東京でも、〆には、やっぱり、~義元大蔵氏株式会社ディーズプランニング 代表取締役 義元大蔵氏
株式会社ディーズプランニング 代表取締役 義元大蔵氏
沖縄県那覇市生まれ。高校卒業後、渡米し、ロサンゼルスにある語学学校、短期大学に進む。28歳で帰国。尊敬する経営者の下で、様々な事業を経験。40歳で独立し、2015年「やっぱりステーキ」1号店を出店する。
那覇高校卒。
あと少し中心から離れたら、市が町になるところだった、と義元氏は笑う。義元氏が、那覇市のはずれの、小さな町に生まれたのは1975年。かろうじて、那覇市だった。
父親はサラリーマン、母親は薬剤師。母方の祖父がユニークな人で、沖縄にパチンコを持ち込んだ人だという。伝統的な祭を復活したことでも知られているらしい。
「100歳以上の長生きで、私が中学3年の時、祖父は70歳だったんですが、腕相撲をしてもぜんぜん勝てなかった」。剛毅な方だったんだろう。「祖父以外は、ふつうの家庭だと思います」。
頭の良さは、誰から譲り受けたんだろうか。
「けっこう遊んだりもしていたんですが、勉強もちゃんとしていて、進学校だった那覇高校に進みます」。偏差値が68というから、かなり高い。
「高校では弓道です。友達に誘われて始めるんですが、県の大会で個人優勝もしています。あのスポーツは集中力がカギなんです。だから、精神的なところは育まれたと思います」。
勉強や、スポーツだけではない。
「若気の至りで、いろいろとやった」と笑う。
しかし、高校時代を通して言いつづけた「渡米」に関しては、若気の至りでもなんでもなかったようだ。
高校卒、渡米する。
「高校1年の時には、もう決めていました。進学した時から『進路相談はいらない』って言っていたほどです」。
米軍がいる沖縄という街が、義元氏をアメリカに向かわせたのだろうか。
「どうでしょうか。日本がつまらない、それだけだったかもしれませんね。日本でどこに行くかっていえば、みんな『東京』っていうでしょ。私は、ぜんぜん惹かれないです。これは、昔からです」。
友達と親交を深めるなかで、準備も着々と進めた。今なら言ってもいいだろう。授業をサボって、バイトに向かうため、迎えのトラックに乗り込んだこともある。
「結局、アメリカに行くのは卒業した年の8月です。バイトで貯めた50万円が軍資金。語学学校に行き、そのあと短大に進みます。もちろん最初はボディランゲージだけが頼りです。今は、しゃべれますよ。結局、10年いましたから」。
9.11が、帰国のきっかけになったそう。
「あれがなければ、今もまだアメリカにいるかもしれないですね」。
帰国は28歳の時。
「次は東南アジアかな、と思っていました。向こうで義兄といっしょに事業を興す話もあったので」。
駆け抜けた10年。
義元氏に分岐点をひとつ挙げてくれるようにお願いすると、「渡米したことはもちろんですが、28歳の時でしょうか」、という返答。帰国したあと、東南アジアに向かうはずだったが、けっきょく日本にとどまり、28歳の時にある人物に出会う。その人物との出会いが、分岐点というわけだ。
「破天荒な人でしたね。キミならできるだろうって、コンサルの仕事をいきなり任されます。業績はけっして悪くなかったんですが、その人が体調を崩されたこともあって、その人と交友のあった、安里さんという社長さんが、うちの会社を買われます」。
義元氏が、安里さんというのは、現シンバホールディングス株式会社、会長の安里繁信氏のこと。安里氏の下で義元氏は、様々な事業にタッチする。
「今思えば、働きすぎですね。40数時間、寝なかったこともあるくらいです。カフェの立ち上げもしましたし、国内だけじゃなく、国際物流もやりました。広告代理店もしたし、結局7社くらいは、グループの会社を転々としました。私の異動は、トップダウンで直接降りてくるんです。だから、現場の上司が知らないこともあって/笑」。
その後、インターネットの仕事もし、最終的には、年商30億円程度の食品会社に、ヘッドハンティングされている。ポストは営業部長。
食品の仕入れのノウハウを知れたことは大きい。
「40歳で独立するので、ほぼ12年くらいですね。いろんな仕事をさせていただきました。すべていい経験です」。
どんな環境でも、事業でも精一杯、仕事をした。広告代理店の時は、30半ばにして飛び込みも経験している。むろん、この間、様々なネットワークも出来上がる。
「限界なんて考えなかった。だからこそ、力になったんでしょうね」。
やるといえば、やる。シンプルな発想は、強い。しかも、義元氏はぶれない。そこがいい。
24席が、1日に30回転する。
「バカじゃないの」。
3坪6席、カウンターだけのステーキショップをオープンするといった時の、周りの声をまとめれば、こうなる。ショップといっても、通路の一角。家賃3万2400円は破格だが、そのぶんロケーションに難ありだ。
しかし、最初に答えを示すと、この小さなショップが、すぐに評判になり、月商280万円、日商15万円をたたき出す。
3坪で、280万円? 経営論的にみて、まったく無茶苦茶な話だ。
「読み通りと言いたいですが、予想以上の結果です/笑。当時から営業時間は長く、朝11時~翌朝5時まで。2号店をオープンしたのは半年後です」。
こちらが、さらに無茶苦茶とか?
「そうですね。1号店に比べ初期投資はかけましたが、それでも800万円です。20坪、24席。ある程度、いけると思っていましたが、3ヵ月くらい経った頃の週末には、日商が90万円ちかくになっていました。その月の月商は1700万円です」。
24席が1日に30回転したという。ふつうあり得ない。
「ひみつは、営業時間です。1号店より長く、朝7時まで営業していましたから」。
朝にステーキですか?
「そうです。バーとかで朝まで飲んで、ステーキで〆る。これが、〆にステーキって文化です」。
〆にステーキ? 〆はラーメンではないのか。
「石垣島や宮古島の文化です。沖縄本島に、そういう習慣ははっきりとはなかったようですが、今ではちゃんと定着しています/笑」。
いうまでもなく、「やっぱりステーキ」の仕業、つまり、義元氏の仕掛けである。
やっぱり、ステーキ?
ところで、ステーキといえば「いきなりステーキ」との対比が、否応なく行われる。いろいろなメディアで、義元氏は、ネーミングに関して「模倣ではない」と言っている。つまり、パクリじゃない、と。
その点についても、ストレートに聞いてみた。
「〆は何にする? これが、ネーミングの生みの親です」。
どういうことだろう? ひょっとして、さっきの、〆にステーキ、つまり、〆は、やっぱり?
「そうなんです/笑。『〆は何にする?』『やっぱりステーキだろ』。ここから生まれたネーミングなんです」。
それで、全てがつながった。
そもそも、〆にステーキと聞いても、ステーキショップが朝7時まで営業することに違和感があったが、このネーミングの経緯を聞いて、逆にしっくりきた。
「ランチはやっぱり」「ディナーはやっぱり」「今宵はやっぱり」、そして、沖縄では、それらと同じように、お酒の〆に、やっぱりステーキなのだ。
そうした文化がある、沖縄じゃないと思いもつかないネーミング。
この言葉以外ない、というネーミングだ。
それは、ともかく、そんな「やっぱり」がついに東京へ、というニュースが流れた。
ローコストのつよみ。
「いまFC含め、51店舗あるんですが、エリアで言えば、東京進出はようやくって感じですね。23区内がいいんでしょうが、そうガツガツも行きたくないんで、吉祥寺にしました。フィーリングです。できれば、この街にも根付いていきたいですね」。
吉祥寺店は、ペット同伴OKで、シャワーまでついているという。やるからには、きっちりと、それも義元流。もちろん、東京でも〆にステーキとなればいい。
ちなみに、新型コロナウイルスの影響下にあっても、出店の計画が進んでいるらしい。「うちのスタイルだからできる」と、義元氏はインタビューのなかで、はじめてトーンをあげ、語る。
「そもそも初期投資がかからない。オペレーションもシンプル。スタッフの数もいらない。調理も」。
溶岩石プレートですね?
「そうです。『シンプル』というのは、うちの経営のベースにあって。プロの料理人がいなくても、できる。セルフという発想も取り入れている。だから、フランチャイズにも、いい。だから、影響も受けていない。実際、クローズした店もないですから」。
そんな状況の義元氏に、いまはどう映るのだろう?
「言い方が難しいですが、チャンスということもできるんだと思います。ただ、このピンチに便乗して、出店していくかというと、私にはそういう発想はないですね」。
いかにも義元氏らしい。ちなみに、今年で5周年だが、はやくも2名が独立し、やっぱりステーキを経営している。今年は、さすがに無理というが、賞与も毎年、年3回支給してきた。この従業員への目線もまた、義元氏らしいといえば、らしいのではないか。
そんな従業員に、つぎの質問を投げかけたらどうなるだろう?とふと、思った。「ついていくなら、やっぱり?」。彼、彼女らは、そのあと、どんな言葉をつづけるんだろうか。
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