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【教育:論考】自己啓発本で、自分のしてきたことを自慢気に書いてあるのは、本の厚さを厚くするためであり、そういう本にはだいたい中身はない。

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 タイトルは「名著を読む重要性」「自己啓発本は時代の流れにより数年で古くなる」「古典的な名著は変わらない」「自己啓発本で、自分のしてきたことを自慢気に書いてあるのは、本の厚さを厚くするためであり、そういう本にはだいたい中身はない」のなかのできれば最後にしようかなと考えています。
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 タイトル予告☆☆☆のなかのコラムで、言いたいことは全て伝えてしまったような気がする。

 例えばビジネス関連の自己啓発本で、「例えば私の携わった○○というプロジェクトは……」または「こういうビジネスモデルをしている○○という人がいる。それは……」など、自己啓発本で、このような書き方をしている本は、無駄というか、本を売るために本の厚さを厚くしているに過ぎない、ということを発見した。ビジネス関連の自己啓発本は結構読む、というか、友人との会話が「おすすめの本を教えてくれ」くらいしかないので、自己啓発書を結構読むようになった。

 自分のビジネスモデルを声高々に宣伝したところで、読者にはなんの有益な情報も与えることはない。特に、テレビなんかに出ている、タレント気取りの人物が、おそらくゴーストライターを雇って、口述筆記で書かせ、自分の知名度を武器にして本を執筆しているような本は、最近感じたことだが、自分の実績ばかりを載せている傾向が強いように思える。

 自分が哲学科にいて、古典的な哲学書ばかりを読み解いていかなければいけない時期が大半で、古典的な名著とも言われる本ばかり読んでいたからわかるが、古典的な本は日本語が難しい場合が多い。しかし、現代まで残っているのは、普遍的な価値の高い主張をしていて、ある程度世界的な評価を受けた著者が書いたものがほとんどだ。とはいえ、例えばエマニュエル・カントの「純粋理性批判」などの認識論などは、現代の脳科学からしたら「どうとでもない本」として扱われる可能性が高いことも認識しておかなければならないが。

 学問は発展する。誰かが基礎を作り、その後、その学問は派閥を超えながら進化していく。現代の私たちは、その「進化しつくしてしまった学問」を中学・高校辺りで学習する。誰かが基礎を作っているのだが、その基礎を知らないがために、勉強が苦しくなって仕方が無くなる。全てが暗記になるからだ。

 別に私は文部科学省の人間でもないので、日本の義務教育がどのようなカリキュラム、目的で教え込まれているかは知らないが、学問の基礎の名著を直接読むと「なんだ、簡単なことじゃん」となることが大いにある。しかし、残念ながら、日本で学問の基礎となるような、様々な学者の全集を中高生が目にすることはまず無く、大学の図書館で借りて、ようやく理解することがある。そして、その時には、学問的に中高生に戻ることは、もちろん年齢的にも不可能なこととなってしまう。

 別に、ただの一日本人で、教育機関に携わったことも無ければ、教育委員会に所属しているわけでもないが、全国の中学・高校の図書館にも、大学図書館レベルの、古典的名著の全集だけでもいいからおいてほしいものだと考える。「デジタル化、デジタル化」と呼ばれる今なら、古典的名著の全集を中学・高校の図書館でも読めるようにしてほしい、というのが私の願いだ。地域では、学問を教えるのは教師だけで、図書館は貧弱した図書館が多いことが、中学・高校の課題の一つだと思う。地域によって学力の差ができるだけ縮まる努力を、文部科学省や地方の教育委員会には実施してほしいと願っている。

 

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