色々な話しのまとめ。

理解力が低いと思われる方、「理解しない」のではなく、むしろ「理解力の範囲で理解」するので、表面的な理解に留まったり、引っかけに掛かったり、曲解に疑問を持たずに止まる。そのうえで、その理解を元に少ないサンプルで強固な心証を形成していく。ここを軌道修正するのは、なかなかコストが高い。

一方、理解力が高い方は、新しい概念に触れたときの反応が全然違う。理解のためにペースが落ちるのではなく、むしろ質問を通じて前進していく感じ。おそらく、既存の知識から類例かメタ概念を引っ張りだしてきて、差分や境界を探ることで理解してる。理解力があるから元々の知識も多く、相乗効果。

想像するに、こうした未知の知識や概念を体得するスキルは、今までいかにそうした壁を越えてきたかという経験に拠る所が大きい。新しい知識を得ようと壁に挑む人にとって、世界はどんどん広がる。「それは何の役に立つの?」という知識を身につけた人ほど、実は「役に立つ知識」を身につけるのも早い。

大学生の時に歴史を勉強しようと思い立ち、本を色々読んだものの全然覚えられず悩んでいたら、父から「覚えなくていい。学ぶことの目的は覚えることじゃない。"学んだ時に何を考えたか" が大切だ」と言われた。当時は全くピンと来ず、知識として定着しないと意味ないじゃないかと反発心もあった。

大人になってアウトプットの機会が増えると、やっとその意味が分かり始めた。誰かに何かのメリットをプレゼンするとか、我が子に何かを教えるといった場面での頭の動きの滑らかさ、使う言葉の豊かさ、思考の奥行きのようなものに「これまでどれだけ色々なことを考えてきたか」は現れる。

これははっきり言える。

「勉強」は習う内容の理解って側面もあるけど、習い方学び方の習得って側面もある。頑張り方&頑張るポイントの見定め方の練習、とも。

「学校の勉強の意味」の話はよく出ても、そこまでが触れられることは滅多に無いんだよなー。

「勉強できなくても音楽とかスポーツならできる子もいるんでしょ?」と言われるが、経験上、いない。

ここまで勉強のできない子は認知力も身体能力も低いし、自分で練習ができないし、根性もない。「ダメな奴は何やらせてもダメ」という厳しい現実がある 。


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