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第二章:中国古代文献に見る③

*この記事は、約10年ほど前に父が書いた全6章で構成されている原稿を順番に公開しています。

<過去記事>
『日本誕生』 はじめに
第一章 : 倭人の起源 ①
第一章 : 倭人の起源 ②
第二章:中国古代文献に見る①
第二章:中国古代文献に見る②
参考文献・資料

四、百済はどこにあったか

百済は、馬韓の一属邦的存在と伝えられ、また台頭の地は「帯方郡」の一角であったと伝えられている。定説によると、その所在は図3および4に示された位置であった。

図3、4

帯方郡は、後漢の終わり頃、遼東の公孫氏が楽浪郡を制し、さらに遼東半島を手中にして楽浪郡に編入した時、広大化した楽浪二十五県中、南部都尉統括下の六県と新設一県の計七県を楽浪郡から分割して帯方郡として設置したものである。

既に見て来たように楽浪郡は現在の遼寧省東部と吉林省におよぶ領域である。その南部の遼東半島と半島北側境界域にあった地域に、帯方県、列口県、等の7県で構成される帯方郡という領域が生まれた。晋書の記録によれば、帯方郡は公孫度が紀元二〇七年に設置したとなっている(「三国志魏書三十」では公孫度の子、公孫康が設置とある)。

帯方という地は、以前は列口県の中にあったことが「山海経巻十二海内北経」中に「帯方有列口県」と記録されていることで分かる。列口は、遼河・渾河・太子河が合流して楽浪海(渤海)にそそぐ河口北岸にある、現在の営口である。従って、その郡域は遼東半島とその北側境界域周辺となっていたと考えられる。

帯方郡は、後燕の世相武帝の建興十年(紀元三九五年)まで存続し、その時期の郡庁は、遼東半島の渤海に面する「熊岳城」に置かれていたと考えられている。紀元三九五年帯方郡は百済に吸収され消滅する。

「旧唐書」の記録によると、後漢末に遼東に自立した公孫度が、扶余王の子尉仇台に娘を嫁がせ、馬韓五十四ヵ国を統合して尉仇台に統治させ、国名を百済と改めたとある。

百済が馬韓五十四ヵ国の一つであったかどうかは別として、紀元二〇七年、帯方郡が設置された後、公孫度は郡内の馬韓小邑五十四ヵ国を統合して百済とし、娘婿の尉仇台に統治させたという記録は事実と考えて良いだろう。

「梁書巻五十四列伝第四十八」の中に次の記録がある。

【 其国本与句麗在遼東之東、晋世句麗既略有遼東、百済亦拠有遼西・晋平二郡地矣、自置百済郡 】
その国、もと句麗と遼東の東にあり。晋の世、句麗すでに略して遼東を有し、百済もまた、よって遼西・晋平の地を有し、自ら百済郡を置く。

晋の世とは、西晋の武帝から東晋の恭帝の時代で、紀元二六五年から紀元四二〇年の間である。
また、「通典巻百八十辺防一東夷一」の中に

【 百済亦拠有遼西・晋平二郡、今柳城・北平之間 】
百済、また、よって遼西・晋平二郡を有す。今、柳城・北平の間なり。

柳城とは、もと後漢時代の遼西郡西部都尉治の置かれた所で、大凌河中流域右岸に存在したが、西晋の太康二年(紀元281年)その対岸(今の朝陽)に移され、名を「龍城」と改められた所である。

また、北平とは、漢代の「右北平郡」のことで西晋時代に「北平」と改められた所である。所在は現在の河北省唐山市遵化周辺一帯の地区である。

山形氏は、百済は帯方郡に興った国と断定することに異論を持たないが、その領域に関する記録が、遼東半島、はたまた河北省北部から遼西地域をも領有した記録や、隋時代には隋との堺を遼河としていたと考えざるを得ない記録、さらに東は朝鮮半島大同江、白頭山あたりまで拡大していた記録などを指摘し、伸縮激しいこれらの百済の領域に関する記録を挙げて、謎多き国域と記述している。

山形氏は「通典」の引用を「百済亦拠有遼西・晋平二郡、今柳城・北平之間」で留めているが、「通典」は以下のような記録を残している。

【 自晋以後、呑并諸国、據有馬韓故地。其国東西四百里、南北九百里、南接新羅、北拒高麗千餘里、西限大海、處小海之南 】
晋より以後、諸国を併呑し、馬韓の故地に拠りて有る。その国東西に四百里、南北に九百里、南に新羅に接し、北は高句麗を拒むこと千余里、西は大海(黄海)に極まり、小海(楽浪海)の南に居住する。

 「通典」は、唐の代宗大暦元年(紀元七六六年)から徳宗貞元十七年(紀元八〇一年)の三十年余をかけて編纂された歴史書である。従って、この百済の国域の記述は、唐が百済を攻略併呑した時におけるものと考えて良いと思われる。

紀元六六〇年における百済は、西は黄海に臨み、楽浪海(渤海)の南に居住していたということである。即ちその国域は遼東半島の全域、黄海側西端から東に四百里の地が東端としてあり、南に新羅、北に高句麗と国境を接し、国都は渤海側にあって、そこに王が居住していた。その王城は、遼東半島の半ばの北岸に位置する熊岳城と思われる。以前は、帯方郡の郡庁がおかれ、後に、唐が百済占領軍の行政府を置くところである。

また、南北の領域は、遼河下流域を北端として南に九百里と朝鮮半島にまで及び、高句麗との国境は遼河方面から南下し鴨緑江にそって北へと、千余里にわたっていた。

日本書紀に、大化の改新後の孝徳天皇の時、百済からの調が、任那の分について少ない事を咎めて、天皇が詔して宣った言葉の中に「いにしえ・・、なかごろ、任那の国を百済に属させた・・心変わりせずまた来朝せよ。・・」という記録がある。大化の改新は紀元六四五年であるから、この時から見て中ごろの昔とは、恐らく六世紀後半頃であろうか、七世紀には、任那は既に百済に属するものとなっていた事になる

よって、百済の滅亡時における国域は、「通典」の記録を以て、図9で示す領域となる。

図9

五、馬韓、弁韓、辰韓はどこにあったか

「三韓」の所在について、「後漢書巻八十五東夷列伝第七十五」の「韓伝」に以下のように記録されている。

【 韓有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四国、其北与楽浪、南与倭接。辰韓在東,十有二国、其北与濊貊接、弁辰在辰韓之南、亦十有二国、其南与倭接。凡七十八国、伯済是其一国焉。大者萬余戸、小者数千家、各在山海間、地合方四千里、東西以海為限、皆古之辰国也 】 
韓に三種あり、一に馬韓といい、二に辰韓といい、三に弁辰という。馬韓は西にあり五十四国、その北に楽浪、南に倭と接す。辰韓は東にあり、十有二国、その北は濊貊と接す、弁辰は辰韓の南、また十有二国、其の南は倭と接す。およそ七十八国、伯済これその一国か。大きなものは萬余戸、小さいものは数千家、それぞれ山や海の間にある。地あわせて方四千里、東西は海でつきる、皆いにしえの辰国である。

楽浪郡が中国東北地方に存在したことが判明しているので、馬韓が楽浪の南に在ったという事と、公孫氏が帯方郡内の馬韓五十四ヵ国をまとめて百済としたこと、さらにまた唐代に編纂された「通典」に、馬韓の故地に拠りてある百済は、小海の南に居住していると記録されている事などから、馬韓は小海、即ち楽浪海(渤海)の南の遼東半島北岸にあった事となる

その当時、馬韓と弁辰はいずれも南の国境線で倭国と接していたという、「後漢書」韓伝の記録から、遼東半島一帯に倭国が展開していた事が分かるのである。

また、「後漢書」の烏桓鮮卑列伝に、光和元年(紀元一七八年)の冬、現在の中国遼寧省の遼東半島付近まで、勢力を拡大していた烏桓鮮卑の檀石槐が、東の倭人を撃ち、千余家を連れ去り、漁労に従事させたという記録がある。

倭人は漁労に長けた民族として当時の大陸諸族に知られていたようだ。食糧難に陥った烏桓鮮卑には、河の魚を捕る技が無かったので、東隣りの倭人を捕獲し、自領内の河で魚を捕らせ、部族の食糧難を打開したのである。

遼東半島の東の付け根は、朝鮮半島の最北部に当たる鴨緑江の河口である。当時、鴨緑江河口域から遼東半島南岸にかけて、多数の倭人が相当の密度で、邑国を形成していたことを物語る出来事である。この出来事を踏まえれば、遼東半島周辺は、倭人の生活圏として周辺国に認知されていた事が分かる

これまでの中国古典文献の研究結果から、少なくとも紀元一~二世紀において、倭人たちが遼東半島南部を北限として、同半島以南の黄海沿岸に広く展開していたことは、動かし難い事実であったと考えて良いだろう。

では、遼東半島で、三韓と倭国はどのような位置関係で存在していたのだろうか

先ず領域の大きさであるが、山形氏の研究によれば、「漢書」中、初唐の学者・顔師古の注に「規方千里、則四面五百里也」とあり、また、「中国古代史」という書物の中で、「方四千里はすなわち四面で二千里なり」と記載されている故、方四千里とは周囲一巡した距離数が二千里となる、ということである。

漢の一里はおよそ375mであったとあるから、周囲およそ750Kmの地域であったことになる。また、三韓は東西が海でつきる形で存在したということであるから、三韓の位置関係の記録から、西に馬韓が渤海に面し、東に辰韓、弁辰が黄海に面し、馬韓、弁辰の南に倭国領域が存在するような配置となる。

以上の条件を満たす遼東半島における三韓と倭国の位置関係は、図10に示すような位置関係であったと想像される

図10
遼東半島における三韓と倭の位置関係

魏志韓伝では、辰韓、弁辰は雑居し、倭人や韓人、濊人が鉄の採取にやってくると記録されている。相当数の倭人が居住していたと想像される。因みに山形氏の三韓の地は図11のようになっている。

遼東半島における三韓と倭の位置関係(山形氏の考え)

本書では、「後漢書」の記録、「東西は海でつきる」を尊重し、図10のように考えたい

六、新羅はどこにあったか

従来の定説では、新羅は斯盧と呼ばれる辰韓の一邑国が成長して新羅となったと伝えられている(「三国史記」中の「新羅本紀」)。また所在は、図4の位置とされていた。

これを、新説に当てはめると、紀元一~二世紀、辰韓は遼東半島にあったことが判明したのであるから、新羅の前身である斯盧は遼東半島にあったことになる。

しかし一方で、日本書紀の崇神天皇六五年(紀元前三二年)の項に、「任那(大加羅)の国が朝貢、その国は筑紫を去ること二千余里。北のかた海を隔てて、鶏林(新羅)の西南にある。」と、新羅の位置が任那の北東と記録されている。任那は、崇神天皇の時代まで「大加羅」と言っていたが、次の垂仁天皇が、同天皇二年、崇神天皇の大和名「御間城」を国の名前とするようにと言い渡したため、その後「任那」と呼ばれるようになった。

日本書紀編纂時は八世紀の初めであるから、一里は現在の4Kmではなく、唐の一里と同じ約400mと考えられる。筑紫から二千余里は、筑紫から800Km余離れた場所となり、それは朝鮮半島北部の大同江から清川江あたりの地域となる。従って、日本書紀に記された鶏林(新羅)は、任那の北東に位置した地域であるから、朝鮮半島最北部の日本海側となる。(下記図参照)

山形氏が調べた中国史書古典文献においては、新羅の発祥の地について「高句麗の東」「漢の楽浪郡の地」「高句麗の東南」と記載されていて、楽浪郡の南西に当たる帯方郡といった記述はなかった。

従来の定説では、高句麗が朝鮮半島の北半分を占めていたとされていたため、高句麗の東南ないし高句麗の東は、朝鮮半島の東南部を指し示すものとされていた

だがそれは、朝鮮半島に古朝鮮が在ったことを前提として、前漢の武帝が古朝鮮を滅ぼしそこに楽浪郡など四郡を置いたという記録をたよりに、それら4郡を朝鮮半島内に推量により、配置したものであって、他の複数の中国古代文献の記述、日本書紀の記述をも考慮し、全体の整合性を確認して解を得たものではなかったことが判明している

定説が示す帯方郡や三韓の地は、さらにその推量の上に、楽浪郡の南に、魏志東夷伝などの記録をよりどころとしてそれらの位置を無理矢理想定したものであろう。そのため、従来の定説による高句麗、百済、新羅や三韓の位置は、中国史書古典の記述や、日本書紀の記述と矛盾するものとなってしまっていたのだ。

山形氏の研究によれば、紀元一八八八年には、魏の将軍毌丘倹が記した「丸都紀功の碑」の断片が板石嶺で発見され、遺跡という証拠を伴って、後漢末期における高句麗の都である丸都山城が、中国東北地域板石嶺にあったと判明していた。

紀元三世紀の高句麗は、定説よりずっと北側の中国東北地域に本拠を置いていたことが明らかとなっていたのである。

中国史書古典が「高句麗の東」ないし「高句麗の東南」とする所は、朝鮮半島北東部を指す地域である。この位置は、日本書紀の記録が示す鶏林(新羅)の位置と一致するところである。日本書紀の記述が、中国史書古典や遺跡と整合していた訳だ。

これにより、日本書紀の地理的記述が、正しい記述であったと考えて良い環境が出現した。山形氏の研究の大きな成果である。しかし残念ながら、山形氏は、日本書紀から求められる鶏林の位置について、何も言及していなかった

山形氏は「吉林地誌・鶏林旧聞録」や「欽定満州源流考」の以下のような記録を挙げて、新羅発祥の地を、辰韓の地ではなく、現在の吉林から東の朝鮮半島北東部としている。

【 吉林、确為唐時新羅国之鶏林州、嗣鶏林都督屢次移治。遂同於僑置。又清乾隆帝咏吉林詩伝、作鎮曽聞古、殆即指此。著者終不敢指定也 】
吉林、确べるに唐時の新羅国の鶏林州となる。鶏林都督府は屢次、治を移して嗣ぐ。遂に僑置に同じ。また、清の乾隆帝が吉林を咏める詩に伝く「鎮となすこと曽て古きを聞けり」と、ほとんど即ちここを指す。著者は終にあえて指定せず。

吉林と鶏林は、音が同じで「チーリン」と言い、鶏林は吉林の古名であるとのことである。吉林は漢時代の楽浪郡の地であり、新羅の前身である鶏林は、古朝鮮が滅んだ後、現在の吉林地方に部族集団として国を興し、紀元前一世紀頃には、より良き地を求めてか、又は高句麗など扶余族に圧迫されてか、何らかの理由で吉林地方から南下し朝鮮半島北東部に移動してきたと考えられる。

唐の時代には高句麗は滅び、その後興った渤海も滅んだ。吉林は鶏林州として再び新羅の領土となったものとも考えられる。何れにせよ、鶏林(新羅)は、楽浪郡の北東、吉林から朝鮮半島北東の地に国を興し、朝鮮半島北東部に版図を拡大させたものと考えられる


つづく……

*父が自費出版をした1冊目の本*




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