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第六章:日本の未来に向けて

*この記事は、約10年ほど前に父が書いた全6章で構成されている原稿を順番に公開しています。

<過去記事>
『日本誕生』 はじめに
第一章 : 倭人の起源 ①
第一章 : 倭人の起源 ②
第二章:中国古代文献に見る①
第二章:中国古代文献に見る②
第二章:中国古代文献に見る北③
第三章:縄文時代の倭人①
第三章:縄文時代の倭人②
第四章:倭国の勢力圏①
第四章:倭国の威勢圏②
第五章:倭国崩壊と日本誕生①
第五章:倭国崩壊と日本誕生②
参考文献・資料

この章においては、二十一世紀の持続可能な文明に必須の精神性である、縄文の叡智、日本文化の根幹に流れる事事無碍法界の境地、華厳の思想について、そして、今世紀における日本文化の重要性について記述したいと思う。

一、日本文化と二十一世紀の世界

仏教研究で名高い、故 鎌田茂雄氏の書いた「禅とは何か」の中に、欧米に「禅」の世界を紹介し広めた事で名高い鈴木大拙氏が、昭和二二~二三年ごろに鎌倉の東慶寺書院で特定の知識人を前に講義をし、華厳の事事無碍法界の話を淡々とした口調で話していたことが記されている。それを末席で聞いていた鎌田氏の記憶に残った鈴木大拙氏の言葉は、「華厳思想というのが次の世界をリードする重要な思想である」というものであった。特定の知識人とは、敗戦で焼け野原となった日本の、復興を牽引するオピニオンリーダーと目される人たちだったのだろうか、鎌倉という土地柄から、そうだったのかも知れない。

華厳の思想とは、日本仏教各宗派の中で重きをなしている華厳経の考え方だ。それは、聖武天皇が全国に国分寺を建て、その総本山として東大寺を位置づけ、東大寺を華厳経学の拠点として、仏教の力によって国を治めて行こうとした、仏教の中心的教えに基づく思想であり、日本文化の根幹を流れる世界観である。そう言う意味では、鈴木大拙氏の言葉は「日本文化が次の世界をリードする重要な要素である」と置き換えることができるのだろう。

二、大乗仏教の捉える宇宙と現実の宇宙

今日、我々の宇宙は、今から一三〇億年前のビッグバンにより発生したと言われている。今や、ビッグバンが事実として認識される程に科学が発達し、我々が中学・高校で習ったニュートン力学の世界が、宇宙という時空間の中の局所的に適用されるローカルな科学理論であった、と言うことが広く認識される世の中になってきた。

ビッグバンは、十のマイナス三十四乗という量子力学で許される理論上最小の短さの、「無」という時間、空間、物質、エネルギーのいずれの値をも観測できない状態から誕生した、と言うことである。

ニュートン力学で記述される世界は、物の状態は客観的に定まっていることが想定されている。物が「ある」か「ない」かの二値論に従って、客観的な実在を想定する決定論的記述となる。こう言う捉え方が、二十世紀終盤まで広く認知された科学的な思考方法、および科学をするに当たっての態度とされていたものである。

量子力学が少しずつ解明してきたビッグバンの瞬間を彩る素粒子、量子、エネルギー、光、などの世界は、対象を「もの」ではなく「状態」の重ね合わせとして記述し、観測によって、一つの状態がある確率で実現してくると認識されているようだ。

また、「もの」の状態は、客観的に定まっているのではなく、観測して初めて定まるもので、「もの」の状態は「ある」と「ない」と「どちらともきまっていない」の三つの状態に区分できると理解されている。「もの」の状態は、ビッグバンの直前の、「あるかないかどちらともきまっていない」「無」の状態として認識できるわけである。

ニュートン力学は、一+一=二の世界だ。しかし、量子力学の世界は一+一=二とならない不確定性の世界である。有機質の物体はもとより、無機質の物体といえども、量子力学や相対性理論の描く宇宙の網の中に、相互に関連しながら存在する「もの」(観測してはじめて定まる「ある」、「ない」、「無」の三相の状態のもの)であるのだ。

<参考>
仏教哲学における「もの」の状況や物事の発生に関する認識は、量子力学とほぼ同じである。

般若心教で記述されているように、「色(存在)」は「空」と異ならない、物事は「縁(状況の関わり、環境条件)」によって現れ出てくるものと捉えている。一つの因子が同じでも、縁の働きにより出現するものはそれぞれに異なってくると達観している。あたかも、観測して初めて定まる量子力学の世界を説明しているかのように。

三、大視野の世界に目覚めた科学

「複雑系の科学」という言葉が日本で話題になったのは、アメリカのサンタフェ研究所の研究内容を、M・ミッチェル・ワールドロップというジャーナリストが著した本、「複雑系」の日本語訳が一九九六年に出版されてからだった。

西洋科学が、「物質(客観的存在物)」として捉えることのできる対象のみを科学の分野だと決めつけていた時代に、西洋科学の一般的手法、・・・それは彼らの宗教的思考によって狭められていたと言うことが出来るかもしれない、・・・から離脱する、当時の彼らの属する社会にあっては勇気のいる革命的な研究に、一九八〇年代半ば、幾人かの米国の科学者が取り組んだことを綴ったものであった。

サンタフェの古い修道院跡に集い、それまでの科学が無視するか、敬遠してきた事象に対する研究に取り組んだこと、また、研究に取り組むこととなった動機や、研究の過程、そして見えてきた新たな科学の概要などを、分かりやすく書いたものであった。

M・ミッチェル・ワールドロップ氏は、サンタフェ研究所が結成された経緯を、およそ次のように書いていた。

『西洋科学では記述できない何かが現実世界には存在する。そこを認識して現実的に対処している日本に、このままではアメリカも遅れをとることになってしまう。
一九八四年、ロスアラモス国立研究所の所長ジョージ・コーワンの呼びかけに応じて、そうした危機感を持った研究者たちがニューメキシコ州のサンタフェに集い、学祭的にこれまでの科学が避けてきた現実の説明できない事象を自由に話し合い、そこにある傾向や法則を探っていこうとするものだった。研究費を集めるのに効果的フレーズは、「日本システムに勝つため」ということであった。』(以上は筆者要約)

サンタフェ研究所が研究した事象を総称して「複雑系」と呼んだ。複雑系は環境に対して常に変化しているという特徴を持っていることから「複雑適応系」とも呼ばれた。また、複雑系とは生命現象全般と捉えることも出来た。
本に書かれた内容は、量子物理学や理論物理学のように難しいものではなく、動物やアリの群れ、組織の活力、信頼や信用、植物の成長、経済活動、気象などの自然の現象の発生と消滅、と言ったものだった。M・ミッチェル・ワールドロップ氏の著書「複雑系」は、文系の者でも理解できる内容となっていた。

一九九二年、米国でこの本が出版されて後、西洋社会に、彼らがこれまで認識してきた以上の大きな世界が広がっているという、世界観の修正の波が、少しずつ広がり始めた。

この地球を含む宇宙は、決定論的に認識するような世界ではなかったのだ。万物は創造主(神)により創られたという意識が、人間をして自然を征服の対象と認識させていたが、人間も自然現象の一つでしかないこと、征服ではなく、互いに作用しあう存在であると認識することが正しいと分かったのだ。また、自然現象は大きな意味の生命現象と理解された。

また一方で、量子力学という、極めて小さな時空内での因子の研究の成果が、宇宙全体の様相を語る重要な鍵を提示し、宇宙全体を「複雑系」と捉えることができることをも、我々に示した。

<参考>
・華厳経の中の一節に「一一の微塵の中に仏国海が安住し、仏雲、が遍く護念し、弥綸して一切を覆う」とあるが、正に極小から極大に広がる時空の世界を、達観したものと感じさせられる。

米国の仏教研究家も次のように述べている。

「仏教が説く世界は、現代の量子物理学や複雑系の科学の理論と整合するもので、他の世界宗教のように科学的に否定される絶対神などの存在しない世界です。このことから、20世紀末には、仏教は科学的思考になじんだ人々に理解されやすいものと評価されるようになりました。」(ブラットリー・K・ホーキンズ著「仏教」より)

現代の最先端科学や、複雑系の科学の手法が、仏教の世界観を理解する道具として役立ち、逆にその結果、仏教の世界が、相当程度の正確さをもって現実の世界と宇宙を、哲学的、形而上的に捉えたものであったと、私たちは知ることが出来るようになった。

従来から抱いてきた世界観が、実は局所的なものでしかなかった事を認めたくない心情の強い人々、特に宗教界においては、「複雑系の科学」を、まやかしとして強く抵抗する傾向がある。複雑系の匂いのする「ダビンチコード」や「アバター」などの映画作品に対して強い批判を浴びせているのが現状である。

しかし、地動説が、宗教界の強いネガティブキャンペーンの中にあっても、大衆に認知されて行った様に、人々は新たな科学が解明した世界を認め、従来の狭い視野から、現実に展開する大きな生命現象から発する、大視野の世界観へと認識を急速に改めて行く事となるだろう。

華厳経の世界に千年以上も浸り、華厳の哲学を文化・民俗の中に落とし込んで来た日本は、二十世紀後半、旧来の西洋思想が行詰った時、複雑系の科学が示す新たな世界がある事を、サンタフェの科学者達に悟らせた。
世界の識者も、華厳の思想が大きな観点に立つもの、普遍的なものの考え方である事が分かって来たのだ。

四、来るべき文明の主流

そうした世界の潮流の中で、日本においては、日本に伝えられてきた華厳の思想によるものの考え方を、有無を言わせず「非科学的」なるものとして、捨て去ろうとする風潮が明治以降根強く存在している。従来の狭い科学的観点を金科玉条とする、明治維新以来の風潮である。この風潮は、前世紀に主流となった文明が咲かせた徒花であったのだ。

江戸時代末、日本を訪れた欧米人の目には、我々が自覚できない日本の素晴らしさが映っていた。日本人が何故自覚できないかと言えば、日本人は、生まれた時からそうした自然環境・思考方法の下にある文明の中で育ったために、それがいかに貴重なものであっても、それらはあたかも空気のごとく、日常の中で感じ取ることのできないものとなっていたのだ。

そうしたものへの欧米人の観察記録を集めて、当時の日本を映し出した、渡辺京二氏の「逝きし世の面影」という著作がある。見直すべき日本が、そこにある。二十一世紀の文明の向かうべき方向がそこから読み取れる事だろう。読者の参考に供すため、少し長くなるが以下に「逝きし世の面影」の一部分を紹介しよう。幕末の三田から王子までの江戸のたたずまいを知る事が出来ると共に、二十一世紀の文明の在り方が見えてくる。

彼は、宿舎の三田大中寺から騎馬で三時間ほどかかって「町の外にでた」と書いている。「われわれが通り抜けたのは見事な公園だったのか、それとも日本の首府の周辺地域は、どこに行ってもここと同じように美しいのだろうか」と、彼は正直な嘆声をあげる。「何と変化に富み、豊かな植物群であろう!」高台に登って茶屋で休息すると、「眼前に突然、魂に焼き付いて一生消えずに残るにちがいない景観が広がった」。
銀色に輝く川や、エメラルドのような緑の稲田や、村々や木立や、波打つ庭園の樹々や、地平線の薄靄などからなるその風景は、「見たまえ、これが江戸だ」というひと言によってしか表せぬ永遠の相に輝いていた。
オールコックが江戸について「ヨーロッパには、これほど多くのまったく独特のすばらしい容貌を見せる首都はない」と述べたことの意味を、ようやく我々は理解する。江戸はパリやローマや、あるいはロンドンやウイーンのような、大廈高楼を連ねた壮麗な都ではなかった。江戸にそういうものを求めた観察者は、残らず深い失望を味わった。江戸の独自性は都市が田園によって浸透されていることにあった。
だから欧米人たちは江戸と郊外の境い目がわからなかったのである。都市はそれと気づかぬうちに田園に移調しているのだった。しかも重要なのは、そのように内包され、あるいはなだらかに移調するが、けっして農村ではなく、あくまで都市のトーンを保っていたという事実だ。オリファントが「文明の様子を失わなかった」と言うのは、そのことを指している。
つまり江戸は「大きな村」なのではなかった。それはユニークな田園都市だった。田園化された都市であると同時に、都市化された田園だった。これは当時、少なくともヨーロッパにも中国にも、あるいはイスラム圏にも存在しない独特な都市のコンセプトだった。
後年、近代化された日本人は、東京を「大きな村」ないし村の集合体として恥じるようになるが、幕末に来訪した欧米人はかえって、この都市コンセプトのユニークさを正確に認識し、感動をかくさなかったのである。すなわち、このような特異な都市のありかたこそ、当時の日本が、世界に対して個性あるメッセージを発信する能力をもつ、一個の文明を築きあげていたことの証明なのだ。

(渡辺京二著「逝きし世の面影」より)

日本では、多次元の複雑なネットワークの網の中にある相互作用の効果的結合は、経験を積んだ匠たちの洞察によって、全体と個の六相円融事事無碍法界の最適解、ないしはそれに近い解に導かれてきたものであった。

今日の日本人に分かりやすい例としては、生産活動という複雑系に対応するための、田口メソッド、QC七つ道具、かんばん方式などの管理手段の開発と、運用の妙味が生み出す効率と品質を挙げる事が出来よう。これらは、それまでの線形的論理を乗り越えた、現実が生み出す触媒作用によって、一+一=二 以上のもの、を効果的に生み出して来た。まさにこれが複雑系の複雑系たる所である。

しかし、日本の言論の風潮(それは相変わらずの文明開化頭からのものであるが)は、匠の持つ「未来を切り開く能力」を軽視しているように見える。遠く神話の時代から神も行う「ものづくり」という、日本に伝わる貴重な精神性をないがしろにしているようだ。「形あるものとして生みだす智力」と言う意味が「ものづくり」という言葉の中に含まれている事に気づかないのであろう。そういう言論は、狭い視野にしか焦点を置かない、前世紀の科学が生んだ徒花で、自然を破壊し人類を破滅に導く道を飾る花となるものだろう。

今や、匠の洞察を、スーパーコンピューターの膨大な計算能力によって、ある程度数学的に捉える事の出来る時代になり、複雑系を、計算で解き明かそうと言う時代となって来ているのだが、匠が持つ変数は、スーパーコンピューターといえども、匠なくして入力できないのが現実だ。

人類の未来を切り開く力は、生命活動の持つ力によってしか生まれてこない。そして、日本が数千年の永きに亘って持ち続けてきた、縄文の叡智、日本文化の根幹に流れる、事事無碍法界の境地、華厳の思想に基づく生命活動によって、この力は、最も効果的に発揮されると考えられるのだ。

この力は、既に前世紀の後半、日本の経済的成功によって、米国の科学者たちが気付いた日本文明と、彼の文明との差を生む源泉と考えて良いだろう。複雑系の思考方法と確定論系の思考方法との差、と言い換えることも出来るだろうか。日本文明の根幹となるものの考え方が、持続可能な文明を支える思考方法として認識されつつあるのだ。

我々は、科学的なものの考え方を行うに当り、事象は多次元の、複雑なネットワークの網の中にある相互作用の結果である事を改めて認識し、それらの効果的結合に焦点を当て、全体と個の六相円融事事無碍法界の最適解を洞察して行くよう、意識的に努力して行かなくてはならない。それが日本を日本たらしめてきた思考方法であり、二十一世紀の人類に必要な思考方法であるからだ。また、そうした洞察に向かう思考方法の学習は、一昔前なら不用であったかも知れないが、今日の若者たちにとっては、意識して学習すべき思考方法であろう。

永い歴史の中で培われた縄文の叡智に発する精神性の貴重さを自覚し、より強固に次代に磨き上げて行かなければならないだろう。それは持続可能な文明構築に必須な、二十一世紀をリードする重要かつ普遍的な科学的思考方法であり、その効果的実践において、日本人一人一人が果たす役割には、誠に大きなものがあると思われるからである。人類の未来は、日本文明の世界化に懸っていると言っても過言ではないだろう。

結び

縄文人たちは、我々が想像する以上に有能な海洋民であった。大海原の海流に乗り、広い範囲の活動領域を開拓し、果敢にかつ逞しく行き来していた。

南米太平洋岸の古代遺跡から、東アジア人にしか寄生していない寄生虫の卵を含んだ人糞が発見されている。古田武彦氏は、そうした南米の地を、魏志倭人伝の中に出てくる黒歯国のある地域と想定している。船行一年の航海の先にある国である。三世紀の倭人が、太平洋の両岸を股にかけ、海流を上手に利用して交易をしている姿が目に浮かぶ。エクアドルのバルビディア遺跡から縄文土器が発掘されても、少しも不思議なことではない。

自然に逆らわず、自然を利して、自然と共に生活する知恵を、日常の暮らしの中に組み入れ磨き上げていた縄文倭人たちが、自然と融合する哲学を育てていた。

北東アジアの古代史、民族のルーツ等に関する真摯な諸研究が、倭人達の広大な活動領域を浮かび上がらせてくれた。それらは、従来の定説を覆すと共に、北東アジアの国々に関する日本書紀の記述の信憑性をも浮かび上がらせた。

本文中の記述には、白川静氏の「殷時代の卜辞を日本語で読める」という事を、ロマンチックに捉えすぎた部分があるが、少なくとも巫祝王の国「殷」と「倭」は、同じエモーションを共有する東夷の一員であった事は間違いなさそうだ。だから大陸に北狄系の王朝が出現した時、彼らと違う自然への祈りの在り方が、九夷たる倭人達をして自らの神話の保存と、自らの精神的独自性の主張に向かわせたのだ。

飛鳥・奈良時代の人たちの、日本文明人としての自尊の念が有り難く思えてくる。万葉集の編纂しかり、日本書紀の編纂しかり、神道と共に大乗仏教の国教化しかり、九夷と見なされた倭人たちの文明の主張や、日本こそが夏華文明の日嗣の王朝と自覚した自尊の念が、これらの文献や行動となって現代に残されたと思って良いだろう。七世紀における「日本誕生」は、現代の世界に貴重な文明圏をもたらすものとなった。

二十一世紀という時代は、日本文明が、即ち複雑系の科学を体現する文明が、世界へ遍く展開される事を必要としているのである。故に今、日本に突きつけられている「円高」は、総ての日本人に向かって、世界に出よ、日本文明の在り様を、行動を以って世界の人々に示せ、と催促している神の意志と受け止めても良いのかも知れない。

大企業も、中小企業も、本社および本社工場等の基幹部分やマザー工場は日本に置くものの、生産現場の哲学・・・・「もの造は人づくり」と言う叡智ある人づくりの日本的在り様、多様性の効果的円融に向けた相互理解と共労・共存の実践等々を、あらゆる営みに普遍し、世界に示すために、どんどん出て行け、「いい加減に目覚めよ日本人!日本文明の世界拡散の秋が来た」、と鼓舞する神の声かも知れない。

地球という複雑系は、人知の及ばない大きな地球意識とでも言うようなものを以って、日本文明を世界規模で必要としているのだ。日本と言う場に居る人間集団が受け継いできた、縄文の暗黙知を世界に伝播させるため、強烈な「円高」をもって否応なしに日本の現場を、世界に押し出そうとしているのだ。自然と調和した永遠の繁栄へ人類を導く担い手として・・・。まさにその秋が来ているという事なのだろう。

またさらに、東日本大震災により日本人全体に生まれたある種の境地、人類の築くべき文明に対する言葉にはならない確たる境地、それを世界に、一人一人の日本人が、それぞれの現場を通じて行動を以って伝えるべきである。そういう神の意思、地球と言う生命体の意思が、生き残っている日本人に働きかけている。そのように理解しても良いのだろう。

それを自覚して世界に出て行こう。
その自覚が、いかなる困難にも立ち向かう力を湧き出させてくれるだろう。

ついこの間まで、「日本の常識は、世界の非常識」と声高に言っていた人々でさえも、その常識が人類の破滅に至る文明のものである事を、遅まきながら認識し始めている。

ともあれ、日本人は日本文明の普遍的価値を自覚して、この時代の要請に自信を持って取り組み、応えていかなければなるまい。華厳の思想の大きな心、真摯な姿勢、人間のより良き未来を生み出す力への信頼、生命への信頼、共存共栄関係にある責任の果たし方など、日本人として、人類として、日本文明の普遍的価値を自覚し、自らの行動の基準に据えて、世界に出て行かなければなるまい。

世界には、向かうべき文明の流れに、頑なに逆らおうとする大きな勢力が、死に物狂いで立ちはだかっている。日本人は、多様性の生み出す、豊かな社会、持続可能な文明を地球上に打ち立てるために、覚悟して立ち向かわねばなるまい。

寛容と忍耐の粘り腰で、六相円融の新世界文明に相応しい場を、もの造、華道、茶道、武道、歌謡、アニメ等あらゆる日本文明の現場を通じて、着実に広めて行かなければなるまい。

平成二十四年八月八日

井上博康
静岡県出身、1948年生 明治大学商学部卒、銀行員、コンサルタントを経て、現在、趣味に生きる自由人。 既著「世界標準は日本モデルだった」

*父が自費出版をした1冊目の本*


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