人の成長なくして、事業の拡大、隆盛はない。
神奈川県横浜市出身。大手飲料メーカーを経て、父親が経営する中華料理店に勤める。多店舗展開することでバラついていた“味”の均一化をはかるためセントラルキッチンを立ち上げる。父から受け継いだ2店舗を皮切りに餃子の専門店を作ることを決意。2007年の『横浜蒸籠』開業から『大連餃子基地DALIAN』へと発展。現在、11店舗とレストラン、肉まん専門店などを運営。
料理は人を和ませる。“料理人が料理を提供するだけではなく、料理が並んだテーブルを前にして交流できる場を作りたい”という思いを込め命名した『アジアンテイブル』。同社を率いるのが代表取締役・東山周平氏だ。台湾出身の祖父。中華料理店を営んでいた父親。英語が堪能で新しいことに常に果敢に挑む母親。祖父、親たちの“血”や“魂”を受け継ぎ、2007年に『横浜蒸籠』開業してから今日までの歩みを訊かせていただいた。
“台湾の血”が、母親から受け継いだ“SPRITS”がボクを作った。
「ハマっ子です。横浜の港北区、菊名で生まれました。いわゆる“団塊ジュニア”と呼ばれる世代ですね。203万人生まれたそうですから……」と東山氏。また、この世代は、バブル崩壊後で、別名“就職氷河期世代”とも“ロストジェネレーション(ロスジェネ)世代”とも呼ばれている。
東山氏が現在あるのは、祖父、父親、母親の影響が色濃く感じられる。
「祖父が台湾出身で、戦前、日本に来て戦中は山形に疎開するなど戦禍を避け、戦後に横浜で事業をはじめました。父も祖父から事業を継ぎ、飲食業を営んでいましたが、ボクは次男でしたから、その後、つまり父の後を継ぐ予定はありませんでした」と語るように、将来、飲食業に就く考えも予定もなかった。
「別に押し付けられたわけではないんでしょうが、“台湾の血”が流れているという潜在的な意識はあったと思います」。
「母親は野心家ではありませんが、向上心や商魂などが旺盛の女性でした。英語が得意で同時通訳をしていたこともありました。その母が横須賀の米軍基地、海軍基地ですけど、基地内にフードコート・マネジメントの会社を立ち上げたり、1970年の大阪万博で、当時は大学生でしたがアルバイトで通訳を務めたり、コンパニオンを派遣する人材派遣会社を作ったりと……。接客が好きでしたし、端的にいって“熱いSPIRITS”がほとばしり出るような活動的な女性でしたですね」。
こうした環境で育まれた東山氏。大学卒業後は、大手飲料メーカーに就職した。当時の新卒就職率が下降し始める頃、“就職氷河期前夜”だった。
「当時、兄が父親の仕事を手伝い、引き継いでいましたから、父のところで働こうとは、あまり、と言うよりほとんど意識していませんでした」と語る会社勤めをしていた東山氏だが、ある意識が胸中に生まれていた。
「一生、サラリーマンはないな、と考えはじめていました」。
“味の均一化”には、セントラルキッチンが必要だ。
「漠然とですが、サラリーマンとして生涯を送ることに疑念を抱きはじめた時期、具体的に会社を辞めて何かをすると考えていたわけではありませんでしたが、多店舗展開していた父親から『事業を手伝わないか』と誘われたんです」。
―すでに、お兄さんが手伝っていたのでは?
「ええ。仕事がダブらないように、兄とは違う領域、商品開発などの仕事がメインでした。そのうえ、父、兄と意見交換をする機会増え、ある意味でシナジー効果を生み出すことに繋がりましたが、一方で疑問が生じたんです」。
―その疑問とは、どんな疑問ですか?
「疑問というほどではないのかも知れませんが、同じブランドでレシピがあるのに店舗によって味が違っていて違和感を覚えました。そこで、“味の均一化”のためにセントラルキッチンが必要だという結論に達しました」。
こうして考え、結論をもとに、2003年11月、30歳のときに居抜き物件を見つけ、“クオリティを保つ”“スケールメリットを生かす”“商品開発”の三つを担うセントラルキッチンを立ち上げた。
「元々、独立志向があったのでセントラルキッチンを立ち上げる2年前、2001年11月に、現在の前身、有限会社アジアンテイブルを設立していましたから、セントラルキッチンの立ち上げと運営に取り組みました」。
―困難なことはなかったですか?
「困難というほどのことではないのですが、バラバラだった商品、味を均一化することが目的でしたが正直にいうと大変でしたね。一方で、二つほど、変化もありました」。
―その変化とは?
「一つは、父が運営した店舗~10店舗くらいだったと思いますが~の中から不採算店だった2店舗を買い取り、わたしが運営することになったことです。この2店舗がわたしが最初に経営した店舗なんです。両方とも中華料理店でしたが……」。
―もう一つは?
「お客様の目線に立って考えたとき、味の標準化の重要性を感じ、より一層そこにフォーカスすることができたんです」。
目標が定まった。『大連餃子基地DALIAN』への歩みがはじまった。2007年のことだった。
既成概念を棄て縛られないから、斬新な店舗が生まれる。
「最初から『大連餃子基地DALIAN』だったわけではありません。2007年10月、千代田区有楽町駅前の複合施設イトシアに『横浜蒸籠』をオープンしたのがはじまりです。以後、2008年8月には『南国食堂首里』『餃子屋台』(両店とも横浜駅西口・横浜モアーズ)を、2009年6月、港区麻布十番に『大連餃子基地DALIAN』を開業しました。ここで初めて『大連餃子基地DALIAN』というブランド名が生まれたんです」。
『大連餃子基地DALIAN』誕生以後、既存の『横浜蒸籠』『南国食堂首里』『餃子屋台』の個々の店名を全店『大連餃子基地DALIAN』に変更した。
ここで、ちょっと面白いことに気がつく。それは出店場所が、いわゆる旧来型の繁華街や飲食店が乱立するようなターミナル駅周辺ではなく、麻布十番や恵比寿、日本橋、アークヒルズ(港区六本木)など、なんらかの要因で話題になる街、半商業地で半住宅地という街で店内はどこもモダンな空間であることだ。さらには2023年4月、北海道日本ハムファイターズのフランチャイズとして話題になった開閉式ドーム球場、北海道北広島市のエスコンフィールド北海道に出店するなど、時代の変化を先取りしたような場所が目立つ。
一方で2021年12月には手のひらサイズでカラフルな肉まんが人気になった肉まん専門店『TOKYO PAO』を千代田区有楽町・イトシアにオープン。2017年8月には厳選した国産雛鳥を使用した料理を提供する『ROTISSERIE★BLUE』を渋谷区恵比寿・ガーデンプレイスに。2023年3月には鉄板中華酒場『ニューASIA13』、隠れ家的バー『ニューBOTTLE』をオープンするなど、新しい価値観を備えたモダン、オシャレな空間の店舗拡大をはかっている。
“商い”は“魂”あってこそ。金儲けが目的ではない。
2020年から流行し出した新型コロナ。翌2021年には、蔓延を防ぐための緊急事態宣言や不要不急の外出自粛要請。その結果、個人生活はもとよりサービス業、とりわけ飲食業は時短営業や休業要請などによって売上が大幅に減少するなど、大きなダメージを受けた。
―コロナ時に影響はありましたか?
「多少のダメージはありましたが、デリバリー需要が飛躍的に増えました。かなり大きな売上を達成することができました」と東山氏。
当時ニュース番組では、客足が遠のき閑古鳥が鳴いている繁華街の飲食店やサラリーマン街の飲食店の状況が、毎日毎日、映し出されていた。こうした状況下、売上を確保できたのはなぜなのか。飽くまで推測でしかないが、店舗の立地条件に恵まれたのではないだろうかと思う。つまり、繁華街ではなく住宅街やオフィス街に隣接していたことがデリバリーニーズを喚起し、幸いしたような気がする。推測だが……。
「祖父が興し父が運営していた中華料理店、餃子屋さんですが、その餃子をもっと美味しくできないかと考えたことから、多くの方々にアドバイスをいただいて形になったのが『大連餃子基地DALIAN』です」。
現在、『大連餃子基地DALIAN』が11店舗、『TOKYO PAO』『ROTISSERIE★BLUE』『ニューASIA13』『ニューBOTTLE』各1店舗、合計15店舗を運営している東山氏は、こう語る。
「“商い”って金儲けではないと思います。自身のポリシーとして、祖父が台湾人だというルーツを大切に、大事にしたいと……。そのうえで、自分にしかできない、語れないことをしたいですね」。
―今後は、どのようにお考えですか?
「スタッフの知恵、従業員のアイディアに耳を傾け、集約し未知の領域、分野にTRYし続けようと考えています。楽しいときも、苦しいときも、辛いときも共に歩き、喜びを分かち合う。それを支え合うのは“ヒト”です。人が成長することが成果に直結すると思っています」。
そして「地域に愛される企業でありたいし、そうなることを目標にしています」と続けた。
若い頃、サーフィンやサッカーに興じ、スキーを楽しんだという東山氏。大海原でBig Waveを捉え波に乗る。グリーンのピッチ上を華麗なドリブルで駆け抜ける。一条の痕跡すらないゲレンデを美しいシュプールを描いて滑り降りる。東山氏とその仲間たちが描く明日が楽しみだ。
主な業態
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