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第四章:倭国の勢力圏②

*この記事は、約10年ほど前に父が書いた全6章で構成されている原稿を順番に公開しています。

<過去記事>
『日本誕生』 はじめに
第一章 : 倭人の起源 ①
第一章 : 倭人の起源 ②
第二章:中国古代文献に見る①
第二章:中国古代文献に見る②
第二章:中国古代文献に見る北③
第三章:縄文時代の倭人①
第三章:縄文時代の倭人②
第四章:倭国の勢力圏①
参考文献・資料

二、新羅と半島倭人諸国

(一)倭系の国新羅

一般に伝えられている、「新羅は斯盧と呼ばれる辰韓の一邑国が成長して新羅となった」と言う伝承は、十二世紀半ば「三国史記」が編纂される際、韓系の王朝とするため挿入された後付けの説話と考えられる。十二世紀には、既に辰韓がどこに在ったか、半島に興った高麗国において分からなくなっていたのだ。また、以下に記述するように、新羅本紀には、新羅を名乗った王家は倭系であると、読者に容易に推測できるような、さまざまな記録が満載されているのである。

ここでは、中国史書古典と整合する日本書紀(紀元七二〇年完成)の記述を主たる水先案内とし、併せて日本の中世黎明期に当たる時代、紀元一一四五年に高麗国で編纂された「三国史記」中の新羅本紀を手がかりとして、新羅という国の変遷を辿って見ることにする。なお新羅本紀の内容は、室谷克実氏著「日韓がタブーにする半島の歴史」による。

新羅本紀の記録によれば、鶏林(新羅)の基礎づくりには、四代目の王となった、倭人と推測される昔脱解が、大いに貢献したとある。以下の内容の新羅本紀は、新羅王家が倭人の血を引くものであることを強く示唆するものである。

昔脱解は、倭国の東北千里(約400km)にある多婆那国(倭国九州説の場合は丹波の国がぴたりと当てはまる)から新羅の浜に流れ着いた箱の中にあった卵から生まれた。

興味深いことに古代の丹波の国は、ニギハヤヒ(伝大国主命の子)を始祖とする系図を持ち、一説に卑弥呼の出身氏族、と言われる海部氏の勢力下にあった所である。また、紀元八一五年に嵯峨天皇の命により編纂された「新撰姓氏録」によれば、新羅の祖は神武天皇の兄である稲飯命となっている。稲飯命は、日本書紀においては神武東征の時、熊野灘で嵐を鎮めるために海に身を投じたと記述されている人である。

さて、昔脱解は長じて、第二代王の大輔(宰相)となり十四年間、軍事と政治を司った。また第二代王の信認厚く、王の娘を妻とした。王の子息が第三代王となったが、やがて昔脱解に王位を禅譲し身を引いてしまった。その様ないきさつで、昔脱解は第四代王となった(新羅本記によると紀元五六年とのこと)。

王となって九年後、昔脱解は、夜中に林の中で鶏が鳴くのを聞き、翌朝大輔(宰相)の瓠公(彼は倭人であると新羅本紀に記されている)に調べさせると、金の小さな櫃が木の枝に掛かっており、その中に小さな男の子がいた。脱解は、「天が世継ぎをくださった」として、その子を閼智と名付け、その姓を金の櫃にちなみ金とした。またこの慶事を受けて国名を鶏林とした。しかし、閼智は長じて王とはならなかった。第三代王の子が第五代王となって、閼智は大輔(宰相)として国政を司った。

余談だが、閼智は脱解の庶子と容易に推測される。脱解は第二代王の娘を妃としていたが、閼智を何らかの理由で表立って自分の子供と言えない状況にあったのであろう。そこで鶏林の吉事を演出することにより、世継ぎとして育てることを試みたのだ。しかし、見え見えの演出であることから、次の王は先代王の子が継ぎ、実際の政治を閼智が行う形をとらざるを得なかったのだ。

ただ閼智の子孫は、政治勢力としては揺るぎない一族となり、遂には第十七代王から五十二代まで王位を独占する一族となっている。閼智の系統が王となる以前、閼智を手許に置いた後に、正室から生まれたと思われる昔脱解の子孫が、第九代から十二代の王位に、一つ空けて、第十四代から十六代の王位に就いている。

倭人と思われる昔脱解は、王となってから瓠公という倭人を大輔(宰相)として国の経営に当たっていた。新羅本紀では、昔脱解に関する事績が、他の王に比べて多くの紙葉を費やして記述され、実質上の新羅の始祖と言うべき人物として扱われている。昔脱解は、倭国との修交にも努め、王国発展の基礎を固めた。そして昔脱解の子孫が後の新羅を興し、半島を統一していったのである。

このように倭人、倭種が王統となる鶏林(新羅)の国には、領内の多くが倭人であるなど、倭人の王統を受け入れる民族的環境が整っていたと考えざるを得ない。後に鶏林は倭国に臣従する。それは、紀元二〇一年の神功皇后による三韓征伐の時からと、日本書紀に記されている。日本書紀の記述によれば、

「東に昇る日が西に出るのでなかったら、阿利那礼河の水が、逆さまに流れ、河の石が天に上って星となることがないかぎり、春秋の朝貢を欠いたり、馬の梳や鞭の献上を怠ったら天地の神の罰を受けてもいい」

と言って地図や戸籍を封印して差出し、

「内官家として、絶えることなく朝貢いたします」

と誓ったとある。後にしばしば朝貢を怠るのだが、その都度倭国に軍事的な圧迫を受けて朝貢を継続し、白村江の戦いの後も八世紀の半ばごろまで、倭国および国号変更後の日本(以下、大和朝廷と表記する)への臣従の姿勢を示し続けていたのである。

大和朝廷への臣従姿勢を脱却するのは、唐の冊封国として正式に認められてからである。紀元七三五年、高句麗滅亡後の中国東北地方に、急成長した渤海国が、遼東半島から渡海し山東半島まで進出したのに対し、唐が反撃の軍事行動を興した時となる。

その時新羅は、唐の要請に応え南から渤海国に攻撃を加えた。その功績により、新羅は鴨緑江以南の半島の領有を唐に認められ、かつ唐の冊封国となった。その時以降新羅は、大和朝廷への朝貢を続けながらも、大和朝廷への意識を、唐王朝を中心とした中華圏を背景として、対等ないし対等以上のものへと強めて行った。新羅王朝の意識の中には、もともと自らを大国主命の系統と認識した自負があったのかも知れない。

さもなくば、新羅本紀編纂の折、昔脱解の出自をわざわざ倭国の東北千里にある多婆那国から来たと記述する必要はなかった筈である。半島内倭人諸国王に対して、暗に大和朝廷以上の由緒を持つ倭人王家である事を、その当時の倭人の常識によって、容易に判断できる記述を敢えて行ったと解釈すれば、後に半島内諸国を併合する際の名分となり得る。

そのように考えると、合点のいく重要な記述となってくる。この新羅が、大和朝廷への調に不実を繰り返す理由もそこにあったのかも知れない。

唐に安禄山の乱が発生すると、唐の軍事的脅威が小さくなり、唐と大和朝廷による挟撃の危険が解消したと判断したためか、大和朝廷への対等意識が一層露骨な行動となって現れた。紀元七五九年、藤原仲麻呂が新羅の無礼に怒り、新羅征伐の兵の準備をする事態になっている。しかし、この新羅征伐は孝謙上皇が反対して実行されなかった。

藤原仲麻呂が失脚した後、大和朝廷内において、新羅を自己の傘下国として位置付ける意識は、薄くなって行ったようである。その後は、独立した同族国と見なしたようだ。いずれにしても、当時においては、新羅も大和朝廷も、朝鮮半島の倭人各国も、新羅の王家は倭人、倭種の同族王家であると認識していたと知る事ができるのである。

(二)大和朝廷の半島統治崩壊と新羅の半島統一

「新羅王家は倭人・倭種」説を頭の片隅に置いて、新羅が半島において勢力を拡大して行く過程を見て行こう。

鶏林(新羅)の発祥は、楽浪郡から東に張り出した吉林を含む地域であった。(第二章六参照)そこから、鶏林(新羅)は朝鮮半島北部の日本海側に進出していった。

しかし、そこには既に倭人の邑国が割拠していた。倭人を登用し、さらに倭人が主導する政治を行うことで、倭人が住む地域ながら比較的安定した国域を確保し、国造りに励むことができた。紀元前一世紀には、任那(大加羅)の東北にある国として大和朝廷に認識され、紀元三世紀には、北西に扶余族の高句麗、南西に任那(大加羅)、南に卓淳、喙己呑という倭人の国々に接する位置にあった。(図⒚参照)

定説に基づき朝鮮半島東南部に加羅諸国を配した地図から、正しい任那(大加羅)の位置を基準に半島諸国の位置を配置した図19.

大和朝廷は、応神天皇(紀元二七〇年から三一〇年)の時代から朝鮮半島の倭人各国を官家として統治し、各王家に領地を封じ、それぞれの国に、国政の宰相である国守と、軍事を司る行軍元帥を派遣し、これに連なる文官と軍事要員を常駐させていた。各官家国王はそうした政治・軍事組織の上に乗って自己の封土を経営していた。

しかし新羅は、しばしば大和朝廷への無礼を働く事を鑑みると、この倭人国家群とは違って、政治、軍事、いずれも自前で行っていたようにも思われる。もしかすると、例えば、天皇の出雲系(丹波の国)の妃の生んだ皇子が、臣下に降って国守として派遣され、鶏林の国守を世襲し土着して、勢い盛んとなって、王位を禅譲されていたのかも知れない。

それ故に、新羅本紀に、昔脱解の多婆那国からの漂着誕生説話が記され、日本の「新撰姓氏録」にては、新羅の祖は稲飯命(神武天皇の兄:日本書紀)と記されているのかも知れない。そのように考えると、新羅王家が持つ、大和朝廷への複雑な心理と振舞いが、理解できる。

紀元四世紀の半ばになると、北西の高句麗は、公孫氏滅亡後の楽浪郡の大部分を領有して強大化し、新羅にも強い圧力を加えるようになっていた。新羅は神功皇后時代から大和朝廷に臣従を誓っていたが、広開土王碑文から窺われるように、自国領域安堵のためには、高句麗にも臣従の姿勢を示さざるを得なかったようだ。

四世紀末において新羅は、大和朝廷と高句麗の両者に調を納めざるを得ない状況にあったと思われる。広開土王碑文には、高句麗の属民である百残(百済)と新羅が、倭の攻撃を受けて、紀元四世紀末に倭の臣となってしまったと記されている。碑文は、大和朝廷がおそらく、調を怠る新羅に対し、任那を中心とする在半島の官家諸国連合軍を以って、新羅征伐を行った際の記録と思われる。

新羅の救援に出動した高句麗軍と大和朝廷軍との戦いにおいて、任那や加羅(南加羅)軍が高句麗軍に蹴散らされ自国まで追撃を受ける中、半島最南の官家である安羅の軍勢が大活躍し、新羅王都が安羅軍に占領されて、遂に新羅が高句麗から離反してしまったと碑文にある。また、碑文には扶余族の分派である百残(百済)も、紀元三九九年、高句麗との誓いを破って倭の臣となったと記されている。

百済は、先の遼東の覇者公孫氏と共に滅亡の運命を辿ったのだが、神功皇合の時、紀元二四九年、再興の礎となる領地を大和朝廷から拝領して息を吹き返し、それ以来、大和朝廷の藩国として毎年貢物をする旨誓っていた。

紀元五世紀初頭において、半島における大和朝廷の軍事力とその展開力は、半島諸国に対する高句麗の介入を排除する大きな後ろ盾となった。その後、朝鮮半島への高句麗による軍事圧力は弱まり、半島統治は概ね平穏に推移し、時々調を怠る新羅に対し、大和朝廷が軍事的な威圧をする程度であった。新羅は、この威圧に対して善戦し、その力を示しつつ大和朝廷と折り合いをつけていた。

五世紀になると、百残(百済)が、遼東から遼西方面に勢力拡大をはかり、高句麗を脅かすことが、しばしば発生する所となり、高句麗は朝鮮半島よりも、遼東・遼西に拡大する百済への侵攻に矛先を変えていった。(図⒙参照)

その後、高句麗と百済は互いに侵攻戦を繰り返していたが、紀元四七五年、高句麗は遂に百済を滅ぼした。日本書紀によれば、高句麗軍は、百済王の命を奪うと大和朝廷が黙ってはいないだろうと推測し、王とその伴の者達が落ちて行った所を、敢えて攻撃しなかったとある。その後の百済は、前節一の(四)に記した通りだ。

半島の平安が長く続く中で、応神天皇によって整えられた半島官家諸国に対する大和朝廷の統治制度は、六世紀初頭までの二百数十年の間よく保たれ、効果的に機能していた。しかし、継体天皇時代にこれが破られ、崩壊してしまった。

日本書紀を読むと、その発端は武烈天皇の跡継ぎ問題であったと推察される。大伴大連金村が、これまでの皇統嫡流に比較して、殆ど地方豪族と変わらぬ程に遠縁の血の者を天皇と担ぎあげたため、有力豪族間に対立が生じたようだ。この対立の中で、大伴金村は藩国である百済の助勢を取り付けるため、半島の菅家である任那の国守と結託して任那(大加羅)西部四県の百済への割譲を画策し実行した。

この決定は、私利私欲で継体天皇を擁立した大伴金村が、百済からの多額の賄賂によって古よりの神聖な領土の約束を破ってしまったと、当時巷に語られた。。この事件によって、大和朝廷の権威は著しく低下し、それまでの半島菅家諸国王の大和朝廷に対する信頼を、大きく失わせるものとなった。

崇神天皇以来、六百年近く忠誠を尽くして来た倭族王家である任那の領土を、私利私欲の権力闘争の手段として扶余族王家(百済)に割譲するという、古法を破る大失政であった。半島倭人諸国王の大和朝廷への失望は、大きかったものと想像される。中国文献によれば、継体天皇以前の五人の倭王たちは、神聖王殷時代の周の太佰の苗裔と自ら語っていたと言う。そう言う貴き皇統の血から遠く離れた、傍系の天皇を担ぎあげた有力豪族が、私利私欲によって応神天皇以来の半島統治の原則を無視して、大和朝廷の政治を壟断しているのである。

このような状況下で、諸豪族や半島菅家諸国王の大和朝廷への日頃の不満や恨みが、表に出てこない訳がなかった。由緒正しく正義感ある有力豪族は、朝廷の命をまともに受ける気にはならなかっただろう。日本書紀によれば新羅が最もこれを恨んだようである。新羅は、その本紀で、実質的な始祖である昔脱解はニギハヤヒの血筋であると暗示する程、大和朝廷何するものぞ、との気概を持っていた。新羅は、大和朝廷への当てつけで、実力により百済が獲得したと同様の領地拡大に乗り出し、喙己呑と南加羅を軍事攻略して併呑してしまった。

これに対して、件の国政を壟断する大豪族は、新羅を懲罰すべく、新羅征伐の軍を半島に派遣する処置を取った。しかし、新羅、百済及び半島菅家諸国を古来から実務的に統率する一大卒であった筑紫の国造が、新羅や半島菅家諸国王の世論を背景に、腐敗した政権による新羅征伐に異議を唱え、筑紫からの軍船の出航を留める事態が発生した。これが岩井の乱であったと考えられる。

しかし、岩井は大和朝廷によって、終には反逆者として攻め滅ぼされてしまった。腐敗したとは言え、軍事力においては、天皇側近の豪族は強かった。丁度、室町幕府の下における山名宗全のようにである。かなしくも敗者となった岩井について、日本書紀では、新羅からの賄賂により、岩井が軍船を留め、朝廷に反逆したと記されている。しかし、日本書紀の記述の流れは、面白いもので、継体天皇時代の朝廷の腐敗と理不尽、倭国版図内の大混乱が読み取れるようになっているのである。

余談かも知れないが、日本書紀の継体天皇崩御の項には、ある本によると、と天皇崩御の年の異説が付記されている。当時存在した百済本紀の一文を引用し

「その文に言うのに『二十五年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この年高麗はその王、安を弑した。また聞く所によると、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまったと。』これによって言うと辛亥の年は二十五年に当たる。後世、調べ考える人が明らかにするだろう。」

とある。

執筆者は、崩御年の異説紹介を以って、継体天皇治下の倭国の状態が、記述よりも相当混乱した時代であった事と、継体天皇のY染色体が途絶した事を、さりげなく記しているのである。そしてその実態は「後世の人が明らかにするだろう」と結んでいる。

半島官家諸国の意を汲みながら、数百年に亘って統治実務を行って来ていた岩井の滅亡によって、半島菅家諸国王は、大和朝廷への失望と不信の念を一層深めた事であろう。日本書紀によれば、岩井の乱平定後、大和朝廷は半島の混乱を鎮めるため、近江毛野臣を遣わしたとある。しかし、近江毛野臣は腐敗政権に在りがちな権力を乱用するだけの無能力者であった。遂には、近江毛野臣追い出しの為に、任那王が新羅と百済に出兵を求める事態を招いた。

この事件は、「大和朝廷は、当時の人々が考える正義を尺度に、公平な裁きをする公権力としては、頼む事が出来ない政権である」と、任那王が判断したという事を、読者に知らせる記録である。この事件により、任那は一層混乱し、事実上崩壊してしまった。また、卓淳の王は新羅と通じて、進んで新羅の傘下となって行った。

当時の半島諸王家は、新羅王家を倭種の同族であると認識し、百済王家を扶余族と認識していたに違いない。その後生じた百済と各国の土地争いの仲裁裁定における大和朝廷の公平さの欠如、百済への肩入れは、他の半島内小国の中に「大和朝廷頼むに足らず」の不信感として蓄積されていったはずだ。半島官家諸国には、国守や行軍元帥が派遣されているものの、その国守や行軍元帥を始め、彼らと共に派遣されていた官吏でさえ、朝廷のやり方に納得出来なかったようだ。

半島諸国における大和朝廷への信頼は地に落ち、新羅にとっては領土拡大の意図せぬ好環境が出現したのである。その後も新羅は小国を併合して行き、大和朝廷が新羅に任那復興を命じ、元に復すよう指示しても、面従腹背の態度に終始している。

その後、大和朝廷が、百済の主導の下に、半島官家諸国を糾合し新羅に圧力を加えて、任那復興を果たそうとした事により、半島における大和朝廷への求心力は一層無くなってしまった。半島官家諸国の潜在意識には、なんとなくだが、新羅に対する同族意識に基づく、ある種の親近感と、倭種ではない百済王家主導による任那復興に対する反発の様なものがあって、任那復興問題が、半島内で冷めた意識で受け止められていたのである。

日本書紀には、百済が任那復興の半島内調整の主導権を託された事を機に、領土拡大意欲を露わにし、任那復興には努力せず、任那領内に百済の統治組織を広げて行く様子が記されている。大和朝廷から任那復興の催促が来るたびに「各々の状況で難渋しています。さらに努力します」と言う報告を行って、命に従わずに、自己の利益優先の行動をしているのである。

遂には、半島官家主要国である金管(金管加羅とも言う)が、大和朝廷を見限り、自ら進んで新羅に臣従する事態が発生した。半島において新羅の勢力が拡大して行った背景には、半島諸国王の心理に、大和朝廷への失望と、「新羅王家は倭種の同族で、由緒も大和朝廷に劣らぬ王家である」という意識が働いていたと断定しても、差し支えないだろう。

紀元五世紀の後半から六世紀を通じて、大和朝廷は継続して百済への肩入れを行い、百済からの多額の調を享受していた。紀元五六二年、百済と高句麗との戦いの時、大和朝廷は百済に加勢して高句麗の都、平壌を突いて戦勝に酔っていた。しかしその年、安羅も新羅に併合されていた。百済勢力圏下の任那を除く朝鮮半島の大部分が、新羅の傘下になっていたのである。

新羅は、大和朝廷に対しては、自国の調に加えて、併合した国々の分の調も大和朝廷に奉った。そうする事で、大和朝廷との軍事衝突を回避していた。かくして、任那復興を望む大和朝廷の意に反し、六世紀の半ば過ぎには、半島は、任那(大加羅)が実質的に百済に支配され、その他の官家諸国が新羅に帰属した状態となった。(図9参照)

大和朝廷から派遣されている官吏たちも、現地での自己の立場と利益を優先し、時勢の流れの中で、大和朝廷の意向より、目の前の現地での保身を優先して、本来の使命を果さずにいたのである。また大和朝廷側にも、新羅が大和朝廷に各国分の調を奉る限り、その流れを「いまいましいが已む無し」、としていたきらいがある。それを受容する意識の底流には、先にも述べた、新羅王の祖は神武天皇の兄である稲飯命ないしはニギハヤヒの血筋で同族である、との意識が潜んでいたと考えて良いだろう。当時、大和朝廷の軍事力は相当強大で、その優位を維持する限り従来通り新羅を臣従させられる、と言った軍事大国意識も働いていたとも考えられる。

七世紀半ば、大和朝廷内で蘇我氏が排除されたクーデター(大化の改新)が興った。これを機に、それまで僅かながらも大和朝廷を敬う心を残していた新羅と百済両王家の心は、大和朝廷から決定的に離れる所となってしまったと考えられる。新羅は大陸の唐に接近して行き、大和朝廷からの独立と軍事的圧迫に備えようと努めるようになった。百済は大和朝廷への調を勝手に減じた。

紀元六六〇年、新羅の手引きによって、唐が、百済に攻め込み、一挙に滅ぼしてしまった。3年後の大和朝廷による百済再興の対唐戦の際には、新羅は唐に味方して、大和朝廷水軍の敗北を導くことになった。新羅に対する大和朝廷の統治は、全く及ばなくなっていたのだ。大和朝廷は、この敗戦の時、百済再興のために封じるべき領土を、半島内に所有しておらず、反転攻勢のための軍事拠点も無く、最早、百済再興は困難となった。半島に駐在させていた行政官も軍も全面撤退とならざるを得なかった。

唐は百済の都があった渤海沿岸の熊岳(熊津)城に、百済統治の府を置き、百済の統治下に入っていた任那(大加羅)の地を、遼東半島の百済領と共に、唐が治めることとなった。しかし、任那(大加羅)は、地理的に熊岳(熊津)城から遠く離れており、唐による統治は及びにくかったようだ。またその住民は倭種で、潜在的に新羅に親近感を有している。

そんな状況を捉えて、新羅は、唐の統治下となった旧任那(大加羅)の地を、すこしずつ唐からかすめ取って行った。唐からこれを咎められると、謝罪と弁明の使いを唐朝に派遣し、許しを乞うた。そしてまたかすめ取り、これを咎められると、また謝罪と弁明の使いを唐朝に派遣した。この繰り返しで、終には旧任那(大加羅)の地を全て切り取り、実質的に傘下に入れてしまった。

紀元六六八年、唐が高句麗征伐に乗り出すと、新羅は積極的に唐に味方し戦っている。高句麗がこの戦いで滅亡すると、唐は、旧高句麗と旧百済の占領地管理の都督府を、熊岳(熊津)城から、現在の遼寧省北東部にある建安城に移して、全域を統治した。

しかし、新都督府の統治領域は広大で、隅々まで目が届かなかった。またもや新羅は、これを好機と捉え、鴨緑江方面への拡張を図って、かすめ取り戦法を展開して行った。新羅は強かだ。外交的には、大和朝廷にも唐にも貢物を献上し、恭順の姿勢を示しつつ、唐の制度にならって体制を整え、半島内の統治を固めて行った。

紀元六九〇年、唐に女帝武則天による政変が起きると、辺境である中国東北部は、旧高句麗民などによる独立活動が活発になり、渤海国が興った。渤海国は急速に領土を拡大し、南は大同江、西は遼東半島、北は松花江中流域までを領す大版図となった。

渤海国が、遼東半島から海を渡って山東半島に進出する勢いとなったため、唐の討伐する所となり、紀元七三五年、渤海征伐が行われた。この戦いに際し、新羅は唐の要請に応えて参戦し、良く戦い、その功により唐朝から鴨緑江以南の半島全域の領有を認められ、正式に唐の冊封国となった。この時初めて、朝鮮半島全域が新羅王朝の下に統一されたのである。

新羅は、唐の冊封を正式に受けて、大和朝廷傘下から名実ともに離脱する方針を強化させた。大和朝廷に対し、次第に対等ないしそれ以上、という意識を以て振る舞うようになり、紀元七五九年の藤原仲麻呂の怒りを誘い、仲麻呂が新羅征伐の遠征軍編成を試みるに至った。しかし、この計画は上皇の反対により実現しなかった。新羅は、このようにして大和朝廷勢力圏からの離脱を図って行ったのである。

(三)加羅の地の倭人

大和朝廷の半島認識は、藩国である新羅が加羅の地を全て手中にしたというものであっただろう。また、当時の半島の人々や唐王朝は、大和朝廷に対抗しうる倭人・倭種の国が半島に誕生したと理解していたであろう。なにしろ、古より楽浪海中倭人ありとして、帯方東南の大海の島や山は、倭人の地として認識されていたのだから。

日本側から半島を認識する呼称は、古代は加羅または韓、高麗が十世紀に立った後は高麗又は韓、であった。十四世紀に李氏朝鮮が興った後も、江戸時代を通じて日本では、中国を唐、インドを天竺と言う具合に、半島を韓と呼んでいた。江戸時代、朝鮮通信使として幕府に遣わされた李氏朝鮮の製述官が、「なぜ倭人は朝鮮のことを韓と呼ぶのか」、と幕府饗応役に質問した旨、彼の記録に残している。

江戸時代の人々は、韓の地の王朝名をあまり意識しておらず、通信使の江戸への途上の各地で、使節との交流の会において、「韓にては如何に・・・・」と盛んに質問していたのだ。それは、韓の地の人々は倭人という意識によるものであったかもしれない。

何故なら、同族意識は、明治時代になっても日本人の中に強く持たれていたのだから。そして日韓併合の際は、同族であることが政治的にも強調された。第二次大戦後はその反動で、日韓は同族であると言うことが、憚られるようになった。しかし、これまで見て来たように、朝鮮半島の住民のほとんどの者が、倭人の子孫である事には揺るぎがない。

紀元前二世紀に中国東北地方に在った古朝鮮が滅亡して以降、十四世紀末に、明王朝が高麗王朝の纂脱者に朝鮮を名乗らせるまで、千六百年間、北東アジアには朝鮮という名称の国は元より、朝鮮民族と言うものも存在していなかった。朝鮮半島に存在した民族とは、卒本地方を本拠とする高句麗(扶余)からの移民と、朝鮮半島と日本列島を本拠地とする倭人・倭種であった。

紀元十四世紀、(日本では室町幕府の頃)高麗王朝の臣下であった李氏が、実権を握って明に朝貢した時、易姓革命となるため国名を変えるよう明に命じられ、明が決めた国名、「朝鮮」を使用する事になっただけで、古代の朝鮮とは繋がりはない。強いて繋がりありとすれば、箕氏が殷王朝の王族ということで、卒本地方における新倭人の王朝であったということと、李氏が治める朝鮮半島の民が倭種であるという所であろうか。歴史家はこれを李氏朝鮮と呼んで箕氏朝鮮とは区別している。古朝鮮を思って、中国王朝史家が想起する地域は、遼東の東部及び吉林省南部に当たる、楽浪の卒本地方であった。

従って、現在、鴨緑江以南の半島に生活している人々は、一まとめに朝鮮民族と呼ばれているが、その大多数の人々は間違いなく、隼人、熊襲、アイヌ、琉球人と同じく、縄文倭人に先祖を同じくする、倭人・倭種の人たちであると言う事が出来る。朝鮮民族という呼称も、隼人、熊襲、アイヌ、などの呼称と同じく、倭人・倭種の一つの地域集団に対する呼称と、理解して良いのである。強いて言えば、小数の高句麗(扶余)族と大多数の倭人・倭種の混血によって生まれた人々を言う、と言う事であろうか。

つづく……

*父が自費出版をした1冊目の本*



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