ、っていうふうに対句になってるって思えば自然ですが……私はもうこの fan の動詞の主格を she だと解釈しちゃいましたが、これね I が the embers を fan してたのだと解釈しても、そんな内容変わらないんだよね。「私」は燃えさしの炎を長く扇いだ、それによって「彼女」の炎を受け取ったような気持ちになったよっていう、このねぇ追憶の形を取ってるから仕方ないんだけど、動詞の主格をこの1行に関しては、彼女/私どちらに置き換えても内容成立するよねっていう。で、「私」が動詞の主格だと考えた場合……この扇ぐっていうね、炎を扇ぐ手の動きが、何か別の性的なニュアンスを持っているんじゃないかっていう。だってね、女の子のことを思い出している話ですよ、思春期の男の子の話ですよ。このパタパタが別の意味なんじゃないかっていう。それで “I sometimes catch her flame” ね、意味深に思えてきますよね……っていう下世話な解釈はとりあえず抜きにして、「彼女」がパタパタと embers を扇いだのだな、というふうに解釈しています。で日本語訳どうするんだって話ですが、私は “Fan the embers long enough” は、〔煽る〕としましょうね。これねぇ、昨日の夜訳しながらねぇ、日本語と英語の間で良いグルーヴが生まれているなぁって思ったんですよ。〔煽る〕、火がついてます、火偏ですね。あのパタパタです、風を送ってるだけの動詞に火が文字の中に入ってると。この漢字のね、おおおって思いましたね、昨日やってて。良いグルーヴだぜって思ったんですが、その風を送り込むことによって、 embers を長持ちさせてるわけですよ。火のモチーフですからこの行は。 embers と flame っていう、火/炎を意味する名詞がそれぞれ別に出てきてるわけですからね。それで火偏の動詞をぜひ使いたくなりましたよね、日本語圏人としては。それで embers って目的格を「小さな残り火を煽られたもんだから」とかそういうふうに訳そうと思ったんだけど、なんかねガチャガチャしてイヤになったので、あえて目的格を省略しました。火とか炎っていう強い字が同じ文の中で共存するのはあんまり収まりが良くない、日本語としては。で “I sometimes catch her flame”, これねー “catch her flame” ですなぁ。ちょっとした定型句なのかと思ったんですが、〔彼女の炎を移されたような気になった〕っていうふうにしました。 sometimes のニュアンスは、まぁ平たく出てるかな、「頻繁に」とか「ちょくちょく」とか入れたらうるさくなるから、〔やたら煽るもんだから、彼女の炎を移されたような気になった〕っていうふうに訳しました。どうでしょうかねぇ、皆さんのアイディアもコメントなり何なりで寄せていただきたいですよ。言うまでもなく、 the embers=小さい残り火で、「彼女」の炎=燃え立っている炎、この小さい火と燃え立ってる彼女の炎っていう2つの火が対比されてるわけですね。 the embers はもちろん「私」に帰属するものだと思ったほうがいいですよね。それをパタパタ扇いでいる「彼女」から風を送り込んでもらったことによって、「彼女の炎をもらったみたいだよまったく」っていう内容ですね。この炎っていうのが言うまでもなく、思春期的なエネルギーであり、特にこれを語っている主話者にとっての恋心だということになりますよね。それが embers の、固形の木材に宿った小さい火がパタパタっていきなり燃え立たせられるようにして、温度が持続しているっていうことですね……う〜ん十字架のヨハネみたいですねぇとかいきなり出したら、びっくりしますか? だってこのパディ・マクアルーンはカトリックの人ですよ。アイルランド移民で国籍 United Kingdom ですが、パディっていうこの、パトリックですよもちろん。聖パトリキウスっていうのはアイルランドにっていうかケルトにキリスト教を伝来させた最初の人だということになっています。私の地元の鹿児島の、伊集院に来た人みたいなことだと思ってもらえればいいでしょう。1,000年ぐらい違うけどね。その聖パトリキウスの名前を英語に直したパトリックの親称がパディですね。パトリック・ジョセフ・マクアルーンね。カトリックの名前ですが……ちなみにウィキペディア見たら「ミュージシャンとしてのキャリアを始める前までは神父を目指していたらしい」とかさらっと書かれていたが、おいおいって思いますよね。そんな人だからねぇ、私もちょっと共鳴しちゃうんでしょうかね。十字架のヨハネみたいですよねっていきなり言われるのは、彼にとっては適切な批評だと思いたいですな。『愛の生ける炎』とか……いま私の、座ってる所の右手側を見たら十字架のヨハネの本が3冊ありますが、その話はしなくていいだろう。ちなみにこの、十字架のヨハネの日本語訳の本出したのカルメル会ですよ。たしか九州か兵庫か山口のカルメル会が合同で出したんですよ。日本のキリスト教徒やっぱねぇ根性あるなぁって思いますよね、この日本語訳の内容を読むと。エーディト・シュタインの日本語訳出したのもたしかカルメル会で……それはもういいね、話戻しましょうね。炎のモチーフが出てきてます。で、それが実は次の次にも持続します。


◎温度と音声


 次の行…… “The soothing voice of distance tells me”. The soothing voice, 宥めるような穏やかな声、で of が、さらに形容が重なるって考えたほうがいいですね。of distance, その穏やかな声がどこにあるかって言ったら遠くにある。遠くから聞こえてくる・穏やかな・宥めるような声が tells me, 「私に伝えます」。
 次の行に行きましょう。“That was just a fling”. 過去形ですね。「それ」は、「それ」っていうのはさっきずいぶん時間をかけた embers とか flame の話、は “just a fling”. fling, これすごい悩んだの。 fling っていうのは、投げかける、ペッと石を投げるようなニュアンスがある名詞で。色恋沙汰に適用される表現でもあって、全然本気ではない人付き合いとか、単に浮気とか訳されることもあるみたいなんですが、この fling は、あえて私は〔火遊び〕と訳そうと思います。お〜いっていうね、さっき火偏の話をしたうえで、日本語に関しては、ちょっとした色恋沙汰を「火遊び」だとか「火傷」とか言いますよね。それ使えるじゃないかって思った時にね、お〜いグルーヴ持続してるぜと思いましたがね。〔そんなのはただの火遊びだったろ〕“That was just a fling” ね。この2行まとめて日本語訳文作りましょうね、〔遠くからの穏やかな声が言うには/「そんなのはただの火遊びだったろ」ってことらしいが〕っていうふうにしました。あえて「」の外を補いましたが、私は。なぜそうしたかっていうと、次の2行への接続を考えた上でですがね。
 えーと言い落としたこと無いよな、ここまではとりあえず大丈夫だよな。動詞の現在形のところが鍵だっていうところは押さえられたのでいいですね。次、 “Other music fills my ears”. これは現在の「私」の反応だと考えたほうがいいですよね、 fills ですからね。「他の音楽が現在において聞こえます。満たします、私の耳を」です。 other music というのは、“The soothing voice of distance”, 遠くからの宥めるような声とは別の音声が聞こえてくる。それは何でしょう、この歌詞の主人公、80年代末の主人公が、あのかつて知り合っていた女の子との時間を隔てた、ある程度歳をとったこの主人公が街を歩いていて聞こえてくるラジオからの音楽ですとか、あるいは単に電車の中で聞いているウォークマンのイヤホンでもいいんでしょうね。 “Other music fills my ears”. 現在、この音楽。それと区別されるものは何か? “The soothing voice of distance”. この……飛ばしちゃったけど、この「遠くからの穏やかな声」っていうのは良心の声っていうか、自分の理性の声、恋に酔っ払っている気分とは別の声だと思うべきですよね。これと対になっているのがこの直前の行、 “Fan the embers long enough I sometimes catch her flame” ですよね。ここが酔っ払ってるわけ。いわゆるこの主人公が、「彼女に煽られすぎて炎をもらったみたい」っていうこの言い方ね。ちょっとトロンとしてるじゃないですか、さすがにねぇ。このトロンとしてるから、それとは別の理性的な声がいきなり次に出てくるわけですよ。「いやそんなのはただの火遊びだったぜお前さん」ていうふうに、これは自分自身の良心の声だと考えてもいいし、友達に言われたかもしれないんですが、これねぇ大事なのは、パディ・マクアルーンの歌詞でしょっちゅうあるんだけど、このトロンと酔っ払わせるような・聞き手を蕩かす「あらステキ」っていう表現を出した直後に、いきなり正気に戻って理性的なことを言うってのはね、この人よくやるんだよ。『Appetite』って曲なんかすごいですよ。私のプリファブ・スプラウトで一番好きな曲『Appetite』なんかねぇ、それの典型みたいなヤバい歌詞が出てきますよ。あ〜ダメだ時間取られるから省略しますが、いきなり正気に戻るんですよね、「そんなのただの火遊びだったろ」っていう正気の声を傍らに聞きつつ、このヴァース最後の行が問題になってきます。

 “But I still hear her sing”. 「でも聞こえるんだよなぁ、彼女の唄うのが……」っていうことになります。〔別の音楽に耳を塞がれてさえ/聴こえてくるんだ、彼女の声が〕っていうふうに日本語訳を作りました。 but を〔塞がれてさえ〕って even とか入ってないんですが、別の音楽に耳を塞がれている状態でさえ聞こえてくるよ、別の音声が。何か? それは「彼女」の歌声だ。っていうことですね。遠くからの宥めるような声と、 other music と her sing っていう、音声が3つ出てきてるっていうね。でもこれ読んでも混乱しないからすごいですよね。


◎ “let” に宿る神韻縹渺(宿ってるねぇ)


 この流れでヴァースを終えた後フックに行きます。 “She sings:” っていう前置きがあって、「こう唄うわけ」。 “Paddy Joe, say Paddy Joe Don't you remember me?” っていうふうにね。「彼女」が唄ってるわけですよ。なので「」つけなきゃいけません。〔「ねえパディ・ジョー、わたしのこと憶えてる?」〕っていうふうに、これも中1で訳せる文章ですね。で、「彼女」の唄いながら言うのが続きます。 “How long ago one gorgeous night / We let the stars go”. 曲名出てきましたね、ああ読んでるだけでちょっと泣きそうになっちゃったので危ない危ない。これよりヤバい表現がどんどん出てくるから、こんなんで泣きそうになってたらいけません。“How long ago”, 疑問形か詠嘆形かってことになりますね。ずいぶん前ですよ、何から? “one gorgeous night”, とあるゴージャスな素晴らしい夜から。 that あるいは which, when が省略されてて “We let the stars go”. “one gorgeous night” の内容はどのようなものか?  “We let the stars go”… おおそうだ、あ〜ヤバいなぁ、一番ヤバい箇所の解説に入りますよ。“How long ago one gorgeous night” だから、過去に属する話をしてるわけですよ。この人=「彼女」は。で “We let the stars go” なんですけど、この動詞 let は皆さん中学で習ったでしょう。現在形・過去形・過去分詞形が全部同じスペルでなおかつ発音も同じっていう、非常に珍しい動詞であることを皆さん思い出しましたか? 私ずいぶん前に辞書引いたんですが、 let は中期英語では過去形に関してのみ区別する発音があったらしいんですが、現代英語では let は現在形・過去形・過去分詞形、同じですよね。なのでこの “We let the stars go” (この翻訳をどう当てたかについて後で説明するので)の夜が過去なのか現在なのかが、文字の上でも発音の上でも区別できない・どちらでもいい・重複してる・どちらでも解釈しうる内容だ、っていうことになってるんですよ、結果的に。これね〜おいパディすげぇことになってるぜって思いましたよね、あらためて訳作ってて。パディ・マクアルーン=この歌詞書いた人はそこまで工夫できたわけがないからね。彼はアイルランド系移民の裔として90年代のUKに生きてて、その時代の英語という具体的な伝統と制限の中で歌詞を書いていたわけで、ここまで意識できたわけがないんだよ。この let は過去とも現在とも判断できない動詞だからその特性を活かそうって、そこまで無理ですよ人間にコントロールするのは。その中に居てこの、 “How long ago one gorgeous night / We let the stars go” これ過去だか現在だかわからないよね let のせいでね、っていうことになってるわけなので。この特性によって、この曲の歌詞の中の時制の複雑性というものが、この let という動詞の選び方ひとつで決定的になってしまったと言わざるを得ません。
 いやあ、漢語には「神韻縹渺」っていう表現がありますが、まさにそれですよね。「宿ってるねぇ」って思いましたよ。「宿ってるねぇ」って表現をあの皆さん、良い詩とか歌詞とか言葉遣いを聞いたときに「宿ってるねぇ」っていうこの茶々をね、フラメンコの観客みたいに入れたらいいんじゃないかと思うんですけど。フラメンコの観客はねぇ歌が盛り上がるにつれて「それが歌ってもんさ!」っていうスペイン語の決まり文句を入れるんですが。そういう感じで日本人も「宿ってるねぇおい、君の言葉の表現には」っていうふうに言うのを一般化させたらいいんじゃないかと思いますが。安易に「神!」とかね、阿呆みたいなことを言わないで、この新たな決まり文句「宿ってるねぇ」を使っていただきたいと思うんですが、私としては。この宿りまくってる歌詞を日本語に訳すにはどうすればいいか? そうだなぁ、日本語と英語を比べてよく起こることですが、この文の逐語訳ではなくて、文の冒頭と結末の順番が、文字の上では、出てくる順番の上ではひっくり返るということが起こります、ちょくちょく。決して悪いことではないと思うので私もやってみました。〔ふたりで星々を遊ばせたあの素晴らしい夜から、一体どれくらい経ったでしょうね?〕っていうふうに、あえて最後 ? をつけるふうに訳してみました。この “We let the stars go” の解釈だけでずいぶん悩みましたよ。なぜならこの let なんたら go っていうのは、パディがカトリックであることを考えれば、モーゼの、我々ムスリムの言い方ではムーサーﷺの、『出エジプト記』での、ファラオを前にしての「我が人々を解放せよ」って言う場面、ヘブライ人のことですよ勿論。が一般的に膾炙した結果であって、私昨日の夜ウィキソースで英語版の『出エジプト記』読み直したんですけどね、そのまんまの表現は出てこないんだけど、黒人霊歌の『Go Down, Moses』ﷺっていうルイ・アームストロングが唄ってる曲とかあるんですが、その曲の歌詞の中で出てきます、 Let my people goっていうね。メタリカの同じ『出エジプト記』ネタの『Creeping Death』にも出てきましたよね。だから解放するっていうニュアンスがあるので、「ふたりで星々を解放したあの素晴らしい夜」……だめですね。この漢字2文字は注意しなきゃいけないから、「ふたりで星々を解き放つ」でもいいんですが、この場合、〔遊ばせた〕というふうにしてみました。「遊」という漢字には「遊弋」とかいうように慣性のままに従っている、自ずから動いているわけではなく、ふわ〜んと遊泳しているっていうニュアンスもあるし、あるいは方々を、そこかしこに向かうっていう意味もありますね、「遊説」とか言いますね。それが活かせると思うので、〔ふたりで星々を遊ばせた〕、星々を go の状態にしたっていうのを〔遊ばせた〕というふうに訳しました。で “one gorgeous night”, 〔あの素晴らしい夜〕。「あの」はやっぱり one のニュアンス入れたかったので、若干ごちゃごちゃするかなぁって思ったんだけど、いや実際読んでみたら一呼吸置ける感じがあったので、〔あの素晴らしい夜から〕と訳しました。〔一体どれぐらい経ったでしょうね〕。原文では ? は remember me? のとこには付いてるが、疑問形であり・ある種の詠嘆が込もっています。「ふたりで星々を遊ばせたあの素晴らしい夜から一体どれぐらい経ったことだろう!」っていうね ! 終わりでもいいくらいですよね。
 で、また同じ文型の “Paddy Joe, say Paddy Joe” が続いたあと唯一違うのは、続く “How long ago one gorgeous night / We let the stars go free”, free が付きます。ここだけ違ってくるので、〔ふたりで星々を解き放ったあの素晴らしい夜〕っていうふうに訳しました。ギリギリ合格でしょうね。これは「解放した」だとカタすぎるからね。〔一体どれくらい経ったでしょうね?〕。


◎パディ・マクアルーンの文彩trope


 はい、とりあえず最初のヴァース、コーラスの往復を訳し終えましたが、ある程度歌詞を楽しむ習慣のある方々にとっては、「いや、こういうの良いと思うよ」っていうふうに受け取られてると思うんですよね。とある主人公=パディ・ジョー……あー説明忘れてたね、あ、したか? パトリックの名前だっていうことは説明したか。で、このパティ・ジョーが、必ずしもパトリック・ジョセフ・マクアルーンと同一人物ではないと考えた方がいいと私は思ってます。このバンドにウェンディさんというメンバーがいて、その方はアングロサクソンなのかな。その人に向けて幼少期を思い出しつつ唄ったラブソングだっていう解釈があったんだけど、それ面白くないよって思ったのね、私は。バンドメンバーの実際の揉め事だとか色恋だとかを作品そのものに適用するのって面白くないですから。そういうバンドマンの伝記映画もほんとに面白くないですから。それより大きくなってしまうっていうのが音楽を作るうえでの怖いことであり・素晴らしいことでもあるから、パトリック・ジョセフ・マクアルーンがウェンディさんに向けて唄った曲であったとしても、それよりも大きいものを含み込んでしまうっていうのが怖いんですよ。音楽家であればその業は知ってるはずですね。私が尊敬するソングライターは知ってるはずですから、その解釈は採りませんでした。「ある主人公」です、このパディ・ジョーはね。マクアルーンの話ではないかもしれない、っていうことを踏まえておきましょうね。

 それで、「いやこれ良いと思うよ」って感想持たれたでしょう、皆さん。過去を回想しつつ、炎のモチーフが実に巧く用いられつつ、そうだなぁ、1番の時点では甘やかな歌に聞こえますよねぇ……っていうふうに、うん、早速2番に入りましょう。もうそれが早いでしょう。2番こうやって始まります、 “There was a boy I used to be”, 〔かつて僕だった男の子がいた〕ってこの書き方も凄いと思わないか? 「かつての僕はこう思ったもんだよ」みたいなことでさえなく……やっぱりね、さっき私が「パディ・ジョーとマクアルーンは同一人物ではない」って言ったのと同じで、この「かつて僕だった男の子」ってヤバいよ。だって今そうじゃないのかよって、連続性はどうなってるんだって話で。「かつて僕だった男の子がいた(現在の私はその男の子ではもはやない)」っていうことですから、おいおいっていうね、いきなり始め方をするわけで。
 続きます、 “I guess that he was cold”. “he was cold” は直訳すれば「冷たい状態にありました・体温が下がっていました」っていうふうに訳せますが、まあ風邪ですよね。 caught a cold だと思えばいい。“I guess”, 〔たぶん風邪をひいてたのかな〕ってふうに訳しましたが。さあ、1番目と比べてみましょう。1番目でこの男性が catch していたように思えたのは「彼女」の炎でしたね、回想しながらね、もちろん。2番の中でも回想で始まるわけですが、その時にこの男の子が、〔かつて僕だった男の子〕が catch してるのは cold, 風邪であるっていう。おお〜対になってますねぇ、パディ宿ってるねぇって言いたくなりますよね。対になってますよ、 catch はここでは省略されてるけど。でも、ってことになるわけですが。いま風邪引いてるこの子、風邪ひいたら体温上がりますよね、当然。で1番目で彼がキャッチしていたのも「彼女」の炎で、それは恋心の比喩だと解釈できたわけですよね。どっちにしても身体がポッポッてして微熱が出てるわけですよ。 flame と cold っていう、熱いもの/冷たいものっていうふうに分けられてるように思いつつ、この文章の効果の内容は同じ=ポッポッてなってる男の子の状態っていう、文字上の違いにも拘らず文章の内容が同じっていう……これパディ宿ってるぜぇって言わなきゃだめですよ、皆さんもね。文彩ってこういうことだと思いますよ。「文章の才能」ではなくて「文に彩り」ですね。文に彩で文彩といいます。これちなみにアフリカ文学の重要語句で、 trope っていうふうにローマ字アルファベット圏では言われます。ちょっと発音わかんないんですが、詳しく知りたい方は『シグニファイング・モンキー』っていう本読んでくださいね、面白いですよ。

 この文彩が宿っているマクアルーンの技に驚きつつ、続きましょう。“If she came to buy him now”, おお him になっちゃった。 buy me now じゃないってのが、今気づいたけどすげぇな客観視してるねぇ、この現在のパディ・ジョーは。 “If she came” 過去形、あーこの過去形にも二重の意味があるな。もちろん「過去に彼女が来てたら」ってこともありますが、叶わない望みを言うときは I wish I could ってなもんで、動詞は過去形になりますよね。「もし彼女が来てくれてたなら……」っていうニュアンスも重なってるぜ、宿ってるぜパディすごいなぁ。 “If she came to buy him now”, これね、文章続くから次の行も読みましょう。 “How cheaply he'd be sold” ですが、 how の使い方が巧いなぁ。「どれほど安く彼は」、 “(woul)d be sold”, 売られていたことだろう。これ buy と sold で対になってるから流れで訳さなきゃいけないんですが。〔もしあの娘が買い収めにでも来たら〕、買収ですね。どのような状態の彼を? 風邪をひいている頃の彼を。買い収めにでも来たら “How cheaply he'd be sold”. これね直訳すれば、「どんな安値で彼は売られたことだろうか」ってなりますよね。「どのような安い価格で彼は身を手放したことだろうか!」っていう詠嘆形だと訳せます。で、これを私は平たく、〔ころっといかれちゃったろう〕っていうふうに訳しました。人身売買の話じゃないので、さすがにこれは。〔ころっといかれちゃった〕っていうふうに訳しました。


◎ “Paddy” の名が揶揄われる理由


 ちなみに、最初に言っとくの忘れてたなぁ。なんで「彼女」が「僕」の名前をからかうのかっていうと、単純に場所がイングランドで、「僕」の名前がパディ=パトリックだからですよ。「彼女」は多分アングロサクソンで、イングランド国教会に属する(日本語的に一番通じる表現で言えば)イギリス人なんですよ。に対してパディ・ジョーは、アイルランドからの移民で、国籍をUKで取っただけの人なので、浮いてるわけですね要するに。「彼女」はイングランド国教会の church に行くのかもしれないし、カトリックに属するパディ・ジョーは chapel に行くのかもしれませんね。ローマカトリックなのか、アイルランドカトリックなのかはまぁ別として、 chapel に行くでしょうね。それでクラスに……学校通ってるでしょう、そこで知り合ったのかもしれない「彼女」と。そこでパディ・ジョーですって自己紹介して、「彼女」が食いついてきたんでしょうね、あのイングランド人の女の子が。「へえぇパトリック? 珍しい名前だね。ねぇパディ、どこのチャペル行ってるの?」みたいな感じで、「彼女」が前のめりに話しかけてきたんでしょうね。ああ微笑ましい光景だなって思うかもしれないけど、これ実はね……あのちょっとね、良くないと思うんですよ。なぜなら United Kingdom においてアイルランド系移民は少数派であるはずなので、の上でアングロサクソンは少数派の人々を支配してる側の血筋に連なるはずなので、不均衡があるわけですよ。アングロサクソンとアイリッシュの間では。それでアングロサクソンの方が「おおパトリックって珍しいね」ってふうに〔僕の名前をからかうんだよ〕っていうのは、感じ悪いじゃないですか単純に。感じ悪いんですよこれ実は、読み飛ばしそうですけど。例えば日本に置き換えれば、喜屋武ていう漢字3文字の苗字の人が東京の学校に転入して、「えー喜屋武? なーにそれすごい珍しい苗字、どこ出身?」みたいな感じで東京モンのませたガキが沖縄の子に話しかけてきたら、感じ悪いじゃないですか。出自が違うしそれ面白がるんじゃねぇって話になってくるので、これもね、実は〔僕の名前をからかうんだよ〕っていうこれ、実はねこの女の子感じ悪いんですが、にも拘らずその女の子の屈託ない態度に魅かれてしまっているパディ・ジョー、っていう曲です。甘苦いねぇっていうふうに思えるんですが、2番に戻りましょうね。
 で、そのアングロサクソンがパディ・ジョーを buy now, 買いに来たらって恐ろしいぜおい。奴隷の身に落とすのかっていうことですが、で “How cheaply he'd be sold”, パディ・ジョーは「どんな安値でも身を売り渡したろうね」っていうこのね……大事なこと言いますよ。この女の子のほうに社会的・経済的地位の高みが置かれていて、男性側が下にあるっていう、この状態。軽々しくフェミニスティックと言っていいのかどうかわかりませんが……ただこのパディ・ジョーは「彼女」を崇拝しているわけではありませんよね。私が尊敬する(ほとんど日本で唯一の)フェミニストだといっていい菊地成孔さんの言を借りれば「尊敬と崇拝は全く別」だっていうことで。あの女性崇拝って単に女性差別だから、説明しませんけど。そういうふうになっちゃうんですが、そういう態度では全然ないよね。『推し、燃ゆ』みたいな感じでは全然ないですよね。対等の立場で、かつ社会的な立場の差もあるのにも拘らずなんか魅かれているっていう、おいパディ・ジョーっていう歌詞ですからこれは。


◎所謂「西欧」におけるイスラーム遺産の継承または略奪について(ダンテを気まずくさせつつ)略述する


 これが何かっていうと。このフェミニスティックな歌詞の書かれ方、男性↓女性↑っていうこの身の置き方は、やっぱりねー源流を求めるとアラビアの思想に行き着きます。「お、いきなりどうした?」って話になるかもしれませんが、やっぱりねームスリムの私としては思い出すわけですよ、ハディージャ様のことを。我らが聖預言者ﷺよりもはるかに歳上でお金も持っていたハディージャ様が、いきなり我らが聖預言者ﷺを「婿としたい」っていうか、「我が夫となってください」っていうふうにいきなり言われてびっくりしちゃうわけですよ、謙虚な男性である我らが聖預言者ﷺはもうびっくりしちゃうわけですが。このね、庇護的立場が女性側にあり・庇護される立場が男性にあるっていうこれはねぇ、イスラーム以降の世界じゃなきゃ成立しない構図だっていうこと皆さんお解りいただけるでしょうかねぇ。
 これ言うには「宮廷愛」の話もしなきゃいけない。 amour courtois, セルバンテスの『ドン・キホーテ』の原流にあるこの amour courtois の、遡ればオック語ですね、トレド、プロヴァンス、ラングドックあたりの南仏に発祥した騎士の物語ですね。それは、女性を高貴な者として置き・男が傅くっていう。それのパロディーを16世紀にセルバンテスがスペインでやったわけですが、この amour courtois, 宮廷愛の騎士の在り方っていうのを遡ればアラビア思想に行き着くわけです。まぁ、グラナダが陥ちる前のスペインがイスラーム圏の一部だったことを踏まえれば当然なんですが、こんなことは。1492年以前のスペインがどういう場所だったか解ってれば当たり前の話なんですが。で、それの元の元を考えれば、それはもう聖預言者ﷺを、 vulnerable な状態だった彼をお護りになった、非常に尊い女性:ハディージャ様の立場を思い起こさずにはいられないですよね。この、いきなり「彼を買いに来たらどんな安値でも身を売り渡したろう」っていうこの、パディ・マクアルーンが書いた歌詞を思い出しても、そのエコーが感じられますよ。残響としてのこの構図、身分高い女性・下の男性っていうね、これ。さっき十字架のヨハネの話しかけたけど、ダンテの話もしますか? ダンテもまんまですよ。13〜14世紀の人だからね、ダンテ・アリギエーリは。あの人の代表作である、表向きはイスラームを殆ど憎悪混じりで邪険に扱っているように思える『神曲』(とくに地獄篇)でさえ、実はどれだけ多くのものをイスラーム成立以降のアラビア思想からパクって成立しているか、っていうことを……あ〜説明無しで通じる世界がねぇ来てほしいなぁと思うんですが、今イタリアの首相の座についている、あの非常にムキムキマッチョな「男性」にも知ってもらいたいことですが。
 そのダンテにおけるベアトリーチェ=女性の扱われ方っていうのは、『ファウスト』のグレートヒェンとは全然違うんですよ。『神曲』と『ファウスト』並べてなんかね、「キリスト教文学の最高傑作だ」みたいな、「どっちも同じ価値だ」みたいなこと言っちゃう人いますけど、あのぉ解ってないっすよ、読んだことないでしょって思いますよ。『ファウスト』の方では、グレートヒェンは結局「理性ある」知識人=ファウストの生贄として捧げられて、死んだ後で「永遠に女性的なものが私を惹き揚げる」ってねぇ……都合のいいことしますよねドイツ人っていうのはね〜嫌いですねぇ私そういう考え方。「生贄に捧げて死んだからもう聖なる処に行きました。私を惹き揚げます」。あぁバカみたいだなって思いますが、逆に『神曲』のベアトリーチェの扱われ方は、特に煉獄篇の終わり、面白いんだよね〜。あのダンテはねぇ、絶対にね、ウェルギリウスを尊敬してなかったと思いますよ。『神曲』とくに煉獄篇に関して「これはダンテが書いた、尊敬する詩人ウェルギリウスとの夢小説だw」みたいなことを言っちゃう、ね、文学系腐女子みたいな、ほんとに可哀想なくらい面白くなくて頭の悪い人たちがいたんですが、そういう人たちと私一時期、 Twitter やってたころ付き合ってたんですが。生涯の恥ですね、あれはもう。そういう人たちがいるんですが、『神曲』読んだことないですねっていうことがわかります。とくに煉獄篇の終わりまで読めなかった人なんだなっていうことがわかります。煉獄篇の終わりの方で、天国篇までのつなぎの部分で、天国への段取り整いましたってところで、ウェルギリウスいきなり消えるんだよ。何の説明もなく消えるわけ。あの正宗白鳥みたいなキリスト者の小説家は、大江健三郎さんが指摘してらっしゃったんですが、正宗白鳥はその詩人(ここでは主人公=ダンテとしますが)、「ダンテとウェルギリウスが涙ながらに、今生の別れを交わす場面があって、これはもう涙なしには読めない」って正宗白鳥言ってるらしいんだけど、そんな場面存在しないんですよ。いきなり消えてるの、蒸発するようにして。ガスがプスーッと抜けるようにして、いきなりウェルギリウス消えてるわけ。地獄から煉獄の終わりまで案内してもらって、「もう天国に行く段取り整いました、ありがとうございます、帰ってください」っていう扱いなんですよ、虚心に読めば。いやぁダンテあんた申し訳程度の尊敬だろぉウェルギリウスに関しては、と思わざるを得ないんですがね。

 それに対して誰が居るか? ベアトリーチェですね、女性がいます。煉獄篇の終わりでいきなりダンテに出会い頭に説教かます場面が、凄まじい名場面なので、ぜひ皆さんねぇ読んでいただきたいですよ、どの翻訳でもいいから。で説教されたあと天国に案内されて、天国篇でのベアトリーチェのなんとイケメンなことかっていう。男性中心主義的な表現をうっかり使ってしまいましたが、でもイケメンとしか言いようがないよあれは。男が不安にソワソワ慄えていて、天国に来ていろんな聖人や天使と遭って、ソワソワ慄えているダンテに対して、ベアトリーチェが眼差しひとつで、「キッ」てこう眼差しを注いで、それによってダンテの不安が解消されるっていう、ベアトリーチェの眼で始まってベアトリーチェの眼で終わる章が天国篇にあるんですよ。そのイケメンさたるや、ってことですよね。で、このような、女性を知識人として、男性よりも知性的な存在として、「導いてください、お願いします、教えてください、私は天国について何も知りませんから」っていうこの謙虚な姿勢が如何に『ファウスト』のあれと異なっているか、って事はねぇ読めば解るんですが、読んでない人には解りません。で、この『神曲』の天国めぐりの構図が、我らが聖預言者ﷺの『ミアラージュ』……なんて訳されるんだあれ? 忘れちゃった。あのキャメルっていう、イングランドのバンドがね、アルバムにしてますが『Mirage』。『夜の夢』とか訳されるのかな? 天国に実際に行って帰ってくるっていう旅の伝承があるんですよ、イスラームの初期文献の中に。それに取材してダンテの『神曲』が書かれたっていうのは、13〜14世紀の一神教徒の立場を考えれば仕方ないことですよ。ね、パクリとか言ってもどうしようもないんですよ。なので、『神曲』を最初から最後まで読んで、「いやぁダンテくん、あからさまじゃないかぁ」って脇に腰掛けて、肩をポンポンと叩いてあげるのが、知性あるムスリムとしての振る舞いですよ。焚書なんかしちゃだめですよ、だって『神曲』全編にはダンテの弱点が全部書かれてるんだから。読んだうえで、「ほっほぉ、なるほどね」ってわかったうえで、ザクザクザクって分解して「なるほどダンテくん、君は最後の一神教であるイスラームの遺産をこのようにして用いたのだねぇ、興味深いなぁ」っていうふうに指摘してあげれば、あのイタリアの首相の「男性」なんかもう非常にピキピキって腹を立て、本当のことを言われると人間、腹を立てますからね。指摘してあげるのがいいですね……って、歌詞カード放置して長話しちゃった。 “buy him now” のとこでしたが、『We Let The Stars Go』の歌詞でも、そのようなフェミニスティックな男性の、教えてもらう側の男性、買われる側の男性……ねぇ、十字架のヨハネなんか「男性が抱かれる詩」ばっか書いてた人ですぜ、スペインのカトリックの中で。それは異端扱いもされかけるよねっていう話で、ダンテもね。イケメンのベアトリーチェ様に……この「ああっベアトリーチェさまっ」が、こう身を低くした、「教えてくださいお願いします」、説教されても「ああ正論ですほんとにすいませんでした」って言われる男性の話なんだっていうことを踏まえなきゃいけないですよ、ほんとに。


◎アラビアとケルトの、特異なまでにマゾヒスティックな文学観


 で、言い忘れてたんだけど。この人類史に殆ど類例を見ない、女性を高みに置いて・男性を低みに置いてっていう、このフェミニスティックな文学の在り方っていうのがイスラーム思想以前、以降に……いやわかんないなぁ私詳しくないから、イスラーム以降にも在ったとすれば、それはケルトの聖杯伝説だということになるでしょうね。成立いつなのか知らないから、あれもねぇランスロットの浮気とかはダメだろって思うんだけど、基本的に女性を高貴な者として置いてますよね、騎士なのにも拘らず。これがゲルマン的な騎士の在り方と如何に異なっているかっていうことも『ファウスト』につながってくるんですが。「イスラーム以外にも聖杯伝説だって十分にフェミニスティックだよ」って言いたくなった方は、多分もう近づいてるんですよ。私が指摘した問題系と、一緒に答えに近づいているので、あとで教えてください。聖杯伝説が、あの辺の小さい島国のあたりでどのように成立して・起源はどのように特定されるのか・果たして北欧なのか本当に? っていうことまで含めて本読んで教えてくださいね。そしたらもう答に到達できると思います。答を出すのは私の仕事ではないと思ってるんで、問ばっかり投げたいと思ってるので。答を出す事は私の興味ではないですが、そうですねケルトの聖杯伝説も十分にフェミニスティックです。かつパディ・マクアルーンも、アイルランド系の末裔として、このような歌詞を書いているということが……非常にねぇ、いろいろ噛み合いつつありますよね。「イスラームとアイリッシュの文化は何故こんなにも近いのか?」っていうのが私、ずいぶん長いこと興味の対象だったんですが。どちらも緑色を尊ぶ文化だということだけでは説明されない、なにかこうね、ジョイスの『ユリシーズ』を思い出さずとも、こう男性が低みにあって・女性がイキイキピチピチしてるって感じがありますよね。これなんでしょうねって思ったんですがねぇ……
 そうだな『ユリシーズ』関連で言えば、ギリシア=ローマ哲学を一番ちゃんと継承して保存したのはもちろんイスラーム(とその領内にいたユダヤ人)だっていう事は常識ですが、やっぱ何かあるよねっていう。アイルランドの文化とイスラームの文化、共通するものは何か? 不思議な、マゾヒスティックなまでにフェミニスティックな文学観っていうのがあると思います。「いやイスラームそのものが女性差別じゃねぇかよ」とか言いたくなっちゃった人は、もうちょっと勉強しなさいね。ハムダなおこさんっていうムスリマが書いた本が既にいくつも出てますから、一番とっかかりやすいものとしてそういうのを読んで勉強したほうがいいですよ。あなたの無知を矯正するための本は既に書かれています、ということで。ハディージャ様と我らが聖預言者ﷺの、この御二人が存在しなければ別の世界は、ヨーロッパにおいてだけではなく、地球上に誕生しなかったのだから。あのアンリ・ピレンヌが言うように、なんでしたか、「イスラームなくしてシャルルマーニュなし」でしたね、あの高名な言い方は。ということがあるので、まぁ政治的にも文化的にも、当然文学的にも、殆ど時の隔たりを感じさせないほどに、もう批判のしようがないほど美事だっていうものが、20世紀までにと大きく括りますけど、在るとしたらそれはイスラーム成立以後のアラビアに発生した思想と、聖杯伝説くらいだなって……ムスリムとしてそのふたつ並べていいのかっていう指摘は正当ですが、同じくらいに文学としては、聖杯伝説も価値あるものだと思います。この特異な点ね、これ私一回取り扱ったことあるんですが。『χορός』っていう64万字になった小説で取り扱ったんですが、そこにもアイルランドの人とイラン出身の人が出てきて、いろいろ紡いでいくわけで、その小説の第6章にもプリファブ・スプラウトの曲が登場します。『Appetite』の歌詞が引かれます。この『χορός』っていう小説は、21世紀の『ユリシーズ』を100回目の Bloomsday 以前に作っとこうっていうコンセプトで私が2020年末に書き上げた小説なので、パトリック・ジョセフ・マクアルーンの作った曲が引用されるのも当然の流れだったと言えるでしょうね。

 かといってね、私がムスリムだからといって所謂「アラブ諸国」を好意的に思ってるなんて考えないでくださいよ。サウジアラビアだとかエジプトだとかトルコだとか、大っ嫌いですから私は。特にトルコはほんとに大嫌いですから。もちろん民のことじゃないよ。元首面してるあのバカどもの話ですよ。そもそもね、一番簡単に言うけど、国家という概念に賛成してる時点でイスラームじゃないんですよ。多神教崇拝だからそれは。国家みたいな金持ちのアリストクラシーを覆すために一神教の使徒ﷺは来たはずなので。イーサーﷺだってそうだったはずなんですよ。キリスト教とか言いながらアリストクラシーやってる奴らはアホかって話と同様に、石油にしがみついて国家の体制を温存してる「アラブ諸国」のバカどもは何考えてんだ、ムスリムですらないよお前は、というのが私の意見なんでね。まぁイランはね、イランに関すると採点が甘くなっちゃうのが私の悪いところなんですが。アメリカやフランスや日本が全然民主的じゃないよ、民主主義とは何の関係もないぜフランスみたいなのは。っていうのと同じで、キリスト教徒はイーサーﷺの教えとは何も関係がないし、「アラブ諸国」の連中はムスリムですらないっていうのが2023年の現在ですね。はい、話戻しますか? 『χορός』っていう小説はまさにそのことを扱った小説です。その中でプリファブ・スプラウトの『Appetite』も扱いました。

 歌詞に戻るぜ。どんだけ無駄ではない関係ある話をしてしまったのか。 “How cheaply he'd be sold”, このね、立場が弱い男性:パディ・ジョーは〔ころっといかれちゃったろう〕って私は訳しましたが、身分低いなぁっていうね。この自己卑下では必ずしもないっていうのがポイントですが、続きます。 “But the light is gone and it is dark”. しかし、 the light, 明かりは is gone, 現在に起こってるっていうこと。 the light が gone, 灯りが消えるっていうのが「現在消えた」。そして “and it is dark”, こちらも「現在真っ暗だ」。なので、現在に属すること。映画のカットだと、パッて場面が変わる感じを思い出していただきたい。 “But the light is gone and it is dark”, 〔でも灯りは消えて、今は真っ暗で〕と訳しました。

 次行きましょう。 “What used to be the sky is suddenly embarrassing”.「かつて空だったもの」ってお〜い、またヤバい書き方をしてるよ。宿ってるねぇパディ。 “What used to be the sky” この sky は sunny sky とか言われてないから、まあ夜空でもいいんですが、青空だってことでしょうね。 “is suddenly embarrassing”, が、「いきなり恥ずかしくなってきたなぁ」。 light が消えて周りが dark になったことが現在に起こっていることによって、かつて青空だったものが、いま真っ暗で、なんか恥ずかしいよ。どのようにして? “To the naked eye”, この裸眼で見たら。裸眼って訳せば100点なんだけど、詩的ではないからね。どのように訳したかというと、〔さっきまで青空だったものが、いきなり恥ずかしくさえ映った/この素面の眼には〕っていうふうに訳しました。倒置形ですな。まぁ有効でしょうここでは。〔恥ずかしくさえ映った〕っていうのは、 “suddenly embarrassing” って言ってるだけだから、 see とか watch とか眼に関する動詞は使われてないんだけど、 “To the naked eye” っていうこの最後の倒置形で「見た」っていうことが強調されてるはずなので、良いでしょうこれも。


◎実は分裂している「彼女」と「パディ」


 はい、電気ケトルの中のお湯がすっかり微温くなっちゃってて、微温いお茶を飲みながら続けなきゃいけないですが。これも時間の経過にまつわる温度の変化であって、この歌詞のテーマと一致しますね。はい続けます。 “You see:” サビ(フック)はこうして始まります。 “Paddy Joe, see Paddy Joe / Can't face this memory”. “You see:” は「君はわかるだろ」っていうふうに言えばいいんだけど、〔弁えなよ〕っていうふうにしました私は。ここでね、1番目のフックと比べてわかるのは、彼女が「」に入れた形で、おそらく架空の「彼女」が……実際に無かった思い出ですよ。あの “Don't you remember me?” とか言われてないんですよ多分、パディ・ジョーは。同じように、この「彼女が私を買いに来たらいくら安くても売り渡したろう」っていうこれも、起こってないんですね。風邪をひいて、多分その朦朧とした、微熱の中で勝手に見た夢なんですよ、「私を買いに来た」っていうのは。だからこれ、「架空の彼女」と「実際にクラスメイトか何かだったアングロサクソンの女の子」との思い出が2層に分かれているっていうの最初に言いましたけど、意味わかったですよね。こういうふうに、本当にあったことなのか疑わしいっていう箇所の動詞はだいたい過去形が用いられている、っていうことですね。この風邪をひいてるパディ・ジョーも、こう家で寝てて、そこにいきなり女の子がバッてドア開けて「なぁにパディ・ジョー、体調崩してるんだって? 学校休んでたの今日あんただけだよウケるー」みたいな感じで、うどん……アイルランドとかイングランドとか言ってたのにいきなりうどん。あのへんの人たちは風邪ひいたら何食べるんでしょうね、牛乳に何か溶かすんですかね? それでまぁうどんを買ってきて、「パディ・ジョーこれ食べて元気になりなよ」っていきなり言ってきて(女の子がですよ)、袋に入った素うどんで、「卵ぐらい一緒に買ってきてくれたらいいのになぁ……」みたいなことを何か幸せな気分で思いながら寝ているパディ・ジョー、この状況は存在しなかったかもしれないんですよ。手前勝手な思い出かもしれないので、2番目のフックで自分自身にこう語りかけるわけですね。 “Paddy Joe, see Paddy Joe / Can't face this memory”. 〔なあパディ・ジョー、その思い出に浸っちゃだめだよ〕って訳しました。この can't は Paddy Joe=me なので You can't でも Paddy can't でも同じ意味になるわけですが、これは不可能=能力が無いという意味での can't と考えていいんだけど、というか can't が文頭に来ればそう解釈する方が自然なんだけど、これ禁止のニュアンスだと私は受け取りました。ダメってことです。 “(You) can't face this memory”. 「君はその memory に直面すること face を禁じられてるんだよ」、って自分で自分に言っているわけです。現在の自分に現在の自分が言ってるわけです。ここでね、また分裂してくるんですよね。

 次、 “How long ago one gorgeous night” 出てきましたねまた。“We let the stars go”, お、同じだ。そう、「彼女」の言い方と同じです。でも言ってる人が違います。訳し方は私、あえて変えました。パディがパディに言う、〔ふたりで星々を遊ばせた素晴らしい夜ってのは、どれくらい前のことだよ?〕っていうふうに訳しました。ふたりっていうのはもちろん「彼女」のことですが、「彼女」と星々を遊ばせた素晴らしい夜っていうのはどれくらい前のことだよ(今じゃないだろ)ってことで、さっきの「お前はその思い出に直面しちゃいけないよ」っていう禁止とかかってくるわけですね。
 続きます。 “Paddy Joe, see Paddy Joe / Can't face this memory”. 〔なあパディ・ジョー、その思い出に浸っちゃだめだよ〕。“How long ago one gorgeous night / We let the stars go” 同じですね。〔ふたりで星々を遊ばせた素晴らしい夜ってのは、どれくらい前のことだよ?〕。うん、 “Long ago one gorgeous night / We let the stars go” で続くんですが、この(最後の)2つの文節だけ How が取れて Long ago で始まります。 “Long ago one gorgeous night” って言われると Once upon a time みたいなニュアンスを帯びますね。 “Long ago one gorgeous night”, 「昔だ、その one gorgeous night は」っていう。 How が取れることで、「どれくらい?」っていう疑問形と、「嗚呼」っていう詠嘆形が抜けて、単に時間が隔たっているっていう情報だけが残るわけです。宿ってるぜパディ、細かいが。 “We let the stars go” これどう訳したかっていうと、〔ずいぶん経ったろ、ふたりで星々を遊ばせた、あの麗しの夜から〕って訳しました。〔麗し〕っていう文字通り麗々しい表現使いましたが、これ皮肉ですね。自分で自分に皮肉を言ってるわけです。


◎この詞の核心(Long ago one…)


 さぁ来ました、怖いのが来ました。この曲の中で一番の大仕掛け。同じメロディーが同じ歌詞で繰り返されるかと思いきや……読みますよ、怖いなぁ読みますよ。 “Long ago one stupid night / We let the stars go free” って来ます。 “Long ago one gorgeous” だったものが最後だけ “stupid night” っていきなり来るわけ。「うおおお」ですよこれ皆さん「うおおお」が正しい反応だと思いますよ。私ねえ、この曲初めて聴いた時はもちろんバカの中学生ですから、バカの中学生なりに「うおー」って言いながら聴きましたよ。凄いからだって曲が。1曲目『Looking for Atlantis』のドラムの入り方からして「うおー」って思いましたよ。『Moon Dog』とか『Jesse James Bolero』とか「うおー」って思いながら聴いてましたが、歌詞の内容まではさすがにバカの中学生だから解ってないんですが、福岡に引っ越してきて、天神のTSUTAYA(もう閉まってしまったね)でプリファブ・スプラウトのベスト盤借り直してきて、それで改めて歌詞に注目したらこんなことが書かれていた! ってなって、その残響で今なんですよ。 “Long ago one stupid night” って最後、 gorgeous だったものを、「彼女」の口からも gorgeous って言わせて・今までも gorgeous な麗しの夜って振り返ってきたものを、最後に stupid night って諦め混じりに貶めてるわけですよね。あの思い出(おそらくは架空)の夜を。それを振り返っている自分自身の視座さえも、 stupid だって切り捨てるように・諦めるように・嘲笑うようにして言うわけです、最後のフックの終わりで。「We let the stars go free は stupid night だったね……」っていう、いや「ぐあああ」ですよね。これ聴くたびにもう「ぐあああ」が弱まらないですよ。この stupid night っていきなり耳に叩き込まれる瞬間の「ぐあああ」感は決して弱まらないですよ。パディ、いやぁこの曲たしか3分半だが、こんなにも多くのことを詰め込んだか。私が最初に「入り組んだ時間と主格の歌詞だ」って言ったことがもう完璧に理解できたでしょう。いやぁー stupid night って……

 で、この曲のアウトロに至るまで工夫が詰まってます。 “We let the stars go free↑” って唄うのは女性ボーカルだけです、女性ボーカルだけ2回唄います。その後 “We let the stars go free↓” ってパディ・ジョーがハモります。男女ハモりが2回続いてこの曲終わります。で、おそらく「彼女」はもう過去にしか存在しない「かつて知り合った女の子」なんだから、追憶することでしか干渉し得ない存在じゃないですか。で、その過去に属するあの女の子と現在のパディ・ジョー(自分に対してパディ・ジョーって言ってますからね、恐ろしいことですよ)が声を重ねる瞬間ていうのが2回アウトロに込められているわけ、ハモりで。これがねぇ、まぁ狂った時間が表出しますよね。『ハムレット』でいう「蝶番が外れた時間」ですよね、「うわああ」ってちょっと心配になるんだよね。異なった時間に属する2人が声を重ねてハーモニーしてるわけですから、ちょっと怖いし心配になっちゃうわけですよね。でも美しい。最後には「美しい」としか言えなくなってしまうこの曲。まとめに入らざるを得ませんね。


◎半分切り落とされたことによって何かができるようになった人(そしてアイリッシュがどんどん来る)


 この曲、結局どういう歌詞だったかというと、私はパディ・マクアルーンの作曲家としてのキャリアも踏まえた上で言いますが、結局「何かを諦める」という歌詞の内容だったと私は解釈してます。ただ「諦める」っていうのは陰鬱なふうに捉えられるかもしれないけど、そうじゃなくて。「何かを諦めることによって何かができるようになった人」の話なんですよ、この『We Let The Stars Go』の歌詞は。昔はこの、幼い頃のパディ(=マクアルーンと、敢えてここではしますが)は、こういう自分にとって都合の良い女の子関係の空想にふけって幸せな状態がありました……あぁジョイスの『若き藝術家の肖像』を思い出さなかった人はいないでしょう。同じアイルランド系、じゃなくてアイルランド出身の世界市民ですが、そういう若い藝術家の肖像がここにもあるわけで、そういったものを追憶しながら、非常にイスラーム思想の影響さえ感じさせる書き方を交えながら、美事な書き方をしながら、最後には「その思い出に浸ってはいけない」、禁止。 can't, この倫理的な……あのねいきなり話飛ぶけど、倫理と道徳って全く同じ意味ですからね。同じ ethics っていうラテン語の翻訳が別の形で残ってるだけですから、道徳と倫理っていうのは同じ意味ですよ。だから「日本人としての道徳と倫理を取り戻さねばならぬ!」ってなんか偉そうに演説してる人がいたとして、それは「日本人としての炎とファイヤーを取り戻さねばならぬ!」と言ってるのと同じで、同じ意味で別の表現になってるものをなぜか並べている人ですから、「すごいバカが来たなぁ、こいつは」って思われなきゃいけないんですよ。なのになんか「道徳と倫理とは……」みたいなことを並べてなんか気の利いたこと言ってるつもりになってる人がいるっていうのは、すごい世界になってきたなぁって思うわけですが。非常に道徳的な書かれ方をしてますこの『We Let The Stars Go』の、特に禁止のくだりですよね、やっぱり。ここで半分切り落とされてるわけです、パディ・ジョーは。昔ながらの思い出に浸る自分を、半分切り捨ててるわけですね。「どれくらい前のことだよ、それは gorgeous じゃなくて stupid night だ、浸るなそんなものに」って自分に自分で言って、過去の思い出というものを半分切り捨てるに至る……でもほんとに脱却できたのか? おいパディ・ジョーって言いたくなるところがミソですが。半分切り落とされたことによって何かができるようになった人の状態です、これは。パディ・マクアルーンのキャリアと重ね合わせてみればそういうことが言えます。なぜなら、昔の思い出について歌ってるだけの曲のように思えるこの『We Let The Stars Go』が、ミュージシャンとして熟練したパディ・マクアルーンの仕事がトーマス・ドルビーの技術と噛み合うことによって、なんと見事な音楽作品として成り立っていることか、と思わせる作品になっているからです。その格が生まれているということが一番大事なことです。その能力を手に入れたんですよパディ・マクアルーンは。この過去の思い出に浸る boy はもういないが、それが半分なくなることによって、なくなった半分を「stupid だなぁ」って、ちょっとね、自分を嘲笑うようにして追憶する。その語り方がこんなに美しい音楽になっているっていう。まさにその状態が浮かび上がるのをちゃんと聴き取らねばなりません、この『We Let The Stars Go』っていう楽曲から。

 だから単なる、「あの女の子との初恋は良いものだったな」っていう追憶の話じゃない。発達の話であり、それによって獲得される能力の話ですらあるっていう……あぁここに喚ばれているのはハリー・スタック・サリヴァンですね。アイルランド系アメリカ人が来ましたね。「昇華は必ずしも真の満足をもたらさない・無窮動的な追求に終わることが多い」ってことを残酷に言ったのがサリヴァンで、ここで彼は(部分的に)フロイトを超えてたわけですが、サリヴァンも来ましたね。昇華のために音楽を作って「君のことを今でも憶えてる」みたいな曲でヒットを飛ばすのが必ずしも良いことじゃないんだよ。っていうのを踏まえてますなぁ、まぁこの結果的に。『We Let The Stars Go』の歌詞読むとわかりますね、そういうことが実際に。
 あの、日本人は今すごい勢いでバカになっててさ。なんか「感傷マゾ研究会」とか、面白いことを言ってるつもりなんでしょうね本人たちはね、なんか「感傷マゾ研究会」とかいって、昔のエロゲとかギャルゲとかシュタインズゲートみたいなやつとか、あるいはシオランみたいな「思想家」を読んでみたりとか、今更シオランなんかを高く評価したりとか、そういう「感傷マゾ研究会」みたいな人たちが日本にいて、ちょっとびっくりするぐらいバカだなって思うわけですが。シオランを読んでベケットは全く読まないっていう、そういう面白い、ひじょうに興味深い人たちが今の日本には簇生しているわけですが。あの、ベケット(よう、お前もアイルランド人だな)を読むためには必ず政治的にならなきゃいけないので、それはね、読めないですよね。今更シオランを崇めてるような人たちには、政治そのものであるようなベケットの作品は読めないに決まってますよね。その代わりに、「無力であることに関してのみ有力である」っていう状態に、もう居直るようになってしまった、そういう状態でなきゃもう日々を凌げなくなってしまったような人たちが大半を占めているこの日本国において、シオランみたいなノンポリ極まりない感傷だけの、反出生主義ですか? ね、いやぁ羨ましいです。そういうのを思想だと思ってしまえる人がほんとに羨ましいですが、私は。そういうのがウケるのは当たり前ですよね。5年くらい前から薄っぺらいストア派の関連書が流行り始めたのを見ても私、同じこと思いました。だってストア派って完全なノンポリ哲学だもんね。それはね、サラリーマンとか起業家だとか、「世界を変えないことが世界を変えることだ」みたいな胸の張り方をするようになってしまった、ある枠内でのゲームの上がり方でなんか人生が決まるとか思ってる、エコノミックアニマルたちの生態に、完全なノンポリ哲学であるストア派は適合するに決まってるわけで、そういうのを商品として売りさばくのは当然の結果ですよ。だからねぇ羨ましいですよ、ストア派哲学みたいなものに時間を使ってしまえるのは。「非常に豊かな時間の使い方ですねぇ。贅沢ですねぇ。まるで皇帝のようではないですかぁ」って私言いたくなっちゃうんですが、ストア派の哲学史的付置がどの辺にあるのかを理解した上でそういう本を売りさばいてる人が今の聞いたら、顔真っ赤にするに決まってるわけですが。羨ましいですね、まるで皇帝みたいだ、ストア派ですか素敵だねぇっていうの聞いたら、もうプチーッ、ブアーッってなっちゃうに決まってるわけですが。そういうバカども、感傷マゾみたいな輩が有難がるものでは全然なくなっている、この『We Let The Stars Go』は。なぜなら、発達に関わる歌詞であり、それによって獲得される能力の話でもある。なぜなら、ミュージシャンとしてのパディ・マクアルーンの仕事の結果として生まれたこの曲が、本当に美しく、ここまで3分30秒のポップスにいろんな時間と記憶と詩的表現を混ぜ入れることができたか、よう双子座のパディ・マクアルーン、お前もほんとにいろんなものを入れるなぁということに、もう詠嘆混じりで賛辞を呈するしかなくなる、そんな作品になっているからです。そんな作品を作るには当然、発達した大人の作り手でなければ、こんな仕事は成されるわけがありません。


◎半分死ぬこと(『アイカツスターズ!』を交えて)


 さて、ここから『アイカツスターズ!』の話になる……びっくりしたでしょう。『アイカツスターズ!』の話になるのかな? 手早く済ませますが。いま言ったような、半分切り離されることによって半分の能力を獲得するという、この人間生産の過程を物凄く美事に描写した作品として、2016年から2年間放送していた『アイカツスターズ!』っていうアニメ作品があるわけですよ。特に如月ツバサさんていう登場人物がいるんですけど、その人の生路を紐解いていくと物凄くよく解るんです。第62話に至るまでの如月ツバサさんの生路が、この人は何かを半分諦めることによって現在の、だいぶエリートなように見えるこの人の経歴が形成されたのは、何かを半分諦めたからだ。そのことによってもう半分の能力を獲得したんだ、この人は。ということが、とてもよく、もう痛いなぁっていうほど、ほんとによくわかるようにできてます。如月ツバサさんの生き方は。『アイカツスターズ!』という作品の中にありますが。それがねー『アイカツスターズ!』の登場人物ほぼ全員そうなんですよね。びっくりするぐらい徹底されてます。とあるすごい能力を持ってしまったが、その半分を切り離さなければ全体が壊死して絶命に至ってしまう、って話が1年目でいきなり出てくるんですが、やりすぎーって思うわけですが。私の今の話聞いて「へぇ面白そうじゃん」て思って『アイカツスターズ!』観始めた人は、間違いなく第21話あたりで引くと思います。ドン引きすると思いますあれは。「そこまで徹底してやれとは言っていない!」っていうふうにファンでさえ頭を抱えるのが『アイカツスターズ!』でしたから。で、1年目から2年目に至るまでそういう話なんですね。半分の能力を失うことによって、現実原則に即した能力を人間は手に入れるんだ。去勢っていうのは半分殺されることですからやっぱりね精神分析的な話になってくるわけだけど、半分殺されることによって半分生きるしかないんだ、人間はっていう。その真実を21世紀において、もう何の恐れもなくやり切った作品が『アイカツスターズ!』であるわけですが、その中の登場人物である如月ツバサさんのことを考えてても、私は『We Let The Stars Go』と絡めて同じことを、観念連合として思い出します。 Stars だということももちろん関わってますが、『アイカツスターズ!』の登場人物全てがそうであるように、自分の理想、自分の夢、自分の目標っていうものが形而上のものとして在るんですが、それはズバッと切り落とされて、生身の、形而下のものとして受胎されるためには半分諦めなきゃいけない、っていう過程を当然経過します。精神分析通り越して産科に入りましたね。切り落とされなきゃ生まれないんですね、酸素を吸うことはできないですね、ずっとお腹の中に居ることはできないですから。医術とは藝術であるっていう、このヒポクラテス……風呂敷広げすぎか? ヒポクラテスが言ってるのは医術っていうのは藝術だってことです。 τέχνη と ars の概念についてはもう各々辞書を引いてくださいね。『アイカツスターズ!』もまさにそういうこと、 τέχνη の話をしてる作品ですからねあれは。


◎「何かができるようになるってことは何かができなくなるっていうことだ」


 そういうわけで、今回この歌詞を訳すことになった私のような者も、ある程度、夢のような若々しい過去に属する夢想・理想っていうのを半分切り落とされることによって、現在の私が成形されるに至った人物であるわけです。他の数え切れないほどの人間たちがそうであるように私もそうです。ね、私みたいな小説書いていま音楽作ってるだけの人間に対しても、「いやそんな10年以上も作り続けられるってすごいことだね」って言ってくれる人がいるんですけど、多分(儲かってないのによくそんな続けるね)って括弧が入ってるんだと思いますが、全然構わないわけですが。そういった私レベルの人間も含めて経過しているわけです、この……「何かができるようになるってことは何かができなくなるっていうことだ」って過程を、特に何かの表現を入手するには絶対に経過しなければなりません。中井久夫さんという精神科医が『執筆過程の生理学』というエッセイの中で解説してらっしゃるのもそういうことです。「理想として追憶されるようなものは、当たり前だが現実ではない。その代わりにいま宿っているものはなんだろう」っていう風な歌詞でもあります、『We Let The Stars Go』は。でもそれは音楽家:パディ・マクアルーンの経歴を踏まえればそういうことに結果的になるだけであって、まずはこの歌詞が含み込んでいる恐るべき時制の複雑さ・特に動詞の現在形や過去形の用い方のちょっとしたニュアンスの違いも活かしきる見事さ・そして let がもはや現在だか過去だかわからないという、この神韻縹渺たる宿り方も含めて、どれだけ味わい尽くしても足りないという名曲でございます。『ユリシーズ』を何百回読んでも足りないのと同じように、この『Jordan: The Comeback』というアルバムも何百回聴いても、どれだけ深いかわからないっていう体験を、私は中学生の頃から続く体験として今語っているわけです。750円で売っていたこの、巡り合わせとしか言いようがない……単なる偶然は天命であるわけですから、イスラームとしても東アジア人としても天命は偶然であり・偶然は天命であるわけですから、このアルバムを入手して、アホの中学生として聴いて、音楽をやるようになって、今このような姿として私は在るわけですが、この曲の歌詞の意味をこのように解釈できるようになるまで15年くらいかかりました。そのような私自身の時間経過も含めた、非常に膨大な時間の流れ、そのようなものが音楽の中には宿りうるし、たった3分半のポップスの中にさえ宿ってしまうということを、この時間と音楽の非常に複雑な絡み合い方を明らかにすることができたとすれば、今回の解説は成功だったといえるでしょう。

 では、私がつけた日本語訳を読み上げようと思います。その後に再び『We Let The Stars Go』の音源を最初から聴く準備をしてくださいね。じゃあ読みます。



 むかし知り合った女の子がいたんだ
 彼女、僕の名前をからかうんだよ
 やたら煽るもんだから、彼女の炎を移されたような気になった
 遠くからの穏やかな声が言うには
「そんなのはただの火遊びだったろ」ってことらしいが
 別の音楽に耳を塞がれてさえ
 聴こえてくるんだ、彼女の声が

 こう唄うわけ
「ねえパディ・ジョー、わたしのこと憶えてる?
 ふたりで星々を遊ばせたあの素晴らしい夜から、一体どれくらい経ったでしょうね?
 ねえパディ・ジョー、わたしのこと憶えてる?
 ふたりで星々を解き放ったあの素晴らしい夜から、一体どれくらい経ったでしょうね?」

 かつて僕だった男の子がいた
 たぶん風邪をひいてたのかな
 もしあの娘が買い収めにでも来たら、
 ころっといかれちゃったろう
 でも灯りは消えて、今は真っ暗で
 さっきまで青空だったものが、いきなり恥ずかしくさえ映った
 この素面の眼には

 弁えなよ
 なあパディ・ジョー、その思い出に浸っちゃだめだよ
 ふたりで星々を遊ばせた素晴らしい夜ってのは、どれくらい前のことだよ?
 なあパディ・ジョー、その思い出に浸っちゃだめだよ
 ふたりで星々を遊ばせた素晴らしい夜ってのは、どれくらい前のことだよ?
 ずいぶん経ったろ、ふたりで星々を遊ばせた、あの麗しの夜から
 ずいぶん経ったろ、ふたりで星々を遊ばせた、あのどうしようもない夜から



 はい、私の滑舌の悪さは言わないでくださいね。朗読に向かない声だなぁってつくづく読みながら思いましたが、皆さんこの曲2回目聴いていただいたと思うんですが、どうでしたか違って聞こえましたか? 「いや動画なんだから音源入れとけよ」って思われるかもしれないんだけど、 YouTube に関しては版権管理されてる音源を中に入れてアップロードすると必ず警告が来ます。2種類の警告があって、「君は今アップロードした動画に特定の権利を持った音源を使ってるけど、まぁいいよ」っていうタイプと、「お前はこの曲の権利を侵害したからどうしようもない」っていう、違った警告が来るんですよ。いわゆる動画サイト上の使用を許可してるかどうかで警告が違うと思うんだけど。それが来るのが癪なので、私は。自分のラジオ動画に味噌つけられるの嫌なので、私の声だけにしました。どうでしたか? 特にね「私が解説したおかげで」みたいなことを言うつもりはないんですが、まさかねーこんな2時間近くしゃべることになるとは思ってませんでしたよ、30分に収めるつもりだったんで。私が双子座でなおかつAB型なんですよね、菊地成孔さんと同じで。双子座でAB型ってことは2×2=4なので、4倍になってしまうっていう。どうしても自分が計画した内容の4倍になってしまうっていうね。わあって慌てながら、さっき言ったように現実原則に即した収め方をしなきゃいけないっていうね。ダーウィンが何座は知りませんが、あの人の『進化論』もだいぶ切り詰めたらしいですよ、当初の構想から。あれだけ切り詰めてあの影響力と内容だっていう話ですから。半分切り離されて能力を獲得するっていう話でしたね。そういうことです。


◎ “Perhaps he could dance first and think afterwards, if it isn't too much to ask him.”


 今回のこの動画、全体公開するんですが、万が一ね、これを聞いて「へぇ、なかなかこいつ音楽をネタにしてしゃべれるじゃないの」って思った人がいたら、あの、仕事ください。KBCラジオ関連の人とかほんとに仕事ください。あの朗読の直後にぴゅーんってイントロが入ってくる、実際の音源を聞かせることができるのはもうラジオの本当のパーソナリティじゃないとできないことなんでね、KBCラジオの人とか仕事ください。期待以上の仕事をしてやるから。なんで喧嘩腰なんだ。

 さて、そろそろこの動画の内容畳みますが。歌詞の解説をしたわけですけどね。歌詞も音楽理論も「えぇこの人こんだけ深い解釈ができてすごいなぁ」みたいな反応が生まれてしまうのは仕方ないんだけど、私はそういうことがやりたくて音楽に携わっているわけじゃないんですよ。踊ることが一番良いんですが、音楽理論の勉強も歌詞を解釈することも読み解くことも何か技術が要ると思ってらっしゃるかもしれないけれど、やっぱりまずは踊ることです、本当に。音楽聴いて踊りたいなって気持ちにさせることが、すべての音楽家の本業だと……一部を除いて。オリヴィエ・メシアンとかを除いて、鳥の音楽を作っているような人たちとかは除いて、両脚で立っている哺乳類の音楽を作ってる人にとっては、それを聴いて踊ってもらうことが一番の歓びだということを、ここで最後に言わせていただきたいです。この『We Let The Stars Go』もリズムとしてはロッカバラードです。ジェームズ・ブラウンの『It's a Man's Man's Man's World』が元ネタのひとつとして挙げられる、やっぱり深い黒人音楽への理解に基づいて作っているわけですねパディ・マクアルーンは。それもあります、そういうのは踊ってるうちに解ればいいことなんで。自分の足腰が非常に自然に動いてしまう、こういう反応の中で「ええ stupid night とか言い始めた、曲の最後で」っていうことに気づいていただければ一番良いし、そうなるしかないと思うんですよ。私も踊りながら音楽聴き始めたの、つい最近(7年前くらい)のことなんでね。この曲もそういうふうに聴いていたら意味が違ってきました。そして15年前に初めて聴いたこの曲をこうして話せるようになりました、不思議なもんで。それは私が音楽の専門学校行ったからだとか、勉強したからだとか、実作続けてるからだとかいう要素は付随的なものであって、まずはぜひ踊ってみてください。あらゆる音楽を踊りながら聴いてみてください。その結果としてね、こういう風に「こんなとんでもないことを言ってた曲なんだな」って理解されることもあります。
 ぜひみんなで音楽家になりましょう。そして地球上のすべての人間を音楽家にしましょう。私はほんとにそれを理想として音楽やってます。 Parvāne という現在の音楽プロジェクトも、私だけではなくフロアの人間たち全員を音楽家にする、それを世界全体に及ぼすっていう理想を実現させるためにやってます。で、この動画をきっかけとして私のことをご存知になった方は、「ああプリファブ・スプラウトのこんな熱心なファンの方が、しかも実作もやってらっしゃるんだ。ちょっとチャンネルの音源聴いてみようかなぁ」って思われた方いらっしゃると思うんだけど、多分ねあの、びっくりして口から内臓が出ると思うよ、あの Parvāne の音源聴いたら。「プリファブ・スプラウトのファンが作るような音楽じゃないだろ!」ってびっくりすると思うんだけど、仕方ないんですよ双子座だから。双子座の人間っていうのは言ってることとやってることが違うんですよ。前言撤回も日常なんですよ、双子座の人間にとっては。だってパディ・マクアルーンみたいなポップスの天才に対してさぁ、私も同じような音楽をやって勝てるわけがないんだから。音楽にも勝ち負けはありますから、ある程度ね。なんで別の種類の音楽をやってますが、それでも20世紀出身のミュージシャンで私が最大の敬意を抱いている……20人ぐらいいますけど、その中のひとりとしてパトリック・ジョセフ・マクアルーンの名前を挙げておきたいし、こうしてね何の因果か、自分のラジオ動画コンテンツの中のひとつとして取り上げるようにもなりました。


◎サゲ


 私がこの曲に出会ったのが中学生の頃だったっていうのはもう言いましたね。で、塾に通ってたって言いましたけど、中学生の頃の私はほんとに、さらっと言うけど、そこの学習塾を経営している大人たちがいなければ自殺してましたよ。100%絶対自殺してましたよ。掛け算ができなくて。掛け算ができないくらい勉強がダメな人で、私は。小学3年生かなぁ。算数の宿題が出てたってことすら知らなくて、月曜に学校に行って前の机にプリントの山ができてるから、宿題が出されてたことを朝に知って。それでプリントを、小学生用の問題集特有のあの青白い紙を見ますよね。それ見ると、「うわっ、わからない」と。「全然わからない」っていうふうに観念したので、鉛筆とプリント持っていって、前に積んである誰かが出した紙をぺろっとめくって、そこに書いてあるものを全部写して、出した。っていう記憶が。明らかにこれ憶えてますね、「あーっ田畑くんずるしてるー」って言われたのを憶えてますね、この曲の歌詞みたいですよね。「あーっずるしてるーと言った女の子がいた」みたいなことですよね。そんくらいどうしようもないやつでしたよ。
 それで私の母親が、このまま勉強ができなくなるのと友達ができないのどっちも問題があるだろうっていうふうに心配して通わせてくれた学習塾の、個人経営の学習塾の大人2人がいて、その2名ともほんとに音楽について詳しく、熱心で、実際その中の1人はドラマーで今も続けてらっしゃるんですが、いつかミュージシャンとして会えたらいいなと思ってますが、そういう大人たちがいてくれなければほんとに「いやいやまぁまぁ死のう死のう、うん意味ない意味ないこの人生」って思ってましたよ、バカな中学生の頃の私はね。そこに通いながら友達ができて、それなりの高校にも受かるようになって、で、そこに通ってる最中に近くのブックオフに寄って、「あー根本さんが紹介していたプリファブ・スプラウト! 『Steve McQueen』ていうタイトルではないけど、買っていこう」って『Jordan: The Comeback』の中に入っているこの曲、に託宣を受けて今、私が15年かけて、その中の1曲について話すことにもなっているわけです。このような時間の巡りがあります。

 さっきの終わりにも言ったけど、音楽にはほんとに複雑な時間が流れているし、昔好きだった曲を聴き直すときはなにも懐古的になる必要はないし、昔好きだった曲を聴き直して新しい時間が流れ込んでくるっていうことがあります、今の私のように。そういった音楽を本当に感じていただくためには、さっきも言いました、踊ってください、ぜひ。音楽を聴きながらお尻を動かすだけでいいから、ほんとに踊ってみていただきたいと思います。その結果として今、私はこうして、とりあえず歌詞の側面についてのみ話すようにもなっているので。そして何の因果か、今回このラジオ動画の音声を聴いていただいた方が15〜30年経って、もしかしたらこの内容を憶えていただいているかもしれないですね。そして私も音楽の演奏を続けますから、いろいろあちこち行くでしょうから、その最中に巡り会って、実際に今日話した内容を憶えてくださっている方がいらっしゃったら、ぜひ1対1で話しましょう。あなたが経験した時間の話とか、あなたが図らずも解ってしまった音楽のことですとか、そういったことを、私に直接教えてくださいね。じゃあ、また会いましょう。



補足:
 収録中には言い漏らしたが、この楽曲の表題である「星々を使役するわたしたち」は、そもそも神的な力(を持っているという幻想)の謂である。東アジア的に最も解り易く喩えるなら、それは神代の存在(三皇五帝あたり)にしか許されない能力であり、また一神教的に考えても、星辰の運行は全能なるアッラー御自身にしか左右され得ない領分(それはもちろん無尽蔵なるアッラーの権能のうちのたったひとつに過ぎず、被造物たる人間はそれすら意のままにできない)である。
 加えて「かつて青空だったもの」が「恥ずかしくさえ映」るのは、人間の力とは無関係に移ろいゆく存在が天であるとの観念に裏打ちされている(流れで思いついたので書くが、「抜山蓋世」を誇った項羽でさえ、空の領分は自らの力が及ぶところではないと知っていたばかりか、「天之亡我」の言にあらわれているように自らの力より天の差配する運命を上位に置いていた。傲慢極まりない覇王でさえ stars を let go できない人間の分際を弁えていたのである。このような地上における自恃と矛盾しない謙虚さを21世紀の我々は見失いつつある以上、まさにこれらの詞から学び直さねばならない。)
 よって、この楽曲における「星々を使役するわたしたち」という捏造記憶からの決別はそのまま「普通の人間として生きること」を意味し、詞の主人公が幼稚な万能感を捨て去り・現実原則に即した発達を受け入れるための儀礼でもある。もちろんこれは『アイカツスターズ!』の本編内容とも完全に合致する。当該作の1年目は「なぜか毎回賭けに勝ててしまう能力を手放す」まで、2年目は「太陽と同等の存在になることを断念して別の”太陽“を手に入れる」までの過程がテーマに据えられている。

 また、音源を聴き直すと Long ago の前に How はそもそも発音されておらず、純粋に「星々を使役するわたしたち」の幻想を抱いた幼年期からの時間的隔たりが唄われていたと解釈できる。



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