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第三章:縄文時代の倭人①

*この記事は、約10年ほど前に父が書いた全6章で構成されている原稿を順番に公開しています。

<過去記事>
『日本誕生』 はじめに
第一章 : 倭人の起源 ①
第一章 : 倭人の起源 ②
第二章:中国古代文献に見る①
第二章:中国古代文献に見る②
第二章:中国古代文献に見る③
参考文献・資料

一、日本列島形成前後

約七万年前、現生人類がアフリカを出て世界に拡散し始めた頃から、ウルム氷期は徐々に進行し、約二万年前から一万八千年前の最盛期には、海水面は現在の海水面から百メートル~百四十メートルも低くなって、日本列島と大陸はつながった状態にあった

この時期、現在の日本列島に、旧石器文化を持った現生人類が渡って来た。(図12参照)彼らは、南下するマンモスゾウや、野牛、ナキウサギ、シマリス等のいわゆるマンモス動物群を追ってやって来た。そして後の縄文倭人を形成していった

図12 二万年前~一万八千年前の日本列島 北海道、サハリン、シベリアと陸続きになっていた。 「日本列島のおいたち=古地理図鑑」湊正雄監修より

この地には、ウルム氷期以前に、陸地を東進して渡って来ていたナウマンゾウ、オオツノシカ等が、寒冷化に適応して棲息していたといわれる。旧石器時代の現生人類にとって、豊かな動植物の宝庫であったことだろう。本州、北海道、サハリン、シベリアと、陸続きになっていた日本列島は、その後、約一万年前のウルム氷期の終る頃、陸地を覆う氷河の融解による海面上昇によって、大陸と分離した。

二万年前~一万八千年前の日本海は、対馬と朝鮮半島の間が、瀬戸内海程の幅で隔てられていたと考えられている。そして日本海は、未だ太平洋の暖流、黒潮が流入していない湖であった。北側を陸地によって囲まれた日本海湖に、周囲から流入した河川の水が満杯となり、朝鮮半島と対馬の間をゆっくりと流れて、大河のごとく東支那海にそそいでいたのだ。  

日本海湖の中西部の湖水は、太陽に温められて湖内暖流として北へ回流し、北海道、サハリン沿岸に西岸海洋性気候を作り出していた。西岸海洋性気候下の北海道、サハリンの平地は、動植物の豊かな棲息地域となっていたと考えられる。

日本列島には、氷河の痕跡であるカール地形やU字谷は、日本アルプスや日高山脈など、限られた地域にしか見つかっていない。それは先に述べた地理的条件の上に、太平洋側には黒潮が列島に沿って北上していたためと、日本海湖の東北側列島陸地一帯は、日本海湖南側の温められた表層湖水が地球の自転の力と偏西風の影響を受けて北上し、現在のヨーロッパ西岸、フランスからスカンジナビア半島中南部のような西岸海洋性気候をもたらしていたため、と考えられる。

サハリンと大陸との陸橋を渡って、約三万年前に現在の日本列島地域に渡って来たと考えられている現生人類にとって、この地は生活しやすい所であったはずだ。

一方、シベリアの南、アムール川の南岸地域は、冬には厚い積雪があり、夏には永久凍土が融解して泥沼となる広大な湿地帯であったと考えられる。これが北方系モンゴロイドの移動経路を制約し、第一章に見られるGm標識遺伝子の流れを形作る原因となったのだろう。

約二万年前、現生人類は細石刃という、極めて細く薄い石器を考案した。骨や角を加工して作った軸に溝を掘り、その溝に細石刃をカミソリの刃のように埋め込んで、鋭利な槍や刀とするのであるが、この細石刃の製作技法の一つは、「湧別技法」と呼ばれ、シベリアと日本列島に広く分布していた。

北海道の白滝・幌加沢遺跡は、一万七千年前の黒曜石採石・加工場遺跡であるが、ここで採石された黒曜石塊やその加工品である細石刃が、サハリンおよび北海道対岸のシベリア旧石器遺跡群から多数発見されている。 

旧石器時代の研究者によれば、細石刃だけでなく、日本海湖の西北部側陸地一帯、そこは日本海湖内暖流の北上ルート沿いに当たり、南西部内陸地域より温暖であったと思われるが、その沿海州一帯の旧石器群と、日本側の旧石器群は、出土物を見る限り、同形および同系のものであり、両地域が同一文化圏に属し、ほぼ同じ変遷を遂げていたと判断するに足る客観的証拠が、必要十分な状態で揃っているとの事である。

大陸から、日本海湖の東側陸地に移動して来た縄文倭人の先祖達は、移動後も、出身地及び移動経路地域と、密接な交流を保っていたと言うことである。この交流は、一万数千年後の、奥州藤原氏の時代まで引き継がれていたと思われる。

縄文時代を旧石器時代と区別するものは、「土器の使用」であると言われる。日本の遺跡で、最古の土器が発見されたのは、青森県蟹田町大平山元遺跡で、一万六千五百年前の無紋土器であった。シベリアで、ほぼ同じ時代の無紋土器が発見されていることから、日本海湖を挟む日本・沿海州文化圏においては、この頃から縄文時代が始まったと言って良いだろう。

縄文時代の人々は、親子孫の三世代程度を最小単位として一つの家に住み、親戚縁者を最小グループとして集住し、これらのグループが幾つか集まって協業する集団(ムラ)を形成していたようだ。こうしたムラは各地に点在し、自然への祈りの行事を一緒に行うネットワークを形成していたと観察されている

土器は、食料の煮炊きや保存用の器として発明され、これが広まる事により食料となる植物の種類を広め、同時に食生活を豊かなものにした。温暖化によって、日本列島が大陸から分離する、今から約一万年前の日本では、北から南までの各地で、縄文土器と磨製石器を使用する集団が、多数の遺跡を残している。

彼らは、古代日本列島を際立たせる、縄文文化の時代を萌芽させ、その発展段階を迎えていた。鹿児島に南下した人々は、上野原遺跡(九千五百年前)に見られるように、以前からの植物性食料の保存技術に加え、連結土坑、炉穴を以って肉の燻製を作る技を開発し、一年を通じた多人数分の食料備蓄を可能として、定住化していた。そこにはムラが形成され、多数の遺構が整然と配置され、人々の協力関係や、暮らしを彩る種々の生活用具が整っていた。例えば、大麻やアカソ、ヒノキ等の植物繊維を使用した敷物や袋、カゴ、魚網などの多様な縄製品、櫛、衣類、各種アクセサリーなどである。

縄文時代の各ムラは、祭礼や交易などを通して、民族ないしは部族としてのネットワークを形成し、協調・連帯を図り、自然との調和を重んじる規範の下に、持続可能な豊かな社会を築いていたのだ。そこには、縄文文明とも言うべき営みがあった。

二、縄文文化の成熟と広い活動範囲

ウルム氷期最盛期以降、温暖化により徐々に進行して来ていた海面上昇が、黒潮が分流して日本海に流入可能となる深さを、、約八千年前に、九州から沖縄および南西諸島に連なる大陸棚上の海にもたらした。日本海への暖流流入により、日本海は今まで以上に豊かな海となって行った。このウルム氷期後の温暖化のピークは六千年前頃と言われている

図13 六千年前の日本列島 「日本列島のおいたち=古地理図鑑」湊正雄監修より

日本列島では、青森県の三内丸山遺跡(約六千年前~四千五百年前)や福井県の鳥浜貝塚(約一万二千年前~五千年前)などに見られるように、六千年前頃には、各地で縄文文化が成熟し、生活や生産に必要な各種道具類が、石器や土器、動物の骨角や植物・木材の高度な加工技術、漆塗りの技術等と共に諸々整えられ、また、天候異変等のリスクをヘッジする多様な食用植物栽培と狩猟・漁労、それによって得た食物の長期保存技術等、安定的な食糧確保態勢の上に、豊かな暮らしが営まれていたことが明らかとなっている

装飾品も漆塗りの櫛、ヒスイや貝製のペンダントやブレスレットなど、その地域に産しない材料による物が各地の遺跡で発見されている。鳥浜貝塚で発見された丸木舟やその製造道具等、縄文人の渡海手段所有の証拠を見るまでもなく、縄文人達は海を使って列島の最北から最南、さらに南の島々、大陸と、現代の我々が驚く程の範囲を、互いの交流圏として活動していたようだ。

北海道礼文島の船泊遺跡(約三千八百年前~三千五百年前)には、サハリンから持ち込まれたと思われるアスファルトが、鏃の接着剤に使われていたり、礼文島近海では生息せず、九州や沖縄でしか採れないイモガイや、南の暖かい海に生息するマクラガイ、タカラガイ等を使用したペンダントやブレスレットが発掘されている。それらを製作していた工房も発掘されている。さらに、ここの工房で製作されたビノスガイ製の貝玉アクセサリーが、ロシアのバイカル湖あたりからも発見されている。

また、赤道の南、パプアニュウギニアの東南に連なるソロモン諸島の最東南の、ニューへブリデス諸島からなるバヌアツ国のエファテ島遺跡から、約五千年前~四千五百年前の、青森県出土の縄文土器と同じ土質の縄文文様の土器が発見され、これが縄文土器と認定されている。また、南米エクアドルのバルディビア遺跡からも縄文土器が発掘されている。

これについて、米国スミソニアン研究所の結論は、「バルディビア土器は縄文文様の特異な仕様である、周囲のアンデス文明自体は、未だ土器文化時代に入っていない状況により、確実に縄文土器の影響を受けて製作されたものと言える。日本側の縄文人がエクアドル「バルビディア島」に交流を持っていた証拠である。」と言うものであった。

好奇心溢れる縄文人達は、海流に乗って、勇敢にも太平洋の南と東の果てまで交流の範囲を広げ、朝鮮半島、遼東半島、山東半島、黄河河口域、揚子江河口域は勿論のこととして、太平洋で活発に活動する海洋民として、太古の昔から海洋国日本のDNAを培っていたようだ

余談だが、鳥浜貝塚や岡山県灘崎町の彦崎貝塚、岡山市の朝寝鼻貝塚などから、熱帯ジャポニカ米のDNAを持つ、約六千年前の稲のプラントオパールが発見されている。稲の原産地であるセレベス島やジャワ島は、南は現在のバヌアツ国まで活動範囲に入れていた縄文人達の海の通り道に当たるため、縄文人達は、六千年前に稲をセレベスやジャワから直接手に入れていた可能性が強い。

セレベス島やジャワ島では、稲のことを現地語で、「Wini」(セレベス島)「Bini」(ジャワ島)と言う。日本語の稲(イネ)は、セレベスやジャワの発音がそのまま伝わって「イネ」となったのであろう。稲が中国から直接、また朝鮮経由で間接的に伝わったのなら、その呼び方は、伝わって来た源地の名詞が使われる筈である。稲のことを長江辺りでは「ダオ」と言い、漢音は「ドウ又はダウ」と言う。日本で稲を「イネ」と訓読みし、「トウ」と音読みするのは、長江周辺から水稲(ダオ)が持ち込まれる前から、日本に稲(イネ)があった事を示すものと考えて良いだろう。


つづく……

*父が自費出版をした1冊目の本*




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