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第四章:倭国の勢力圏①

*この記事は、約10年ほど前に父が書いた全6章で構成されている原稿を順番に公開しています。

<過去記事>
『日本誕生』 はじめに
第一章 : 倭人の起源 ①
第一章 : 倭人の起源 ②
第二章:中国古代文献に見る①
第二章:中国古代文献に見る②
第二章:中国古代文献に見る北③
第三章:縄文時代の倭人①
第三章:縄文時代の倭人②
参考文献・資料

前章まで、縄文倭人が日本列島にいつ頃、どこから来たのか、そしてどう展開したか、またその活動範囲がどこまで及んでいたかを、人のDNA分析、遺跡の出土物等のC⒕法による年代分析、中国史書・古典の文献分析、甲骨文字・卜辞・金文の分析等により、明らかとなった事柄を拠り所に、そこから導かれる仮説を展開して来た。

前章までの記述の中で少なくとも言える事は、日本の義務教育で教わる所の、北東アジアの古代諸国間の地理的配置に関する従来の定説は、中国史書・古典文献や日本書紀に記述されている地理的関係を無視したものであり、明治時代の日本の研究者の思い込みによる、根拠の薄い推論に基づくものであったと言う事である。

そこで、改めてこれまでに明らかになった、古代極東アジア諸国の地理的関係を踏まえて、中国古典と日本書紀の記録を基に、弥生時代の終わりから古墳時代までの、古代倭人たちの版図を見直して見たい

日本書紀において、新羅と百済は倭国の藩国として記述されている。また、中国古典文献から、倭人は前漢が成立する頃、日本列島を本拠地として遼東半島周辺から朝鮮半島一帯に展開していた事が判明している。そこで、この二つの藩国の建国から八世紀までを、倭国の関与と共に記述する事によって、古代倭人の勢力圏の変遷をたどって見ることにする。

一、百済の興亡

(一)公孫子と百済

後漢の末、紀元二〇〇年過ぎ、遼東の地に公孫氏が覇を唱え、広大化した楽浪郡の郡域から、遼東半島とその周辺域を帯方郡として分離し統治した。百済はこの帯方郡に興った。

「旧唐書」の記録には、後漢末に遼東に自立した公孫度が、扶余王の子尉仇台に娘を嫁がせ、紀元二〇七年に設置した帯方郡内の、馬韓五十四ヵ国を統合して統治させ、国名を百済と改めたとある

日本書紀には、それより前の紀元二〇一年、神功皇后が、鶏林(新羅)征伐をした際、鶏林(新羅)の完膚なき敗北を知って、百済(未だ百済と名乗っていない尉仇台の集団)は倭国の藩国になることを、神功皇后に誓ったとの記録がある。

百済と名乗る前の尉仇台の集団は、恐らく鴨緑江中流域にあって、倭国遠征軍の報に接していたのであろう。当時は、倭国および倭人の勢力圏が、朝鮮半島全域および遼東半島黄海沿岸域に及んでいた。(図⒑参照)

遼東半島における三韓と倭の位置関係

倭国は紀元前数百年の昔から、「周」の遼東統治者「燕」に服属する形で、この地域から以東、および東南の全域を生活圏および政治的自立圏として確保していたのだ。

だから、公孫氏が遼東に覇をなした時、倭国大王は従来からの慣行により、遼東の新たな統治者である公孫氏に表敬使を遣わし、公孫氏を通じて後漢王朝への朝貢を継続していたと推察される。後漢末頃の中国古代文献に、倭国大乱終結後の、倭国の朝貢記録がないのは、恐らくは公孫氏が倭国からの貢物を後漢の都に報告せず、私していたのであろう。

魏志の東夷伝と「通典」の記録から判断すれば、帯方郡が設置された当時、遼東半島には、馬韓、弁韓、辰韓、と共に依然として倭人邑国領域がそれらに境界を接し存在していた。

紀元3世紀においても、先述した様に倭国は、春秋戦国時代、周への朝貢を燕を通じて行ったように、周王朝の後継王朝傘下の、遼東の覇者を通じて朝貢を継続していた。そうする事により、遼東半島南部以東の領域を確保していたのだ。従って、公孫氏が尉仇台に馬韓を任せた時から、公孫氏の下で、倭国と百済は、一時的に「御同輩」といった関係になっていたかも知れない。遼東の覇者、公孫氏の姻戚となった尉仇台の百済は、公孫氏に服属する主要国として処遇されていたと考えられる。(図⒕参照)

その後、公孫氏は漢王室の禅譲を受けた魏に反抗して、独立行動に出た。その時、倭国は、周王朝以来連綿と続く中原の王朝の後継者に対する反逆者とは、一線を画し行動を共にしなかったと思われる。

しかし、百済は姻戚国として公孫氏と共に行動せざるを得ない立場にあった。紀元二三八年、魏による遼東平定の折には、百済は公孫氏と共に魏の大軍と対戦し、壊滅的打撃を受けたに相違ない。記録によれば、遼東半島にあった三韓の邑国首長達は、魏の巧みな外交攻勢により、公孫氏から離反し魏に味方したとある。百済の拠って立つ基盤は消滅してしまっていたのだ。百済は、公孫氏と共に滅ぶ事となった。(図⒖参照)

公孫氏滅亡後の、魏による三韓の処遇は、魏と三韓との当初の約束である三韓の独立とは違う帯方郡設置の処置であった。魏によるこの処置に憤激した三韓の邑国王たちは、帯方郡都を襲い、魏に対抗する事となった。しかし、三韓はその時、魏の大反撃を受けて滅亡するのである。

この一連の戦の際、百済兵団の一部を含む相当数の三韓の人々が、一族郎党ともども倭国領内に逃げ込み、国境近辺の倭人邑国各地に亡命し、かなりの混乱を生じさせたと想像される。

(二)神功皇后の百済再興

魏志倭人伝によれば、公孫氏が滅んだ紀元二三八年(日本書紀・神功皇后三八年)、倭国女王の卑弥呼が、遼東の新しい支配者に使いを出し、魏の皇帝への朝貢の意を表した。帯方郡長は、これを都である洛陽へ案内した。魏の明帝は大いに喜び、卑弥呼に対し「汝を親魏倭王に任じ金印・紫綬を与える」と厚遇した。

卑弥呼は、これで遼東の新統治者と中原の新王朝との間で、倭国の外交的地位と遼東半島から東南全域に亘る支配領域を確定させた。そして、国力を養い十分に兵備を整え、混乱する国境地帯と半島の平定時期を窺った

紀元二四九年(神功皇后四九年)、倭国は、十分なる準備と秋を得て、国境地域の混乱の平定と無礼の目立つ鶏林(新羅)征伐、併せて百済再興の遠征軍を半島に遣わした

〈倭国大乱終息のために、部族長たちによって共立された卑弥呼は、神功皇后と目されるが、中国史書古典では、卑弥呼は紀元二四七年に没して、倭国は男王を立てたが治まらず、伊予を以て女王としたとある。日本書紀の編者は、何らかの都合で卑弥呼と伊予を一まとめにして神功皇后としているようである。一つ考えられる理由に、卑弥呼と伊予が神武系ではない天孫族の出身であったという事である。日本書紀にある神武系以外の天孫族には、神武天皇以前に大和地方を開拓し繁栄させたニギハヤヒ(伝大国主命の子)系がある。〉

神功皇合は、四九年前、紀元二〇一年、任那に対し攻撃を繰り返す鶏林(新羅)を懲らしめるため、鶏林(新羅)征伐を行ってきつく臣従を誓わせていた。日本書紀によれば、鶏林(新羅)は降伏し、地図や戸籍を差し出し臣従し、「内官家として、絶えることなく朝貢いたします」と誓った。またこの時、高麗、百済の王も、鶏林の敗北を見て、倭にはとても敵わないと悟り「今後は永く西蕃として朝貢を絶やしません」と誓ったとある。

この時の百済とは、先述の通り、未だ百済と名乗る前の扶余族(尉仇台が率いる扶余族)の集団であった。しかし、公孫氏滅亡後、鶏林(新羅)は、倭国国境地域や楽浪郡との国境地域の混乱に乗じたのか、朝貢を怠り無礼な行動をしてはばからなかった。倭国としては、誓いを破り、無礼な行動をする鶏林(新羅)を、再度征伐する必要があった

鶏林(新羅)征伐に加えて、百済再興もこの遠征の目的としたのは、これに先立つ二年前、神功皇后四七年(紀元二四七年)遼東半島にて風前の灯となっていた百済王家が、朝鮮半島の倭人国卓淳に仲介を求め、その手引きで倭国に朝貢してきたことに起因する。

百済王家は、神功皇后元年(紀元二〇一年)に、まだ公孫氏の娘を娶る前であったが、一度は倭国に朝貢を誓っていた王家である。公孫氏の姻戚となり、その威光で馬韓を領し倭国と対等の国となったが、公孫氏による魏への反逆の際、姻戚であるが故に反逆者に与せざるをえなかった。反逆者の一味として、魏に対して外交的に接近しにくい状況下、かつての帯方郡下の同輩国であった倭国を頼って、再興を期したのであろう。倭国はこれを憐れみ百済の再興を助ける意向を固めたと想像される。

神功皇后四九年(紀元二四九年)、倭国は二人の将軍を任命し、任那西部の倭国領域に亡命していたと思われる百済の兵も糾合して、鶏林(新羅)征伐を行った。この時、鶏林(新羅)は早々に降伏し旧に復すことを誓い、半島内の倭人各国の混乱も平定することが出来た。

定説では、忱弥多礼は現在の済州島と成っているが、この時の南蛮の忱弥多礼は、遼東半島の西及び南岸に面する群島国であったと思われる。中国で当時南蛮と言ったのは、越および呉の苗族系の民のことで、その昔、長江河口域から撤退する倭人と共にこの地に来たのであろう。倭種と同じく文身をして漁労を行うことを特徴とした種族である。

時、倭国には太佰の血筋の王と自称する勢力もあり、忱弥多礼の呉及び越系の苗族は、親近感をもって倭国の采配に抵抗なく服したのであろう。

これで百済は、帯方郡南部における足場を確保する事となった。百済王は大いに感謝し倭国に対し「常に西蕃と称えて春秋に朝貢します」と誓った。その後、神功皇后五二年(紀元二五二年)、七枝刀など種々の重宝を神功皇后に献上している。

この百済再興の頃からか、百済には倭国から執政官として、国守が派遣されるようになっていた様だ。日本書紀の敏達天皇六年(紀元五七八年)の段に、

「夏五月五日、大別王と小黒吉士を遣わし百済の宰とした」との記述があり、その説明文を以下のように付記している。「王の使いが命を受けて、三韓に遣わされると、自らを宰と称した。韓国の宰になるということは、思うに古のきまりなのであろう。」

日本書紀編纂時(紀元八世紀初頭)には、日本の半島統治が形骸化して、既に二百年以上経過していたため、この宰の記録の意味が理解できずに、「思うに古の決まりなのだろう」と記している。

定説に基づき朝鮮半島南西部に百済を配して、神功皇后が百済に与えた地域を想定した地図から、同想定地を正しい位置の遼東半島に置き換えて、対比した図16.

ともあれ、古における倭国の百済に対する影響力は、絶大なものであった様だ。

日本書紀によれば応神天皇三年(紀元二七三年)、百済に辰斯王が位に着き、倭国の大王に対し礼を失することをしたとある。応神天皇は紀角宿禰ら重臣を百済に遣わし、それを責めた。百済は辰斯王を殺して陳謝したので、紀角宿禰は阿花を立てて王として帰って来た。その時、忱弥多礼、峴南、支侵、谷那、東韓の地を百済から取り上げた。「百済記」にそのように記録されていると、日本書紀は記述している。

応神天皇一六年(紀元二八六年)、百済の阿花王が亡くなった時、天皇は、倭国に預かっていた阿花王の子、後の直支王を召して「位につくよう」帰国させ、さらに東韓の地を賜った。東韓とは甘羅城、高難城、爾林城であると、記述されている。

韓はおそらく任那の北西、鴨緑江河口域の西側に以前あった、辰韓や弁韓と呼ばれた地域であったろうと推察する。百済はその後、鴨緑江沿いに上流へと伸長、一時期、現在の集安に当たる平壌城も勢力下に入れている。こうして百済は、遼東半島から鴨緑江下流域を確保していった。(図⒘参照) 

(三)中国東北地域の政治的空白

紀元二六三年、中国の魏王朝は司馬氏が、禅譲とは形ばかりで帝位を簒奪するところとなって晋となった。晋の統治は、紀元二九〇年の王族同士の争いが原因で混乱をきたし、その後、中国は五胡十六国時代になって行く。そのため中国東北地域は、事実上の政治権力の空白地帯となって行った。
紀元三〇四年の五胡十六国時代の始まりと共に、楽浪郡の一部地域勢力として存在していた高句麗が、楽浪郡全体を手中に納めて行った(紀元三一三年)。

百済は帯方郡を足場に遼西、晋平の二郡を勢力圏内に納めて行く。
紀元四世紀の終盤頃には、中国東北部を舞台として、先述した「梁書巻五十四列伝第四十八」に、百済が以下のように記述される状況となったのだ。(図⒙参照)

「其国本与句麗在遼東之東、晋世句麗既略有遼東、百済亦拠有遼西・晋平二郡地矣、自置百済郡」

その国、もと句麗と遼東の東にあり。晋の世、句麗すでに略して遼東を有し、百済もまた、よって遼西・晋平の地を有し、自ら百済郡を置く。

百済と高句麗は、中国東北地域を舞台として、双方とも勢力を伸張し繁栄を遂げた。そして、互いに反目し合い、相手に隙あれば攻撃し相っていたのである。

紀元四七五年、遂に百済は高句麗に滅ぼされてしまった。神功皇后の支援で、国を再興してから二百二十年余を以って百済は二度目の滅亡を迎えたのである。

(四)雄略天皇の百済再興

紀元四七五年、百済が高句麗に滅ぼされた時、百済王とその残党が倉下に落ちて来ていた。おそらく任那の西部領域内(鴨緑江河口の東岸側)又は遼東半島突端部であろう。

高句麗王は、百済が周りの国々も知る日本の官家である事や、百済王が天皇に仕えている事を理由として、それ以上の掃討をやめて軍を引いたと、日本書紀に記述されている。高句麗としては、遼西・晋平の地を手に入れることで十分であり、倭国との戦争を避けたいと判断したものと思われる。

紀元四七六年、雄略天皇は、百済の王族である汶州王に久麻那利の地を与えて、百済の再興を図った。その後百済は、倭国の支援で高句麗に反転攻勢をかけていくことになる。

雄略天皇二三年(紀元四七八年)百済の文斤王が亡くなった時、雄略天皇は、大和朝廷に預かっていた百済王子末多王を召して百済王とすべく、筑紫の兵500人をもって百済に送り届、東城王として即位させた。

この時、筑紫の兵らは軍船を率いて高句麗を討った。日本書紀には、この年の百済からの調が例年より多くなったと記録されている。調は国の産出力に応じて納める税であるから、この戦で、ほぼ遼東半島を回復したと思われる。

さらに継体天皇時代には、任那西部の四県を、倭国の重臣に賄賂を贈って首尾よく割譲を受けた。欽明天皇時代には倭国からの武器・兵糧の支援を受けて、高句麗に対し任那日本府軍・新羅軍と共に攻勢をかけ、高句麗によって奪われていた六郡を回復した(紀元五五三年)。

さらに欽明天皇二五年(紀元五六四年)、百済王余昌の時、倭国は大将軍大伴大連狭手彦を遣わし数万の百済兵をもって高句麗を討ち、勝ちに乗じて宮中に入り、高句麗の宮殿にある宝物を多数略奪し、これら宝物を天皇に奉ったと記録されている。この時、百済の西の領域を遼河右岸まで拡大させたと思われる。(図9参照)

「隋書」百済伝や「資治通鑑」に以下のような記録がある。

「開皇初年、其王餘昌遣使貢方物、拜昌為上開府、帯方郡公、百済王」 
 開皇初年(紀元五八一年)王の餘昌が遣使をもって方物を献上したので、昌に上開府、帯方郡公、百済王を拝受させた。

「隋書」百済伝

「及隋軍度遼、百済亦厳兵境上、聲言助隋」
 隋の軍、遼を渡るにおよび、百済もまた兵を境上に厳にし、聲言し隋を助く。

「資治通鑑巻百八十一隋紀五」

隋の煬帝の大業7年(紀元六一一年)、隋は大軍をもって高句麗討伐を行った。その時の記録で、百済も遼河沿いの国境を兵で固め、遼河を渡る隋軍に助勢の声援を送ったというものである。

百済は、高句麗によって失った領土の多くを回復し、七世紀初めの隋による高句麗討伐に際し、進軍する隋軍に対して、遼河まで拡大していた国境に自軍を配備して、渡河する隋軍を側面から助けていたのである。

一方、朝鮮半島においては、新羅によって任那王家が滅ぼされた後も、任那領域には倭国より遣わされていた行政官や武官が駐在して、百済と共に任那再興に向けた話し合いが試みられていた。百済は、この話し合いの議長の立場にあるにもかかわらず、任那領内の下韓に百済独自の郡令(行政官)、城主(武官)を配置し、実質的な支配地域拡大を図っていたのである。

大化の改新後の孝徳天皇の時、百済からの調が、任那の分について少ない事を咎めて、天皇が詔して宣った言葉の中に

「わが皇祖の世に、百済国を内菅家としたもうた❘中略❘なかごろ、任那の国を百済に属させた❘中略❘心変わりせずまた来朝せよ。ー後略ー」

という記録がある。大化の改新は紀元六四五年であるから、この時から見て中ごろの昔とは、恐らく六世紀後半頃であろうか、七世紀には、任那は既に百済に属するものとなっていたと推測される。

以上、中国の記録と日本書紀の記録により百済の変遷を辿ってきたが、唐に滅ぼされる直前、紀元六六〇年には、百済は遼東半島を本拠として、任那(大加羅)の全域から以西の朝鮮半島と、鴨緑江中下流域から西の遼河までを領する国となっていたのだ。(図9参照)

百済は時代の変遷によりその領域を大きく振幅させていた事が分かる。しかも、百済となってから二度も滅亡に瀕し、その都度、倭国が再興を支援し復興していた。

倭国が、百済に肩入れする理由の一つは、倭国朝廷への調貢納に関し、新羅より従順な姿勢を示していたからと考えられる。筆者が読んだ限りでは、日本書紀の記録の中に、応神天皇三年(紀元二七三年)以後、百済が倭国への調を怠ったとの記述は、武烈天皇の時に一回だけ見出されたのみであった。それに引き換え新羅は、情勢の変化を見てしばしば調を怠っている。両者の調を納める姿勢は、対称的である。

その面から百済は、倭国にとって、安心して見込む事の出来る大事な税源国であったと思われる

従って倭国は、百済が唐により滅ぼされた時、預かっていた王族「豊璋」を王に立て、その敗残兵をまとめ、三度目の百済復興を果たすべく支援したのだ。実利面からの百済復興支援であったのである。しかし、白村江の海戦に敗退し三匹目のドジョウはつかめず、百済を完全に失ってしまった。

ついでながら、白村江は現在の何処かと考えて見たい。日本書紀の記述を見ると、倭国から帰って王位に就いた「豊璋」は、白村江の戦いの折、自ら白村江において倭国からの救援軍を出迎えた。そして軍議にも参加した。

こうした記録から、「豊璋」は戦いの場、白村江の自軍後方に居たと考えられる。また、白村江の海戦に敗れた時、「豊璋」は数人と船に乗り高麗へ逃げたとある。敵軍が間近に展開する戦場から、船に乗って高句麗へ逃げる事が可能な場所、それは、自軍陣地の後方から船に乗り、高句麗方面に逃れる経路を採る事が可能となる場所となる。これが可能な場所と経路を地図で探すと、鴨緑江を背後にする水域で、鴨緑江を船で遡って高句麗へ向かう経路になると思われる。

第二章にある、吉林大学の林教授のコメント「大唐帝国は、現在の鴨緑江を越え韓半島深く進行していなかったことも判明しております。」を考慮すると、白村江とは、江の意味を入江と解せば、黄海の朝鮮湾となるだろう。大河という意味で解せば、鴨緑江と言う所が妥当である。当時の倭人の言う白村江とは、鴨緑江ないしは朝鮮湾のことであったと考えられる

つづく……

*父が自費出版をした1冊目の本*




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