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第三章:縄文時代の倭人②

*この記事は、約10年ほど前に父が書いた全6章で構成されている原稿を順番に公開しています。

<過去記事>
『日本誕生』 はじめに
第一章 : 倭人の起源 ①
第一章 : 倭人の起源 ②
第二章:中国古代文献に見る①
第二章:中国古代文献に見る②
第二章:中国古代文献に見る③
第三章:縄文時代の倭人①
参考文献・資料

三、朝鮮半島から山東半島そして黄河へ

日本海への暖流の流入は、八千年前から徐々に始まり、かつての日本海湖南西部沿岸一帯に二千~三千年の歳月をかけて、大きな植生の変化をもたらした。ウルム氷期最盛期以降五千年前まで、人類の気配を感じさせなかった朝鮮半島にも、五千年前の新石器時代の遺跡がようやく現れてくる。

六千年前の縄文文化の最盛期は、ウルム氷期後の温暖化のピークに当たり、豊富な食糧状態を背景として日本列島の人口は相当増加していたと思われる。人口膨張した縄文人達は、暖流が洗うようになった朝鮮半島の黄海沿いに北上し、遼東半島、山東半島、そして黄河河口域へと、得意な海洋航海術を使って進出していった。

縄文人の列島外への民族移動は、六千五百年前の喜界カルデラの大爆発や五千五百年前の池田湖カルデラ爆発によって一層促進されたかもしれない。それまでの豊かな生活基盤を大爆発によって棄損された南九州の縄文人達は、多くの者が新天地を求めて、陸路または海路を北進あるいは西進した事だろう。

朝鮮半島における、一万年前から五千年前の、無人地帯の様相が一転して、五千年前頃からの遺跡がにぎやかに発掘されるのも、こうした状況下の民族移動によるものと思われる。四千二百年前から約二百年間続いた寒冷化によって、日本列島内の民族南下、また、日本海沿岸や九州方面の縄文人の邑から、新天地である東支那海沿岸部への移住がさらに促進されたと思われる。

黄河下流域から次第に中流域へと生活圏を広げ、その地に殷が成立したのは、先の寒冷化の後の小康期間が約二百年程続いた後の、再寒冷化の時期に当る三千六百年前頃と言われる。勿論、日本列島各地には、各々の地の食糧供給力に見合う人数は、残留していた。

縄文人たちは、この寒冷化による食糧難という問題を、なじんだ土地にいて食糧を奪い合う戦いをするのではなく、進んで新天地を求めて旅立つという方法で解決していたのだ。海洋民でもあった彼らは、東支那海沿岸部を含む広い世界を交易によって知っていたのだ。

(参考)
Y染色体D系ハプログループの日本列島内頻度の分布状態は下表の通り。

D系統の中でもD2は、日本列島に特異の もので、上表はD2の分布。  
Gm標識遺伝子の北方系標識遺伝子が北と南で高く出ていた事に相対応して、D系の 頻度も、九州・中国・四国地方より箱根以北と北琉球で高いものとなっている。
「DNAでたどる日本人10万年の旅」  崎谷満 著 より

おそらくY染色体D系を中心とした健丈な若者たちは、天変地変や気候変動による食糧不足の困難に対し、何万年もの昔から率先して、新天地開拓に旅立つ事を以って対処して来、それが習わしとして定着していたのだと思われる。

古代北東アジアに、同一の基礎体験をもつ、同一の原初的宗教、信仰というようなものが見られるのは、縄文人が日本列島で数千年にわたる営みをした後、気候変動等によって移住可能な地域へ拡散していったことに、その源があるということである。

五千年前の朝鮮半島、中国大陸の河北、黄河河口域、山東半島の沿岸部あたりは、未だ現生人類の気配が希薄な地域だった。広大な大地に入植したD系の縄文人たちは、平和裏に入植し、多数派を形成し、後に南方からその地にたどりついたY染色体O系の男達と融合し、新たな社会を作り上げたと思われる。そして、およそ四千年前頃には、縄文人がそれらの地域に展開するピークを迎えたと思われる。

三千六百年前、夷羿の伝説が生まれる天候異変が生じた。その伝説とは、「それまでかわるがわる地上を照らしていた十個の太陽が、一度に出現し、地上の民が苦しんだ。この状況を見て、天上の帝俊が、民の苦しみを収めるよう夷羿を地上に遣わし、夷羿が九個の太陽を射落とし、太陽を一つにした。」とするものである。

太陽とは、各部族のまつりごとを仕切る巫祝王のことであろう。これは、地球規模の天候異変により、黄河流域においても自然環境が厳しくなり、従来からのまつりごと催行の部族間輪番関係に亀裂が生じ、その混乱の中から一つの部族の下にまつりごとが統一され、他の部族はそのまつりごとに従属する集団となっていったことを表す伝説と考えられる。

統一巫祝王と成り得るのは、危機に瀕した縄文人のネットワークを束ねる力と能力を備えた部族でなければならない。それは、各地の情報に明るく、日頃から各部族から信用され調整力に長けた部族に落ち着いたことであろう。つまりは、各地の事情を理解し、それぞれの過不足を補う交易に携わる能力を持ち、信頼される有力な部族ということになったと思われる。実際、黄河流域の混乱は「商」と呼ばれる部族によって収められた。その部族は交易に携わる所から「商」と呼ばれていたのだ。中国大陸史では、商は「殷」とも呼ばれる。

伝説の他の九つの太陽(巫祝王)は一つの太陽「商」の仕切るまつりごとの下で、従来のネットワークを活かして気候変動の危機に対処して行ったのだ。

その後小康を保った天候が、三千年前、世界的な寒冷化と海面の低下が生じる気候変動をむかえた。この時期、殷が周に滅ぼされ、縄文人の末裔たちは中原から四散撤退して、前章で明らかとなった倭人領域が形づくられ、その後も大差なく存続して、松本秀雄氏が明らかにしたGm標識遺伝子の分布状態となったと推察される。

北方系Gm標識遺伝子の分布傾斜と、もやもや病原因遺伝子の特定変異の分布の傾斜に見られるように、大陸に渡った縄文倭人と混血の新倭人の一部は、大陸に居残り漢民族に同化した。朝鮮半島に逃れた新倭人達は、以前から居た縄文倭人と共に倭国の藩国を形成し、八世紀に至って列島から完全に離反し、唐の冊封国新羅を形成した。

日本列島においては、殷の滅亡、長江方面の呉の滅亡等々の、大陸の混乱を避けて引き上げて来た新倭人の末裔達の刺激を受けて、弥生文化が芽生え、弥生文化のイニシアチブの下で、縄文倭人の末裔たちは、国を統合していった

Gm遺伝子やY染色体ハプログループの分布、中国古代文献と日本書紀による極東地図を俯瞰すると、そのような縄文人の民族としての拡張と分散・収斂の歴史が見えてくるのである。

自然と調和した縄文文明

縄文時代の研究者が表す、縄文人の築いた文明に対する賞賛と感嘆は、一様に、彼ら縄文人が、大自然と命の尊さを深く見つめていたと観察されることに対してである。

「縄文人は決して単なる狩猟採集民ではなく、少なくとも植物に関しては集落周辺において明瞭に資源管理を行って、それを柔軟に活用していた。」(縄文人の植物利用)

遺跡からの発掘物を通して観察される縄文文明は、「驚くべきことに、縄文人たちは、栗林、栃の木、漆、など身近な森林資源を管理しながら、持続可能な生活環境を作り上げていた。」というものであった。多様な植物の栽培管理を行い、年間を通じて食料を確保し、衣類やカゴなどの生活必需品の材料を整え、高い技術をもって加工し、豊かな生活を営んでいた

また、縄文の遺跡からは戦いの道具が発掘されていない。縄文の人々は戦争という殺し合いをしていなかったようだ。日本が、世界で唯一つの、幾つものY染色体ハプログループが併存する地域と成りえたのは、縄文人の自然観、世界観の下に築かれた、戦いをしない文明の中にあったがためと言うことができるのだろう。

二十一世紀初頭まで世界をリードしてきた近代文明は、牧畜農耕文明の発展型であったと言われる。縄文文明とは違った自然との接し方であるところの、自然征服型の生活資源確保の営みである。それは、自然を人にとって単なる利用の対象と考える文明であった

こういう精神世界では、他部族も征服の対象となってしまった。それがため、日本以外の地域においては、一地域一つまたは二つのY染色体ハプログループしか残存しない世界となっていた。自然征服型の近代文明は、二十世紀の終わりに至って、自然界と人類との、持続可能な生存方法を見出さねば破滅に至ると思い知らされている。この状況を思えば、縄文文明とは何と素晴らしい文明であったことか、という驚嘆である。

縄文時代の終わり頃に相当する三千年前頃に始まった、古代ギリシャのミュケナイ文明、またそれを継ぐギリシャ文明の聖地であるアポロン崇拝の中心都市、デルファイを訪れた若狭水月湖から古代年代標準「年縞」を割り出した安田喜徳氏は次のように記述している。

縄文時代の数ある遺物のなかで、ないものがある。それは、人殺しの道具、である。古代ギリシャにおける最大の聖地、デルフィの博物館に展示されていたのは、青銅の甲冑や楯、さらには剣など、人殺しの道具ばかりであった。聖なるデルフィの神殿に、人々は戦争の必勝祈願をし、武器を奉納したのだ。
(中略)
これに対し、福井県若狭町の若狭三方縄文博物館に展示されている鳥浜貝塚の遺物のなかには、狩りの道具はあっても、人殺しの道具はひとつも見当たらない。これは若狭町の若狭三方縄文博物館に限ったことではなく、日本全国の縄文時代の遺物を見ても同様だ。

自然界との持続可能な共存生活様式は、他部族との共存生活様式をも生み出し、戦争という暴力的略奪経済を生じさせなかったようだ


つづく……

*父が自費出版をした1冊目の本*




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