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第五章:倭国崩壊と日本誕生①

*この記事は、約10年ほど前に父が書いた全6章で構成されている原稿を順番に公開しています。

<過去記事>
『日本誕生』 はじめに
第一章 : 倭人の起源 ①
第一章 : 倭人の起源 ②
第二章:中国古代文献に見る①
第二章:中国古代文献に見る②
第二章:中国古代文献に見る北③
第三章:縄文時代の倭人①
第三章:縄文時代の倭人②
第四章:倭国の勢力圏①
第四章:倭国の威勢圏②
参考文献・資料

古代の北東アジアの国々の、正しく修正された国域を見つめると、倭人・倭種の人々が、紀元前千余年以上の昔から、日本列島、朝鮮半島、遼東半島南岸、楽浪海及び帯方南東海域の島々に亘る広大な地域で、幾つもの邑国を形成し、倭人と言う民族意識を持って、それぞれに生活を営んでいた永い歴史があった、と改めて認識させられる。この事と、Y染色体D系の平和志向の男達の、膨張と縮小の歴史とを重ね合わせて考えると、縄文倭人から連なる日本の精神性に、深い感慨を覚えざるを得ない。

古代中国においては、紀元前の春秋・戦国時代の知識人たちから、倭人・倭種が居住展開する地域は、夷羿に射落とされた九つの太陽の部族が住む海のかなたの地、即ち九っの夷の居る所と看做されていた。。この事に、一層の感慨が湧いてくる。

「漢書」地理志に次の一節がある。

「然東夷天性従順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。楽浪海中有倭人、分為百余国 以歳時来献見伝」

しかして東夷は天性従順、三方(※ 1 )の外に異なる。
故に孔子は、道の行われざるを悼み、もし海に浮かばば、九夷に居住(※ 2 )したいと望んだ。以(ゆえ)有るかな。
楽浪(※ 3 )海中に倭人が居る、分かれて百余国をなし、歳時をもって来たりて献(※ 4 )見すと云う。

※ 1 :三方の外とは、中華の外、東夷、西戎、北狄、南蛮の四方のエビスの内の、西戎、北狄、南蛮の三っのエビスを指している。
※ 2 :海の向こうの東夷は天性従順である。中華は乱れ、古の礼は顧みられない状態にある。これを悼み、孔子が 理想とする周礼を実践している人々であると考えている倭人(九夷)の地に住みたいと望んだ。
※ 3 :楽浪海とは現在の渤海のこと。海中とは遼東半島も含んだ島々のある海域。
※ 4 :貢ぎものを持って表敬の挨拶をたてまつる

解説:
殷の礼を継承した周王朝の礼を、周礼と言い、孔子が理想とする礼法としていた。東夷は太陽神を信仰する十部族の王が代わる代わる政治を行っていたが、天候異変などで諸部族が相争うようになり、輪番制が崩れ、それぞれ覇権を争うようになった。十の太陽が一度に現れたので庶民は塗炭の苦しみを味わうこととなった。夷羿が九つの太陽を射落とし、勢いをかって夏王朝を倒し黄河流域を征服した。この時、太陽神(部族長)を射ち落された九っの東のエビスは、東海のかなたに住んでいると伝えられる。
その後乱暴な夷羿を排除して夏系の指導者が出たが、混乱が続き、この混乱を収拾して、東夷系である殷が王朝を興した。
春秋戦国時代に、東海のかなたの九夷は、殷礼、周礼とも言われる礼義を守っている、という伝説が、いつしか語られるようになっていた。孔子は、この伝説に基づいて、「欲居九夷」と考えた。「漢書」地理志の編者も、以(ゆえ)有るかなと思った。そこに天性従順な倭人が居るのだからと。

東夷十部族の内の一部族の系統と目せられる殷王朝は、可なりの可能性を以て、我々と同じ先祖の王朝、と言う事が出来るかもしれない。巫祝王の治める殷王朝の甲骨文字などによって漢字の由来を探求した白川静氏の著作を読むと、倭人の世界観と、殷人の世界観の近さ、と言うより同一さ、民俗的同類性を感ぜずにはいられない。それが故に、白川静氏は、殷王朝時代の甲骨文字を、日本語で読めたのである。

一、日本書紀の記述

紀元六八一年に、天武天皇が編纂を命じて、七二〇年に完成した「日本書紀」は、東アジア地域に、任那・加羅諸国、百済や新羅を傘下に持つ国、倭国が存在した事を記している。また「日本書紀」は、天地創造から、神々に導かれて興った国について、そして神の子孫である歴代大王の世に生じた出来事を、淡々と記している。

この日本書紀には執筆者の名前が記録されていない。後に紀元七九七年に完成した「続日本紀」の養老四年(紀元七二〇)の条に、「先是一品舎人親王奉勅修日本紀至是功成奉上紀三十巻系図一巻」とあって、舎人親王が編纂責任者であった事が、この記録から知られるのみである。

有力氏族に連なる関係者が、それぞれの氏族に語り伝えられている出来事を持ち寄り、それぞれの伝承を整理し、同じ内容のものは一つにし、異なる内容のものは並列的に詰め込んだとも考えられるものである。

完成の時から遡ること僅か六十年程前まで、日本列島を本拠地として、朝鮮半島、遼東半島、鴨緑江流域にまで及ぶ、広大な領域を統括していた「すめらみこと」の国について、その国の生い立ちと、成功と失敗の歴史、その国による半島統治が崩壊して行く様子を、出来事を追って年代順に、その出来事に対する複数の違った記録を紹介しながら記述し、残している。その記述は、「すめらみこと」への批判も含むものである。古事記が物語的と言われるのに対し、日本書紀の記述からは、当時の史書編纂の、客観性の基準に合わせようとした努力のようなものが感じられる。

山形氏の地理志的文献研究、、そして松本氏の遺伝子的研究から解明され導かれた、『古代において、「倭人・倭種」が、日本列島、朝鮮半島および遼東半島を居住領域として広く展開していた。』という、現代の我々にとって驚くべき事実について、日本書紀は、所与の出来事として、何の説明もなく、そこに展開された倭人達の成功と失敗の物語を記している。

大和朝廷の朝鮮半島倭人諸国統治は、当時の人々の人口に膾炙した周知の事実として、特に説明を要する事ではなかったのだろう。だからそうした説明なしに、それぞれの出来事を、列記したものとなっている。このこと自体が、日本の古代の出来事について記された、日本書紀の記録としての信憑性の高さを、物語る証拠として理解する事が出来る。

出来事が興った年代に関する間違いは多少はあると思われるが、出来事そのものは、実際に起こった事柄で、倭人達の中で語り継がれ、記録されてきたものであったと考えられる。例えば半島諸国での出来事について、人の弱さや、ずるさも含めた人間関係、人名や地名など詳細に記述出来た理由も、そうした事実を記録した資料や伝承が当時の日本に豊富にあったからと思われる。それ故、一つの伝聞や出来事について「一書に」と、他の記録の伝える所を併記し、敢えて別の記録の存在が分かるようにし、最終判断を読者にゆだねる形となっているのだ。

これまでの歴史教育においては、日本書紀の朝鮮半島に関する内容は事実とは関係ない、全くのフィクションに基づくもの、としか受け止められなかった。例えば、崇神天皇六五年(紀元前三二年)の項の、任那の国の位置に関する記述、また、紀元四七五年、高句麗の攻撃に敗れ国土を失い、滅亡に瀕した百済の王族に対して、雄略天皇が、領地を封じて百済再興を支援した、という記述も、従来の通説においては、あり得た事と認識する材料が見当たらず、単なる言い伝えで、事実とは考えられない記述として片づけられていた。

今や、研究者達の地道な活動の成果により、倭人の領域が遼東半島南岸まで広がっていた、と知る材料を幾つも与えられて、日本書記の記述が、信憑性ある記述として理解できるようになった。また、日本書紀を読むことによって、大和朝廷が朝鮮半島倭人諸国の離反を招いた原因も、分かって来た

二、政権の腐敗と慢心

継体天皇時代、応神天皇により築かれ、二百年余の長きに亘って堅く守られてきた半島諸国に対する領土行政の原則を、重臣が賄賂により破り、任那四県を百済に割譲するという事件が発生した。第三章二節で記述したように、この事件以降、半島諸国が持っていた大和朝廷への信頼が失われ、大和朝廷の求心力は著しく弱まった。

その後、六世紀半ば頃になると、大和朝廷が思っている程には、百済や新羅の対応は大和朝廷に対して誠実なものではなくなっていた。百済や新羅だけでなく、半島の倭人諸国においても、大和朝廷に対する信頼が薄れていた。丁度、室町幕府末期の有力大名、戦国時代の織田氏や赤松氏の幕府に対する対応等に象徴されるような意識と、同様な意識が生まれていた。お家騒動が続く大和朝廷、応神天皇以来の道理を賄賂で曲げる大和朝廷に対して、形の上では臣従の姿勢を示しても、遠く離れた半島内では、もはや大和朝廷は、公権力として頼みとする政権と思われていなかった事が伺える。

継体天皇下の、半島諸国領地行政の腐敗を上塗りするものとして、それまでは、江戸時代の徳川幕府の様に、諸国の領地の異動権は天皇のものとなっていたのに、継体天皇政権は、半島諸国の領地管理権を放棄し、各国王に自国領地の管理処分権を与えてしまった。その結果、半島内有力国は自らの領地拡大に向かい、天皇の裁可を仰ぐことなく、半島内小国を併合する状況になって行った。これは、室町時代に、日野富子が自分の息子を将軍職に就けるため、有力大名、山名氏に西国領地の支配権を与え、これが遠因となって戦国時代に至ったと同じ状況である。継体天皇を担ぎ出した者たちによる領地行政の掟破りが、半島統治崩壊の始まりを示す号砲その物となった。

欽明天皇以後の記述を読むと、百済、新羅とも大和朝廷の命に面従腹背で対応していることが良く分かる。都合の良い時だけ、大和朝廷の兵力を利用しようとする意図が容易に観察できる。

ところが、大和朝廷は、こうした状況を認識出来ず、従来からの宗主国の意識のままに、面従腹背の新羅や百済に、任那再興の命令を詔していたのである。半島における強い覇権意識が、現実認識を不能にさせていた。日本書紀には、現地の実体を認識しない朝廷の姿が、淡々と記録されている。

紀元六四五年の朝鮮半島三国からの使節の前で実行された、大化の改新というクーデターにしても、大和朝廷の不安定さを露呈し、三国の心理的離反を促進するものでしかなかった。この事件の後、百済が調を少なく貢ぎ、新羅が唐に一層接近して行ったのも当然であった。大化の改新の年の秋、孝徳天皇が百済の使いに対し、調の少ない事を咎めて「心変わりせず、また来朝せよ」と言っているが、形を復したとしても、既に変わった心は元に戻らなかったのだ。

このクーデターを、国家としての危機意識による改新のためとするなら、敢えて三国からの使節の前で実行する必要はなかっただろう。大和朝廷内の人々の、千年以上の昔から続く半島諸国に対する優越意識と慢心が、これを実行させたと考えるしかない。

大和朝廷は、軍事力はもとより国の豊かさにおいて、半島の両臣従国を凌駕する強大な国家と自認し慢心していたのだ。それを裏付ける記録が「隋書」にある。隋書の本紀五巻と列伝五十巻が編纂されたのは、大化の改新以前の紀元六三六年であるが、その「隋書」列伝第四十六東夷俀国の部に、

「新羅、百済はみな俀を以って大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す」

とある。

俀国とは大和朝廷のことである。七世紀初頭の北東アジアの状況を同時代の中国人がつぶさに観察し、記録したものであるから、当時の北東アジアにおいて、新羅や百済が、大和朝廷は大国で豊かであると考え、敬い仰ぎていた事が、この記録から確認できる。即ち、この当時隋朝は、新羅と百済は高句麗とは違って、大和朝廷傘下の国であると認識していたのだ。

余談だが、現在の気候より寒冷であった古代から、江戸時代頃までは、日本の大地は、朝鮮半島に比べて、すこぶる豊穣な土地であったようだ。それは単に気候によるものだけで無く、自然の恵みの持続的創出のために、縄文時代から日本の村々が絶える事無く努めてきた、資源保護の努力の賜物と言えるものかも知れない。恐らくそういう努力の蓄積の結果による豊穣の地と言えるのだろう。

江戸時代の中期、十八世紀に来日した朝鮮通信使の記録を読むと、十三世紀からの儒教国教化と仏教の徹底弾圧によって、既に縄文の叡智を失ってしまっていたと思われる半島と、縄文の叡智を伝承する日本本土との、自然の美しさや民衆の暮らしの豊かさの違いは、各段の差となって顕在化していた事が分かる。大地の織りなす景色や、人々の暮らしぶりについて、その差のあまりの大きさに驚嘆し、周時代にやってきた穢れた愚かな血を持つ蛮族の末裔が、このような豊穣の地に恵まれ、繁栄を享受するのはけしからん、とその悔しさを綴っている。

その悔しさを綴る言葉の中に、彼らも、「太佰の苗裔」として、倭人を認識している事が窺がえる。その時の中国は、満州族の清王朝が支配し、李氏朝鮮は、満州族が築いた清の属国として清朝に臣従していた。

三、北東アジア圏第一の王朝意識

三世紀から六世紀中盤までと、六世紀末から七世紀初め頃の、大和朝廷の中国王朝に対する振舞いを対比すると、劇的に変化している事が分かる。

倭人の国は、古くは周王朝への朝貢、その後は漢王朝、三世紀は漢の禅譲を受けた魏、晋、四世紀から六世紀にかけては、南朝を形成する東晋、宋、斉、梁、陳と漢族による大陸南部の各王朝に対して、継続して朝貢し臣従を表明していた。その都度、大和朝廷は、各王朝に対して遼東半島、朝鮮半島諸国の統治についての公認や、安東大将軍などの官位に叙すことを求めていた。

ところが、北狄である鮮卑系の「隋」王朝に対しては、手の平を返したように、南朝に対して行ったような統治領域承認や官位叙任の要請を全く行っていない。それどころか「日出ずる処の天子」、という意識をもって外交文書を作成している。

その文面の親書を隋の皇帝に差し出し、皇帝陽帝が不快感を表したという隋書の記録は、教科書にも取り上げられ広く知られている。
このような、隋王朝を同等ないしそれ以下の格の国とする、大和朝廷の意識は、隋が鮮卑系であるが故のものとしか考えられない。

(一)血の壁

古代においては、現代の我々が想像する以上に、血筋・血統及び家柄の重要性は大きなものであったであろう。それぞれの時代や地域で、血筋や家柄を重んじる意識が、それぞれの社会秩序や制度形成の大きな要素となっていたのである。現代からみれば、人権を無視した非人道的な奴隷制度や階級制度も、そうした意識から生じた社会現象と捉えることが出来るだろう。

そうした意識の種子は、現代の人々の心の内にさえ本能的に存在し、無意識の内に芽を出す可能性を持つものでもある。現代の人々は、過去の悲惨な歴史を通じた学習によって得た叡智によって、人権尊重という価値観を習得し、理性の強い働きにより、その種子を心の奥底に押し込み、発芽の前段階で摘み取っているのだ。

世界の歴史を見れば、数十年前まで人種差別を制度とする国があり、第二次大戦以前は、植民地支配や差別を合理化する科学的根拠として、進化論が取り上げられていた。異質なるものには優劣が存在すると言う思想である。現代において斯くの如きであったのだから、古代においては、血筋・血統、家柄に基づく格の違いは、超えることのできない、高い意識の壁であったと考えられる。

(二)別格意識の芽生え

倭国大王の血筋について、中国古代王朝の記録として残された「太平御覧魏志倭人伝」、「魏略逸文」、「梁書倭伝」などには、「倭人自云太佰の苗裔」(倭人は自ら太佰の末裔と言っている)と記されている。

紀元三世紀から六世紀の、中国古代の三国時代から南北朝にかけて、魏や晋、南朝の宋、斉、梁などの王朝に朝貢した倭人達は、自らの国を紀元前十一世紀に興った、中国古代の「周」王朝の王族の血筋を引き継いでいる王家の国である、と自認し表明していたという記録である。

太佰と言うのは、紀元前十二世紀、中国古代の殷王朝が終わりを迎える頃に、殷王朝に臣従していた氏族であった周氏の首長の長男であった人である。

太佰は、予想される周の後継ぎ争いの悲劇をさけるため、南の蛮地にのがれて、後に「呉」となる「句呉」を興した。中原では、やがて太佰の三弟の孫が、紀元前一〇四六年頃、殷王朝から王権を引き継ぎ、周王朝を興し武王となった。遡って考えれば、太佰は周王朝の正統な血筋を持つ人であった。

倭人は、周王朝第二代の成王の時に朝貢し、長寿に効く薬草を献じたという記録が、中国古代の書「論衡」に記されている。この記録は、紀元前十一世紀に、倭人の国が存在していたことを物語るものである。しかし、従来の歴史定説においては、これは信じがたい事で、これらの記録は史実としては認識されず、創作された物語であろうと考えられて来ていた。

倭国大王が太佰の末裔であることが事実かどうかは分からないが、紀元3世紀~5世紀、邑国の連合体を形成していた倭人連邦王国の大王は、中国史書「史記」における「世家」の、第一にランクされている「呉太佰世家」の末裔であると、中国古代王朝に対し表明し自認していた。そのように自認していた事は、記録に残っている通り事実であろう。

卑弥呼の時には、魏の周辺国の第一ランクに当たる「親魏倭王」の称号を得ている。この「親魏○王」という称号は、魏の周辺国の中で最も高い位にある者を表すもので、魏においてこれを称し得た国は、倭国と大月氏国の二国だけであった。

卑弥呼の時代から倭の五王と続く倭人連邦王国の大王は、中国古代王朝の勢力圏内で、第一にランクされる「王家」であるという自覚と、はるか古の周王朝の血筋「太佰」の末裔であるとの誇りをもって、その他の周辺国との格の違いを認識していたのである。これは間違いなさそうだ。

七世紀の初め、非漢民族で、倭国より数段格下の鮮卑族拓跋氏系「隋」王朝に対して、「日出ずる処の天子、日没する処の天子にいたす、つつがなきや・・・」と言わせた最大の原因は、この周辺部族の国々と格が違う、という強い意識であったと考えられる。そしてこの強い意識が、隋を周王朝から続く歴代の後継王朝と同等とは認め難い、と判断させたのであろう。大和朝廷は、南朝の斉から梁への易姓革命の際も、同様の異議を唱えたと言う。

倭の五王時代から、中国古代文献「史書」において漢民族王侯「世家」の第一にランクされる、「呉太佰世家」の末裔であると自認し、相当の自尊心をもって東アジア世界に公言し、それなりの影響力を示そうとしていた倭国。その大和朝廷が、鮮卑族拓跋氏の系統の「隋」が紀元五八九年、大陸を統一していたと知った時の気分のあり様を想像してみよう。

当時の倭人の夏華序列を踏まえた感覚で考えると、相当格下の鮮卑族の王が、漢族王朝を滅ぼし、中原に王朝を立てているという事態が出来しているのである。感情的には面白からぬ出来事として、受け止められたに違いない。夏華は既に無くなり、強いて言えば呉太佰世家の末裔である大和朝廷こそが、血筋において夏華であると考えたとしても不思議ではない。

これまでは、太佰の末裔である事を自任し、漢族王朝が時代と共に衰退したとはいえども、易姓革命を禅譲形式を以って受け継いで来た王朝に敬意を表して、朝貢を続けてきたのである。しかし、北狄鮮卑系の「隋」によって漢族王朝が滅ぼされてしまった情況下では、もはや北東アジアにおいて、太陽神の子孫の系譜にある王朝は大和朝廷のみである。

今までの自尊心が大きなものであったが故に、「隋」に対して、漢族王朝に対すると同様な朝貢を行うことは、その自尊心が許さなかったのではないだろうか。

聖徳太子も、其の時代の民族間の階級意識の内に生きていたと考えて間違いないだろう。だから、当時の倭人にとって、大和朝廷の朝鮮半島統治や、百済、新羅を藩国としている事どもは、いかに隋が中原を制したといえども、鮮卑系の隋に承認を求めねばならない筋合いのものではなくなった、と判断したのだ。またさらに、当然の帰結として、大和朝廷の大王は、格下の隋の叙任など、言うまでもなく必要としない。当時の倭人の通念として、そのように考えられたのだ。

「隋」に続く「唐」も匈奴の系統の王朝である。古の周の首長の長男である「太佰」から続く血統であると自認してきた大和朝廷は、「隋」、「唐」という周辺の、北狄系統の王朝に対し、対等ないし対等以上の意識を以って相対峙し、国造りをしなければならないと、奮い立っていたに違いない。少なくとも聖徳太子はそうであったと考える。

夏華圏内最高位の国としての大和朝廷の自尊心は、おそらく紀元五世紀頃には倭人一般に広く浸透し、七世紀初頭の聖徳太子の時代には、隋に対する態度が、南朝に対するものと違って当然、と皆が思うような状態になっていたのだ。

だから、隋書によれば開皇二〇年(紀元六〇〇年)、隋の高祖が、大和朝廷の使者に自らの大王について説明を求めた時、使者は「俀王は天を以って兄となし、日を以って弟となす・・・・」太陽が登った後の政務は弟に行わせている、と皇帝に説明している。この説明に対し、隋の高祖が大いに義理なしとして訓えて改めさせたと記録されている。

大和朝廷の使者はこの時、文書ではなく口頭で、大和朝廷の大王は太陽の兄貴分だと言って、暗に大和朝廷の「すめらみこと」は隋の皇帝より偉いと言っているのだ。そして紀元六〇八年、小野妹子を正使として遣わした時の親書には、次の有名な一節が記述されていたのである。

「日出処天子致書日没処天子無恙・・」

つづく……

*父が自費出版をした1冊目の本*


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