跋:Thank You For The Venom & Damn You For The Cure 2018/03/30 (Fri)

西暦2024年1月2日に付された前註:
 ここにアップロードされるのは、筆者が西暦2018年3月30日に電子書籍として無料頒布した「やばいくらい -『アイカツスターズ!』読解集成-」からの単体記事抜粋である。


 2011年3月・2016年4月、いずれの震災においても筆者は直接の被災者ではない。前者においては、筆者の住所(九州北部)はまったく揺れなかった。そのせいで以東の状況に関して数年間鈍磨したまま生きていたのは否み得ない事実だろう。2016年4月14日21時、『アイカツスターズ!』第2話放送後の夜に突如として大きく揺れたとき、頭に兆したのは「こっち(九州)はたぶん大丈夫だと思ってたのに」の一事だった。なんの根拠もない思い込みだった。ほとほと自分の愚かさが身に沁みる。まだ記憶に新しい通り、2016年4月の震災は熊本・大分地区の直下型であり、筆者の住所は震度3-4程度の揺れが3日ほど継続的に続いたのみ。よってこれにおいても筆者は直接の被災者ではない。被災者だと自称するべきではないし、するつもりもないし、できるわけがない。本震地の状況はすぐに報じられたし、その惨状と自分自身の周辺とでは比べるべくもなかった。頭にあったのはむしろ、「自分は当事者ではない」という隔絶による苦味だったはずだ。
 枕元に鍋を置いて眠る暮らしが数日間続き、何度となく考えたのは次の一事だ。「また繰り返しなのだろうか?」この島国における地震災害は、の意味もある。しかしそこに不可分なものとしてあったのは、 “ネガティブな出来事も起こりえるレトロなスポ根路線は消えてなくなり、代わりに、「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」が必要だろうということになった” という加藤陽一のインタビュー記事だった。2011年3月の震災を経て「こんなことが起きたら、いままで話したような作品はできないね」と転向した『アイカツ!』の企画。「ネガティブ」なるものから「前向き」なるものへの転向。それと同じことが、また、この震災をきっかけに繰り返されるのだろうか? 
 筆者が『アイカツ(非スターズ)!』をヴォルテールの『カンディード』になぞらえて賞讃する記事を書いたのは2016年3月末である。それから1ヶ月も経たず震災が起こったという事実が、アオムシコマユバチのように筆者の頭蓋骨の中に侵入し、「反復」の卵を産み付けて去った。これ、また、繰り返しか? 確かに『あかりジェネレーション』は素晴らしい作品だった。この作品によって多くの人々(自分を含む)が心身ともに助けられ、2011年3月以降の日々を無事に過ぎ行かせるのに一役買ってくれたのは間違いない。もちろん。新たに始まった『アイカツスターズ!』も第2話にして既に前作とは全く違う何かが企てられている、その予感に胸は高鳴るばかりだった。しかし数時間後に別の意味で否応なく鼓動が高まってしまう事態が起こり、ここにきて初めて「反復」が意識されたのだった。もしかしたら、この『アイカツスターズ!』という作品も、震災をきっかけに「ネガティブ」なるものから「前向き」なるものへ転向してしまうのだろうか? 『アイカツ!』から『アイカツスターズ!』に至るまで過ぎ行かせてきたあの時間は、一体なんだったのだろうか? まさかこれから、あの時期に自分が浸っていたのと全く同じ「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」を、再び見せられることになるのだろうか?

 結果は本書で縷述したとおりだ。『アイカツスターズ!』は脚本・楽曲・シリーズ構成など全面において「驚異的」としか形容しようのない成果たちを実らせ、前作『アイカツ!』の貯金に頼らないどころか前作に巣食っていたいくつかの構造的問題をも解決してのける徹底ぶりで1年間を完走した。「繰り返さなかった」。『スターズ!』1年目を観終えて吐いた大きなため息は、まず感嘆、次いで安堵、そしてようやく賞賛の意味を帯びて中空に霧散した。今になって気付かされるのは、『アイカツスターズ!』の楽曲たちには(『未来トランジット』、『Summer Tears Diary』、『Dreaming bird』、そして詳述しないが『スタージェット!』でさえ)「傷」が刻印されていることである。流謫、離別、傷として書き残される詩、どの年代でもどの地理的状況でも常にそこにあったのであろう「傷」。敢えてこういう言い方をすれば、これは『アイカツ!』において無かったことにされていた「傷」ということになろう。『アイカツスターズ!』は「ネガティブ」なるものから「前向き」なるものへの転向を選ばなかった。「傷」を無かったことにするのではなく、「すべての傷を癒す女神」になることを夢見るのではなく、博徒たる彼女たちの賭けのありさまをそのままに見せ続けた1年間、それは驚くべき歌の数々に満ち溢れていたし、そこに生々しく刻印された「傷」のありさまが前作『アイカツ!』との差異を際立てていた。『アイカツスターズ!』は繰り返さなかった。

「あれだけのことがあったにもかかわらず」と回顧するとき、その「あれだけのこと」をどれだけ検閲にかけずにいられるかを問わねばならない。「あれだけのこと」があったこと自体を忘れたい無かったことにしたいもっと麻痺したいと欲望し続けた結果の惨状が2018年3月現在だ。2年後にはもっとひどくなるだろうか? もちろん。しかし「ひどくなりかた」にもいくつかあるはずだ。北の震災も南の震災もなかったことにして東京オリンピックとかいう劇薬に酔おうとしているこの列島において、「できるだけ素面でいること」以上に大事なことなどない。2016年夏に『シン・ゴジラ』に熱狂していたタイプの人間が2020年夏に何をやらかすか、よく見ておくことだ。

 本書編集中に幾度となく頭をかすめたことをふたつ書いておく。

⑴21世紀はまだ到来していないこと。
 90年代に起こった色々のこと━━具体名を挙げるまでもない━━をすら精算できていない我々が、ポスト云々と前時代を超脱した気になっているような言辞を弄んでいることは、もはや滑稽を通り越して悲惨でしかない。我々の現今の悲惨はとりもなおさず20世紀に由来している。よってまだ21世紀は到来していないのであり、2018年の精神性は1998年と何ら変わりはしない。

⑵「反復」の重要性を受け入れざるを得ないこと。
 逆に言えば、現今に延長している悲惨が20世紀に由来するならば、この悲惨は20世紀の遺産によってこそ贖いうる。というとき、我々にとっての20世紀最大の遺産は「反復強迫」の概念以外ありえない。これはもはや精神分析およびフロイトに対する評価・好悪抜きにして考えなければならない(目の前の火事に収拾をつけるには水を使うしかない。たとえ井戸の底から汲み上げてでも)。我々が20世紀の何を反復しようとしているか、それがいかなる機制によるものかを常に問い続けることでしか、さらなる悲惨は免れ得まい。

 これらの両方を念頭にして書かれたのが、本書所収『黒から虹へ』である。書く間、自分がどれほど90-00年代の文化にうんざりしているかを痛感させられた。同時に、あの季節がまるで存在しないかのように振る舞う人間たち(「エモい」などという言い回しをさも新しく出てきた言葉のように使ってしまえる心性! あるいはエヴァだのエウレカだののリバイバルを「懐古的に」歓迎してしまえる救い難いセンス!)に対する軽蔑もいや増すばかりだった。だからケリをつける必要があったのだ。90-00年代の、あの80年代的な軽薄すらも許されない軽鬱と自惚れの季節から、「エモ」という単色の花を摘み取った。それは『アイカツスターズ!』に導かれてこそ成し得ることだった。『黒から虹へ』、このタイトルが全てを語っていると言ってよい。『アイカツスターズ!』は “Out of the blue, into the black” しただけでは終わらなかった。 “Out of the blue, into the black” したことですら忘れたい無かったことにしたいもっと麻痺したいと欲望している無残な人々を傍目に、『アイカツスターズ!』は虹色のエモを咲かせたのだ。

 00年代ユースカルチャーのアイコンたちを回顧して改めて思う、マイ・ケミカル・ロマンスは偉大だったと。2001年9月11日の同時多発テロ事件をきっかけに結成されたこのバンドは、「大丈夫じゃねえよ(I’m not okay)」とやけっぱちに叫ぶことができた程度には自らの傷に向き合うことに真摯だったのだから。
 彼らの真摯さに倣い、「私は大丈夫じゃない」と言ってみよう。気持ちがふさいだろうか? なら続けてこう言ってみよう。「私は大丈夫じゃない。だから癒される必要などない」
 矛盾を感じただろうか?
 しかし、なぜ癒される必要などあるのだろう? 我々は生まれた瞬間からずっといたんできたのでは? 母胎から切り離されたその瞬間から、ずっときずとともに歩んできたのでは? 嘘だと思うなら自分のおなかを見てみればいい。幸いなことに今は臍から出血してはいない。適切な施術があったからだ。そのおかげで生きている、いま実際にこうして。ということは、死なない限りは一生傷つき続けるということだ。英邁なるトゥパック・アマル・シャクールが引用したFWNの言葉、 “What doesn't kill me just makes me stronger”. 自分がしたこと・されたことはすべて心身に残留する。そのおかげで文字を書くことができたり、絵を描くことができたり、楽器を奏でることができたりする━━実際にこうして。なんということだろう。こんなにも容易く、我々はきずつくられている。なら、これから誰かをつくることだってあるだろう。自らが母親にされたのと同じように。あるのではないか、そこに━━よろこびが? 悲嘆も歓喜も鬱屈も高揚も、すべてきずとともにあったのでは。ならそれを無かったことにせずに、つくり続ければいいだけなのだ。その過程で学ぶだろう、もっと上手いきずつけかたを。誰かの出血を止めるためにきずをつけるあの作法、藝術。
 ではもう一度言ってみよう。
「私は大丈夫じゃない。だから癒される必要などない」。
 ほら、これは矛盾していない。

 なんだか愉快になってきたので、アイズレーの “Harvest For The World” にあわせて1曲ぶん踊ったところ。つまり前段落からこの段落との間には4分ほどの時間が流れていることになる。あなたもそろそろ、素人がネット上に書いた文章など読むのをやめて、自分の時間に帰ったらいかがか。どんなに拒んでも泣き叫んでも次の5月はやってくる。あの豊穣の月に、自分だけ何の収穫物も持っていけないようじゃ、恥ずかしいぞ。
 私はもう次の準備にとりかかっている。文筆ではない。少なくとも5年の間は、公に読めるかたちで自分の文章を発表することは止める。深く禁欲し、沈黙しようと思う。その代わり、現在 SAYSING_BYOUING という名のヒップホップ企てに関わっている。私は当面の間、彼の産婆として働くつもりだ。もし興味があれば巻末の著者経歴から辿ってほしい。素晴らしく反市場的であり、反時代的な試みだ。彼曰く「19世紀のヒップホップ」。このコンセプトを聞いた途端、私は文字通り心を outta time にぶっ飛ばされた。あなたが惨めな21世紀人ではなく反時代性を携えた人物であるというのなら、 SAYSING_BYOUING に挑戦せよ。

 “あなたはお若いのですから、たわごとを、どっさりお書きなさい。愚かさを発揮し、感傷にひたり……衝動のおもむくままに動きなさい。文体、文法、趣味、統語法シンタクスなどのあらゆる間違いをおかしなさい。ぶちまけなさい。投げ出しなさい。どんな言葉ででもよろしい、捕らえられるかぎりの、駆使できるかぎりの、創造できるかぎりの言葉を用い、手に入るかぎりの韻律により散文体により、詩によりたわごとによって、怒りを、愛を、諷刺を、放ちなさい。このようにしてあなたは書く方法を会得するでしょう” 。私はこの、ヴァージニア・ウルフの、彼女の助言にのみ従ってここまで書いてきた。しかし、そろそろ慎むべき時が来たようだ。あなたがここまで読んでくれたことを感謝するつもりは別にない。もうお互いに言うほど若くもないのだし、時間を無駄にすべきではないだろう? じゃあ次の子どもを孕むために働こう。たとえまた流産したとしても、その子を埋めた土地に新しい苗を植えよう。友よ、未来で待つ。そこで収穫祭だ。


西暦2018年3月30日0時48分博多区海抜3m
甘粕試金


西暦2024年1月2日に付された後註:
 今更、いったい何の説明が必要だろうか。
 あるとすれば、筆者は5年も待つことなく小説『χορός』を書き上げ、甘粕試金などという当時名乗っていたハンドルネームも棄て、さらには予告されていたヒップホップ企てさえもが Parvāne として継承・結実されるに至った、という事実のみである。


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