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人は鬱状態だから引きこもるのではなく、一か所に引きこもり続けるから鬱状態になってしまうという説

 端的に言えば精神の調子が悪い。
 自由なんだと思う。自由になったのだと思う。今まで実家に帰って束縛された人生を4年以上歩んできたわけだが、働きはじめたりして、自由な選択ができるようになると、また、統合失調症発症時の時のように馬鹿な行動に出てはしないかと思うと、精神の調子が途端に悪くなる。

 フランス語の単語帳などを買ったが、果たして何で買ったのかがてんで見当がつかない。目的無く動くことができる分、精神の躁鬱の幅が大きくなってしまう。

 ブログに関しても同じことが言えて、例えば、過去に書いた記事をnoteに移植した際に、具体的には言えないが「これを載せるのはちょっとまずいのではないのか」と今なら客観的に見て分かることがある。書いた当時は主観的な見方しかできずに、書いてもいいか、なんて思ったりしたのだが、「これを載せるのはちょっとまずいのではないか」と思った記事が、過去最高に♡を貰えたりしてげんなりとしてしまう状態に陥ってしまった。

 過去の自分なら、もしくは、これから先の精神状態が更に悪化した際の自分なら、noteのアカウント自体を消して、問題を問題にしないように心がけてしまい、全てを消してしまうだろう。結局続けた意味は無意味と化し、また振出しに戻る。カクヨムでブログを本格的に始めたのは3月のことであって、ようやく3ヶ月を迎えようとしているが、書けば書くほど、自分への重責が増えていくのではないか。拡散されればされるほど、想定外の不運に見舞われてしまうのではないか。そう思うと、また、カクヨムを消してしまいたくなる。

 なにせ、統合失調症になってから三年半は「何もかもを諦めろ」の精神で、ブログを書くことなど、したけど、一回アカウントごと消してしまい、死んだように生きていた時期が続いたのだ。継続は力なり、というけれど、継続に危険が伴うこともまた事実なのだろうと思われる。

 ところで、なぜ精神状態が悪いと自覚したかというと、昨日録画にとっておいた「ハリーポッターと死の秘宝PART1」を観ながら、人が魔法により簡単に死んでいくシーンや、あり得ないことが次々と起こり、アクション要素が強く、簡単に言えば観るに耐えることができなくなってしまい、途中で観るのをやめた。主人公たちばかりが運がよく、周囲の人間も都合よく仲間になり、大人が17歳程度の選ばれし少年のために、あれやこれやと力を貸していく。その、無辜な助け合いの精神が今の私の仕事の状態とは全く乖離していて、観るのがつらくなった。

 精神状態が悪い時は外に出て、外の空気でも吸いながら自由に食べたいものを食べ、話したい人と話すのがベストなのだが、なかなかそうもいかない。そういう幸福な人生を歩んでいる人は羨ましく思う。結局、自分は《《ひきこもりは出来ずに、》》どちらかというと外でアクティブに行動するのが楽しい普通の人間のタイプであり、それに逆行して、《《大学時代はひきこもろうとした結果、》》精神状態が悪化したのだと思ってしまう。

 要は普通の人間で、ひきこもってしまったが故に病気になってしまったのだと思う。鬱状態だから引きこもるのではなく、引きこもるから鬱状態になってしまう。精神疾患のパラダイムシフトのような気がするが、多分、私の主張も少しは正しい。

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