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神域にあろうと:『アイカツスターズ!』2年目に捧げる11のリスペクト 2018/03/30 (Fri)

西暦2023年2月12日に付された前註:
ここにアップロードされるのは、筆者が西暦2018年3月30日に電子書籍として無料頒布した「やばいくらい -『アイカツスターズ!』読解集成-」からの単体記事抜粋である。

 人間。
 ただ人間。
 ひたすら人間を追究する。

「日を射る者」『小説十八史略』

 以前、Twitter(削除済)で「『アイカツ!』は天動説的、『アイカツスターズ!』は地動説的」と書いた憶えがありますが、もっと適切な表現がありました。「『アイカツ!』は編年体、『アイカツスターズ!』は紀伝体で書かれている」
 本稿は、『アイカツスターズ!』2年目(星のツバサシリーズ)に捧げる総計11のリスペクトです。ここで “respect” が “spec(羅:「見ること」に関連した語を作る語根)” に語源を持つ言葉であることを強調しておきます。なぜ『アイカツスターズ!』に捧げられる文章が「考察」や「分析」などではなく「リスペクト」でなくてはならないか、については、おそらく【RESPECT8】あたりで明らかになるでしょう。


◎RESPECT1 孤独をおそれない女の子がいる(『アイカツスターズ!』、この複数形の作品)


「孤独をおそれない女の子がいる」 。『episode Solo』のサビで宣言されるこの言葉ですが、今聴いても驚かされます、新たに始まったシリーズのED曲のサビ冒頭から 「孤独」とは。もちろんこれは「『アイカツスターズ!』は友情や愛情とは一切関係のない孤独な作品だ」ということを意味してはいませんでした。S4に代表されるような、互いに敬意を持ちながら切磋琢磨していく関係性は『スターズ!』1年目から一貫して描かれていた。では、如何にして『スターズ!』における友情・愛情なるものが「孤独」と矛盾しないものに成り得たかを見るためには、前作『アイカツ!』における友情・愛情なるものと比較してみるのが最も手っ取り早い方法でしょう。

A!ep43、女優業に専念するためにスターアニスのツアーに参加できなかった神谷しおん。独りで悩んでいた彼女のもとに霧矢あおいが訪れます。ここで神谷は自分が ⑴スターアニスのツアーに参加できなかったこと ⑵ツアー帰りの同級生たちのように「いい笑顔」を持っていないこと を負い目に感じているわけですが、「私たち相棒でしょ? 何でも話して。話してくれるまで離さないから!」 と霧矢に気遣われ、「いい笑顔」が見出せない神谷のために同級生たち(に加えて、トップアイドルの神崎までも)がオーディションに協力出演し、 「(私の夢は)女優になることです!」” と神谷の笑顔を引き出し、 「ハッピーエンド」を迎えたのでした。

You just call out my name
And you know wherever I am
I'll come running to see you again
Winter, spring, summer or fall
All you have to do is call
And I'll be there, you've got a friend

You’ve Got a Friend / Carole King

 A!ep43の描写に象徴的ですが、前作『アイカツ!』における友情・愛情なるものは、あらかじめ物理的距離や心の隔たりといったものが解消されていたのでした。困ったり悩んだりしているときに周囲の友人たちが無条件に駆けつけてくれる関係性、これを仮に『You’ve Got a Friend』的関係と呼びましょうか。 “All you have to do is call / And I'll be there” 。A!ep71で霧矢が山籠りした際にも、その夜のうちに星宮が駆けつけていたのでした。心の近さ=距離の近さという等式は、『アイカツ!』において一度も疑われることがなかった。そのためにA!ep50-51では「星宮が留学してから1年が経ちました」というアクロバットを入れてすぐさま主人公を帰国させる必要があったし、『劇場版アイカツ!』では夏樹みくるさえもが(神崎が星宮のライブを観にくるかどうかさえ未確定なのに)帰国していたのでした。

 さて、A!ep43と同様に、『アイカツスターズ!』にも「部屋で独りでいる子のために友人たちが赴く」場面があります。このふたつの場面を比較すれば、前作『アイカツ!』と『スターズ!』の友情・愛情関係の差異は一目瞭然となります。
 AS!ep46。劇組の1年生エースである早乙女あこが現S4の如月ツバサに敗北を喫し、悔し涙を流すシーン。このS4選の結果に至るまでの描写がいかに見事なものだったかは以前書いたので省略します。S4選初日が終わり、来年度S4の座は確定したものの勝利することはできなかった早乙女のもとに虹野・桜庭・香澄がお菓子を持って訪れるシーン。しかし3人はドア越しに早乙女のすすり泣きの声を聴いてしまう。「今日はそっとしておいたほうがよさそうだね」。3人は早乙女の部屋に入ることなく、明日にS4選を控えている香澄は自分自身の闘いに向き合うことにしたのでした。
 ここで明確になるのは、『アイカツスターズ!』における友情・愛情なるものは、物理的距離や心の隔たりに阻害されない質のものであることです。もちろん早乙女あこは独りで泣いてばかりいる人間ではありません。続くAS!ep47の朝食のシーンでは、「わたくしが敗けて落ち込んでいるとでも? もしも仮にそうだとしても、それは昨日までですわ」といつも通りに気丈に振る舞う早乙女の姿があります。これによって『スターズ!』の人間たちが如何に憂鬱に向き合っているかが明瞭となります。親しい友人にも(親しい友人だからこそ)見せられないものがある、物理的距離や心の隔たりをそのままにして成立する「孤独をおそれない」関係性。それが『episode Solo』的関係だったということになります。

 ひとまず『You’ve Got a Friend』的関係(『アイカツ!』)と『episode Solo』的関係(『スターズ!』)、ふたつの質的に異なる関係性を提出しましたが、これらの差異をさらに明瞭にしていきましょう。
『You’ve Got a Friend』的関係(『アイカツ!』)は、そもそも個々人の間に対立が無い。より正確に言えば、質的に異なる人間たちの存在はあっても個々人の間には懸隔が存在しない。だからこそ周囲と異なる傾向の仕事(女優業)をしていたはずの神谷も周囲に助けられて「いい笑顔」になることができたし、さらに言えば違う学校であるはずのドリームアカデミーとの間にも対立関係は存在しなかったし*1-1 、もっと言えばあかりジェネレーション以降のスターライトは京都・神戸のアイドルや北海道のおぼこい女の子たちまで受け入れることができる、懸隔を解消し尽くす巨大な装置のようになっていたのでした。スターライト学園という空間で運営される人間どうしの関係性を、そうですね、ここで「モル状関係」と呼びましょう。スターライトで必要とされていたのは「孤独」ではなく、 “All you have to do is call / And I'll be there” を常に可能にすることだった。「個」であることを誘蛾灯にして「全」であることを保持する空間がスターライト学園であり、そこで常態とされる懸隔のない人間どうしの関係が「モル状関係」だったと。

 では『episode Solo』的関係(『スターズ!』)はどうだったか。1年目を通して観ればわかるとおり、ここでは個々人の間の対立が、もっと言えば闘争が存在する。1年ごとにブレイクダウンする「S4」という法人格とその座をめぐる札の切り合い、「S4選」が存在する空間です。それによって1年ごとに切断をおき、質的に異なる四つの学級での訓育を担っているのが四ツ星学園でした。ここにこそ懸隔が、物理的距離や心の隔たりが存在しうる。そして懸隔は友情・愛情と無縁のものではないのです。例を列挙しましょう、物理的に距離を隔てた状態でも心を通いあわせていた二階堂⇔白銀の関係(学園⇔療養所)、学校を離れても心を通いあわせていた虹野⇔七倉の関係(日本⇔イタリア:セリフに頼らず二人の心を交信させたエピソードについては以前書きました)、向こうには聴こえないかたちで最愛のパートナーへの想いを語りあった桜庭⇔香澄の関係(AS!ep44)、直接自分に向けられなくても応援の言葉を受け取った早乙女あこ⇔結城すばるの関係(AS!ep45)、さらに言えばもうここには存在しない者と生者の断絶をまたいだ雪乃ホタル⇔諸星ヒカルの関係、アイドルとして絶命するかもしれない病のいやし手として関係しながらも自分自身の痛ましい記憶(雪乃ホタルの死)についてはなかなか口をろうとしなかった諸星ヒカル⇔白鳥ひめの関係。ここには個々人の懸隔をそのままにした、「孤独をおそれない」人間たちの関係がある。そうですね、この関係は「分子状関係」と呼ばれるべきでしょう。「個」であることを誘蛾灯にして「全」であることを保持するのではなく、「個」であるものたちをつなぐ線によって常に「全」が寸断されてゆく、その寸断された切片が複数存在すること自体が「全」であるような空間。それが四ツ星学園における人間同士の関係、「分子状関係」です。

 この「モル状関係」「分子状関係」の区分を使ってしまえば、おそらく『ザ・ドラえもんズ』から『アベンジャーズ』から『シン・ゴジラ』まで、あらゆる作品の人間同士の関係性を読解することがある程度可能でしょう。それは本題ではありません。重要なのは、ここで流通しているのは欲望だということです。人間が複数集まることによって、そこで織りなされる関係によってどのような欲望が生産されるのか、何に耽溺できるのか、何を拒絶できるのか。「モル状関係」「分子状関係」の質的違いを見出しただけではまだ十分ではありません。さらに読解を精緻たらしめるため、『スターズ!』という作品の複数性について切り込むべきでしょう。その最良の導き手となるのは、如月ツバサ、四ツ星学園において異なる二人の親を持っていた彼女であろうと思われます。

*1-1 この「質的に違う学校同士の関係」がいつのまにか「隣のクラスの仲のいい子たち」のようになっていたスターライト=ドリームアカデミーの関係を、「ヴィーナスアークの制服に着替えなさい。留学生らしくね」というエルザのセリフに象徴される四ツ星=VAの関係と比較してみるのもいいでしょう。


◎RESPECT2 世界は広く、道はひとつじゃない(如月ツバサの道々)


「世界は広く、(そして)道はひとつじゃない」。このセリフはAS!ep3・AS!ep12の2回において反復されます。この2話は異なる脚本家によって書かれているのにもかかわらず、如月ツバサの口から繰り返されている。あらゆるものごとにおいて「反復」ほど重要なものは無いわけですから、まずこのセリフを足がかりとしましょう。

 AS!ep3において述懐されるのは、歌組のトップを志すも劇組に転向した如月ツバサの経歴です。歌うことにおいて異様なほどの資質に恵まれた白鳥ひめ(もちろんこれはのちに諸星ヒカルによっていやされる必要があった病の効果と思われ、そのことに如月が勘付いている描写は複数存在する)によって夢が挫折し、道に迷った如月ツバサ。そこに劇組指導教員の八千草によって「あなたすっごく良い翼を持ってるのに、全然翔んでない」の助言が授けられ、歌によらない別の道がそれとなく示された。結果として如月は3年次で劇組のS4となり、歌組S4の白鳥と肩を並べることができたわけです。

 ここで明確に断言されているのは、「人間が進むことができる道は複数存在しなければならない」ということです。思い出しましょう、綱渡舞踏家seiltänzerが道化に跳び越されてしまったときに何が起こったか。足を滑らせ綱から転落し、絶命するしかなかったのでした。これは「人間が進むべき道(=綱)はひとつでなければならない」前提で歩みを進めてしまったから起こってしまったことです。そうではなく、「人間が進むことができる道は複数存在しなければならない」。これは四ツ星学園という複数性空間のクリードでもあり、そこで訓育された如月ツバサのクリードでもあります。「世界は広く、(そして)道はひとつじゃない」。AS!ep12での如月は、入学当初に抱えていた孤独の象徴(=フクロウのホーちゃん)と再会し、ホーちゃんも現S4である自分と同様にファミリー*2-1 とともに生きていることを知り、「どこまでも一緒に羽ばたいていける、かけがえのない友達(=S4)」の存在をあらためて実感したのでした。
 しかし、S4は「分子状関係」です。学生時代を永遠に引き伸ばしてつるんでいられる質のものではなく、1年ごとに解散ブレイクダウンが運命付けられているチームです。これは同S4メンバーの香澄夜空がすでに流謫の歌『未来トランジット』を担っていたことからして自明のことだったのでしょう。彼女らは四つの複数の道を示す空間でそれぞれの藝能を選び取り、自分が打って出る方向を見定めた。その時点がAS!ep50、『スターズ!』1年目終了の段階だったと言えます。

 そして如月ツバサ、元歌組・劇組S4であった彼女、歌組の響アンナ・劇組の八千草桃子の二人の親を持っていた彼女は、『スターズ!』2年目において自分の経歴に決着をつけます。歌組下級生のためにトラブルに対処している桜庭ローラの成長に直面し(AS!ep57)、ブランド『Spice Chord』を桜庭に託すことにした如月。AS!ep62での「アンナ先生や﹅﹅﹅﹅﹅﹅私の愛した『Spice Chord』、桜庭は自分自身のやり方で発展させていけばいい」というセリフには、さりげなく「歌組で長じることができなかった自分自身の未遂の道」への幾許かの悔恨とそれを代わりに果たすことができるであろう別の人間(=桜庭)への信頼が偲ばされており、まったく説明的でないセリフに幾層もの感情が折りたたまれた極上のシーンになっています。が、まだこれで終わりではありません。
 直後、無言で恩師・八千草のほうへ歩み寄る如月。「これで、思い残すことなく旅立てるわね」の言葉を受け、その傍らをも過ぎ去ってゆく。元劇組トップの完全無欠先輩こと如月ツバサでさえ、女優という自分の道を定めるためにこれだけの時間と葛藤と具体的訓育が必要だったことが示されるのがAS!ep62です。歌に特化することを諦めて劇の藝能に取り組んだ、四ツ星という空間で「自分はこのようにして造られた」の経歴に決着をつけ*2-2 、かつて異なる道を伴にした友人たちとも訣別して初めて旅立ちが可能になった如月ツバサの生路は、「孤独をおそれない」友情・愛情の関係=「分子状関係」がいかなるものかを雄弁に語っています。彼女が道を見定めるにはあらかじめ複数の道が示されていなければならなかった。そして質的に異なる才能たちとの出会いと別れを経て初めて「これで打って出る この先にしか道はないから」*2-3 と自分の(学校の外に出てはじめて賭けるための)勝負へと向かうことができたのでした。「確かに道を間違ってはいない。他に道はないからだ。もう他の道を通り過ぎてしまったのでなければ、気づかないうちに、次々他の道を通り過ぎたのでなければ」*2-4 という確信に達するには、 最初からひとつの道しか示されていない状態で綱渡りを始めるのではなく、他にも複数の道が存在することを知った上で自分の進路を見定めなければならなかった。
 様々なことを、ここから引き出すことができるでしょう。「高等部」が存在するのはスターライトも四ツ星も同じだったのにもかかわらず、スターライトの学生たち(星宮ら)はついに学園の外に出ることはなかったこと、どころかAS!ep70において『スターズ!』空間に割り込んでくるまでになってしまったこと(まさに周囲の分子を取り込んで無限増殖する「モル状関係」の本領発揮といったところです)、など。それらすべてを省略し、ひとつのことに絞ります。『SHINING LINE*』に導かれた『アイカツ!』の単数性と、『アイカツスターズ!』の複数性について。

・掟の門
『アイカツ!』という作品は、専ら神崎ー星宮ー大空をつなぐひとつの関係性によって回されていた作品でした(その外に出ている関係性がかろうじてひとつ存在していたことについては以前書きました)。A!ep76、大空が星宮に選ばれるきっかけになった回のセリフを引用しましょう。

霧矢「アイドルの道は狭き門。昔から変わらないことだけどね。」
紫吹「でも考えようかもな。この世界に入ったあとに向いてないって気付くほうが、つらいかもしれない。」
霧矢「最後まで責任を持って、しっかり選ばないとね。」

 霧矢が言うところの「門」、人間が自分の生き様を選ぶための入り口はひとつしか存在しなかったと、このセリフを読めばどうしてもそういうことになります。「門」が複数存在するとは考えなかったと*2-5。だからこそ『アイカツ!』の「あこがれ」なるものは神崎ー星宮ー大空という一本の線によって担われなくてはならず、『SHINING LINE*』は絶対に単数形でなくてはならなかった*2-6。これは「個」であることを誘蛾灯にして「全」であることを保持するモル状空間ことスターライト学園の本質とも釣り合っていることです。そこで『SHINING LINE*』の末席に選ばれた大空あかりは、天皇家に生まれた女性が皇女になること以外に選択肢を持たないように、この単数の「苔のむす」ように持続する「万世一系」の線によって「導かれ」なくてはならなかったのでした。『アイカツ!』、この単数形の作品。そこで繰り広げられていた一本の「導き」の線が行き着くところ、結局それは綱渡舞踏家seiltänzerの最期(ひとつの綱からの転落)以外にないのでは、とまでは言いますまい。私は『アイカツ!』に対して何ら批判の矢玉を差し向ける気はありません。ここではただひとつ、シリーズ構成担当の加藤陽一の脚本をパトグラフィックに読解することで代わりとします。

・孤独をおそれている成人男性がいる
「全」で「一」のモル状空間ことスターライト学園では、「大勢のキャラクターがひとつの場に集合して大団円」という絵が多く繰り広げられます。先述したA!ep43はもちろんですが、最も象徴的なのは『劇場版アイカツ!』のラストシーンでしょう。神崎━星宮━大空のラインが開通したことを祝賀する大勢のキャラクターたち。さらにはA!ep124、有栖川から北大路へスターライトクイーンの座が伝承される回のラストシーン。星宮らの先輩はもちろん下級生の大空たちまでもが駆けつけて、画面内の人口密度はすごいことになっています(その中でも同じユニットで活動していて北大路に近しい人物であるはずの神谷しおんは、霧矢と星宮の二人に挟まれて顔が隠れています)。極めつけは最終話A!ep178、クイーンとなった大空と彼女を導いた星宮のマラソン、その街道に立って応援する無数のキャラクターたちの立ち姿。これら「本来関係が深いわけでもない人までもが駆けつけて祝福」する絵面が何に似ているか、について書く必要はないでしょう。おめでとう、おめでとう、おめでとう。90年代中盤において「個」と「世界」との区別が蒸発していたあの作品に似ているなどと、改めて書くまでもないでしょう。

『アイカツ!』、この作品がここまで強迫的に「大勢のキャラクターがひとつの場に集合して大団円」の絵を反復している理由は、じつは脚本家:加藤陽一の性向と不可分のものです。「登場人物をひとつの場所に集合させればきっとハッピーエンドになるだろう」、さらに言えば「登場人物をひとつの場所に集合させなければ観客は納得してくれないかもしれない」というオブセッションによって生産されたものだということです。以下、これが単なる邪推ではない根拠を提出します。

 加藤陽一が脚本を担当した映画『ルドルフとイッパイアッテナ』は、『アイカツ!』で数多く描かれたのと同じように「大勢のキャラクターがひとつの場に集合して大団円」のエンディングになっています。このラストシーンがはっきり不可解だと言えるのは、直前に自分の家に帰ったルドルフが『時計じかけのオレンジ』的な「孤独(あるいは放逐)」を突きつけられるシーンが存在するためです。にもかかわらず、最後には「大勢のキャラクターがひとつの場に集合して大団円」のエンディングにおさまってしまう。もしこの映画が「自分の帰るべき場所を失くし、名前さえも失ったルドルフは、そこから『何者でもない者』に成ってゆく」というエンディングに向かっていたとしたら、私は立ち上がって拍手喝采していたでしょう(言うまでもありませんが、『未来トランジット』の歌詞はそういう『何者でもない者』への成り行きを描いていたからこそ驚愕的な作品です。そもそも『ルドルフとイッパイアッテナ』は「言葉を知ること・命名すること」を主要テーマに据えた作品なので、この別エンディングも採用するに妥当なものです)。が、ルドルフは孤独へ向き合うことなく、イッパイアッテナのホームに迎え入れられてハッピーエンドとなる。これは「登場人物をひとつの場所に集合させなければ観客は納得してくれないかもしれない」オブセッションの臆面もない発露と言えるでしょう。

 再度言いますがこれは単なるパトグラフィもどきであり、何ら批判的な意図を持つものではありません。が、この加藤陽一による脚本の傾向のなかに、私は「奇妙な怯え」とでも呼ぶべき何かを見出します。みんなと一緒にいなければ。無条件に歓迎されるホームがなくては。大勢に祝福されなくては。一見幸福なこれらのハッピーエンドは、なんとしても孤独であることを避けようとする一種の強迫観念に裏打ちされている、と言っても過言ではないでしょう。そんな「孤独をおそれ」ていた『アイカツ!』が最終的に行き着いてしまったものの正体を私たちはもう知っています。この「奇妙な怯え」は、震災をきっかけに「ネガティブな出来事も起こりえるレトロなスポ根路線は消えてなくなり、代わりに、「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」が必要だろうということになった」時点で既に根深く巣食っていたのだろう、などと言っても、もはやどうしようもありません。

 代わりに、筆者は本稿を書き上げることによってひとつの結論を導き出そうと思います。「もう怯える必要はない」と。これは私から『アイカツ!』への意見というより、『アイカツスターズ!』、この複数形の作品が結果的に『アイカツ!』に向けて差し向けることになったメッセージと言ったほうが正確でしょう。これが単なる恣意的なこじつけではなく、『アイカツスターズ!』が2年間をかけて取り組んできた成果たちの読解の結果として得られる結論であることを、これから本稿で証明します。

 下ごしらえは済んだようです。以降は、闘争編【RESPECT3-9】と製造編【RESPECT10-11】の2編に分けて『アイカツスターズ!』2年間の成果たちを検分するとしましょう。その果てに、「孤独をおそれない」ことと創造的でいること・人間的でいることが全く矛盾しないこと、それを立証するための見事に磨き上げられた料理道具のような成果たちをこの卓の上に持ち帰ること、を約束します。

*2-1 ここでファミリーの意味が「血縁によって編成される関係」に限定されていないことに注意しましょう。ホーちゃんのファミリーはおそらくペアでの繁殖によるものですが、S4は縁もゆかりもない個人たちが質的に異なった藝能を持ち寄ることで編成される非血縁ファミリーです。詳述しませんが、「血縁によらない別の集団性」のファミリーを追求する姿勢は、『ファンタスティック・フォー(2015)』以降のマーベル映画においても一貫しているテーマです。

*2-2 これはもちろん、自分自身の経歴=誰かのファンであることに仁義を通して勝負に出た後輩・早乙女あこの姿とも直接重なり合います。

*2-3 田我流『坂』

*2-4 (頭はむきだし…)『また終わるために』 サミュエル・ベケット著 高橋康也・宇野邦一訳

*2-5 遡って言えば、「質的に違う人間たちが複数の異なる道を選び取ることができる」という四ツ星の特性は、前作におけるドリームアカデミーに通じるものです。しかしドリームアカデミーの運営にはそもそも『SHINING LINE*』の端緒である神崎美月が関わっており、この複数の道を選ぶことができる場所ですら『SHINING LINE*』の「導き」の圏外に出ることはできなかったのでした。私は、ドリームアカデミーにあれほど魅力的なキャラクターたちが存在していたのにもかかわらず本編内ではびっくりするほど消化不良のまま終わってしまった原因はここにあると考えています。

*2-6 私が前稿で批判した『幸せになる勇気』には「真理の探究のため、われわれは暗闇に伸びる長い竿の上を歩いている」「歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたしは『宗教』と呼びます。哲学とは永遠に歩き続けることなのです」とか書かれていますが、なぜ最初から大地ではなく竿の上を歩かされているのかがまったく理解できません。この「最初から歩む道がひとつ(竿)しかない」という前提はもちろん綱渡舞踏家の最期を恣意的または無意識的に誤読しなければ不可能なことであり、自己啓発的思考がいかに初めから全一的なものであるかを自白しているにすぎない。もちろん『アイカツ!』の『SHINING LINE*』なるものが自己啓発と同型の思考に行き着いてしまったことは既に立証済みなので、『アイカツ!』もこの批判の圏内にあることを免れません。


空は何も言わない ただ流れるばかり

『STARDOM!』

 さて、序章では「『アイカツ!』は編年体、『アイカツスターズ!』は紀伝体で書かれている」と区別することから始めましたが、この意味は既に明らかでしょう。『アイカツ!』が『SHINING LINE*』という単数の「苔のむす」ように持続する「万世一系」の線によって「導かれ」ていたことは前編で確認しましたが、『アイカツスターズ!』、この複数形の作品はそのような単数の線による持続を持たない。簡略に言えば、『アイカツ!』はあまりにも日本史的・『スターズ!』はあまりにも中国史的な特性を持っています。
 一般常識的な確認から始めましょう。中国の歴史は、そもそも「万世一系」のような眼に視える神の血統を持ちません。代わりにあるのは「天」、歴史を動かす人間を召命し・同時に没落させる非人称的な審級を中心に据えています。天の心臓の鼓動ごとに、新しい宇宙が湧然と現出するような反復の歴史、作用・反作用の歴史。これを『STARDOM!』の歌詞の一節「空は何も言わない ただ流れるばかり」と重ね合わせればその意味は明白です。「天(=空)」、目に視える神の姿をとっていないなにものかは、地上に産まれた人間を歴史的に召命しこそすれ、導いたりよみしたりすることはない。ただ一方的に歴史的な舞台の上に揚げ・そして叩き落とす、A(bove)とB(elow)の区別を流転させる存在です。『スターズ!』1年目の諸星ヒカルはひとまずそれを「ステージの神様」と呼ぶしかなかったし、白鳥ひめは「勝利の女神」と呼んでいたのでした。

 よって『スターズ!』は、ひとつの線の永遠的持続なしには成立しない『アイカツ!』とは真逆の、非持続と抗争の時空によって成り立っています。1年目ではその闘いの舞台は四ツ星内(S4選)に限られていましたが、2年目からは外部からの船・ヴィーナスアークの襲撃を受ける。よって闘争の舞台は陸地のみならず海上、日本列島のみならず全世界に拡大されます。『アイカツスターズ!』、この紀伝体で書かれた作品を読解するには、まずは勝負師たる彼女らの戦歴、その場一度きりの勝負によって書き残された棋譜の数々を丁寧に読み解くことから始めるべきでしょう。

◎RESPECT3 勝負師、依然として(花園きららの俊足・虹野ゆめの返済)

 
【RESPECT3-5】までは、2年目前半(AS!51-75)の四ツ星 VS ヴィーナスアーク(略称VA)の戦歴をみてゆきます。まずは花園きらら、早乙女あこのブランドであるはずの『FuwaFuwa Dream』を驚くべき迅速さで攫っていった彼女の話から始めましょう。

・羊の俊足
 AS!ep51、花園きららの初登場シーンを思い出しましょう。「わたくしにも何が何だか! とにかくどこかのアイドルにいきなりわたくしのブランドを奪われたらしいんですわーっ!」狼狽しきった早乙女のセリフがこれですが、その直後に花園のミューズ就任映像が流れる。えげつないのは、早乙女は自分のブランドが奪われた結果を事後的に見せられるしかないということです。「勝負して勝てなかった」のでも「勝ちを盗まれた」のでもなく、「いつのまにか、一方的に勝たれてしまった」結果を見せつけられるしかない、終わった勝負の残余を突きつけられるしかない。自分の領土だと思っていたところがいつのまにか接収されていたわけですから、早乙女がこれだけ狼狽するのもわかろうというものです。逆に言えば、これだけ鮮やかに速やかに勝負をつけて去ってしまう花園きららの俊足たるや。以前私は花園のキャラクター性を賈詡に喩えましたが、対象を籠絡させるまでの手順の見事さ・去り際の速やかさなどが通じています(他に、牧畜が盛んな地域の出身〔ニュージーランド・涼州〕という共通点もあります)。
 この初登場シーンの流れだけでも、花園きららはその俊足であっというまに勝負をつけて飄々と去ってしまう、韋駄天的人物であることがわかります。こういう韋駄天的人物が強者揃いのチーム(VA)に所属していることの重要性について語りたいところですが、ひとまず註に譲ります*3-1 。ここでは花園・早乙女の戦歴(AS!51-54)を駆け足で確認しましょう。早乙女はAS!ep54でブランドの奪回を試みるも、デザインセンス・企画力・コンセプトアートの提出において花園との実力差をまざまざと見せつけられ、「必ずあなたから『FuwaFuwa Dream』を取り戻してみせますわ!」と言い捨てて*3-2 撤退しました。花園きららは『夜の夢』の絵を提出するだけで居並ぶブランドのスタッフたちを説得したわけなので、彼女はコンセプトアート一発で企画を通してしまう画家* としての強さをも兼ね備えている、と見ることができます。

 しかし本項で重要なのは、ブランドを自分のものにした花園が星のツバサ(水星)を獲得するまでの流れです。星を降ろす(以降、星のツバサを獲得するためのドレス創作行為全般を指してこの表記を採用します)ためにはアイカツシステム(AKA「天」)に認められなければならず、気持ちがレイムなままでドレスを賭けても星を降ろすことは叶わないのが『スターズ!』2年目の世界です。では、花園きららはいかにしてドレスに星を降ろすに至ったのか。

「すっごくかわいかったからいただいちゃった。ありがとね」。花園が賭けた『スイートドリームスコーデ』は、ブランドをめぐるプレゼンバトルで早乙女が提出していた「ふわふわのスカート」デザインを流用したものだった。つまり「敵対者が出してきた札をも自分のものにして勝つ」という戦法を採っていたことになります。この柔よく剛を制す(メーッよくシャーッを制す)戦法は「だいじょうぶ、きらら細かいこと気にしないから!」「もう、なんでそんな難しく考えるかなぁ」などのセリフにもあらわれていて、さらに「思ったんだ、あこちゃんと一緒なら『FuwaFuwa Dream』を素敵なブランドにできるって!」「いい夢見ようよ、ふたりで一緒に!」と敵対者であるはずの早乙女をも篭絡しようとしていたのでした(賈詡すぎる)。このように、敵対者が打ち込んできたパンチをなして自分の力に変えてしまえる勝負師が花園きららなのですから、アイカツシステム(AKA「天」)のお眼鏡にかなってツバサを授かるのも納得尽くです。

 さて、「敵対者が出してきた札をも自分のものにして勝つ」戦法によって星を降ろした花園きららですが、これを四ツ星学園・虹野ゆめの棋譜と比較してみると、『スターズ!』2年目がいかに勝負師の世界として一貫しているかが理解できます。それを焦点化するにはAS!65-66、花園・虹野・桜庭が同じ卓に集った賭場での勝敗を見る必要があるでしょう。

・虹野ゆめの返済
 虹野が自身のブランド『Berry Parfait』に星を降ろすための最初の賭けに出るのがAS!ep59ですが、この回は『スターズ!』における「創造性」を読解するための最重要エピソードの中のひとつです。それについては【→RESPECT4】で詳述します。本項では、なぜ虹野が最初の賭けに敗れた(ブランドに星が降りなかった)のか、その理由を確認するのみとします。

「わたしが一番大切にしたいこと。わたしだけじゃなくて、みんなにももっともっと輝いてもらいたい。みんなをキラキラ輝かせる、それが 『Berry Parfait』」

 AS!ep59の時点では、自分ではなくみんな(具体的には、入院中の七倉を見舞った際にふれあった子供達)を輝かせることが虹野のクリードでした。『Berry Parfait』の最初のプレミアムレアドレスがこのように賭けられた理由は、1年目から辿ってきた彼女の生路と直接噛み合っています。AS!ep32、結城すばるとの会話シーンを引用しましょう。

結城「敗けたのに、けっこう元気じゃん」
虹野「みんなから元気をもらったから。本当はこっちが元気をあげないといけないのにね。」
結城「そういう時もあるさ。」
虹野「あるの?」
結城「アイドルだって落ち込むことくらいあるだろ。たまにはファンから元気をもらったって、いいんじゃないか?」
虹野「いいの……かな。」
結城「多分な。もらったものは、これから返していけばいい。」
虹野「……うん。そうだね!」

 AS!ep32時点での虹野ゆめは、七倉を送別するためのステージで倒れ、二階堂と早乙女にリハビリを手伝ってもらってなんとかステージに復帰した状態です。そこで彼女の背中を押したのは、自分のステージを待ち望んでいるファンが多少は存在するという事実でした。「もらったものは、これから返していけばいい」。結城の言葉に頷いた虹野は、なんとか白鳥と諸星の協力によって病をいやすことに成功しますが(AS!ep35-36)、注目すべきはその直後のエピソード群。ファンからもらった元気を返すための行為、すなわち返済がここから始まっているということです。この返済という語は、虹野ゆめの生路を読み解くための最重要語句となります。

「お客さんはもちろんですけど、わたし、お店や会社で働いてる人達にも、楽しんでもらいたいんです。わたしの店は洋菓子屋さんで、クリスマスは大忙しだったから。だから、お仕事やいろいろな事情でパーティができない人達にも、クリスマスソングを届けたいんです!」

  AS!ep37で自主的にパーティを催すことに決めた虹野のセリフですが、ここではすでに「自分はこのようにして造られた」という経歴に仁義を通す=四ツ星学園のクリード(同様にAS!ep45で早乙女が、AS!ep62で如月が則っていたもの)が表出しているほか、明確に「自分のためではない、ファンのための行為(=返済)」が始まっていることがわかります。実際、以降の虹野はひとえに返済のために自分の活動を捧げてゆく。特に象徴的なのがAS!ep43で、同級生たちにチョコ造りの技術を贈り、歌番組出演直前に応援チョコを返され、自分に数々のアドバイスを与えてくれた結城すばるに「今日からライバルだよ!」のライバルチョコを贈り「お前ほんとにいい度胸してんなぁ」の照れ隠しのデコピンを返される。このエピソードですでに『スターズ!』における贈与と返済のモチーフが明確にあらわれていると言っていいでしょう。それ以外にも、デザイナーとしていくつもの訓戒を授けてくれた白銀への返済(AS!ep39, 42, 53)、かつてリハビリを手伝ってくれた早乙女への返済(AS!ep45, 54)、自分が訓育されるための空間をかろうじて保ってくれた先輩への返済(AS!ep50, 72)……枚挙に暇がありません。AS!ep37以降の虹野は、誰かが自分のためにしてくれたことの返済に全身全霊を捧げてきた。その原因はもちろんAS!ep30で親友を見送ることができなかった「傷」にこそあり、星降ろしのために虹野が賭けに出るエピソードが七倉との再会(AS!ep55)以後に始まっているのも筋が通っています。

 さてAS!ep59、虹野が初めて星降ろしの賭けに出る回ですが、結果は如何なるものだったか。星は降りませんでした。ファンのための返済「わたしだけじゃなくて、みんなにももっともっと輝いてもらいたい」だけでは賭けに勝てなかったと、この回の棋譜を読めばそういうことになります。
 虹野が二度目の賭けに出るのがAS!ep66ですが、ここにおいても(桜庭が火星を降ろしたのに対して)虹野には星が降りなかった。この賭場は「如何にしてシンプルなTシャツを魅力的に着こなすか」が前哨戦になっていますが、ここで虹野はどのような戦法に出ていたか。セリフを引用しましょう。

〔会場の観客に対して〕
「ローラの『Spice Chord』のかっこよさと、きららちゃんの『FuwaFuwa Dream』のかわいらしさを、『Berry Parfait』にトッピングしてみたんだ!」

〔楽屋裏で待機している『Berry Parfait』のオーナーに対して〕
「小春ちゃんに背中を押してもらったんです。わたしが一番大切にしたいこと、みんなをキラキラ輝かせる。それが『Berry Parfait』だって!」

 ここにおいてもまだ、虹野は自分ではない誰かへの返済「みんなをキラキラ輝かせる」に専念していた。と言ってもAS!ep66の賭場では花園・虹野・桜庭のファンたちがいがみあって剣呑な雰囲気になっていたわけですから、それを調停するために花園・桜庭のブランドをトッピングしたデザインを提出したのも頷けることです。

 しかし、ここで重要なことがあります。ここで虹野は「ローラの『Spice Chord』のかっこよさと、きららちゃんの『FuwaFuwa Dream』のかわいらしさを、『Berry Parfait』にトッピングして」勝負に出たわけで、これはAS!ep54で花園が採っていた「敵対者が出してきた札をも自分のものにして勝つ」のと同じ戦法だったはずです。先攻の桜庭・花園に対して、虹野は直前に自分のTシャツデザインを変えることができたわけですから、その戦法によって先攻の二人を抑えて勝利する結末になっていてもおかしくはなかった。しかし結果として虹野は桜庭・花園に次いで第3位となり、星のツバサも授からないままこの賭場を終えることになります。

 ここで明確になるのは、『スターズ!』2年目におけるアイカツシステム(AKA「天」)の勝敗判定が如何に厳格かということです。AS!ep54の花園とAS!ep66の虹野は同様の戦法を採っていたのにもかかわらず、アイカツシステム(AKA「天」)が微笑んだのは前者のみだった。その理由は自ずと明確です。花園は自分のブランドに星を降ろすためにあらゆる手管を総動員していたのに対し、虹野の目的はあくまで自分以外の誰かに対する返済だった。もちろん、ファンのために自分の仕事を捧げる虹野の姿はなにも間違ってはいない。しかし、「誰かのために自分を犠牲にしているようでは勝負師として一流とは言えない」というのがアイカツシステム(AKA「天」)の評点だったのでしょう。もっと言えば、ファンのために自分の仕事を捧げる「プロ」と賭けのために自分の仕事を捧げる「勝負師」は全く別の存在だ、と克明に言っているのが『アイカツスターズ!』2年目だということになります。

 これは、なかなか━━耳の痛い話ではないでしょうか。実際この島国には、「自分は学校を出たりコネがあったりしたおかげで今の職業に就けたけど、もしかしたら何の正当性もない仕事をして不当な金銭を授受しているだけではないか、自分がしている仕事は本当の仕事とは言えないのではないか」と思いながら黙々と日々を過ごしている人々はかなりの数存在するのではないでしょうか。あるいは、最初から剰余享楽的な市場原理の中に立てこもってビジネス書だの自己啓発書だのを読み漁って「自分は凡人とは一味違う『クリエイティブ』な人間なのだ」と幸福な幻想に耽ったまま肥え太っている人々はさらに多く存在するのかもしれません。

 ともあれ、花園と虹野の賭け方を比較するだけでも、『アイカツスターズ!』は「勝負師」と「プロ」の仕事は別であること・「賭場」と「市場原理」は別の仕事場であることを明晰に描ききった作品だということがわかります。あえて人称化しますが、『スターズ!』2年目のアイカツシステム(AKA「天」)とは、AS!ep35-36でなんとか病をいやした虹野に対して「そのあとでおまへのいまのちからがにぶり/きれいな音の正しい調子とその明るさを失って/ふたたび回復できないならば/おれはおまへをもう見ない/なぜならおれは/すこしぐらゐの仕事ができて/そいつに腰をかけてるやうな/そんな多数をいちばんいやにおもふのだ」*3-3 と発破をかけている存在なのでしょう。「お前ならやれる」と、「お前の代わりならいくらでもいる」と、「ついて来ないならもう見せない」*3-4 と自分の至らなさを散々突きつけられた後でもなお「仕事」を続ける、そんな存在が『アイカツスターズ!』の「人間」なのでしょう。冒頭の引用句を繰り返すときが来たようです。「人間。ただ人間。ひたすら人間を追究する」。我々が読んできたのは人間・虹野ゆめの賭けの途上です。横着せず、その先まで付き添うとしましょう。星降ろしの賭けに二度敗けた彼女はどうするのか。返済が終わり、創造のこだまが鳴り響く地点はどこなのか。言及すべき時がきたようです、『スターズ!』2年目前半最大のハイライトである虹野ゆめと七倉小春の再会、『スターズ!』における創造性と愛と傷と贈与の関係について、忍耐強く、順を追って見てゆきましょう。

*3-1 「ご馳走」は韋駄天が釈尊のために方々を走り回って食物を集めたという俗信に由来していますが、まさにAS!ep54での花園(韋駄天)はエルザ(釈尊)のために俊足を活かして水星のツバサ(ご馳走)を持ってきたわけです。花園のキャラクター性が桜庭との一戦以降にどのように変質してゆくかは別註*5-6 に書いています。

*3-2 こういう「覚えてらっしゃい!」式の捨て台詞を吐くタイプはふつう敵チームのキャラクターとして登場しそうなものですが、味方チームに所属している早乙女あこがこういうキャラクター性を持っている、というのは人物設定として絶妙なものがあります。

*3-3 『告別』宮沢賢治著

*3-4 『ILL-BEATNIK』ILL-BOSSTINO


◎RESPECT4 The Patients(虹野七倉:忍耐患者)


・Is this a test? It has to be, otherwise I can't go on(AS!ep1-49)
『アイカツスターズ!』、そもそもこの作品はどのように始まっていたか。虹野ゆめと七倉小春、S4に憧れる二人の小学生が共に願書を提出し、新入生として四ツ星学園に入学するまでがアバンタイトルになっていたのでした。入学前、「私の夢」を書けという作文に一筆も入れられない七倉に対し、「S4になること!!」と大書した原稿用紙を笑顔で見せる虹野。入学前の二人の幼馴染は、「私の夢」への積極性に差を持ちながらも、ひとまず同じ方向(四ツ星)へ向けて進むことにした。では、入学後の二人はどうなっていたでしょうか。「人間が進むことができる道は複数存在しなければならない」空間こと四ツ星で、それぞれ異なる組(歌・美)に進んだ虹野と七倉ですが、桜庭ローラを交えた序盤の描写を見てゆきましょう。

「小春、絵、描けたわよね」。AS!ep7、学外オーディションで「個性」を示すために桜庭が七倉に協力を乞うシーン。七倉はスケッチブックに次々と「個性」的なスケッチを描いて桜庭に提案しますが、ここで彼女は絵を描くスキルを多少は持ち合わせていることがわかります。原稿用紙に作文を書けと言われても積極性を示すことができなかった七倉ですが、スケッチブックにイメージを提出するスキルは持っている*4-1 。桜庭は音楽一家の出自から歌手としての適性を多少は獲得していた(AS!ep2)わけですが、ここで七倉と桜庭は他人に分け与えるスキルをある程度持っていることが示されている。逆に言えば、まだスキルを何も持っていない状態で上を目指そうとしたからこそ虹野はあの病に依存してしまったとも言えるでしょう。その依存から脱却するための方法が「誰かが自分のためにしてくれたことの返済」だったことは【→RESPECT3】で詳述しました。

 親の仕事の都合で学園を離れることになった七倉、病に依存するあまりに親友を見送ることさえできなかった虹野。AS!ep1から共に歩んできた二人の道に決定的な破局が訪れるのがAS!ep30です。『未来トランジット』の歌詞同様に流謫の身上になった七倉と、学園の中にとどまって病をいやす必要に迫られた虹野。AS!ep31以降の虹野については【→RESPECT3】で詳述したので省略しますが、ここで別れ際に七色のキャンディを贈られていることは重要です。虹野がAS!ep37以降に返済に取り組んでいった理由は、離別した親友から一方的に贈与を受けてしまった負い目にあったと見ることができます。虹野が思い悩んでいるときにさりげなく「アメ、食べる?」とポケットの中身を分け与えるのが七倉小春の常でしたし、思えば、早乙女あこの頑なさのなかに「かわいさ」を見出したのは彼女でしたし(AS!ep6)、香澄真昼が初めて同級生に心を開くきっかけを作ったのも彼女でした(AS!ep8)。虹野・桜庭・早乙女・香澄の四人にそれぞれ別のかたちで何かを分け与えていた、贈与の人・七倉小春。彼女の1年目最後のセリフ(AS!ep49)、S4選に打って出る直前の虹野と電話口で交わす言葉を引用しましょう。

「ごめんね。わたし、ゆめちゃんの声聴いちゃうと泣いちゃうんだ。だから、ちゃんと大丈夫になるまで連絡しないでおこうって思ってたの。」
「ずっと見てたよ。あこちゃんや真昼ちゃん、ローラや夜空先輩たち。みんなのステージを見て感動しっぱなし。」
「すごいね、ゆめちゃん。わたしも夢に向かって頑張ろうって、また勇気をもらえたよ。ありがとう、ゆめちゃん。いつも笑顔をくれて、どうもありがとう。それを伝えたかったの。」

「ちゃんと大丈夫になるまで連絡しないでおこうって思ってたの」「いつも笑顔をくれて、どうもありがとう。それを伝えたかったの」。七倉もまた虹野とは別のかたちで負い目を感じていたということになります。虹野が病をいやした後にひたすら返済に取り組んでいたように、七倉もまた自分が虹野(や四ツ星の学生)から贈られたものを返済するための方法を探していた。その方法とは何か、についてはもう明白です。彼女が図像を描くスキルを持っていたことは序盤で示されていました。七倉は新しい場所(VA)でドレスをデザインする技能を磨くことになり、四ツ星学園に負い目を感じながら返済の技能を磨く「未来の途中」にある。前註*4-1では 言葉の人:虹野、図像の人:七倉 と分類しましたが、『スターズ!』2年目では、それぞれ異なる患い方をした二人の患者が、また再び贈りあうことで互いの傷をいやし、共に創造性を獲得するまでの路が明確に描かれています。『スターズ!』における「創造性」を読解するための最重要エピソード、AS!ep59に向かいましょう。

・But I'm still right here. Giving blood, keeping faith.(AS!ep59)
 ヴィーナスアーク、四ツ星とは異なる水準での訓育を受けた七倉は、族長エルザ フォルテのドレスデザインを手伝うことができるまでに成長します(AS!ep56)。七倉がVAでどのように訓育されたかを部分的に示すエピソードも存在しますが(AS!ep60)、それより重要なのは、七倉が孤独に続けてきたスキルの鍛錬そのものを、虹野と離れていた時間の長さ(2016年11月~2017年5月)そのもので示していることです。前作『アイカツ!』の2年目開始時点では「星宮が留学してから1年が経ちました」というアクロバットが使われていましたが、『スターズ!』2年目では時間軸を早回しする手法を採っていないため、四ツ星学生と視聴者の体感時間が一致することになります。「この半年間、七倉小春は何をしていたか」を回想などではほとんど示さず、親友と離れていた時間のみで彼女の道のりを偲ばせる手法が採られたのは、「孤独」の作品である『スターズ!』の本質からして当然のことだったのでしょう。贈られたものを返すために、その方法を見つけるために黙々と鍛錬に取り組んでいるのが『スターズ!』の勝負師たちなのですから、半年間もダラダラと無為に時間を浪費しているだけの人物なら『スターズ!』の賭場には召命されることすらなかったはずです。独りで仕事に向き合うことなく仲間内での上目遣いの馴れ合いに終始している(Twitterの住人のような)人間は、そもそも「孤独」の作品である『アイカツスターズ!』には登場することすら許されないでしょう。

 AS!ep59の読解に集中しましょう。自分のブランドに星を降ろすためのアイデアが浮かばない虹野。台詞を引用します、「まるで、深い海の底、デザインが魚みたいに泳いでて。一生懸命釣り上げようとしてるのに、全然無理って感じ」。そこで七倉が気分転換のために魚釣りを提案する。釣った魚を料理して食べたのち、七倉は(飛んだ帽子をキャッチしようとして)海に転落し、足首に怪我を負ってしまいます。結果として虹野は七倉のお見舞いの途中でデザインを着想しますが、ここで虹野が掴んだ「わたしが一番大切にしたいこと。わたしだけじゃなくて、みんなにももっともっと輝いてもらいたい。みんなをキラキラ輝かせる、それが 『Berry Parfait』」というクリードは、アイカツシステム(AKA「天」)のお眼鏡に叶うものではなかった。それについては既に書きました【→RESPECT3】。それよりも重要なのは、AS!ep59では「mortality(可傷性・可死性)」が直接に創造性にかかわっていることです。『アイカツスターズ!』は前作とは違って「不死(immortal)」ではなく「死すべきもの(mortal)」の世界であることについては委曲を尽くしました。虹野には既に消しようもない外傷(AS!ep30)が存在することも先述したとおりです。AS!ep59でも、虹野と七倉が模索する創造の道に(心身の)外傷がかかわっている。虹野が『Berry Parfait』の名前で世界に捧げるための仕事を用意するために患者として入院していた親友の傷がかかわっていたこと、これは絶対に読み落とすべきではありません*4-2 。

 七倉がVAで獲得したスキルを贈る対象は、虹野のみではありません。桜庭ローラ、自身のブランドを持っていないためにエルザから下郎呼ばわりされていた(AS!ep52)彼女も、如月ツバサから『Spice Chord』を継承して以降は創作に取り組むことになります。セリフを引用しましょう。

AS!ep62
桜庭「それより、ここ最近〔私が〕小春とドレスの勉強してるの、ゆめたちには内緒にしといて。」
七倉「どうして?」
桜庭「だって、ほら、なんだか恥ずかしいじゃない。」

AS!ep65
桜庭「ごめんね、小春も忙しいのに、毎日お邪魔しちゃって。」
七倉「全然。ローラの力になれて、嬉しいよ。」
七倉「このドレスで出場するの?」
桜庭「うん。急がなきゃ。」
七倉「あれ、そこってデザイン画と違うんじゃない?」
桜庭「縫っているうちに、アイデアが思いついちゃって!」
七倉「それで変更したの?」
桜庭「自分のベストのドレスで挑みたいから!」
七倉「……何か手伝おうか?」
桜庭「ありがとう。でも、このドレスは自分の手で仕上げたいんだ。『Spice Chord』はツバサ先輩から受け継いだブランドで、私が創ったんじゃない。だから、このプレミアムレアドレスだけは、私の力で創り上げたいんだ。『Spice Chord』のミューズを受け継いだ者として。」

 七倉と勉強を重ねた結果、桜庭は星を降ろすことに成功し【→RESPECT5】、七倉は学友の達成に涙まで流します。『ロックマイハートコーデ』は七倉からドレスの知識や技能を贈られることなしには受胎不可能だった。桜庭自身も七倉からおおきなものを贈られたことに自覚的だったからこそ、のちに虹野七倉が不和になってしまったときに積極的に仲を取り持っていたのでした(AS!ep73)。贈与と返済。『スターズ!』1年目から執拗に描かれてきたこのモチーフは、2年目においてますます創造性と関連づけられてゆくことになります。
 ここで一旦、『スターズ!』において創造性と関連づけられていたものを整理しましょう。まず傷(AS!ep30, 59)。一方的に贈られてしまったことに対する負い目(AS!ep30)。贈与と返済(AS!ep32以降のほぼ全話)。それらのモチーフがいかに周到に絡み合って創造性の理路を導いているかは縷述しましたが、この卓の上にはまだひとつ重要な道具が足りていません。「愛」。虹野と七倉、二人の患者が「愛」によって文字通りもう一度手を取り合うまでの読解に向かいましょう。

・Gonna wait it out...(AS!ep71)
 留学生としてVAに滞在していた虹野ですが、ついにVAは抜錨して日本を離れてしまう。虹野にとってはやっと再会できた親友との離別を意味することになり、AS!ep30の傷にもう一度向き合わざるを得なくなる。事実、S4になって以降は大抵のことにも動揺しなくなっていた虹野が、1年生の頃のような脆い涙色の表情を多く見せるのがAS!ep71です。虹野は四ツ星での discipline を受けることでなんとか長じることができましたが、自身のうちに根深く残っている傷には無防備なままであるという、このあられもない人間性たるや。

 結果として、虹野はふたたび七倉と引き裂かれることはありませんでした。族長エルザ直々の命令で七倉も船を降りていたためです。ふたたび四ツ星の学籍を取得した七倉を歓迎するパーティが催されるわけですが、その歓迎会ステージ直前の虹野の表情を見ましょう。後輩たちの前では絶対に見せないであろう、新たな脅威を前にしても笑って立ち向かえていた人物と同一とは思えない、不安と怯えに満ちた表情です。

虹野「ローラ、力を貸して。小春ちゃんを見送るステージで、大失敗しちゃった、もう二度とあんなステージ見せたくない。だから今日は……」
桜庭「最高のステージにする、でしょ? もうあのときのゆめとは違う。今のゆめなら大丈夫。それに、私がついてるしね!」

 自分にとって最も痛ましい記憶を告白する虹野と、その克服のための実践を引き受ける桜庭。先述の通り桜庭も七倉からの贈与にあずかった人物なわけですから、ここで快く「私がついてる」と同行を引き受ける。そして共にステージを成功させ、ここに虹野・桜庭・七倉という『スターズ!』初期の3人の関係が回復されます。が、もちろん本項の冒頭で述べたような1年生の頃とは事情が違います。彼女らの心身にはいくつもの傷が刻印されている。が、『スターズ!』が mortal の作品であることは散々確認しました。傷を傷のままに引き受けて生き続けるために、そのために藝能を介した贈与と返済が必要だった。本項で追ってきた虹野と七倉の Remedy Lane は、ひとまずAS!ep71で落着すると見ていいでしょう。

・I MUST KEEP REMINDING MYSELF OF THIS I MUST KEEP REMINDING MYSELF OF THIS I MUST KEEP REMINDING MYSELF OF THIS I MUST KEEP REMINDING MYSELF OF THIS(AS!ep72)
 しかしAS!ep72。ここでまたひとつの断絶線が示されます。「あっ、虹野先輩だ! ベスト買いました! サインお願いします!」下級生たちの憧れの対象となっている歌組S4虹野、の姿を傍観するしかない七倉。これはもちろんAS!ep51のVA船内シーンの逆位相になっています。四ツ星内でのヒエラルキーでしかないS4がVA内では評価の対象になりえなかったように、VAで鍛錬を積んできた七倉は四ツ星内では一般の学生でしかない。その前にも、虹野がアイドルとして有名になったためにカフェで羨望の眼差しを集めてしまうシーンもありますが、VAで裏方としてデザイン業に取り組んできた七倉は見向きもされない。虹野と離れていた時間と空間の隔たりが、まさにここで断絶線として可視化されるわけです。二人はこの線を超えてふたたび手を取り合うことができるか。これが虹野七倉に課された最後の試練だと言ってもいいでしょう。

 AS!ep72では虹野七倉がそれぞれ別の仕事に取り組むことになりますが、ここにおいても虹野はまだ返済に取り組んでいます。先代S4が久しぶりに学園に帰還したことを祝うサプライズパーティを企画していた虹野ですが、新商品「カレーアイス」のコマーシャル収録に起用され、あまりの点数の多さにぐったりしてしまう。ようやく収録が終わりに差し掛かりますが、虹野はふいに「まだ最高の笑顔を届けられていないかもしれません」と目を覚まし、自ら「トリプルトンカツエビフライキャベツマシマシカレーアイス」の追加収録を申し出る。なぜならこのメニューは、二階堂ゆずが「あれを食べると最高の笑顔が飛び出す」と愛好していたものだったからです。言うまでもなく、虹野にとって二階堂はAS!ep32でリハビリに協力してくれた人でした。その人が「あれを食べると最高の笑顔が飛び出す」と言っていたメニューを無視したまま仕事を終えるなど、返済を旨としてきた虹野ゆめには許せないことだった。まだ、まだこの人は返済し続けるつもりです。ぞっとするほど一貫しています。ほとんど畏怖を覚えるしかない愚直ぶりです。

 そのせいで撮影が若干長引き、虹野は自らが企画した先代S4歓迎パーティに遅刻してしまいます。が、七倉が先代S4に虹野の想いを告げていたおかげでパーティは問題なく挙行される。虹野が先代S4を迎えるつもりが、先代S4に迎えられる格好になったわけです。ここではもう債務者と債権者との負い目の関係が逆転している。AS!ep32以降、執拗に自らの返済に取り組み続けた虹野に「もう十分だ」と言うための場所がこのパーティだったと言えるかもしれません。先代から『episode Solo』のパフォーマンスを贈られることで、虹野と七倉、贈与と返済に取り組み続けた彼女らはひとつのおおきな報いに到達しました。さて、AS!ep72のラストシーンを引用しましょう。

虹野「教えて。あのカフェで、何を言おうとしてたの?」
七倉「あのね、わたしね、わたし……ゆめちゃんが好き。大好き。とっても好き。いっぱい好き。だから、わたしもこの足で一歩を踏み出して、夢を掴むよ。夢に近づくよ。『Berry Parfait』のデザインを、お手伝いしたい! 一緒に歩きたい、ゆめちゃんのブランドを、星たちの空へ羽ばたかせる道!」

 七倉小春、原稿用紙に自分の夢を書くことすらできなかったあの子が自分の想いを滔々と話せるようになるまでに、一体どれほどの時間が、鍛錬が、傷が必要とされたことでしょうか。虹野の返答やいかに。「全部わたしの言葉だよ!」。原稿用紙に大書した「S4になること!!」の夢にあれほど呪われ、言葉に巣食われて病みきっていた時期を経過した虹野が、ついに親友から言葉を受け取る瞬間。虹野ゆめと七倉小春、二人の患者patientがそれぞれの空間を隔てた忍耐patientの果てに再び手を取り合うまでの、ふたりで「辛くてそしてかゞやく天の仕事」*3-3 をするための関係を結ぶまでのすべての経験がここに結果します。虹野がアイカツシステム(AKA「天」)に認められて星のツバサを授かるまでには、ここまでの遥かな道程が必要だった。『アイカツスターズ!』、この複数形の作品は、ふたりの人間が離別や流謫を経てそれぞれの成果を持ち寄る関係(前稿に事寄せて言えば「出産する二人」)を描くことにまで成功してしまいました。

*4-1 この原稿用紙とスケッチブックの対比だけで、言葉の人:虹野、図像の人:七倉 の質的な違いを見ることもできますし、虹野の病は直接に「言葉の病」としても理解することができますし、言葉の人である虹野が常に妄想に陥りがちだったのを踏まえると「言葉の病」を患うのは当然だったと言えますし、『STARDOM!』の「幻想はやがて 現実になる」の歌詞はそのまま「妄想はやがて 症状になる」に置き換え可能ですし、以前それを筋道立てるための原稿も書いたのですが、想像以上にドープな内容になってしまったので没にしました。ひとつだけ、【→RESPECT4】は 言葉の人:虹野、図像の人:七倉 というそれぞれ異なる患い方をした二人の患者が長い道のりを経て合流するまでの生路を筋道立てている、と書いておけばいくらか読みやすくなると思います。

*4-2 誤解のないように書きますが、これをもって「『スターズ!』は自分の傷を見せびらかすだけの作品なのか」と揶揄するならそれは全くの誤読です。本稿で進行しているのは、死すべきもの(mortal)として産まれたことをそれ自体として(傷とともに)引き受けていくことが結果として創造性につながるまでの理路です。もちろん、自分の傷を見せびらかして注目を集めて精神的荒廃を呼び寄せてしまった不憫な「作家」たちも多数存在します(ご存知なければ「永田カビ」で検索してみてください)。しかし、「著作家で、それも無名ではない著作家で、その作品が、自己の感動の排泄にすぎないような人びとがいる。それらの作品は、感動させることはできる。しかしそれをつくった当の人びとを、つくりかえることはできない。彼らは作品を書きながら、自分の知らなかったものをつくること、自分がそうではなかったものになることを、学びはしない」(ヴァレリー)。『アイカツスターズ!』が 「自己の感動の排泄(=情緒)」ではない別の物質を生成することに専心した作品であることは、本稿を読み終わった後で明らかになると思います。また、この註で書いたような「癒しのための創作が必ず幸福な結果をもたらすとは限らない」ことを驚くべき明晰さで示した文章に中井久夫著「創造と癒し序説」ー創作の生理学に向けて」(『アリアドネからの糸』みすず書房刊)があります。


◎RESPECT5 言葉の闘士(桜庭 VS 花園)


 花園きららの俊足、虹野と七倉の蜜月を見てきましたが、ここにはまだあと一人の勝負師が招かれていません。桜庭ローラ、彼女をこの卓に迎えましょう。『スターズ!』2年目前半の勝負の要諦を見るには、「言葉の闘士」である彼女の棋譜を読んでいくことが必要不可欠となります。

・桜庭ローラの時間
 AS!ep1。入学初日から桜庭ローラが遅刻してくる忘れがたいシーンがありますね。指導教員である響アンナはここで「それも個性」「だが、二度目はない」と訓戒を与えます。「30!!過ぎたら!!遅刻も!!個性!!」というグループ魂の曲の歌詞を思い出すシーンですが、AS!ep16、組別ステージに白鳥ひめと共に出演するはずだった桜庭は、CMの収録が長引いたうえに渋滞にはまってしまい、ステージに参加することができなくなってしまう。入学当初に「時間」の存在を甘く見ていた桜庭ローラが、後頭部から殴りつけられるようにして「時間」に襲撃されてしまうわけです。ステージに出ることを断念した桜庭は虹野に空間を隔てたバトンタッチをし、なんとか組別ステージは歌組の勝利に終わる。が、桜庭にとっては「時間」の認識をあらためるきっかけになった苦い経験と言えるでしょう。

 そして2年目以降の桜庭は、AS!ep57で「ステージに出る予定の後輩たちがトラブルに遭い、開演時間に間に合わなくなるかもしれない」というかつての自分と同じシチュエーションに直面します。現在歌組の幹部生の任を負っている彼女は、まず幹部生に応援を招請し、虹野とともにオープニングアクトを務めることで後輩が到着するまでの時間を稼ぎ、なんとか事なきを得たのでした。その桜庭の対応ぶりに「芯があって、何事にも動じず、責任感がある人間」の姿を見た如月ツバサは、桜庭こそがブランド『Spice Chord』を継承すべき人間であることに気づく。これら「時間」を交えた桜庭ローラの描写は実に見事です。が、重要なのはこれだけではありません。AS!ep57は、「時間」の人であるとともに「言葉」の人でもある桜庭ローラの姿が描かれているからです。

 その前にAS!ep53。『Berry Parfait』のデザインに迷走する虹野を桜庭がたしなめるシーンがあります。引用しましょう、

桜庭「ゆめ、今描いてるの何?」
虹野「いちごショート。」
桜庭「じゃあその横は何かな?」
虹野「チョコパフェ!」
桜庭「……もしかして、 berry はストロベリーで、parfait はパフェってこと?」
虹野「さすがローラ、ばっちりわかってくれたね!」
桜庭「……それ、意味違ってる。スイーツから一旦離れようか。」

“parfait” は英語では「パフェ」でも仏語では「完璧なもの」の意味をも持つのであって、ただお菓子のデザインだけを考えてもしょうがないでしょというツッコミですが、ここで示されるのは、桜庭ローラはちゃんと辞書が引ける人間であるということです。「え、そんな地味なことが重要なの?」と言われるかもしれませんが、重要に決まっています。この島国には明らかに間違った言葉の使い方でふんぞりかえっている恥ずかしい大人がいっぱいいるわけですから*5-1 、若年層をメインの客層とするこの作品でちゃんと辞書的な意味を踏まえた上で言葉を使うことができる人物が描かれているのはとても重要です(実際、とても恥ずかしいのですが、私はこの桜庭のセリフがなければ parfait の二重の意味に気付くことすらできませんでした*5-2)。「桜庭ローラはちゃんと辞書が引ける人間である」件は、AS!ep57でさらに強調されます。虹野・桜庭のバラエティ番組の収録に花園きららが乱入し、不本意ながら三人一緒に食レポを収録するシーン。完全にオフタイム気分で来ているためにパフェを食い尽くしてしまった花園に、桜庭自ら食レポを実演します。

「濃厚でこってりしたクリームが、ベリーの酸味と絶妙なハーモニー! パフェの語源は perfect って言われてるけど、このパフェはその名の通りパーフェクトな逸品です!」

 AS!ep53-57の一連のシーンでは、「言葉の人」桜庭ローラの強度が示されていると見るべきでしょう。実際AS!ep57では、「ローラ、いつのまに練習してたの?」「そういえば昨日の夜デッキから……」と桜庭が黙々と言葉の鍛錬を積んでいることが示唆されます。が、さらに重要なことがあります。このエピソードで桜庭が後輩のために尽力する流れは先述しましたが、その利他的な行動に対するカウンターとして花園きららの利己性が対置されているのがAS!ep57なのです。このエピソードは、AS!ep65-66での「桜庭 VS 花園」の前哨戦としても見る事ができます。

・前哨戦(AS!ep57)
「ふたりのステージ、とってもよかったよ! でもどうして1年生に譲っちゃうの?」後輩のためのオープニングアクトを終えた桜庭・虹野に対する花園のコメントがこれですが、ここで花園が嫌味や皮肉を込めて言っているわけではないことに注意しましょう。ヴィーナスアークで訓育を受けた花園きららにとっては、桜庭・虹野の「後輩のチャンスを護るために自分たちは脇役に徹する」という行動は、「せっかく宝くじが当たったのに換金しなかった」・「せっかく真鯛を釣り上げたのにリリースしてしまった」ような、端的にもったいない、理解不能な行動でしかないのですから。花園きららの言い分を聞きましょう。

「エルザ様言ってたもん! アイドルの世界は弱肉強食なんだよ。チャンスを活かさなかった方が悪いんだよ。」

 もちろんここで花園が言う「弱肉強食」は、ダーウィン(が自己の理論を構築するために参考にした学説たち)の言う自然選択(適者生存)を通俗的に解釈したもので、通常「社会ダーウィニズム」と呼ばれるものです。ここでの花園きららは(「エルザ様言ってたもん」と伝聞調で話していることも含めて)「言葉の危うさ」を持った人物であることがわかります。実際、この島国にも「弱肉強食」だの「自然淘汰」だのを通俗的な意味で使う「知識人」ども*5-3がうじゃうじゃいるわけですから、この「言葉の危うさ」を持った人物と対峙するシチュエーションはまったく人ごとではありません。が、もうひとつ注意すべきなのは、「集合時間を守ることさえできない人間はチャンスを取り上げられても仕方ない」という花園の言い分は、前作『アイカツ!』のA!ep15で言われていたような*5-4 「プロフェッショナル」な意見として一理あるということです。ということは、ここでの花園きららはイントレランスとプロフェッショナルの両方が折りたたまれた言葉を突きつけている存在、ということになります。

 では、これに対して桜庭はどう返答するか。「エルザさんのこともヴィーナスアークのやり方もわかんないけど。私は、人のことを思いやったり、手を差し伸べられるアイドルでいたいんだ」。「時間」をめぐる苦い経験を通ってきた桜庭ローラだからこそ説得力のある言葉です。さて、これに対して「そっか、わたし間違ってた! 明日からもアイカツ頑張ろう!」と花園が説得されていたとしたら、『スターズ!』は「言葉の危うさ」を一面的な正しさで説き伏せて事足れりとする凡庸な作品になっていたでしょう。しかし桜庭の言に対する花園の反応は、「……よくわかんない、ヘンなの」という率直な当惑のみでした。四ツ星と違う環境で訓育された花園きららにとっては、桜庭ローラの言はどこまでも不可解なものにしかなり得ない。『アイカツスターズ!』が『スター・トレック(とくにTNG)』から継承した重要なテーマがここに噴出します。問題とされるべきなのは「個人」ではなく「個人を生み出す水準」なのだと明確に批判の矢玉を定めて撃っているからこそ、このシーンの対話は意味を持つのです。

 さて、桜庭と花園の対話はこれ以上進展することなく、番組の収録を終えたところで撤収します。AS!ep57での「言葉の人」と「言葉の危うさを持った人」との前哨戦は、ひとまず互いの断絶線を強調したところで終わったと言ってよいでしょう。彼女らは(Twitterの住人どもやしょうもないフリースタイル番組のMCどもとは違って)ムダな議論や口論に時間を費やしたりはしません。Style の War、それだけが彼女らの会話法なのですから、再び桜庭と花園が相見える賭場での勝敗こそが重要となります。AS!ep65-66の読解に移りましょう。

・スタイルとスタイルのウォーズ(AS!ep65-66)
 AS!ep65。部分的に確認しましたが、ここでは桜庭・花園・虹野のファンたちが集まって剣呑な雰囲気を醸し出しています。ここでの花園は積極的にファンを煽っていくスタイルで勝負に出ていますが、この「メーッ」が喜・怒どちらの感情表現としても使用可能なこと、場所と客層によっては同じ「メーッ」でも惹起される反応が違ってくることまでもが示されていて、ここが明らかに「言葉の勝負」の場である事が強調されています。

上:AS!ep54 下:AS!ep66

 さて、この賭場『ヴィーナスウェーブ』は無地のTシャツを如何にデザインするかがステージの導入となっていますが、ここで桜庭は『Spice Chord』とともに如何なる勝負に出たのか。

辛口になりすぎないように、アイテムをカジュアルとシック、交互にしたことです。これぞ甘辛ミックス。コーディネートのサンドイッチです!」

これに対する司会(騎咲)の反応は、「実に興味深いね。でも、『Spice Chord』はクールなイメージだと聞いたよ。甘さを入れるとイメージがぶれないかな?」というもの。この時点で、桜庭は「如月ツバサから継承したブランドのイメージと、自分の創造性をどのように同居させるか」を言葉で筋道立てなければいけません。彼女はどのようにして切り込むのか。「ブレてもいいじゃないですか」。この一言で少なからず客席から動揺の声が上がる。騎咲は「それはブランドのミューズらしからぬ発言だね……ミューズがブレたら、ブランドのイメージもぶれないかい?」と公平な問いを投げますが、それに対する桜庭のアンサーを全文引用します。

「変わらないと面白くないから。ずっとアイカツしてきて、思ったんです。いろんなことにチャレンジして、新しいことを発見して、そして少しずつ変わっていく自分が楽しくて。コーデも、こうじゃなきゃいけないって決まりは無いと思うんです。気の向くままチャレンジして、自分だけのコーデを見つければいい。だって、ドレスってすっごく自由だから! 自分を信じて、ゴーイングマイウェイで! これがわたしの『Spice Chord』です!」

【完答】ではないでしょうか。実際に本編の流れで観るとその理路整然ぶりに撃たれますが、こうして文字に起こすだけでも惚れ惚れします。伝統あるブランドを継承すること、その中で自分自身の力で差異を生み出して新しい賭けに打って出ること。抑えるべき要点がシンプルにまとまったこの弁舌は、過去のブランドイメージに執着するファンですら舌を巻かざるを得ないでしょう*5-5。
 この弁舌で観客と騎咲を説得した桜庭は、入魂の衣装『ロックマイハートコーデ』で勝負を打ち、ついに火星のツバサを授かるに至ります。『ヴィーナスウェーブ』は四ツ星学生にとってアウェーの賭場にも拘らず、桜庭は花園ほか居並ぶVA学生たちを抑えて第1位に輝く。ここで明確になるのは、「言葉の危うさ」を持った花園きららを迎撃するためには、辞書と弁舌の力、「言葉の闘士」桜庭ローラの力が必要だったということです。ドレスを通して自分自身の返済に取り組んでいた虹野ゆめだけでは、きっと力が足りていなかった。『アイカツスターズ!』、この複数性の作品、個人を生み出す水準が複数あり、質的に異なる主人公がふたり並立しているこの作品だからこそスタイル・ウォーズを展開することが可能だった。そして、この賭場で遅れをとった(セリフを引用すれば「自分にメーッ」することになった)花園きららも、徐々にそのキャラクター性に変質が見られるようになります*5-6。対立と軋轢が存在する世界で闘い、影響を与え、変わっていく、『スターズ!』2年目ではそんな勝負師たちの姿が活写されているわけです。

 これを前作『アイカツ!』のA!ep137-138の勝敗結果と比較してみるのもいいでしょう。この2話はのちに『スターズ!』シリーズ構成を担当する柿原優子によって書かれていましたが、ユニットカップでスキップスが優勝した要因は、「ドレスを探しているまっすぐな姿を見て、ファンはスキップスを応援したいと思った」「アイドルがファンの心を動かすのは、ステージの完成度だけじゃないってことですね」。もし『スターズ!』が前作と同質の作品だったとしたら、AS!ep65-66は「すごい! 会場のファンの心をつかんだ虹野ゆめがまさかの逆転優勝だ~!」などの結果になっていたでしょう。柿原優子が前作のレギュレーションで書くことができた「勝負」はその程度のものでしかなかった。しかし『スターズ!』の勝負判定はファンではなくアイカツシステム(AKA「天」) に担われていることは冒頭で書きました。桜庭・虹野・花園、この3人の勝負師たちの棋譜を読むだけでも『アイカツスターズ!』が如何に勝負師たちの作品として一貫しているかが理解されます。

*5-1 たとえば「アベノミクス三本の矢」という語を例にとりましょう。「レーガノミクス」に由来すると思しいこの語ですが、まず
 ⑴21世紀にもなってレーガンが元ネタというセンスは致命的ではないか
 というツッコミが入り、次いで
 ⑵“Reaganomics” は “Reagan” と “economics” が共通のn子音によって接続された造語であり、仮に “Abe” というe母音で終わる人名を “economics” に接続するのならば “Abeconomics” が妥当ではないか、「アベノ」のn子音はどこから来たのか
 が指摘され、さらに
 ⑶「三本の矢」を「三本柱」等と同じ意味で使用しているようだが、毛利元就の「三本の矢」の逸話はむしろ「三重の綱はたやすく切れない(コーヘレト書)」等と同じ意味であり、矢を一本ずつ分けてしまったら個々に折られて終わりではないか
 という止めが刺されます。たった十文字の語でみっつもペケが入るとはすごいですね。よっぽど馬鹿な大人が作ったんでしょうね。こういう恥ずかしい大人になってはいけないよと言うためにも、「ちゃんと辞書が引ける人間」の存在は重要なのです。

*5-2 虹野のブランドである『Berry Parfait』にはエルザのふたつ名でもある “Perfect=Parfait” が入っていて、エルザの持ち歌である『Forever Dream』にはゆめの名前 “Dream” が入っています。つまり異なる文化圏のリーダー二人が互いに互いの名前を浸入させあっているという、『STARDOM! / Bon Bon Voyage!』のジャッケットが陰陽(またはA(bove)と(Below))の位置にあるようにまったく異なる他者が言葉で交信しあっているという、こういう文字のエロスを入れてくれる『アイカツスターズ!』は本当に稀有な作品です。もちろんAS!ep44での香澄・桜庭の異種交雑のエロスも忘れるわけにはいきません。

*5-3 要するに、竹内久美子とか為末大みたいな輩です。

*5-4 いちおう書いておきますが、A!ep15は『クスノキの恋』というタイトルの通り「プロフェッショナル」ではなく「ラブ」についてのエピソードであり、この回での虹ヶ原マコトの対応も「理由はどうあれ時間を破ることは許されない」という社会通念を「でもパパの思い出にまつわるペンダントを持ってきてくれたから許しちゃう」という私事によって引っ込める手続きを経ています。よって、A!ep15は「ラブこそすべて、ラブはパワー! ラブは永遠なのです!」のセリフの通り “Love Conquers All” な話としては成立していますが、残念ながら「プロフェッショナル」が描かれている話としては成立していません。

*5-5 よって、「『アイカツスターズ!』は『アイカツ!』と違うことをやっている、だからダメだ」という乳児的な「批判」は、すでにこの桜庭ローラの言葉によって撃墜されていると見るべきでしょう。「杜撰な読解による幼稚な批判が、すでにその本の中で無効にされている」のは優れた書物によくあることですが、『アイカツスターズ!』でも同様のことが起きているわけです。

*5-6 AS!ep71、花園は七倉とのショッピング中に時間を短縮するために自分ごと梱包して運送業者に運ばせますが、そのせいでうっかりヴィーナスアークの出航時間に遅れ、乗船しそこなってしまいます。俊足を尊ぶ韋駄天的人物であるところの花園は大ダメージを受け、この失策にものすごく落ち込んでしまうわけですが、さらにAS!ep75では渋滞にはまってしまったせいで仕事の現場に遅刻しています(海外での活動が長くて日本の交通網の渋滞を予測できなかったことが原因と思われる)。肝心の仕事には(当日オフだった香澄がアシストに入ったおかげで)なんとか間に合いましたが、「ごめんなさい! もう二度と遅れませんからあ!」と初めてガチ泣きしています。これはもちろん、AS!ep16で桜庭がステージに遅刻したときと同じ無念を味わっているのであって、ここでAS!ep57の花園きららからの変移、いい意味での slow down が描かれていると言うことができるでしょう。逆に言えば、この slow down の過程がなければ Cool Cat こと早乙女と一緒に組むこともできなかったはずです。敵対するうちに自然な形で敬意と友情が芽生えた早乙女と花園の関係性は、陸抗と羊祜のそれになぞらえることもできるでしょう。「羊」ですし。

 さあ、花園・虹野・桜庭それぞれの棋譜のさまざまを読むにつれ、『アイカツスターズ!』の「闘争」如何が諒解されてきたようです。それはスタイルの闘争、筆や鋏や針や画材や匕首やマイクの使い方を心得ている者のみが参加を許される勝負の場なのです。そもそも “style” の語源が “stilus” 、「先の尖ったもの」を意味するラテン語であること、蝋板に記書するための道具を指すこの “stilus” がやがて筆法・語法などの表現様式を指して使われるようになったことは(桜庭ローラと同様に辞書を引く習慣がある人であれば)誰でも知っています。AS!ep53で「野心」と決別することで冥王星のツバサを授かった白銀リリィ、自らの既得ファン層を「斬り捨て」て天王星のツバサを授かった騎咲レイ、この2名の棋譜も読み解かねばなりません。その過程で、我々は筆や鋏や針や画材や匕首やマイク、尖鋭筆鋒=stilusの使い手である彼女らが斬り結ぶ勝負の果てに、いくつもの驚くべき創造性の煌めきを見ることになるでしょう。


◎RESPECT6 Don't dream it, be it(「楽しい想像」の「その後」)


 AS!ep63は『スターズ!』全編でも最も入り組んだギミックが内蔵されている回ですが、まず冒頭で既に「S4」と「S4でない人」との断絶線が可視化されていることを確認しておきましょう。


 前年度のS4選では「野心」のために桜庭・虹野・そして白鳥に遅れを取る結果になった白銀リリィ、親友である二階堂とともにS4になる夢は叶わなかった彼女ですが、AS!ep53ですでに「S4になること」以外の夢に向かって歩み始めていたことを思い出しましょう。「すべての野心を軽蔑すること(ポー)」。『星のツバサシリーズ』での白銀はその自戒によって四ツ星で初めてアイカツシステム(AKA「天」)に認められたミューズ*6-1 となったのでした。
 しかし、彼女にはまだ乗り越えなければならない試練があります。病弱なために夏季の活動が困難な白銀リリィは、今年度において昨年度と同じことを繰り返さないために、「ゴシックヴィクトリア・ファン感謝イベント」を完遂して自らが丈夫に鍛え直されたことを示さなければなりません。『星のツバサシリーズ』前半が昨年度と同じと見せかけて全く別の軌道に移っている(AS!ep52, 57, 58, 62)ことを踏まえれば、ここで白銀の差異と反復のエピソードが来るのは至当なことです。冒頭で示される「S4」と「S4でない人」との断絶線は、白銀が親友とともに過ごす夏への扉しても見ることができますが、この断絶線はAS!ep63後半の重要なギミックとして再登場することになります。

・Pull Her Under (夏の魔物)
 トラブル続きの「ゴシックヴィクトリア・ファン感謝イベント」を学友の助力とともに乗り越えてゆく白銀ですが、まずここでの白銀はファンにとっての「司牧(群れの一人一人が不幸なことにならないように警戒し用心する人)」の役割を担っていることを踏まえておきましょう。『アイカツスターズ!』が極めてユダヤ的な作品であることは以前書きましたが、1年目での「司牧」の役割は四ツ星教員、とくに諸星ヒカルによって担われていました。しかし2年目では教員でさえ手に負えない状況を学生たちが解決してゆくエピソード(AS!ep52, 57)に転調しているので、ここで歌組最年長である白銀が「司牧」の役割を担って試練を乗り越えてゆくのも至当と言えるでしょう。AS!ep63前半の白銀リリィは、ただファンのために自らを捧げるプロである、だけのようにも見えます。

 白銀率いるゴシックヴィクトリアは、イベント会場行きの列車が停まり、二階堂が提供したヘリコプターに乗り換えるも暗雲に飲み込まれ、さらに危うい瀬を渡ることになります。そこに入る天気予報。「1日お天気キャスターの虹野ゆめが、涼風高原上空のお天気をお伝えします。今現在、たいへん激しい嵐が吹き荒れていますが、しばらくすると、天気はウソのように回復するでしょう」。
 もちろんこの予報は前作の「大空お天気」とは全く意味が異なります。虹野が白銀と同じく想像の力を武器にして現実に対抗していたことはAS!ep26で示されていたわけですから、ここでの予報は「夢」の力を信じる虹野から白銀に渡された賭けのカードでしかありません。それを裏付けるように、即座にヘリコプターのパイロットから現実的な退却案が提示されます。「この嵐が簡単に晴れるわけがありません、引き返しましょう」。「夢」に賭けるか/現実を見て断念するかの2枚のカードを配られた白銀ですが、AS!ep26を踏まえれば彼女がどちらの札に賭けるかは明らかです。「ゆめさんを信じます」。ヘリコプターで突っ切ることに決めた白銀は暗雲を突破しますが、ようやくたどり着いた会場は大規模な停電に見舞われていました。
「万事休す」。おそらく、彼女は賭けに敗けたのでしょう。であるとすれば、半ばに倒れた白銀リリィの道は、想像の力を武器にして戦う人間としての彼女の死をも意味しているのでしょうか。おそらくはそうでしょう。半分の意味では
 
・Black Clouds & Silver Linings(夢の劇場・「その後」に残ったもの)
 さて、白銀が道半ばに倒れた瞬間、AS!ep63最大のギミックが起動します。オロスコピオサウルス、涼風高原で化石が出土した恐竜が復活し、S4が少女戦隊に変身してこれに対抗する展開。「このオロスコピオサウルスのせいだったんです。ファンのかたの遅刻も、駅弁の積み忘れも、列車やステージの電気が停まったのも全部。でも安心してください! わたしたちの本当のチャレンジは、正義の戦隊ヒロインですから!」


 しかし、これを見せられて「魔法少女だ! やった! かわいい!」と歓迎してしまうのは、たとえば『新編 叛逆の物語』冒頭の展開を見て「魔法少女だ! やった! かわいい!」と歓迎してしまうのと同じくらいの短絡です。これは紛れもなく夢、涼風高原のイベントのために備えていた白銀の記憶が捏造した想像の世界でしかないのですから。
 ということは、ここでの白銀リリィは「オロスコピオサウルスという諸悪の根源が・自分ではなくS4の力によって撃ち倒されて・ぜんぶ解決する」、「自分にとって都合のいい夢」の世界に逃避してしまっていることになります。まさか、論理と鍛錬と自戒の人であるはずの白銀リリィが。しかし、夢が無意識の産物である﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅ことを踏まえるとこのシーンの意味は明瞭です。想像の力に託した賭けに敗れ、万事休した果てに行き着いた先が「自分にとって都合のいい夢」だったということなのですから。夢、この無意識の劇場の残酷さ

 さらに途轍もなく残酷なのは、AS!ep26で「ひめさんのようなS4になりたい」と無邪気に夢見ていた頃の虹野に向けて白銀が言った「楽しい想像ですね。でも、想像するだけでは何も変わりません」という言葉が反転して自分自身に向けられる形になることです。「言葉」に恐るべき誠実さで向き合ってきた『アイカツスターズ!』が、まさかここにきて自分の言葉に逆襲されること(抑圧したものの外からの回帰)*6-2 をも取り入れたとは。しかもその襲撃の対象が他ならぬ言葉の鍛錬に取り組んできた白銀リリィだとは。しかし、真に驚くべきはここではありません。


 怪獣と魔法少女の茶番*6-3 が終わり、夢から覚めた白銀リリィ。「自分にとって都合のいい夢」に救済などなかったことを受け入れるも、彼女は停電しているはずの会場になぜか光が灯っていることに気づきます。わざとらしい饒舌を断固として避ける『アイカツスターズ!』はここでも最小限の説明しか与えません。「ラジオで呼びかけたら、S4やローラや、リリィ先輩のファンの皆さんが集まってくださったんです」。
 白銀リリィのもとに帰ってきたのは、抑圧された「楽しい想像」だけではなかった。「想像するだけでは何も変わりません」という言葉が反転して帰ってきたのと同じに、彼女がこの世界に捧げ続けてきた仕事たち(歌・衣装・ダンス)までもが反転し、彼女の前に成果として帰ってきた。白銀リリィの航路を目的地へと導いたのは「楽しい想像」ではなく、具体的な仕事たちだった。停電した会場に光を持ち寄ったファンたちの存在が、一人一人の顔は見えないながらも、白銀リリィの仕事への具体的な報いとして立ち現れています。

 これはまるで、著者と読者の関係、仕事を届ける側と届けられる側の関係そのものではないでしょうか。白銀マナーに倣ってひとつ引用してみます。「仕事━━それは、著者と読者の側での幾分の労苦と引き換えに、言わば、もう一つ別の形の真理へと至るという幾分の楽しみによって、突如報いられるもののことである」*6-4 。そう、自分の仕事を捧げる人は、ひとつの個人名よりも無数の人間のもやもやを相手にしなければならなかったのでした。ファンのためでもなく、「野心」のためでもなく、ただ「行うべきことを行なっ」てきた(AS!ep62)白銀リリィの仕事が突如報いられる瞬間。その瞬間を迎えるためには、他人の力だけでも自分自身の力だけでも、ましてや想像の力だけでも不十分だった。必要だったのはただ仕事、今日の絵空事で明日を変えるための具体的な実践だった。これは「きれいな物だけ 見るんじゃなくて 全部抱きしめて」きたこの作品、「夢」が持つダークサイドもブライトサイドも余さず描き尽くしてきたこの作品の精髄でもあり、あまりにも真摯な結論です。
『ロッキー・ホラー・ショー』の “Don’t dream it, be it” というテーマをここまで誠実に継承した作品を、筆者は他に知りません。そう、白銀は前年度のS4選で「夢は見るものじゃない 叶えるものだよ」と唄って歌組の強者全員を退けた白鳥ひめの姿に誰よりも撃たれていたのでした。「夢は見るものじゃない、叶えるもの。ひめ先輩のメッセージが、歌を通して胸に刺さるのです(AS!ep49)」と。白銀は自らの野心を戒めることで冥王星を降ろしましたが(AS!ep53)、「想像するだけでは何も変わ」らないこと、夢見てないで夢になることの意味を真に理解した瞬間がAS!ep63だったのでしょう。このとき初めて白銀は白鳥に比肩しうるほどの巨星になったのかもしれません*6-5 。しかもその達成の瞬間が、親友とともに過ごす夏への扉を開けることをも意味しているという。

 このAS!ep19-63にわたる白銀エピソード群の構成は、理路整然とした抑制と奇策縦横な飛躍の応酬で編み上げられた、離れ業としか言いようがない代物です。確かに彼女は「野心」によってS4の夢からは退けられた。「だが 真の実りの時期は 涼風が吹き出す『その後』なのさ/キツい日差しもどしゃぶりの雨も すべてムダどころか糧だったのさ」*6-6 。循環する季節の過ぎ行きと人間たちの上昇と下降を描き続けたこの作品は、ひとときの勝負や果たせなかった目標が必ずしも悲嘆や鬱屈を意味しないことを雄弁に語っています。だとすれば、こう結ぶことが許されるでしょう。『アイカツスターズ!』は野心でも権力欲でも市場原理に囲われた卑小な「プロフェッショナル」や「クリエイティビティ」でもない、ひたすら自分自身の仕事を世界に捧げ続ける、「いつか花ひらく生命のため ただ希望を」歌う人々を祝福していると。「歌ってくれる? リリエンヌ」「もちろんです。私にできるお返しは、それしかありませんから」。

*6-1 誰が書いたことなのか特定してもしょうがありませんし、そもそも(Twitterアカウントを所持していた頃に)複数のアカウントによって書かれていたのを見ただけなので特定しようもありません。しかしこの註に書いておきます。
『アイカツスターズ!』における「ミューズ」という語の用法に関して、「(A!ep23では)『ミューズ』はデザイナーの専属モデルや創作意欲を掻き立てる女性ということになっていたじゃないか、自分でドレスを創る人が『ミューズ』と呼ばれるのはおかしいじゃないか」という、苦笑や失笑を通り越して真顔になるしかないような「指摘」があるようですが、まず「ミューズ」の語源である “Μοῦσα” は ⑴学藝を司る女神(通例9柱とされる)、さらに ⑵(普通名詞として)音楽、歌、藝術、学藝 を意味します。他ならぬ藝能を磨いてアイカツシステム(AKA「天」)に認められた彼女らに「ミューズ」の称号が与えられるのは極めて自然なことですし、太陽のドレスのために必要とされるブランド数が9つであることも踏まえれば数秘的センスとしても筋が通っています。 *6-1-1

 ここまでは、ろくに辞書も引けず狭い業界の用法のみでしか語を理解できない人間の無知を指摘しているにすぎません。次が問題となります。「ミューズという語は(自ら創作するのではなく)創作意欲を掻き立てる女性の意味でのみ用いられるべきだ」と指摘するとき、その人間は「女は描けもしない、書けもしないWomen can't paint can't write」とヴァージニア・ウルフ『灯台へ』のタンズリーような*6-1-2 根本的に性差別的な態度を表明している(うえに自分ではそのことに気づいてさえいない)ことになります。他ならぬ「創造する女性」の作品である『アイカツスターズ!』を前にしてそんなことしか言えないのですか。呆れ果てて二の句も継げません。そして、筆者は本稿の読者の中にはこのような無恥で惰弱で小賢しい男性は一人も含まれていないことを信じています。

*6-1-1 こういう、一部の業界で共有されているに過ぎない意味のみに狭窄して語本来の多様性・複層性を度外視した「指摘」が出てくること自体が『アイカツ!』は音楽やダンスや言語や服飾の力があらかじめ市場原理の範囲内に限定された美学的な作品であるに過ぎなかったことを裏付けている、などど今更そんな当たり前の「指摘」をしてもどうしようもありません。逆に音楽やダンスや言語や服飾の力が直接人間の製造と統治【→RESPECT10】に関わるものとして提示している『アイカツスターズ!』が現在続いていることだけで十分です。

*6-1-2 また、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』は、
⑴主要登場人物の名が “Lily”
⑵第1部で引用されているシェイクスピアのソネット98は同様に『スターズ!』AS!ep23でも白銀の口から引用されている
⑶外傷(大戦)とともに創作(絵)を続ける女性をテーマに据えている
⑷『アイカツスターズ!』シリーズ構成柿原優子は文学部を卒業している
 などの根拠から、『スターズ!』のテーマ性および白銀リリィの人物設定にヴァージニア・ウルフ『灯台へ』からの参照があったことはまず間違いないと思われます。

 たとえばヴァージニアの小説に対して「感動ができない」「作者のお上品さを感じてあきれてしまう」などと言って平気な人間も未だにいるようですが、どうもこの島国には、自分より知性的で創造的な女性が存在することに耐えられない男性が数多く存在するようですね。このような腑抜けた態度を筆者は一切理解しません。ただふたつのこと、
⑴かわいくて性的魅力がある(らしい)女性を『けもの』のように弄んで恥じないような極めて童貞臭い作品が溢れているこの時代に「創造する女性」の「性的関係」を描き続けている『アイカツスターズ!』が存在することは美学的にも政治的にも極めて重要であること
⑵その作品を前にして何を言いうるかでその人間の女性に対する「何か」が根底から暴露されうること
 を指摘しておくにとどめます。

*6-2 もうお気づきかとは思いますが、AS!ep63は「司牧」の姿があらわれている・「夢」の持つダークサイドとブライトサイドを容赦なく突きつけている・それが「言葉」にまつわるものであるという意味で『アイカツスターズ!』のユダヤ性が今まで以上に凝縮された内容になっています。以前書きましたが、「『アイカツ!』はアドラーで『スターズ!』はフロイト」という図式は両作品の差異を簡略にする見方としてある程度有効です。筆者がどちらの理路を有効としどちらを無価値とする立場か、は表明する必要もないと思います。

*6-3 「茶番を茶番として描くこと」は、アニメーションという表現媒体が持っている力能の中でも特に得難いものではないかと筆者は考えています。近々の作品では、玉音放送を茶番として描ききった『この世界の片隅に』が思い出されます。

 また、筆者は、(名目上)女の子向け作品ということになっていた『アイカツ!』の作り手たちがロボット・怪獣・特撮といった男の子趣味に淫して燥ぐことを恥じないような連中ばかりだった(A!ep159, 劇場版短編)ことをディスる用意があったのですが、もはやその必要を感じません。怪獣や特撮の形態を「都合のいい夢」「茶番」として用いたAS!ep63のシーンは、前作『アイカツ!』で燥いでいた恥知らずな男どもの態度に対する冷徹なアンサーとして成立しているように思えるからです。女の子向け作品のはずなのになぜか『アイカツ!』は監督もシリーズ構成も多くの脚本家までもが男性で占められていた(一ノ瀬かえで━━木村隆一がたびたび「お気に入りのキャラクター」として挙げていたのにも拘らず本編での扱いが信じられないほど蕪雑だった彼女━━のために敢えてステージ無しの変則的な脚本を書いた綾奈ゆにこは、なぜかその後一度も起用されないまま放送終了を迎えた)こと、一転して『スターズ!』は(1年目の山口宏・2年目から加わった野村祐一以外は)女性の脚本家によって書かれていること、など思い出すまでもないことです。さらに、「怪獣」ほど大衆の意識が反映されるものはありません* 。男の官僚どもが悲壮感たっぷりに怪獣に立ち向かう映画に熱狂していたこの島国の2016年が、いかに病みきっていたかが痛感されます。その比較の意味でも、AS!ep63は(前作からの脚本家である野村祐一を起用してあの内容をやったという意味でも)極めて冷徹に怪獣モノの様式を活かした作品として貴重なのです。

*6-4『仕事のさまざま』ミシェル・フーコー思考集成Ⅸ 206P

*6-5 遡って言えば、1年目時点での虹野は歌組の呪いからなんとか切り離されることで「S4になりたい!!」の呑気な夢から切り離され、桜庭は虹野に勝てないことに向き合い続けて家柄からも切り離されて自分の戦い方を選んだ(AS!ep33)経験によって既に「夢見てないで夢になること」を感得していたのかもしれません。ここでもやはり勝利の女神(AKA「天」)の勝敗判定は厳格だったことになります。四ツ星学園が担っている「誰かのようでありたいという欲望からの切断(=分娩)」については【→RESPECT10】で詳述します。

*6-6 RHYMESTER『カミング・スーン』宇多丸ヴァース


◎RESPECT7 Chevalier de Créole(21世紀のトロバイリッツ)

 さて、白銀リリィと同じくドン・キホーテ的人物である騎咲レイ。彼女ほど一筋縄ではいかない人物もそうそういません。前途洋々なスーパーモデルことシューティングスターから没落して騎咲レイを名乗るようになった彼女は、以前書いた「鵺」こと双葉アリアとは全く別の意味での混血的存在です。『スターズ!』の全ての登場人物は(前作『アイカツ!』で平然と行われていたような「キメゼリフを言わせておけば個性を描いたことになるからオケオケオッケー」式の)安易で一面的な描写が徹底して避けられていますが、とくに騎咲レイの場合はひとつの視点から見定めた気になってしまうと必ず何かを見誤ることになります。よって、ここからは彼女を構成する要素をひとつずつ検分してみましょう。

⑴南仏のトロバイリッツ
 さて、ドン・キホーテについては本書でもたびたび取り上げてきましたが、そもそも彼が身を焦がすようになった「恋」とは一体なんでしょう。この「恋」は12-13世紀の南仏、ラングドックやプロヴァンスにて花開いたトゥルバドゥール(女性形:トロバイリッツ)という形象に起源を持ちます。女性を高貴な存在として崇め、熱烈なロマンティックな愛を捧げるトゥルバドゥール。彼らが歌い上げた叙事詩が現在「宮廷愛」として認識されているものの源流です。*7-1

 重要なことがふたつあります。まず、この「恋」のかたちはギリシアにもキリスト教世界にも見られなかった、女性に対するロマンティックな愛を主題にしていたことです。なぜ南仏において新しい「恋」のかたちが現れたのか。これがふたつめに重要なことで、「宮廷愛」はアラビア世界からの影響を強く受けて生まれた文化だということです。そもそもトゥルバドゥールの語源であるオック語 “trobar” は アラビア語 “ṭariba” 、「喜びや悲しみによって心が動かされること」の動詞に由来するといいます。とすれば、12世紀に発明された「恋」の概念はヨーロピアンが独力で発明したものではなく、アラビア世界の影響下で練り上げられた混血文化ということになります。そして、その12世紀に生まれた「宮廷愛」の文化、女性を高貴な存在として崇め、熱烈な愛を捧げるトゥルバドゥールの生き方を21世紀において引き受けたのが騎咲レイなのです。よりによって9世紀も前の文化を、肉体的に女性であるはずの彼女が。なんたる無謀か。しかし、その無謀を祝福すべきでしょう。騎咲レイがスーパーモデルのシューティングスターであることをやめた最大の理由は何だったか。「退屈なステージね。志も無い、情熱も無い。あなた、モデルとして最低よ(AS!ep60)」と初対面のエルザ フォルテによってプライドを跡形もなく打ち砕かれたことにあったのでした。これによって、彼女は「周囲に勧められるままモデルとなり、用意されたステージで、楽しくもないのに偽りの笑みを作っていた。情熱も無く、志も無く、安易な道をさまよっていた(AS!ep80)」頃の自分と決別したのでした。エリート白人*7-2 である彼女がアラビアの影響を受けた文化である「宮廷愛」に惹かれたことは比較的容易に理解できますが、しかし彼女を構成する要素はこれだけではありません。

⑵Alexandre Dumas’ Latin America (featuring Miguel de Cervantes)
「ひとりはみんなのためにある/みんなはひとりのために」。騎咲レイに担われた歌『裸足のルネサンス』サビ冒頭の歌詞ですが、これはご存知の通りアレクサンドル・デュマの小説『三銃士』によって有名になったクリードです。大デュマはもちろんフランスの人間ですが、黒人奴隷の血を引いている混血Créoleです。『モンテ・クリスト伯』『三銃士』などヨーロッパ文学に燦然と輝く作品を残した大デュマは純血の白人ではなかった。よって丸屋九兵衛氏も書いている通り、「デュマは黒人」*7-3 なのです。
 よって、トロバイリッツでもある騎咲レイが『三銃士(とダルタニャン)』のクリード「ひとりはみんなのためにある/みんなはひとりのために」を唄うことにより、さらに混血性が強まります。彼女はアラビア由来の文化のみならず混血作家のクリードをも継承した。さらに加えて、
⑶pAsF (PAN ASIAN SAMURAI FORCES)
 彼女は剣士でもあります。「侍や禅に通じる、自己の精神の探求という道について、剣道以上に素晴らしい武道は世界のどこにもない(AS!ep56)」*7-4 。トロバイリッツに、『三銃士』に、さらに東アジア発祥の武道をも自分の中に取り込んだ騎咲レイ。「二重の異邦人」どころではない「三重の混血児」、それが彼女なのです。

 騎咲レイの混血性。これが所謂マジョリティによるマイノリティ文化の搾取(=オリエンタリズム)ではありえないのは、一度エリート白人としてのプライドを完膚なきまでに打ち砕かれていることに理由があります。再度確認しますが、シューティングスターと名乗っていた頃の彼女はエルザの舌鋒によって「恵まれたUSAシチズン」としての自己を蹂躙され尽くしている。それによって死に瀕したシューティングスターを埋葬し、そこから騎咲レイとして再生するためには外部の文化からの輸血が必要だったのです。彼女の中には、もはやエリート白人だった頃の純血性は微塵も残っていない。マイノリティ文化を面白がるようなマジョリティの視座に立つことがそもそも許されていない。自身をもう一度産み直すため、そのために自分のものではない血と交わることを厭わなかった。女性への愛を吟唱するトロバイリッツでもあり、混血作家の共感者でもあり、微々たる感情の揺らぎをも許さない剣士でもある。かつての自分を徹底的に殺すことから始めた虎口の人*7-5 。その人を再び駆動させた心臓こそが混血性なのです。
 ここで『裸足のルネサンス』の歌詞を引用してみましょうか。「忘却の方へ さらおうとするもの/封印されるのは 許さない」。そうですね、彼女は「忘却の方へ さらおうとするもの」に抗ってまで9世紀も前の生き方を選び取ったのですから、自らの混血的なありかたを「封印されるのは 許さない」。筋が通っています。*7-6

 かくして誕生した騎咲レイは、学園内で1年の訓育を終えた四ツ星の学生たちとは異質の存在です。VAの族長であるエルザのために働き、再びアイドルとして返り咲く機会を待ちながら、しかし深く自戒してドレスを製作し続ける彼女は、誰かのための贈与と返済に取り組み続ける四ツ星学生たちとは別の情動によって動いています。AS!ep80では四ツ星でお茶の席を囲んでいますが、その席を設けた動機は「お礼だよ。君たちは星のツバサを手に入れてくれた。おかげで、エルザの夢が叶いそうだ」という、四ツ星学生がエルザの計画の駒として動いてくれたことへの事務的な礼でしかありませんでした。もし『スターズ!』が前作『アイカツ!』と同質の作品だったとしたら、「真昼の言葉や、君たちの輝く姿に勇気づけられて……私も自分自身のために輝くことに決めたんだ!」「そうなんだ!」「レイさん、すごい!」「わたしたちもアイカツ頑張ろう!」などのセリフが交わされていたでしょう。しかし『スターズ!』、この複数形の作品、四ツ星とVAという異なるトライブを持っている世界がそんな安易な『SHINING LINE*』に流されるわけがありません。四ツ星は「合わない靴を 履いたままじゃ 歩き疲れちゃうね/だって夢は そんなに 小さくない」の歌詞に象徴されるような靴職人のトライブ、一時的に締め付けるかもしれないがそれは大きくなってからも無事に歩き続けるための処置だから、という大人の施術を行うための場でしたが、(AS!ep55で描かれている通り)VAの訓育は四ツ星の水準とは大きく異なります。そこで飛躍の時を待ち続ける騎咲レイが打って出たのは『裸足のルネサンス』、安全のための靴などおかまいなしに出血をおそれず走り出すことだった*7-7 。異なるトライブ間での不穏な鳴動を響かせ続けた『スターズ!』は、ついにAS!ep80で「こちらの倫理や常識になびかない、全く異なる存在」の姿を立ち現わせることに成功してしまいました。


 AS!ep80で騎咲がぶちかます大演説は、すべて文字起こししてその一言一句一呼吸を味わい尽くしたい誘惑に駆られるほどのものですが、本稿の内容が過度に情緒的になってしまうことをおそれ、割愛します。読者がAS!ep80を再見する際の楽しみにとっておきましょう。AS!ep65では桜庭の聞き手にまわっていた騎咲ですが、おそらくそれによって触発されたのでしょう、「公の場での弁舌」がアイドルの必須スキルとして設定されている『スターズ!』でも最長の大演説になっています(AS!ep65で桜庭の演説からステージに入るまでの時間が90秒だったのに対し、こちらは235秒)。恋に駆り立てられた有無を言わさぬ雄弁、しかしその雄弁の内容が狂っているという、『スターズ!』で最も高いドン・キホーテ値が記録された瞬間です。そんな虎口の勝負に打って出た騎咲レイの覚悟をアイカツシステム(AKA「天」)が見損なうわけがありません。彼女は天王星のツバサを授かり、太陽をめぐる9騎のミューズの最後の1人として参集したのでした。

 しかしこの騎咲レイ、生まれ持った既得権をすべて斬り捨てて裸足で大地に降り立った「三重の混血児」の凄まじさ、勇ましさ、爽やかさたるや。2年目にしてますます混血性を強めてきた『スターズ!』の面目躍如たる彼女の存在は、単一性や純血性へのこだわりがいかに不毛であるかを語っているかのようです。世界中の誰しもが白人的(マジョリティ)であることを誇りとして恥じないような時代に*7-8 、このような狂い立ちが見られるとは。騎咲レイのほとほる血の立ち姿は、まさにエルザ フォルテに並び立つ者として相応しく、そしてこれから到来する太陽の灼熱をも予告しています。


「光り輝くものは全て黄金だと/そう信じている貴婦人がいる/そして彼女は」太陽への階段を買おうとしている*7-9 。ここまで筆を進めてきた我々は、いよいよ、彼女がいなければそもそもこの賭場自体がありえなかったであろう過剰hubrisの人、金星的人物、光を運ぶ者lūx ferōことエルザ フォルテを相手にしなければなりません。智慧と傲慢と誘惑の人である彼女を前にして、果たしてまともに筆が立つかどうか、全くおぼつきません。しかし他に致しようもないので、彼女自身の明視と盲目の方へ、一直線に向かうとしましょう。

*7-1 筆者はこのことについて何ら専門性を有しないので、より剴切な記述については伊東俊太郎著『十二世紀ルネサンス (講談社学術文庫)』を参照してください。
 また、ここではあえて「恋」と「愛」をごっちゃにしたまま使っていますが、「恋」と「愛」の二語の差異が明らかにされている文献として『恋のはじまり。』(佐々木中著『この熾烈なる無力をーアナレクタ4』河出書房新社)を紹介しておきます。
 
*7-2 現時点ではシューティングスター→騎咲レイの詳細な経歴は明らかにされていませんが、本稿では「裕福なアングロサクソンの家庭に生まれたが、エルザと出会い、剣道への傾倒と日系人であるエルザの母への行き過ぎた移入から日本人名を名乗るようになった」として解釈しています。
 仮に騎咲が血統的にアジア人種だったとしても、彼女はUSA国籍の裕福な家庭に育ちながら(本稿で述べたような)混血に踏み切ったわけなので、彼女の非白人性が強調される結果にしかなりません。

*7-3
【若きアレクサンドル・デュマ】
『三銃士』『モンテ・クリスト伯』等で知られる19世紀フランスの小説家、Alexandre Dumas(父)の若き日の肖像画。プリンスとフィル・ライノットの中間というか……そう、デュマは黒人。
11:21 - 4 Feb 2016

黒人は19世紀からサンプリングしていた。アレクサンドル・デュマを見てみろ。
15:47 - 16 Jul 2014

『三銃士』とアフロアメリカンミュージックの関連についても書いておきます。Pファンクファンを指す呼称として “Funkateer” がありますが、これは「銃士(musketeer)」のもじりで、ブーツィ・コリンズが「マウスケティア(Mouseketeer : 『ミッキーマウス・クラブ』に出演している子供たちのこと)」の語をヒントとして創作した語なのです。デュマは黒人、と繰り返す必要もないでしょう。

*7-4 これに憤慨した香澄真昼が騎咲レイとの異種格闘技戦を繰り広げるのですが、この勝敗の結果をどう判定するのかまったく不明なバトルから徐々に2人の感情が交通していくまでの流れも実に巧みです。AS!ep56での香澄真昼は暗闇に潜り込んだ猫(早乙女)を仕留めるために鏡面体を使って光を反射するわけですが、ここで鏡と光がかかわってくるのが光学の作品たる『アイカツスターズ!』の本質とも響き合っているように思われます。騎咲が「閃光(ray)」とも読める名前を持っていることも踏まえると、実に意味深です。
 本論とは関係ないことですが、ここで勝敗判定が全く不明な異種格闘技戦に興じていた騎咲がAS!ep79のハロウィンバトルで「驚きすぎというのは、どう測るのですか?」と分別顔で反問しているのを見て、筆者は腸がねじくれて笑い死にするかと思いました。

*7-5 「孤高」の誤記ではありません。「虎口」なる概念についてはこちらのエッセイを参照してください。
 私見ですが、著者はこの「虎口」は(K-POPグループのファンが思いつきで言ったものを作詞家が敷衍して生まれた経緯も含めて)現代的な宮廷愛のかたちとして最も美しい概念だと思っています。

*7-6『裸足のルネサンス』には、騎咲レイの異質性を読み取るための歌詞がもうひとつ含まれています。「強くあるため守ったのは/感情の動きを消すことだった」。これに対置されるのはもちろん『MUSIC of DREAM!!!』の「弱さを隠す理性は捨ててしまえ/感情に揺らめく/-歌-がはじまる」。前者での「感情」が強くあるために消すべきものとされているのに対し、後者は(弱さを隠す理性ではない)強くあるためのものとされている。ここにもVAと四ツ星との差異を見ることができますし、あえて簡略にすれば「エモである曲=『MUSIC of DREAM!!!』」・「エモでない曲=『裸足のルネサンス』」の対立項を見出すこともできます(もちろんこれは語の発祥を調べることすらしない馬鹿なオタクが濫用し始めた「エモい」の用法とは何も関係がありません。簡略に書いてしまいますが、「ユースカルチャーのディケイド論」以外の文脈で使われる「エモ(い)」にはなんの意味もありません)。

*7-7『ヤコペッティの世界残酷物語』では、自分の身体を石で打擲して流血しながら道を走ってキリストの受難を追体験する奇習が映されていますが、このラテンバイブスも騎咲と<貴婦人>との関係に近いものがあります。エルザ曰く「この世はすべてパッション(AS!ep58)」。 “passion” には「情熱」と「(キリストの)受難」両方の意味があるなどと、確認する必要もないでしょう。

*7-8 書くまでもありませんが、自分は他の有色人種とは別格の存在だと信じて疑わない、白人よりも白人的な有色人種国家がこの島国であることは、既に世界中に知れ渡っていることです。 * *

*7-9 『天国への階段』の歌詞には五月祭の描写が出てきますが、騎咲レイの誕生日は5月1日です。説明の要はないと思います。


◎RESPECT8 金星的、あまりに金星的(エルザ フォルテの眼球)

「おまえの瞳はなんて深いのだ 飲もうとして身を傾けると/ぼくには見える すべての太陽が姿を浮かべ/望みを失ったすべての人が 身を投げようとしているのが」
「美しい夕暮れ 宇宙は暗礁に乗りあげて砕け/遭難した人たちは その暗礁に火を放った/ぼく ぼくには見えるのだ 海の上に輝くものが/エルザの瞳 エルザの瞳 エルザの瞳が」


『エルザの瞳』 - ルイ・アラゴン作詞

【前提】
 本項を始める前に、ひとつおことわりしておきます。「ツバサ」と「太陽」をめぐる作品である『アイカツスターズ!』2年目は、エピソードの表層をなぞるだけでも多様な参照を見出すことができます。しかし、やはり町山智浩の悪影響なのでしょうか、ひとつの作品について語るときに「これはこれこれこういう神話からの引用なのだ、原型があるのだ」と既成の枠に押し込めて何かいっぱしのことを言った気になるような、極めて惰弱な読解の仕方が未だにまかり通っているようです。たしかに「神話的構造」とやらをそのままなぞっただけの安易な作品も巷にはあふれていますが、『アイカツスターズ!』に対してそんな蕪雑な手つきが通用するわけがありません。 よって本項では、『星のツバサシリーズ』でモチーフとされているであろう諸作(具体的には族長物語、失楽園、三国志演義、天岩戸、イカロス、オイディプス、グレース・ケリー、アメイジング・グレース、バックリィ父子など)と照らし合わせる記述を可能な限り排除します。我々がこれから相手にするのはエルザ フォルテなのですから、既成のなにがしかに事寄せて彼女のことをわかった気になるような怯懦を一瞬でも犯した瞬間、あの容赦のない破顔によってここまで進めてきた論旨ごと覆されかねないでしょう。あくまで『アイカツスターズ!』本編そのものから読解しなければなりません。



・輝くもの天より墜ち(金星的人物とは)
 金星。そもそも『星のツバサシリーズ』は金星の登場から始められていたのでした。この太陽から2番目の惑星は、一神教ではルシファーと同一視されます(イザヤ書14:12)。 “lūx ferō” 、「光を運ぶ者」に由来するあの天使と。現代におけるルシファーのイメージは、くだらない映画や和製RPGなどのせいでひどく通俗的なものに成り下がってしまいましたが、ルシファーはもともと智慧の象徴だったことを忘れてはなりません。暗闇に光をもたらす智慧の天使であり、悪魔だの堕天使だの神の天敵だのは後付けの解釈でしかない。他のアイドルアニメに出てくる自称堕天使や自称あくまはこの辺を決定的に勘違いしてるのだと思いますが、それはどうでもいい。重要なのは、エルザ フォルテはこの上なく金星=ルシファー的な人物だということです。すでに確認したように知恵と傲慢と誘惑の人であることももちろんですが、『星のツバサシリーズ』が彼女の金星ドレスに発情した人々によって動かされていた事実* を思い出しておきましょう。「誘惑する力の持ち主であることには自覚的なのに誰かを発情させてしまうことにはまるで無自覚」というエルザの盲目は、『星のツバサシリーズ』後半において重要なギミックを駆動させることになります。

・智者エルザ(AS!ep58での勝ちパターン)
 エルザと他のアイドルたちとの違いが最も顕著に現れているエピソード、AS!ep58を確認しましょう。昨年(AS!ep9)同様に開催された幸花堂オーディション、四ツ星からは虹野と白銀、VAからはエルザと花園が出場します。昨年では、この合格判定には「運」の水準が設定されていることが明確に描写されていました*8-1 。しかし『星のツバサシリーズ』前半は昨年度エピソードの差異と反復で進められているのですから、同じことが繰り返されることなどあり得ません。AS!ep58の幸花堂オーディションでは、智者エルザの登場によって「運」とは全く別の勝ちパターンがありうることが示されてしまいます。

 オーディションの最終審査では、「和と洋を合わせた新メニュー」の提示が求められます。虹野と白銀は過不足ない回答「抹茶マロンロールケーキ」を提示して幸花堂社長の評価を得ますが、続くエルザはまったく別次元の回答を示します。

幸花堂「これは……」
エルザ「(微笑)」
幸花堂「このフランス人形のケーキは、先代社長、つまり父が幼い私のために作ってくれた、幻の和ケーキなんです。フランス人形のイメージに、和の心を表す宝石のような金平糖をちりばめたドレス。父の思い出とともにあるこのケーキは、私にとって今でも最高の品です」
エルザ「そのケーキが作られたとき、幼いあなたはメロン味の金平糖が好きとおっしゃった。先代はそこにヒントを得て、フルーツフレーバーの金平糖を作られたんですよね」
幸花堂「そこまで調べたなんて……」
エルザ「(微笑)」

 エルザは、「幸花堂社長の幼少期の記憶」という搦手からめてから攻め落とす策を採ったのです。父親との思い出のケーキを再び味わえると思っていなかった幸花堂社長は、「ありがとう、何と言っていいか」と涙を浮かべながらエルザの回答を賞賛する。この情緒的な反応を予測したうえで、エルザは事前に幸花堂の社史を徹底的に調べ上げ、「これなら絶対に陥ちる」の確信とともに回答を示したことになります。なんという奸智。公のオーディションでいつもの尊大な身振りは鳴りを潜めていますが、「私も、こんなファッショナブルなケーキがこの世に存在していることを知り、またひとつ学びました」という慇懃な言葉も幸花堂社長が間違いなく陥ちることを見越したうえで言っているのだとすると、逆にエルザの傲岸不遜が浮き彫りとなります。むしろ彼女はここで幸花堂社長に話すと見せかけて間接的に虹野に発破をかけており、本音で話しているのは「この世はすべてパッション」から始まる1センテンスのみでしょう(このセンテンスの直前にエルザの言に聞き入る虹野の顔にカットが変わることがその根拠となります)。
 これによってオーディションはVA側の勝利に終わり、昨年に繰り広げられた「運」とは別の勝ちパターンを見出したエルザの智者ぶりが強く印象付けられます。しかしエルザはあくまで公開されている社史を徹底的に読み込んだだけで、闘い方は極めてフェアなものだったことを強調しておきましょう。騎咲や花園に発破をかけて船に乗せたことからもわかるように、エルザは人間存在を「読む」能力が異常に発達した人物なのです。これは1年目から極めて緻密な書物描写がなされていた『スターズ!』の本領にも見合うことです。
 が、さらにもう一つ重要なことがあります。幸花堂社長を攻め落とすためにエルザが着目したのが「(親にまつわる)幼少期の記憶」だったことです。AS!ep78では、実は彼女自身も同様に「(親にまつわる)幼少期の記憶」に最大の弱点を抱え込んでいることが明らかになります。よってAS!ep58での勝利は、智者エルザの奸智術数を印象付けると同時に、自分自身の弱点にはまるで無自覚な彼女自身の盲目までもが仄かに表出していたのです。*8-2

・Set The Controls For Sun Heart Mother(AS!ep78)
 AS!ep78、『アイカツスターズ!』全話を見渡しても最も凄まじいエピソードであり、シーンの数々を思い出すだけで驚愕と畏怖と詠嘆に見舞われてこの24分間が如何に怪物的かを延々と縷述してしまいたくなるこのエピソードを前にしても、理路を明晰に保たねばなりません。
「きっと、私がまだパーフェクトじゃなかったせいね……もう少し、もう少しで太陽のドレスに手が届く。そうすればきっと、あの人も……」エルザの内面独白で始まるAS!ep78では、水も漏らさぬ自制から成るように見えた彼女の人間性が容赦なく暴露されてゆきます。「私がアイカツを始めたのも、ヴィーナスアークを設立したのも、すべては母の影響よ。それから、太陽のドレスを手に入れると誓ったきっかけも」。これまでの彼女の行動すべては、かつて太陽のドレスを纏っていた母のようになるために動機付けられたものだった。「美しくて、太陽のような完璧な母は、私の憧れだった。私は母のようになりたくて、幼い頃からあらゆる方法で自分を磨いた」「母を求めるように、アイドル時代の映像を見るようになった」「お母様みたいにパーフェクトになったら、きっと私のことを抱きしめてくれるはず」。
「太陽のような完璧な母」を「求めるように」自分自身のロールモデルとし、「パーフェクトになったら、きっと私のことを抱きしめてくれるはず」と欲望するエルザ。危うい。なんという危うさ。この危うさは「親が立派な人物だからといって、その子まで立派になれるわけではない」とかいうくだらない問題に根ざしたものではありません(そもそも血統や育ちの良さが当人にとって助けとならない『スターズ!』の厳格さは、音楽一家のルーツから力を得ようとした桜庭の試みが早くも挫折していたAS!ep33からすでに明確です)。ここでは、「太陽のような完璧な母」「母のようになりたくて」と「誰かのように」なりたいエルザの欲望があられもなく露出していることだけを確認しておきます。この「のようになりたい」欲望は『アイカツスターズ!』における贈与・返済・傷に並ぶ最重要モチーフのひとつであり、『星のツバサシリーズ』は「誰かのように」の欲望からの切断を描き続けた作品として一貫しています(製造編【→RESPECT10】で詳述)。*8-3
 さあ、本稿は闘争編最後の項目に進もうとしています。金星=ルシファー的人物エルザの登場によってしつらえられた賭場、9つの星のツバサたちの参集、その果てに太陽を獲得するための鉄火場のありさまを読むにつれて、我々は目撃することになるでしょう、「太陽のような完璧な母」になりたいエルザの私情が、いつしかあまりに多くの勝負師たちを魅きつけ、それによって引かれた線が円を描き、ついにはエルザ自身が欲望した太陽の円環すらも切断してしまう瞬間を。

*8-1「まだアイドルとして駆け出しの桜庭と虹野が、どうして学外のオーディションで合格できるの?」という疑念を処理するために「運」という追及不可能な審級を取り入れたAS!ep9は、初期のエピソードの語り口として的確です。そもそも「運(chance)」は語源的に「落下」と関係がある語* なので、上昇と下降を描き続けている『アイカツスターズ!』に「運」の要素が介在するのは当然とも言えます。

*8-2 「人間的な明察は一種の盲目に裏打ちされている」というのは筆者の持論ですが、エルザの人間性はその典型だと言えるでしょう。これを「蘭、よく見てて。ランウェイに踏み出すときは必ず左足だから(A!ep5)」とまるで全知全能の神のようになんでも見通していた神崎美月の「明察」と比べてみると、差異がいっそう明らかになるでしょう。
 さらにエルザと神崎は、摂食描写から比較しても真逆の人間であることがわかります。エルザはとにかく肉を食いまくる人でしたが、太陽への階段を上りはじめた頃から摂食描写が徐々に削られています。逆に神崎はA!ep1-100では摂食描写がほとんど存在せず、トップアイドルの座を追われたあとのA!ep122の劇中劇で「食べ物を食べさせられること」によって退治されるに至ります。

*8-3 日本語圏では(アドラーのような愚か者が持て囃されたせいで)「コンプレックス(複合体)」の語を単に「劣等感」と解釈するような笑うべき無知がまかり通っているわけですが、もし「マザー・コンプレックス」なるものがありうるとしたら、それは「自分を造った者への負債の念を返済すること」にまつわる何かでしょう。その意味での「マザー・コンプレックス」が『アイカツスターズ!』においてどのように駆動していたかは製造編【→RESPECT10】で記述されます。


◎RESPECT9 大返済

 もう一度わたしは人間たちのところに行きたいから。彼らのもとで没落したいから。そこで死に行きつつ、わたしのもっとも豊かな贈物をあたえたいから。
 このことを太陽から学んだ。この豊かにすぎるものが、沈み行くときに。そのとき太陽は、その無尽蔵の豊饒から海に黄金きんを降らせる━━。

「新旧の石板について」

 AS!ep90以降を取り扱う本項は、族長エルザに率いられた子羊たち(騎咲・花園)の変容を詳らかにすることから始められます。が、その前に確認しなければなりません、四ツ星とヴィーナスアーク、藝術による訓育をおこなう二つのトライブが、それぞれ全く異なる質の贈与を担っていたことを。

・謙譲の贈与(AS!ep1-50)
 まだVAの襲撃を受けていない、日本列島の四ツ星学園に限定された彼女らの「贈与」は、一見するとそれほど劇的でなく、慎ましすぎるようにも感じられます。というのは、彼女らの「贈与」は端的に言葉のリレーにまつわるものだったからです。これについては別稿* や【→RESPECT4】で文字数を費やしたので繰り返しません。ここではAS!ep49、S4選での白鳥のセリフを引用しましょう。

「これからも、たくさんのアイドルにもっともっと輝いてほしい。だから、みんなの光になれるように、みんなに道を示せるように、今日は私が、一番輝く星になる」

 この時点で『スターズ!』における「一番星」の意味は明瞭です。それは誰かの「光になれるように、みんなに道を示せるように」振る舞える人、だけではなく、さらにその光に引き寄せられた星たちを返り討ちにできるような強さを持った人なのです。ここで「S4になること」と「一番星になること」との意味が切断され、前者のみを虹野に実現させることで2年目からの課題を残し、さらにS4になれなかった桜庭・白銀もそれぞれ別の形で「一番星」になる道がひらけた、その地平が1年目終了時点です。

 そもそも白鳥は、AS!ep1で「もしもアイドルとして道に迷ったなら、S4を見てください。私たちはいつでも一番輝く星として、皆さんの行く道を照らし続けますね」と言っていましたが、「星として、皆さんの行く道を照ら」すと言っているからには、この道行きは必然的に暗夜行路です。『スターズ!』1年目は、先行き不透明な昏みの中を歩む人々のサーガでした。この1年目の彼女ら、歌劇美舞の藝能を介した「贈与」によって傷ついたり立ち直ったりしてきた彼女らの関係を「謙譲の贈与」と呼びましょうか。夜を歩むための、この暗闇を歩いているのは私ひとりではないと銘じつつ自分の闘い方を選ぶための、「孤独をおそれない」人々の関係です。

・過剰の贈与(AS!ep51-)
 しかし、VAの襲撃を受けたあとでは事情が違います。エルザ フォルテの登場によって四ツ星が発情した結果「(白鳥や虹野の)笑み」の形相までもが一変してしまったことは既に書きましたが、これは謙譲ではなく過剰の贈与、惜しみなく地上へ熱を投げかける太陽の贈与による賜物です。

 ここで、製造編の理路を少しだけ先取りしましょう。騎咲はアメリカ合衆国での、花園はニュージーランドでの安穏な生活を離脱してVAに乗ることを選んだわけですが、ここで彼女らはエルザによる訓育を受けて再成形されたのです。「確かに、私の指導によってこの船のアイドルたちは私色に染まる。だけど、そこから滲み出る個性こそが、本物の個性じゃないかしら」、「このきららも、個性が無いように見えるかい? いったん個性をなくした上で、それでもなお滲み出でる個性こそが、本物の個性」。VAの「個性」は四ツ星の「個性」とは全く別のことを意味している。直截に言えば、エルザの訓育を経てもなお「滲み出る個性」を持った人物のみがブランドを持たされ、星のツバサを収穫する。その手続きによって過剰の贈与への返済が成立する、と言ってよいでしょう。星のツバサを得るために最適化された規格、それがVAの「個性」だと、ここで仮に定義しましょう。

 花園・騎咲もエルザの輝きに引き寄せられたわけですが、彼女らはあくまでエルザの計画のための構成員であり、ツバサの獲得によってエルザ(≒太陽)の贈与に報いることを前提に集められた。ということは、この(過剰の)贈与への返済には完済がありうることになります。ツバサを獲得すればエルザの贈与に報いたことになるわけですから、エルザとツバサ獲得者のあいだにはもう債務関係が存在しない。

 しかし、四ツ星が担っていた謙譲の贈与には原理的に完済がありえません。虹野が返済に取り組み続けるきっかけになった結城すばるの言葉を引用しましょう、「もらったものは、これから返していけばいい」。そう、四ツ星ではすべての人物が言葉や藝能によって贈与を行い、贈られたものをまた返すリレーによって人間の生が営まれていたのですから、この債務関係には終わりがない。それは姉の絶命に負い目を感じて白鳥をいやした諸星、さらに同じ病を患った虹野を諸星とともにいやした白鳥の関係に象徴されています。その過程を経て生きながらえた虹野は、AS!ep37以降に孜々として返済に取り組み続けたのでした【→RESPECT4】。

 では、この謙譲の贈与(四ツ星)と過剰の贈与(VA)、質的に異なる贈与をおこなうトライブが衝突した結果、何が起こったか。もちろんどちらのトライブも変化を迎えます。「ヴィーナスアークの力から目を逸らしちゃだめ。まっすぐ見つめて、成長しなきゃいけない(AS!ep54)」。四ツ星は虹野・桜庭・香澄を留学生として送り、VA流の訓育を学ばせる。それを受け入れたエルザは3人の創造性を巧みに煽り、自らの体系の完成のためのツバサを収穫する。互いの利害関係が一致しているわけですが、この交流の最中に重要な価値転換が起こったことを見逃すわけにはいきません。確認しましょう、過剰の贈与とは別の贈与があることに、騎咲レイが気づいてしまったことを。

・彼女の知らない贅沢が(AS!ep64)
 AS!ep64時点での騎咲は、かつてエルザによって「退屈なステージね。志も無い、情熱も無い。あなた、モデルとして最低よ」と蹂躙された余波なのか、再びステージに立つことに積極的でない。「ともに輝くことなどできないんだよ。とびきり輝く星のもとでは、どんな星だってくすんでしまう」。エルザの秘書であることに甘んじている騎咲は、香澄真昼からの「そんなのもったいない! 誰かを輝かすために自分を犠牲にする必要なんてない。強い光を放つ星があるなら、その星に負けないくらい輝けばいい」という真っ向からの叱咤を受けても、思いを変えるには至らない。しかし、真昼の姉・夜空との対話によって、騎咲は全く別の角度からの価値転換を迎えるのです。引用しましょう。

騎咲「つまり、真昼にとってのきみは、私にとってのエルザだってわけだよ。きみもエルザも、絶対的な輝きを持つ道しるべ」
夜空「うーん……それは少し違うかなあ。わたしと真昼はライバルでもあるの。でも、エルザちゃんにはライバルはいないでしょう?」
騎咲「当然だよ」
夜空「そう……だとすると、エルザちゃんって少しだけ孤独かもね」
騎咲「(驚愕しながら)孤独? エルザが?」
夜空「入学したばかりの頃、真昼はまだ新人モデルだったわ。そしてわたしは彼女の一番星だったかもしれない。でもね、あの子はわたしを追い越そうと必死で努力を重ねた。そして、ついにS4選でわたしを追い越したの」
騎咲「真昼が……きみを超えた」
夜空「ええ。わたし、真昼の成長が嬉しかった。それに、あの子がいたから、必死に追いかけてくる真昼がいたから、わたしも頑張れたの。ライバルの存在って、とっても贅沢なものなのよ」

「エルザちゃんにはライバルはいないでしょう?」、「だとすると、エルザちゃんって少しだけ孤独かもね」、「ライバルの存在って、とっても贅沢なものなのよ」。誰よりも先に金星のツバサを獲得し、自らのトライブを率い、全世界で名声を獲得しているエルザ フォルテ、今まさに過剰の贈与をおこなっている彼女が、「ライバル」という四ツ星の学生たちが当たり前に持っていたものを持っていない・自分自身を脅かされることの贅沢を知らないという価値の反転がここに成立します。
 彼女の知らない贅沢があることを知った騎咲は、「(自分ではなく)エルザのために」輝くことを決心し、その飛躍によってAS!ep80でツバサを降ろしました。しかしまだ「エルザちゃんって少しだけ孤独かもね」の件は何ら解決していません。むしろ太陽ドレスの獲得(AS!ep86)によってエルザの「孤独」は決定的となり、太陽の体系が完成したことによってVAの解散が宣言されてしまう。そもそも太陽のツバサを獲得するために結成されたトライブなのだから、目的を終えれば用済みになるのは当然です。騎咲も花園も既にエルザからの贈与を完済してしまっているので、これ以上エルザに報いることはできません。

 ここで「別の贈与」が発動します。過剰の贈与に報いるために再成形され、ツバサを獲得し、そののちに謙譲の贈与のトライブ(四ツ星)との交流によって徐々に変容していった騎咲と花園は、ついに自らの意志で刃物stilusを執ることになります。しかし族長の寝首を掻くためではなく、族長によって再成形された自分自身をさらに加工するために。

・執れ包丁を、そして敖の人へ贄の贅を(AS!ep90)
 アイカツランキングの優勝によってエルザの解散宣言を撤回させようとする騎咲は、花園とともにトライアスロンへの出場を決意します。スポーツのみならず料理も課題となるトライアスロンで優勝するためには、まず花園の料理下手を克服しなければなりません。今まで侵し掠めることしか知らずに生きてきた(AS!ep54-57)花園は、早乙女との共作によって徐々に変容し、ついに自らの手で包丁を執ることになりました。今まで一方的にステーキを供されるだけだった彼女が包丁を執ること、それは族長エルザに扶養される子羊からの脱却を意味します。
 そして騎咲レイ、五月祭に生まれた剣士である彼女は包丁の扱いにも長けていますが、その料理がエルザを思いとどまらせるために捧げられたことを踏まえると別の意味が加わります。エルザによって再成形された自分自身をさらに加工し、自分にはエルザが思いもしなかった価値があることを証明するために包丁を執った。「ライバルの存在って、とっても贅沢なものなのよ」。その「贅沢」こそを教えるため、騎咲はエルザの「ライバル」たるべく自らを「料理」して捧げた。AS!ep90の「料理」とは、方舟で養われた彼女らが初めて族長に捧げる贈与です。彼女らは謙譲の贈与のトライブ(四ツ星)との交流の結果として、過剰の贈与とはまったく別の債務関係を結ぶことが可能になった。完済から燔祭へ。一方的に光を贈っていたエルザが初めて贈られる側に回る瞬間を捉えたのがAS!ep90なのです。



「料理」を捧げられたエルザは、「もう、私がいなくても十分に輝いていられる」と思っていた子羊たちが、いつのまにか全く別の存在になってしまった事実に直面します。以前* 、「(AS!ep51で)四ツ星のアイドルたちを一方向的に睨んでいるエルザは、いつか四ツ星側から睨み返される日が来るのかもしれない、そんな危うさまでもが仕込まれている」と書きましたが、ついにエルザは睨み返されることになりました。それも四ツ星からではなく、四ツ星との交流によって徐々に変わってきた自らのトライブから。「パーフェクトエルザのたったひとつのミス。私たちがこんなにも君に夢中になるとは思わなかっただろう?」
 AS!ep90のラストシーンは、エルザが完璧な布置で構成してきた体系がついに破綻することを予告しています。これをAS!ep62のラストシーンと比較しましょう。桜庭が『Spice Chord』を継承した(=星のツバサのための駒が増えた)ことにご満悦のエルザ、そのティーカップのうえには星空が映っていました。文字通り「コスモス」です。しかしAS!ep90ラスト、同じティーカップに映っていたのは自らの顔でした。深淵から睨み返された動揺をかき消すかのようにティーカップをかき混ぜる彼女ですが、むしろ動揺が強調される結果にしかなりません。『星のツバサシリーズ』がコスモスからケイオスへと移行することが、このティーカップの描写だけで宣告されます。

上:AS!ep62 下:AS!ep90

 濃密きわまるAS!ep90の内容をまとめましょう。ここでは『アイカツスターズ!』の贈与と返済によるギャラクティック経済*9-1 のありのままが活写されている。藝能の贈与と返済によって成立する経済。そこでは羊が食肉や衣類として多様な価値を獲得するように(ご丁寧にAS!ep74では人間と羊とのかかわりまで説明されていた)、人間存在の再加工によって新たな価値が付与されるのです。『アイカツスターズ!』の人間存在とは価値がまだ確定されていない素材であり、自分自身に新たな価値を刻むことで結果的に貨幣と見なされるような存在なのです。*9-2

 本項の結びに、自らを「料理」として捧げた騎咲の帰趨を記述します。アイカツランキングの上位4人(エルザ、虹野、騎咲、香澄)に選ばれた彼女は、ついに族長のみならずトライブのために身を捧げることになります。「本日は、欠席してしまい申し訳ありません。この闘いを甘く見ていると思われても仕方ありません。ですが、私にはやらなくてはならないことがあります。たとえ可能性がわずかでも、諦めるわけにはいかない。ヴィーナスアークは絶対になくなりません!」解散宣言によって人心が離れていたVAを繫ぎ止めるため、彼女はトーナメント戦直前の生放送番組を欠席した。騎咲は『スターズ!』登場人物の中でも群を抜いた演説スキルの持ち主である(AS!ep80)にも拘らず、生放送でのアピールチャンスを、つまり自分にとって最も有利なカードを捨てたのです。そう、昨年度S4選* での早乙女と全く同じ選択です。ここにも四ツ星との交流によって変容した彼女の姿を見ることができるでしょう。

 結果、彼女は虹野との真剣勝負に敗れましたが、VAの乗組員たちの心は騎咲の立ち姿によってかろうじて繋ぎとめられました。トライブのために身を捧げ、エルザに「ライバルがいることの贅沢」を教えるために燔祭に踏み切った騎咲レイの虎口は、対戦相手である虹野、そして同じ武道の使い手として接触してきた香澄真昼によって継承されることになります。*9-3

・Familly Affair をかけな、あの夜だけがかわらぬ勝利のひとつだと思っていたければ(AS!ep94)
 アイカツランキングの最上位として君臨するエルザ フォルテ、唯一の太陽ドレス所持者である彼女の絶対性は、AS!ep90以降急速に揺るがされてゆきます。絶対者エルザの相対化は、香澄真昼と対戦するAS!ep94でピークに達すると言っていいでしょう。AS!ep93で騎咲の「今まで成っていなかったもの(エルザのライバル・族長代理)」への成り行きが描かれていたように、AS!ep94でも真昼の「今まで成っていなかったもの」への成り行きが描かれます。

 香澄真昼、彼女はVA流の訓育を見せられたときに最も強硬に反発していました(AS!ep55)。それは彼女が1年目の時点で早くも訓育を行う側の立場にあった(AS!ep34)ことに理由を持ちます。VA流の訓育を問い質すとともに彼女自身のあながちさも問い質されていった、その緻密な流れは騎咲とのエピソード群(AS!ep56,60,64)で描写されているので省略します。重要なのは、彼女はVAとの交流の前からすでに「誰かを造る人」だったこと。AS!ep94での「自分が破壊してきたもの(瓦たち)と自分が造ってきたもの(弟子たち3+1人)が同じ画面に映っている」という絵面のコントラストは、どんな説明ゼリフよりも雄弁に香澄真昼の経歴を物語っています。

 しかし、彼女にはまだ「今まで成っていなかったもの」があります。1年生からS4に上がったメンバーの中で、彼女は唯一先代(香澄夜空)に勝利しており、決定的な敗北をまだ知らない。香澄真昼は、エルザ フォルテとの闘いで図らずもロストヴァージンを迎えることになりました。「エルザさん、勉強させていただきました、有難うございます」。ここで「敗けたことがある人」に成ることができた真昼は、同じ「敗けたことがある人」である夜空と初めて年相応のスキンシップを取るようになります。敗けることでようやく「家族」とふれあえるように成った真昼と、「家族」から抱きしめてもらうために勝ち続けるしかないエルザの姿がここで対比されます。姉とにこやかに談笑しながら次の勝負に備える真昼の姿は映りますが、エルザの姿は映らない。この「家族」の描き分けによっても、エルザの母への執着が徐々に相対化されていることがわかります。彼女の闘いは「私がお母様みたいにパーフェクトになったら、きっと私のことを抱きしめてくれるはず」という私情から始められたにもかかわらず、真昼のように「家族」に対する別の向き合い方も存在することが示されている。
 AS!ep93での騎咲、AS!ep94での真昼の描写を踏まえると、ここでは刻々と「今まで成っていなかったもの」への成り行きが済まされていることがわかります。その過程でエルザの母への執着までもが相対化されるにつれ、ひとつの予感が導き出されます。もしかしたら、エルザにも「今まで成っていなかったもの」があるのではないか、「今まで成っていなかったもの」に成るための儀礼が虹野との決勝戦なのではないか、と。

・太陽がいっぱい(AS!ep95-96)
 エルザ フォルテと虹野ゆめの決勝戦。唯一の太陽たらんとするエルザの円環は、そこに配置された Third Stone From The Sun でしかなかった虹野によって覆されることになります。「アイドルみんなで光り輝いて、周りの人すべての心を輝かせたいって思ってるんです」。「もらったものを少しずつ返す」、「みんなで輝く」。AS!ep32から一瞬も揺らがなかった虹野のクリードは、ついに世界一の座を賭けた大舞台で大返済を行うに至ります。つまり謙譲の返済と過剰の返済両方の断行を。エルザを倒すためではなく、エルザを含めたすべての人間から贈られたものを自分自身の全力で返済すること、虹野が打って出た賭けはそこにあった。結果として虹野のドレスに太陽のツバサが降り、『The only sun light』たらんとしたエルザの唯一性はここに霧消します。

 そう、エルザによる唯一の太陽の体系を破るのは、桜庭ローラでも騎咲レイでも香澄真昼でもなく、虹野ゆめでなくてはならなかったのです。「母のように」なりたい私情から出発したエルザは、既に「誰かのように」なりたい欲望からの切断を済ませている人物の存在を知らなかった。「ひめさんのようなS4になりたい(AS!ep27)」という欲望から切断された虹野ゆめの存在を。もし虹野が「誰かのように」なりたい欲望を抱いたままだったなら、彼女はエルザに逢う前に絶命してしまっていたでしょう。それは雪乃ホタル「のように」なること、歌組の呪いに蝕まれてアイドル生命を絶たれることを意味していたのですから。だからこそエルザの「母のように」なりたい欲望からの切断は、虹野ゆめによって執行されなくてはならなかったのです。「お母様、私、お母様のようになりたくて」という涙声が「エルザは、エルザらしくいればいいの」と報いられるためには、完璧な母「のように」なりたい欲望から力を得ているエルザの臍帯を切り離さなくてはならなかった。彼女の求めているものが「母」と「太陽」と「翼」である以上、そこから予告されるのはオイディプスとイカロス両方の最期(発狂と墜落)しかありえません。エルザが一人の娘として母に相対するためには、虹野の手による分娩が必要だった。「フォルテ (forte)」、「死 (morte)」と一字違いの姓を持つ母娘が悲劇を回避するためには、虹野のstilusによって母と娘が切り離される必要があったのです。

I am surrendering to gravity and the unknown
Catch me, heal me, lift me back up to the sun
I choose to live

『Gravity』 - A Perfect Circle

 かくして、エルザの私情から始められたこの太陽系は破綻しました。唯一で絶対的な線の導き、前作『アイカツ!』で言うところの『SHINING LINE*』は、ここで穏やかに引き千切られるのです。もはや単一の線による「あこがれ」の体系などは存在せず、ただ複数の線によって取り結ばれる関係、複数の太陽による銀河系が、七色の太陽こと虹野ゆめの大返済によって誕生します。彼女の全力her bestがすべての勝負師たちの収穫harvestとして捧げられる、この大返済の収穫祭。

 これは『アイカツスターズ!』、複数形であるこの作品の必然的帰結でもあります。しかしこの結論を導き出すためには、勝負師たる彼女らのうち誰一人として欠けてはならなかったのです。異なる贈与・異なる藝能・異なる価値観を持った彼女らの衝突と反発と結合によって初めて可能となった、この闘争の意志の連鎖。香澄真昼も言っています、「想いって、伝染するのかしら(AS!ep87)」と。「伝染」、なんと的確な言葉の選び方でしょうか。彼女らが行ってきた贈与と返済は一種の病です。しかしそれは、懐妊という状態が一種の病であるかのような病なのです。

 さあ、まだ終われません。ここまで膨大な線の走りを追った後でもなお、『アイカツスターズ!』には読みうる部分が残っているのです。彼女らの闘争の結果として浮かび上がる部分、前作『アイカツ!』が一度は接近したにも拘らず怯えて踵を返してしまったあの部分。その驚くべき人間生産の時空は、すでに四ツ星とVAとの交流によって部分的に明らかになっています。怖じることなく向かいましょう、彼女らが取り結んだ「性的関係」、歌劇美舞、藝術の力によって人間が造られるところへ。

*9-1 ギャラクティック経済
 もちろん筆者による造語ですが、
⑴galaxy の冒頭二文字(G,A)の配列は短音階のオクターヴ(=円環)を意味すること
⑵galaxy は “γαλαξίας”、γάλα (gala, “乳”)とκύκλος (kuklos, “円、球”)から成る語であり、エルザの誕生日である8月1日(WHOとユニセフが制定した「世界母乳の日」)と直接に関連すること
 などの複層的な意味を持ちます。

*9-2 贅・贄・貨、貝の部首は子安貝の象形に由来し、食べ物でもあり装飾品でもあり貨幣にもなるものを意味します。エルザの椅子が貝のかたちをしていたこと、AS!ep55でエルザが七倉に「宝石」の訓話を与えていたこと、などを思い出すまでもないでしょう。『ヴィーナスの誕生』の貝はホタテ貝なので真珠貝とは違う、とかいうのは些細な問題です。

*9-3 虹野・騎咲・エルザ三者の数秘的関係
 五月祭(5月1日)に生まれた騎咲レイと八朔(8月1日)に生まれたエルザ フォルテ。二人とも「収穫」にまつわる誕生日を持っており、この時点で『星のツバサシリーズ』が「地上の糧」の「収穫」に収斂されることが予告されています。
 エルザの誕生日はひとつの “8” で成り立っており、“8” の数字はもちろん “∞” に通じ、尾を噛んだ蛇の姿=ウロボロス、つまり無限=円環を意味します。
 対して、虹野ゆめの誕生日は3月3日。 “8” がふたつに切り裂かれた数字で成り立っています。彼女はのちにエルザの太陽系を切り裂くことになるのだから当然でしょう。さらに地球は太陽から “3” つめの惑星にあたること、 “9(太陽のために集められたミューズたちの数)” が “3” の自乗であること、それによってエルザの “8” より高い位置に上がること、など本編における虹野とエルザの関係は数秘的にも筋が通っています。

 さらに、3と5と8はそれぞれフィボナッチ数なので、虹野(3)が騎咲(5)と対戦し、さらにエルザ(8)と闘うことで円環(正円)が切断され螺旋になること、それが「陽光の贈与によって地上に花開くもの(ヒマワリの種の配置は黄金比)」に帰結すること、などまでもが数秘的に埋伏されていることがわかります。


◎RESPECT10 人間ができるまで(「個性」が謂っていたもの)

━━……商品生産ではないのですね。人間生産……
━━その通りです。
━━それは芸術そのものかもしれませんね……。
━━そうです、絶対に。

『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅵ』521P

誰か「のように」なりたい欲望からの切断。【RESPECT9】で部分的に明らかにされた儀礼ですが、その全容を明らかにするためには、今一度AS!ep27に立ち返らねばなりません。

白鳥「ゆめちゃんは、どんなS4になりたいの?」
虹野「わたしは、ひめ先輩みたいなS4になりたいです!」
白鳥「えっ?」
白銀「(絶句)」
虹野「ひめ先輩みたいにみんなを笑顔にして、ひめ先輩みたいに誰からも愛されて、ひめ先輩みたいに……」
白鳥「(遮って)ゆめちゃん。私を目標にしてくれて嬉しいわ。でも、本当にそれでいいのかしら」

虹野「ひめ先輩、なんでさっきあんなことを……」
白銀「わからないのですか? ……私は、未だかつてあのような目標を聞いたことがありません」

 ここではひめ先輩「のように」なりたい虹野の欲望が、好ましくないどころか、悪しきものと見做されていることがわかります。まずこのことに率直に驚きましょう。例えば、ブルーハーツのライブを観て「俺もヒロトみたいになりてえ!」と勢いでバンドを結成する、などは一般的に「初期衝動」の文脈で良しとされるものです。しかしここで虹野は「私を目標にしてくれて嬉しいわ。でも、本当にそれでいいのかしら」と白鳥から引かれ、さらに白銀からは「未だかつてあのような目標を聞いたことがありません」と静かなディスの言葉さえ放られている。『スターズ!』では、それほどまでに「のように」なりたい欲望がなみされるのです。

 このとき白鳥・白銀・虹野は「将来どのようなS4になりたいか」をめぐって問答していたことを思い出しましょう。以前筆者は、四ツ星の「個性」教育について「その『個性』が、四ツ星学園という空間の、もっと言えばS4という階級制度の効果で育まれたものでしかないとしたら?」と留保を置きました。結局その「個性」が学園で権威とされる存在=S4の模倣・追従にしかならないとしたら、『スターズ!』は途方もなく貧しい作品になってしまうだろう、と危惧していたのです。しかし『スターズ!』は見事にこの逆を行きました。S4という階級制度は、直接に「権力欲からの切断」の儀礼を担ってもいたのです。

・権力欲なくして妄想なし:四ツ星学園S4、切断の儀礼
 確認しましょう、1年目から各組のS4に上がった虹野・香澄・早乙女は、それぞれ別のかたちで「誰かのように」なりたい欲望からの切断を通過しています。最も早かったのは香澄真昼でした。彼女は敬愛する姉でもあり宿敵でもある香澄夜空との相剋(AS!ep14-15)が初期から展開されており、「私の目標はただひとつ、お姉ちゃんを超える! 私は、香澄夜空とは違うタイプのトップモデルを目指してるの(AS!ep27)」と明確に姉「のように」なりたい欲望を代謝していました。
 次に虹野。彼女が「力(=病)」への依存を断ち切るまでの一連のエピソード(AS!ep10-36)は、直接に「歴代歌組S4のように」なりたい欲望からの切断を意味します。もし彼女が「白鳥ひめのように」なりたいと欲望し続けたなら、「雪乃ホタルのように」アイドル生命ごと絶たれていたでしょう。その「力(=病)」の治癒の過程については既に多くの字数を費やした* * ので省略します。
 そして早乙女。彼女は前任S4である如月から将来を嘱望されていましたが、「今度の私のステージにゲスト出演してほしい。劇組から何名か出てもらうんだが、早乙女も是非にと思ってね(AS!ep45)」という如月の誘いを固辞し、自分のファンであるキッズのために小さなステージに出ることを選びました。劇組の実力者である以前に誰か(結城すばる)のファンとして造られた自分自身の経歴に仁義を通すために、年度末のS4選での勝利を捨てたのです。
 このように、新任S4となった3人の道程は、明確に「今までのS4のように」なりたい欲望からの切断を通過しています。より正確には「党(=組)への権力欲」からの切断、と言うべきでしょう。もしS4が、単に処世術に長けた者だけが成り上がれる制度だったとしたら、それは「党(=組)」の権威を自分のものとして笠に着るような、目も当てられないほどの形骸になっていたはずです。愚劣な政治家が党派を組むことで夜郎自大になり、支持者までもが「党(=組)」からの全能感の備給に酔っている我々の現実を省みれば、その酸鼻は明らかです。『アイカツスターズ!』は、まさにその「党(=組)への権力欲」にこそメスを入れたのです。S4は「党(=組)」と自分を同一視するような愚者が就くことを許さない座である。より適切に言えば、S4は「党(=組)」と自分を同一化することを断念した者だけが担いうる役割だったのです。これによって四ツ星学園が掲げていた「個性」の意味が明瞭となります。「誰かのように」なりたい欲望に取り憑かれることなく、「党(=組)」が備給する全能感に酔うことなく、ひたすらに鍛錬を積み自分自身を成形すること。そのマニフェストを歌劇美舞の藝能を介して上演するための旗頭がS4だったのです。

「権力欲なくして妄想なし」。これは本書で何度も引用している中井久夫氏の試論からの引用ですが、虹野ゆめの道程を踏まえるとより切実に響きます。妄想に耽りがちな彼女が階級制の危うさに嵌まることなく長じるには、あの「力(=病)」への依存を断ち切って「ひめ先輩みたいなS4になりたいです!」の欲望を断念する必要があった。この時点ですでに『アイカツスターズ!』は『SHINING LINE*』が原理的に存在し得ない時空であることが明らかです。一本の線の導きがあるのではなく、線たちの切断の連続だけがある。この切断なくしては権力欲を断ち切ることは不可能なのです。再び我々の現実を省みれば、『アイカツ!』からバトンを受け取ったと主張する「クリエイター」たちが雨後の筍のように出現し、「『アイカツ!』のような」作品を出したいと濡れきっている例などは、創作行為が権力欲に毒されてしまった典型例だと言えるでしょう。より根本的には、神話と史実を混同した歴史書(=記紀)を持ち、実際に神の系譜である「万世一系」で「万邦無比の国体」とやらを中心に抱いているこの島国の「妄想」の亢進ぶりに立脚すれば、党派性と権力欲がいかに凄惨な宿痾(党派政治と民族主義との癒着)を招いてしまうかがすべて説明される……などは贅言でしかないでしょう。『アイカツスターズ!』1年目はまさにその「権力欲なくして妄想なし」の危険性を「藝能の訓育」による人間成形によって回避するまでの道行きが描かれていたのです。

・海上の遊牧民:VA、祖国からの切断
 しかし2年目からは、四ツ星学園とは全く別の水準の訓育を行うトライブが登場する。VAにてエルザが行なっていた「過剰の贈与」については【RESPECT9】で瞥見しましたが、彼女らは四ツ星とはまた別の「切断」を通過しています。「祖国(生まれ故郷)からの切断」。騎咲レイはアメリカ合衆国のヴァニティフェアから降りることで(AS!ep60)、花園きららはニュージーランドでの付和雷同から離脱することで(AS!ep90)VAの乗組員となった。七倉小春も流謫の最中にエルザと出会い、双葉アリアも「私のすべてはフィンランドでできています。それでいいと思っていました。でも、世界には私の知らないことがたくさんありました(AS!ep77)」と新しい世界への興味から船に乗っていた。「祖国(生まれ故郷)からの切断」を経た人物によって形成された移動性のトライブ、それがVAです。移民になること、混血児になること。「また見付かつた。━━何が。━━永遠が。太陽にまじはる海だ」と謳った詩人の言葉を引用すればこうなるでしょう、「おれがいつも劣等人種であつたことは、解り切つてゐる」。祖国から切り離されること、自分の産まれ持った既得権をすべて捨て去ることから駆動する創造性。エルザはそこに賭けたのでしょう。
 ここで、陸上の建築物に住まって訓育を行う条理のトライブ=四ツ星/海上の船舶に住まって訓育を行う平滑のトライブ=VAという対立項が見出されます。ふたつのトライブが謙譲/過剰という異なる贈与を担っていたことも、すでに確認しました。
 しかし、VAでも四ツ星と同じように「誰かのように」なりたい欲望の切断が行われていたエピソードが存在します。このふたつの異なるトライブは、双方向の交流の結果として、ひとつの消えかかっていた魂に再び火を灯すことになります。その純然たる偶然の再点火として焦点化される人物は、もちろんアリス・キャロルです。

・Relight My Fire ここらでリタイアにゃまだ早いさ(AS!ep60)
 アリス・キャロル。彼女がVAを退学させられた理由は、「君のブランドは業績が下がり続けているね。少しずつだけどライブの入場客も減っているし、ヴィーナスアークでの人気ランキングも最下位に落ちた」ことによります。VAはエルザの過剰の贈与に報いてツバサを収穫するために結成されたトライブなのですから、その見込みのない人物が「あなたは輝きを失った。ヴィーナスアークにいる資格は無いわ」と切り捨てられるのは(エルザにとっては)筋が通っています。
 その退学宣告に対する四ツ星側のリアクションを引用しましょう。

香澄「あなたがスカウトしたんでしょう!? なのに、突然出て行けなんて!」
  「四ツ星学園とは違いすぎるわね」

桜庭「そんなこと言って、いいんですか。全部カメラで撮ってますよ」
  「入学希望者は門前払いで、所属アイドルも容赦なく切り捨てるなんて、ひどい!」

 謙譲の贈与のトライブからの反応としては至当ですが、ここで間違えてはならないことがあります。ここでの香澄・桜庭の言はそれぞれの情動に根ざしたものであって、アリスの退学への当否判断としては空を切っている部分がある、ということです。
 たとえば香澄は、彼女自身早くから誰かの訓育を行う立場にあった(AS!ep34)ためにVA流の訓育に強硬に反発(AS!ep55)していました。「四ツ星学園とは違いすぎる」という香澄の言には、自分を訓育したものとは別の水準があることに直面した、まさにそのことによる動揺が多分に含まれています。
 桜庭に至っては、「入学希望者は門前払い」なVAの態度に激昂していますが、騎咲が言っているように、もともとVAは一般学生の募集はまったく行っていない。にもかかわらず一方的に個人情報の記載された書類を送付されるのは明らかにVA側の迷惑であり、ここでの桜庭は「勝手に送りつけてくる方がメーッ」という花園の言より理で劣っていることになります。
 このように、アリスの退学に対する香澄・桜庭の言説が部分的に「間違って」いることから、この場面では登場人物によって「正しい」裁定が成されていないことがわかります。アリスを退学させたVA側の決定が「間違って」いるのと同じ程度には、四ツ星側も「間違って」いるわけです。

 さて、船を降ろされることになった当事者の言葉を聞きましょう。

アリス「ヴィーナスアークは私の憧れでした。エルザ様のようになりたくて。スカウトされた時は本当に嬉しかったんですけど、私には才能が無かったんですね」

「エルザ様のように」なりたくて。ここで初めてアリス・キャロルもかつての虹野と同じように「のように」なりたい欲望の持ち主であることが露出します。さあ、虹野はもう気付いています。引用しましょう。

虹野「わたしもね、前に学園長に言われたことがあるんだ。結果を出さなければ四ツ星学園を退学してもらうって。最初、わたしの夢は先輩みたいなS4になることだったの。でも、それじゃだめだって気付いたんだ。だって、わたしはわたしだから。」

「先輩みたいなS4になること」、「誰かのようになりたい」欲望からの、「党(=組)への権力欲」からの切断を既に果たしている虹野の言葉によって、アリス・キャロルの退学の意味が少しずつ変異し始めます。おそらくアリス本人も、励ましの言葉をかけた虹野も、退学の判断を下したエルザさえも気付かないままに。四ツ星とVA、ふたつの異なる訓育を行うトライブが、偶然に、静かに、不穏に、ここから手を取り始めるのです。

「やっぱりエルザ様はすごい!」「うん、すごくすてき!」エルザのステージを観て感嘆の表情を浮かべるアリスと虹野。『星のツバサシリーズ』はエルザのパフォーマンスによって四ツ星が発情するところから始まったので、エルザの有無を言わさぬ魅力が好悪の情さえ吹き飛ばしてしまうのは当然です。「でも……」アリスはもはや「エルザ様のようになりたくて」と欲望するだけの人物ではありません。「私、船を下ります」「全力でアイカツして、エルザ様に負けないアイドルになります!」爛々と輝く眼で所信を表明するアリス。ここでエルザ自身も文字通り目の色が変わっている﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅ことがわかります。何事にも動じない族長の瞳孔が、ここで初めて大きく動揺するのです。「輝きを失った」として退学を宣告したはずの眼に再び輝きが灯っていた、理解不能な事態に直面したことによって。セリフを引用しましょう、「輝きが見えたわ……アリスはもう二度と輝く見込みは無い、そう思ったけれど、瞳の奥に光が見えた……ゆめはどんな魔法を使ったのかしら」。

「魔法」、「魔法」とは。智者エルザが抱えている人間的な盲目が初めて露わになるのがこのシーンです。輝きを失ったものは去るべきとする価値判断しか持たないエルザは、なぜアリスの魂にもう一度火がついたのかが理解できない。「エルザ様のようになりたくて」の欲望から切断されて初めて活力を取り戻したアリス、その再点火を手伝った虹野の手妻が、彼女には「魔法」としか思われない……
 しかしエルザも、シューティングスターと名乗っていた頃の騎咲レイに対して同様の再点火を行っていたのです。「彼女(シューティングスター)は衝撃を受けた。誰もが皆、彼女を褒め称えたのに……そんなふうに言われたのは初めてみたいだったからね」。周囲に勧められるがままにモデル活動を続ける安易さをディスり、彼女の生まれ持った既得権さえも徹底的に蹂躙し尽くしたエルザは、まさにそのことによって彼女の魂に火をつけ、騎咲レイとして再生させるまでの道を拓いていた。自分も虹野と同じこと、誰かの魂に再び火を灯すことを行っていたにも拘らず、エルザは真顔で「ゆめはどんな魔法を使ったのかしら」と不思議がっている……自分がかつて同様に再点火した人物(騎咲)が目の前にいるのにも拘らず! 智者であるエルザの、あまりにも人間的な盲目!

 この瞬間、全く異なる訓育を行うふたつのトライブが偶然に手を取り合ってしまった瞬間から、『星のツバサシリーズ』の時空は徐々に変容を始めます。騎咲は香澄姉妹との問答を通して「エルザのために」輝くことを決め(AS!ep64)、花園は桜庭との勝負に敗れ(AS!ep65-66)、アリス・キャロルは四ツ星に再入学し(AS!ep71)、花園は虹野七倉の共作に倣って早乙女とダブルミューズを組み(AS!ep74-75)、VAには白鳥の親友である双葉アリアが参陣し(AS!ep76-77)、エルザの母からすべての勝負師に「本当の闇」が贈与され(AS!ep78)、稚気に満ちたハロウィンバトルが展開され(AS!ep79)、ついに騎咲によって最後のツバサが収穫され(AS!ep80)、それでも太陽のツバサがなかなか現れないことにエルザは焦り(AS!ep81-83)、その間にも双葉は虹野と(AS!ep82)騎咲は白銀と(AS!ep83)の交流を深め、花園はついにエルザへの依存を断ち切って早乙女とともにステージに立つに至り(AS!ep84)、その間にも虹野の「みんなで輝く」クリードは微塵も揺らぐことなく(AS!ep85)、そしてエルザと桜庭との乾坤一擲の勝負の場でついに太陽のツバサが出現する(AS!ep86)。以降のエピソードについては闘争編で記述したので省略しますが、四ツ星とVA、謙譲と過剰の贈与を行うふたつのトライブが徐々に交わるには、これだけの時間と闘争と創造が必要だった。その発火点がAS!ep60のアリス・キャロルをめぐる「魔法」だったのです。「すべてを奪う」ために襲来したはずのエルザは、結果的に四ツ星との斬り結びの中であまりにも多くのものを与え、返され、そして彼女自身も変容を続け、ついには複数の太陽の銀河系(AS!ep95-96)を出現させるに至った。AS!ep60までは不協和音を響かせるだけのように見えたふたつのトライブは、遂にひとつのクリードを唱和するに至ります。そのクリードとは、

・気持ちがレイムじゃモノホンプレイヤーになれねえ(『アイカツスターズ!』における人間の製造、その全容)
 このゲームに参加するには本物の魂がないとダメだ、ということです。金星的人物エルザの出現によってしつらえられたこの賭場は、四ツ星との交流によっていつしか「誰かのようでありたい」欲望からの切断を担うようになり、彼女らの創造性から権力欲を切り離すための儀礼をも担っていた。四ツ星はVAの価値観を徐々に変え、VAは族長たるエルザに別の贈与を行う(AS!ep90)に至った。四ツ星とVA、ふたつの人間発電所を備えた『アイカツスターズ!』だからこそ異なる価値観の混成が可能になり、その営みのなかで彼女らが産み出したものを天まで飛ばした結果、ついに複数の太陽の銀河系が出現した。「何も言わない ただ流れるばかり」だった天が彼女らの仕事の結果として流転する瞬間を迎えるためには、複数の星々による共同での人間生産が必要だったのです。
『アイカツスターズ!』、太陽系規模の贈与と返済を描いたこの作品は、我々が現在かかずらっている市場経済をはるか超えたところでの創造行為をも活写してしまいました。そのギャラクティック経済を担っていたのは藝能、歌唱や演技や美容や舞踏の贈り合いだったのです。それを返済するためにこそ「孤独をおそれない」鍛錬が必要とされることを、2年間にわたって執拗に見せ続けたのがこの作品だったのです。A(bove)とB(elow)の、永遠の流転のダンス。それが言葉と傷と創造をめぐる営みであった以上、こう結論することが許されるでしょう。観衆たる我々がその賭場に加わることができないとする理由はどこにもない、と。

 ……さて、ここまで筆を進めた以上、本書で直裁に書くことなく留保を置いてきたことを片付けなければなりません。前作『アイカツ!』に対する裁定を、今ここで下しましょう。A!ep146、もはや観てしまった記憶自体を無かったことにしたい誘惑に駆られるあのエピソードに言及します。

・悪無限の悪平等(『アイカツ!』の凄惨を清算する)

星宮「私ね、世の中のアイドルとかみんなを照らすスポットライトって、ずーっと動いてる気がするんだよね。ぐるぐるってね。だから、そのときそのときで照らされる人数は少ない。でも、照らされなかった人がいなくなってるわけじゃない。だから、次のチャンスは誰にでも来るんだよ。その場所に立ってる限りね。」

「あまりにも登場人物を増やしすぎてしまったけど、見えてないだけで彼女たちにも別のエピソードがあるってことなんで、そこは我慢してください」として受け取れるセリフを登場人物自身に言わせたことだけでも『アイカツ!』のシリーズ構成が如何に杜撰だったかが痛感されますが、今更そんなことを言ってもどうしようもありません。『アイカツ!』の真の愚劣さは、シリーズ構成の拙さを指弾したところで片付くものではないからです。

 A!ep146は、『あかりジェネレーション』が本来持っていた可能性、『SHINING LINE*』ではなく複数の人物の生き様を浮かび上がらせる試み(それはA!ep102-145のごく限られた期間において部分的に成功していた)を完全に棄却したものとして読むことができます。このエピソードの直後から空虚な「勝負(「どうしてトライスターが下級生ユニットのルミナスより下位なんだ!」と目くじらを立てることさえ不毛だったユニットカップ)」が始まっていたこと、さらに「ルミナスジャパンツアー」という名の単なる観光(「首都」の人間による「地方」の玩弄)が始まっていたことにもすべて筋が通っているのです。その終着点として目指されているのは「スターライトクイーンカップ」、原則的に勝ちも負けも生じ得ない状況を設えたうえで大空あかりの戴冠をスムーズに実現させるための場しかありえないのですから。
 大空あかり。そもそも『SHINING LINE*』という神崎━星宮の当事者関係とは何の関係もない人間だったはずの彼女は、最終的には immortal な神々による「導き」の片棒を担がされる結果になりました。考えてみれば奇妙です、なぜ『アイカツ!』は『SHINING LINE*』などという一本の線の「導き」に集束されてしまったのでしょうか。その理由は【RESPECT2】で引用した加藤陽一のツイートですでに明瞭です。「神崎美月という名前は、いちごにとっての最高の憧れだから『神』」。そう、『アイカツ!』はそもそも目に視える神(神崎美月)の死を人-神(星宮いちご)が執行するという王権神授的物語(劇場版アイカツ!)なしには成立し得なかった。だからこそ人-神によって権力を渡された人間(大空あかり)の戴冠によって終結を迎える以外に道はなかったのです。
 しかし、こう言いましょう。『アイカツ!』の根本的な過ちは、神崎美月、「神」的な人間が人為性無しに存在すると定礎してしまったことにあると。訓育の結果として生きながらえている mortal ではなく、体調を崩したかに見えても「あこがれ」とやらに触れてしまえば全回復してしまえる(A!ep47)ような immortal (しかもその「あこがれ」の供給元であるマスカレードの片割れは星宮りんごであり、すでに人-神の正当性までもが血統で保証されてしまっている)によって定礎された世界。神崎美月から摂食描写や肉親の存在が消されていた* のは、『アイカツ!』の本質に由来する絶対的な要請だったのです。そもそも人間を、死すべき者mortalを相手にしていないのだから、素手で崖を登攀してもなんの心配も要らなかったし、どんな無茶をしても負傷や死亡などの心配も要らなかった。この素晴らしき immortal の世界、真綿のように柔らかい世界では、『SHINING LINE*』という一本の「苔のむす」ように持続する「万世一系」の「導き」さえ受け入れさえすれば、誰でも平等に「尊さ」に惑溺することができたのです。これは『アイカツ!』のアイドルたちが自分で創造する必要がなかった*10-1 こととも釣り合っています。『アイカツ!』は最初から存在していた「神」を発端とする単一の線(神崎━星宮━大空)が存在するだけで、人為的に人間を製造する工夫(=藝術による訓育)など存在しないのだから、敢えて自ら創造する必要もない。だからこそ「デザイナー」という市場原理に囲われたオトナたちの姿が必要とされ*10-2 、その無害で安全で人好きのする姿に「プロフェッショナル」や「クリエイティヴィティ」などを見出すことができたわけです。実に、じつに、じーつーによく治水された構造です。しかし、まるで天皇制のように空虚なカラクリだと言わねばなりません。最初から「尊い」人間が人為性なしに存在していて、利己と利他が平らで、プラスとマイナスが等しくあるがゆえに、もはや贈与の余地も返済の余地も、創造の余地も闘争の余地も存在しえない世界。そんな『アイカツ!』の時空が本質的に何を意味していたかは、氷上スミレと同様に「残酷な選別」を行う学園から没落したグッドルーザーである彼が語ってくれるでしょう。『ばーか』『人はそれを』『悪平等っつーんだよ』*10-3 。

 そう、神崎━星宮━大空の一本線によって寿がれた『SHINING LINE*』のみが存在し、あとはその「周縁」しか存在しないのだとしたら、これが「悪無限の悪平等」でなくして一体何だというのでしょうか。「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」、「温かくて前向きな気持ちになれる作品を作ろう」という『アイカツ!』の試みは、ここに帰結しました。すなわち「単一の線による円環への自閉」。これは『アイカツ!』、単数形の『SHINING LINE*』を絶対視してしまった作品の必然的帰結です。

・賭場の平等、博徒の不平等(『アイカツスターズ!』の「本当の闇」)
 さあ、「悪無限の悪平等」の弁証法に閉じてしまった『アイカツ!』を傍目に、『アイカツスターズ!』の2年間はどのような時空を浮かび上がらせたか。本論を追ってきた我々にはすでに明らかです。『アイカツスターズ!』において、人間は本質的に不平等でなくてはならない。しかしそれは、質的に異なる人間たちが対抗しうる賭場を維持するための不平等、誰もが新たに骰子を投げうるという平等のための不平等=差異なのです。人間が訓育される空間が複数存在する『スターズ!』においては、その差異化=分娩が成功するかどうかすら博打の結果でしかない。「誰かのように」なりたい欲望から切断されることに成功し、権力欲とも決別し、さらに藝能(歌、服飾、演技、ダンス、詩、演説)の鍛錬を積んだ勝負師たちが集い、衝突し、傷付き、孕み、そして産みうる世界。「前提」として存在する人間たちによって運営される市場の論理ではなく、人間を産みうるという「前提」を担うための複数の藝術家たちが存在する。「物語」に寿がれた永遠性が存続するのではなく、死すべき者mortalが骰子を振るための賭場だけが永遠に持続する。それが『アイカツスターズ!』の2年間が浮かび上がらせた時空なのです。そして、何度でも言いましょう、それが言葉と傷と創造をめぐる営みであった以上、観衆たる我々がその賭場に加わることができないとする理由はどこにもない、と。

 さて、本書は14本の原稿と260,000字の文量を費やし、前作『アイカツ!』の遺骸を思いやり深く埋葬することができました。どうでしょう、夜がきたような気がしますけれど。またしても夜が、「本当の闇(AS!ep78)」が、我々の文房にも訪れたようです。どうやらこの夜では、「あこがれのSHINING LINE*」や「ありがとうの生まれる光」などの出る幕はなさそうです。代わりに、ついに彼女をこの卓に迎える準備が整ったようです。すべての博徒たちの先鞭、『アイカツ!』の「悪無限の悪平等」の時空を切り裂いた唯一の人物、自らの没落によって『アイカツスターズ!』の賭場を定礎した彼女を。

*10-1 風沢そらを除いては。しかし彼女が創造行為に取り組むエピソードは初登場のプレミアムドレス披露回(A!ep61)のみで、のちの七倉や虹野のようなデザインの過程での懊悩はA!ep85での紫吹との薄味な混血くらいしか描かれなかったのでした。風沢を含むドリームアカデミーの人間たちがあれほど尻すぼみな扱いに終わった理由は註 *2-5にて述べました。

*10-2 これに代わって『アイカツスターズ!』に存在していたのは、ブランドのオーナーとそのスタッフ、ミューズの作品制作のためだけに働く人々です。これを受けて「じゃあ何か、創る側じゃない人間は創る側の言うことだけ聞いてろってことなのか」と柳眉を吊り上げるなら、その人は残念ながら創造行為について何も知らない人ということになります。『スターズ!』におけるミューズとオーナーの関係性は、実例を挙げるならアレハンドロ・ホドロフスキーとミシェル・セドゥーの、あるいはデヴィッド・リンチとメル・ブルックスとの関係性です。自ら創り手に回るのではなく創り手の孕みを待ち、分娩を手助けするために働く人々も存在するのです。「ある者は自分の思想のための産婆を求める。またある者は自分が産婆になってやれる人間を求める。こうして良い対話が生まれるのだ(FWN)」。「創造者とは創造させる人間のことなのです(ヴァレリー)」。この真っ当な「孕み」の関係を孕むことができたこと。ここにこそ最初から創造行為が市場原理に限定されていて自分では何も創る必要がなかった、滑稽なほど男根的で剰余享楽的*10-2-1 な作品でしかなかった『アイカツ!』との決定的な違いがあります。

*10-2-1 本書を通読している読者には強調の必要もないことですが、サニーとジョニーの関係はここから出ることができた唯一の例外です。市場原理への馴致によって安全に治水された、あくびが出るほど退屈で男根的で剰余享楽的な『アイカツ!』の世界にいながらも、ついに男性であることをやめて孕む者・孕みを待つ者に成ることができた(A!ep128)からこそ「彼女」らは偉大なのです。よって、自分が孕めないことを恥じるそぶりもない「男性」どもが『アイカツ!』をダシにしてしゃべくり散らす「プロフェッショナル」だの「クリエイティビティ」だのは、(安全に治水された市場の運営を円滑に保つ歯車としての役割以外には)何の価値もありません。

*10-3『グッドルーザー球磨川 完結編』西尾維新原作 暁月あきら漫画


◎RESPECT11 神域にあろうと(重力のあるところで 2 YEARS AFTER)

To swing on the spiral of our divinity and still be a human.

『Lateralus』 - Tool

 氷上スミレ。白雪姫を毒殺した不吉なモチーフであるリンゴをドレスに取り入れることを「変じゃありません(A!ep108)」と断言した彼女は、『アイカツ!』の無重力圏から没落することができた唯一の人物となりました(A!ep176)。リンゴ、最初の男女が智慧を得て楽園を追放されるきっかけとなった、ニュートンに万有引力を着想させるきっかけとなったあの果実と同じように、彼女も智慧とともに没落した。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる(ヨハネ福音書12:24)」。結果、彼女が落ちた先の地上には豊かな実りが、虹野やエルザをはじめとする、もはや楽園に安住せず、智慧を磨き、倨傲とともに笑うface it with a grin人間たちが集うことになったのです。『アイカツ!』の通夜wakeと氷上スミレの目覚めwakeは同じところにあった。虹野やエルザの航跡wakeを追ってきた我々は、ついに没落した先祖をこの卓に迎えることができたようです。礼を失さぬよう、恭しく挨拶を。『いばらの女王』の後裔たちの闘争の歴史が刻まれたこの石版tafelは、いつしか馥郁たる香り漂う食卓tafelとなり、この2年間の収穫物を分けあって食べるtafel用意が整ったようです。ひとつひとつ味わいながら、彼女らの仕事を回顧するとしましょう。

 虹野ゆめ、彼女の返済への愚直がなければ、この時空には何の価値も刻まれることがなかったでしょう。桜庭ローラ、彼女の弛まぬ闘争の意志がなければ、七倉小春、彼女の寡黙な鍛錬とはにかみがちな贈与がなければ、早乙女あこ、彼女の自らを偽らぬ気高さ真摯さがなければ、香澄真昼、彼女のあながちさと誠実さがなければ、白銀リリィ、彼女の頑なな自制と澄明な知性がなければ、二階堂ゆず、彼女の屈託ない助け合いの嗅覚がなければ、香澄夜空、彼女の謎めいて綽々たる微笑がなければ、如月ツバサ、この世には複数の道行があることを誰よりも知っている彼女の暗夜行路がなければ、白鳥ひめ、彼女の いやし手の慈愛とつかい手の為合しあいがなければ、双葉アリア、彼女の面妖なる玉虫色の玲瓏がなければ、花園きらら、祖国を捨てた黒羊の俊足と燔祭がなければ、騎咲レイ、騎士の狂おしい雄弁と虎口がなければ、そしてエルザ フォルテ、天より堕ちたる金星的人物の明視と盲目がなければ、ここには何の創造も闘争も刻まれないまま終わっていたのかもしれないのです。この「本当の闇」を黙々と照らす、「孤独をおそれない」星々の勢揃い。一体どうして星々のことを忘れられるでしょうか。1べての夢の始まりを、2熟な勝負師ふたりの邂逅を、3なる道を選んだ人の立ち姿を、4織が解れないようにと説く人の指先を、5ズムの何たるかを心得ている人の嗅覚を、6乱がちな少女のキャットファイトを「7性的であれ」の煽りに乗らなかった明晰を8笑を分け与える彼女のはにかみを9に寿がれた初めての勝負を10方に立ち込める夢の明と暗を11間でしかない彼女の堅肉を12とつじゃない道で暖めた家族との交わりを13睡のように穏やかな夢の劇を14-15と憎の組手を時間と16間を隔てたふたりの共闘を17きなだけではいけないと気付いた彼女の転機を18に兆した翳りを劇場版に結ばれたふたりの幼すぎる愛を19に別たれたふたりの束の間の逢瀬を20分の仕事で借りを返す彼女の不抜を21ちへの焦りが刻んだ生傷を22如意をいやす人の慈仁を23涼にただよう秋の気配を24実と花々を摘む菓子職人の手つきを25で練り上げた舞台の絢爛を26-27造者たちの忌憚なき問答を28聖節に兆す別れの予感を29い方を選び取る勝負師の懊悩を30たれた彼女らの赤らな傷口を31-32言わず肩を寄せる人々の友愛を33離れた歌い手との闘魂伝承を34とつのやりかたしか知らない彼女の強ちな訓育を35通せない昏みを歩いた族長の背中を36を歌で捩じ伏せた彼女の破顔を37済の道行きの初まりを38冬に控えた闘いの予感を39物の青い薔薇を40慮会釈なしの劇の心得を41空を制した姉との懸隔を42の温もりを持ち寄ったふたりの交わりを43とつの成果として練り上げられた人間の格調を44めいて色めくふたりの交合を45つての自分を前にして切った仁義を46友にさえ見せること能わない涙を47ちと敗けと離別と伝承を48心と無心とが轟く賭場を49見てないで夢になった人の独立不覊を50年を通して贈られたものへの返済を51爛たる金星が告げる過剰の闘争を52上で捏ねられた者の意地と余裕を53想を待つ人々の時間の過ぎ行きを「54の夢」を見たふたりの不意の共作を55上の訓育との初めての接触を56きの舞台を降りた人の雌伏を57はや時間に揺るがされない彼女の自制を58星的人物の明視を59いやしで交わされた贈与を60えかかった魂への偶然の再点火を61音を出さないふたりの不器用なすれちがいを62分の経歴の清算と新たな勝負師への伝承を63の劇場からの覚醒を64沢を知らない彼女の孤独を65-66とプライド掛け粋を競うスタイルの闘争を67-68の憩いを69間と鍛錬を経て閉じゆく傷口を72かな宵に光を灯し愛しき教えを抱くふたりの関係を73和を和する人々の寄り添いを74陸之交を75立てる針を恐れなくなった妹の誕生祝いを76-77命のリズムで歌い踊る屈託なき面妖を78当の闇を79長どうしの意地の張り合いを80歴の騎士の狂った雄弁を81陽の沈黙に対する焦りを82邦の香り立つ長閑な厨房を83台で交わされた競演の滋味を84と猫の素直な交わりを85くまで光を贈り続ける人の愚直を86いかけてくる光のリレーを87祭にただよう別れの気配を88ブスティテュート即興劇を89の前の静けさを90羊たちの燔祭を91固と奔放の師弟関係を92代を経て変わりゆく歌の現在形を93とりではなく皆のために身を捧げた族長代理の虎口を94過儀礼を経て変異する家族関係を95一の太陽の没落と96数の太陽系の出現を97まだ途上にある混血航路を98る者と移らない者それぞれの旅路を99っておきの切り札による皆既日食を100世界に蒔かれた闘争と混血と返礼の種を、どうして忘れることができるでしょうか。重力のあるところで二本足で立ち、病み衰える身体を引き受け、正円の体系に閉じることなく螺旋の先を走り続けた彼女らの、神聖なる創造性に触れながら人間であることをやめなかった彼女らの生き様を、どうして忘れることができるでしょうか。

「この映画が最も素晴らしいのは、神域にあろうと、人間は人間だ。という当たり前の事を、雄弁に描いている事です」。これは菊地成孔氏による『This Is It』評であり、MJに寄せられた悼辞のなかで最も美しいもののひとつですが、『アイカツスターズ!』に対する筆者の思いもこれにぴったり重なります。「異常なまでの過小評価に曝されながら最期まで自分自身の藝能に取り組み続けたMJの姿が『アイカツスターズ!』の博徒たちにぴったり重なる」とまで言ってしまえば、これは言い過ぎ、には、ならないでしょう。『アイカツスターズ!』で描かれてきたのは、有限者が藝能を武器にして重力に挑み続ける、その試みの執拗な持続だったのですから。生前のMJを嘲笑しておきながら「彼は偉大なアーティストだった」と没後に掌を返しはじめた恥知らずな人間たちが大勢いたように、『アイカツスターズ!』も何らかのきっかけで「再評価」の機運が持ち上がるのかもしれません、が、そんなのはどうでもいいことです。100話のエピソードを経てこの卓に辿り着くことができた、我々の幸いに乾杯しましょう。同時に、いつまでもこの卓でおしゃべりを続けていたいという誘惑を振り切り、そろそろ帰り支度を整えねばなりません。前作『アイカツ!』と同じ過ちを繰り返すつもりはありません。この陽気な通夜がいつしか馴れ合いに変わらないうちに、受け取るべきものを受け取り、帰路につくとしましょう。我々には仕事があるのですから。

・AIKATSU SCARS!(結論にかえて)

『アイカツ!』と『アイカツスターズ!』のロゴを見較べるだけで、両作の質的違いはすでに明白です。前者は少女趣味のピンク一色で、画線の先端はすべて丸まっています。鋭利さのかけらもない、まるで怪我をしないように配慮された裁縫道具のような意匠です。
 しかし後者の画線は刃物のように鋭く終筆されており、寒色の影が差しています。そう、モノをつくるには、布を裁ち糸で縫うには、像を彫るには字を書くには、材料を切り刻み料理を誂えるには、鋭く研がれた道具stilusが必要不可欠なのです。「ネガティブな出来事も起こりえる」要素を切り捨てて「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」の甘い夢に酔うことにした『アイカツ!』は、同時に鋭く研がれた道具stilusまでをも手放したことに気付けなかったのです。そんな真綿のような世界で、一体何が創れるというのでしょう。自分の指が傷つくことを恐れて一体どうして道具の使い方を学べるというのでしょうか。我々は「きず」と「つくる」を同じ「創」の字で表現する言語圏に属しています。きずから目を背けた『アイカツ!』が剰余享楽にまみれた無残な試みに終わってしまったことと、きずをおそれなかった『アイカツスターズ!』が市場原理をはるかに超えた創造性を活写できたことは、すべて当然の結果なのです。

 それにしても、なんと、なんと精巧に研がれた道具でしょうか。『アイカツスターズ!』、2年を経て研ぎ澄まされたこの料理道具は、あまりに鋭利すぎて凶器のようにも見えます。この鋭い切っ先に戦慄しながらも「もしかしたら、これを使えばあの難物を捌くことができるのでは」と自分の厨房に持ち帰るか、それともママにおいしいごはんを作ってもらうだけの老いた幼児のまま泣きわめき続けるかは、その人の自由です。しかし、我々は料理を続けるでしょう。あの食卓に並べられた美事な逸品の数々を、ご馳走になってしまったのですから。厨房の仕事で返さねばなりません。ともすれば、これから偶然に居合わせた仕事場で同じ銘が刻まれた包丁を使っていることに気付いて、微笑を交わすことになるかもしれません。ひとまわり歳下の料理人が自分より巧く包丁を使っているのを見ることにもなるでしょう(『アイカツスターズ!』、この恐るべき作品が「こども向け」として作られていたことには何度驚いても足りません)。それらすべての道行きを歓ぶことができるでしょう。きずとともにつくっていた彼女たち、「孤独をおそれない女の子」たちがそうしていたように。
 さあ、仕事です。


西暦2023年2月13日に付された後註:
 筆者の場合、自分の仕事場に向かった結果がχορόςコロスParvāneである。


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