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第五章:倭国崩壊と日本誕生②

*この記事は、約10年ほど前に父が書いた全6章で構成されている原稿を順番に公開しています。

<過去記事>
『日本誕生』 はじめに
第一章 : 倭人の起源 ①
第一章 : 倭人の起源 ②
第二章:中国古代文献に見る①
第二章:中国古代文献に見る②
第二章:中国古代文献に見る北③
第三章:縄文時代の倭人①
第三章:縄文時代の倭人②
第四章:倭国の勢力圏①
第四章:倭国の威勢圏②
第五章:倭国崩壊と日本誕生①
参考文献・資料

四、驕りから目覚めない大和朝廷

中国においては、古い族長王国連邦形式の統治方法が、秦の始皇帝によって打破された後、漢、魏、隋、唐と数百年を経て、洗練された皇帝親政の政治体制へと進化し、中央集権の律令国家体制が形成されていった。その中央集権体制の根幹である律令制度は、「唐」において、高い完成度のものとなり、その下での秩序安定が、経済、文化の興隆を生みだしていた。

紀元六〇八年、推古天皇の摂政である聖徳太子は、今にして思えば、明治維新の大転換と同じような気概を以って、大和朝廷を中心にした中央集権制の、倭人帝国建設を決意し、「隋」の二代目煬帝に対して「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書をいたす、つつがなきや・・・」という親書を発行したのだろう。この時、大和朝廷は新羅、百済を藩国 として従え、国家の版図は日本列島、朝鮮半島、遼東半島に及び、軍事力においても相当の力を有した状態にあった。(図⒛参照)

聖徳太子は、十分に隋と対峙できる国力があると判断していたのだ。この親書により、  倭国は、隋朝冊封体制外の帝国である事を煬帝に伝え、極東に天の皇帝の国ありと宣言したのだ。

そして国内的には、大和朝廷も族長王国連邦的統治を脱却して、大陸に負けない、中央集権の国造りを推進して行こうとした。また、国造りの精神的よりどころを、当時最先端の仏教哲学に置いて、憲法として公布したのであろう。

十七条憲法は、こういう状況の中で、聖徳太子により、天皇の国の国家建設の中心理念として発布されたと想像される。また、自らの王朝国家の歴史と権威のよりどころを明確にするため、聖徳太子は「国記」「天皇記」の編纂を行った。

しかし、大和朝廷下の有力氏族長たちは、大王家ほどの緊張感も無かったのかもしれない。聖徳太子の死後、聖徳太子の構想する国家建設は停滞し、百済に、「唐」の侵略の手が迫りくることにも気づかず、朝廷内で相変わらずの権力闘争に明け暮れる日々が続いていたようだ。

利権維持優先の族長たちが幅をきかす政治情勢の中で、紀元六四五年の大化の改新クーデターが起こった。これも相変わらずの権力闘争で、国家としての半島勢力圏維持の戦略も持たずに、場当たりの政治となってしまっていたのではないだろうか。

紀元六六〇年、唐軍が海を渡って百済に上陸し、百済を滅亡させ、占領してしまった。大和朝廷は慌てて人質として預かっていた百済の王子を立て、百済の再興を図るべく出陣するが、既に新羅は百済滅亡の前から「唐」と通じて、百済殲滅を目指していたため、前面に唐、背面に新羅という状況に陥ってしまっていた。百済の残兵と大和朝廷軍は、紀元六六三年、白村江にて唐との海戦に挑む。しかし、がむしゃらに突っ込むだけの倭国水軍は「唐」の水軍に大敗してしまい、百済再興は失敗に帰した。これにより半島に大和朝廷親派の国は無くなり、半身の構えの新羅のみになってしまった。

新羅は、積年の仇、百済を滅ぼす事が目的であって、大和朝廷に反旗を翻すものではないとして従来通り、新羅の傘下になった半島諸国各国分も含めた調を納める、という外交を行った。新羅は、このようにして大和朝廷からの反撃をかわし、一方で唐との関係を一層密にしていった。

五、「すめらみこと」の歴史書と国名変更

(一)史書編纂

日本書紀の編纂という行為は、聖徳太子の時の「国記」「天皇記」の編纂の時とは違って、唐と新羅が手を結び、大和朝廷の傘下から脱しようとする新羅の意図が透けて見える情況の中で、大和朝廷の、ある種の屈折した自尊心の発露として編纂された、と考える事が出来るかもしれない。

彼らの頭の中は、大陸に古からの高貴な血統を受け継ぐ王朝が無くなったこの時、東アジア世界に、地球開闢以来の、神々の血を受け継ぐ由緒ある血筋の王は、自らの「すめらみこと」のみである、という思いが充満している。にもかかわらず、現実の版図は縮小を余儀なくされている。強調しても、強調し足りない、貴き血筋と思えたのではないだろうか。

日本書紀の編纂動機の一つは、この事を内外に表明し、子子孫孫に伝えることであったと言っても良いのかも知れない。

もう一つの目的は、国内体制を整える手段として、大和朝廷の「すめらみこと」の権威と権力の裏付けや、「すめらみこと」に連なる諸氏族の序列の根拠などを明らかにするため、倭国に古から語り継がれてきている聖王伝説を軸として、出雲神話や筑紫神話、さらには日向神話との統一性を図った、整然とした物語を神話として形作り、自らの王朝の正統性と国の成り立ちを示すことにあったとも考えられる。

編者たちは諸氏族を代表する物知り達であったと思われる。後者の目的を十分認識して、神話部分の神代(上、下)の記述にあたって、諸氏族に伝わっていたと思われる物語を、それぞれ「一書にいう」と見出を付して数多く記述している。自らの氏族に伝わる神代からの伝承を正史に記録しようとする意向を尊重して、編者たちは出来るだけ多く併記した。また、天上の最上神の霊格を受け継ぐ「すめらみこと」を中心に諸氏族が結束して行こうという合意が存在していたのであろう。

また、「すめらみこと」家の権威および権力の正統性の根拠となる血統の一貫性を貫くことを第一に考え、倭国大乱の時、一時的に担ぎあげた「巫」、神霊能力者であったと思われる卑弥呼や伊予を、一くくりに神功皇后という存在に置き換え、男系の皇統による統治の継続性を創り出している。これはまた、男系重視の中国文化を意識した編纂であると共に、卑弥呼や伊予が皇統以外の氏族、おそらく、縄文時代からの巫祝王の系統の人々の首長、九夷となった東夷の太陽の一つであった族長の子孫、太陽の部族の巫祝王の血筋を引く者であった事を、暗示させるものである。

神代の物語は、現実の世における、神武天皇による出雲王朝(大国主系)からの軍事的手段による権力移行の正当性を説明する事を目的としてか、神代の時代に国譲りが予定されていた事を記している。その予定説話を載せることにより、譲る側と譲られる側がいずれも、地上に生まれたスサノオの子孫と、高天原で天照大神の養子として育てられたスサノオの子の子孫で、同系の子孫による国譲りであることを記述している。

神々の系譜において一系であることを明示し、当時の諸氏族に語り継がれ記憶されている地上の国譲りの歴史が、神のシナリオによって行われた必然であり、現「すめらみこと」系の血筋が、前「すめらみこと」系の血筋と同系で、その一系性と統治の正統性を裏付けるものとしたのである。これはまた、縄文倭人が列島から大陸に展開し、その後、大陸から引き揚げて来た新倭人が、列島の政治的イニシアチブをとった事を、当時の人々の納得する筋立てで正当化するシナリオ、と考えることが出来る。

当時の人々が強く認識していた大国主系王朝から神武系王朝への国譲りの歴史を、神代の時代からの脈略によって、その必然性を、神話との整合性によって主張したかったのである。編者たちにとって重要なのは、太陽の神の霊性を受け継ぐ大王の血筋の一系性であって、古の各「すめらみこと」の統治期間の正確性は問題とならなかったようだ。

大陸の史書との年代のつじつまは、こうした合意の中であまり重視されなかったものと思われる。しかし、卑弥呼および伊予の系統の氏族の主張を無視しがたかったのであろう、神功皇后三九年の箇所には、「魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月、倭の女王は云々・・」および神功皇合四〇年の箇所の、建忠校尉梯携らが詔書と印綬をもって倭国へ遣わされた事、などの卑弥呼時代の事績と、神功皇后六六年「この年は晋の武帝の泰初二年である。晋の国の天子の言行などを記した、起居注に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて貢献したと記している。」という伊予時代の事績の記述が、中国文献を引用する形で載せられている。

皇統以外の氏族(一説には海部氏系の人)であったと推察される卑弥呼と伊予は、神功皇后という架空の人物として一括され、天皇としては記述されていないが、大陸の資料の引用で、誰の世の事績を記したものであるかが分かるように記述されている。大陸との行き来は紀元前の昔から行われてきており、史記や三国志など主だった書籍は日本に持ち込まれていたのだ。当時の人々には、容易に神功皇后とは誰かが分かると、思われたのであろう。

また、編纂形式については、中国の干支による年代記述は天皇即位の年に絞られ、全体的には中国の史書編纂形式にとらわれない。

「すめらみこと」の漢字表記については、中国神話の天帝の許で、日の下を統べる唐の「皇帝」の称号に対抗し、日出づる国の、天の弟にして日の兄である、高い神の霊を宿す称号にふさわしい、「天の皇帝=天皇」の漢字を当てた。

経済力、社会制度、軍事力いずれも強力な唐王朝であるが、それをはるかに凌駕する高貴な伝統を持つ大和朝廷は、自らの王朝の伝説を前面に押し出す事により、北東アジア唯一の太陽神の系譜にある王朝として、その由緒の高貴さを強調し、民族の結束を強めたいと考えたに違いない。

そうした大和朝廷の強い意志が、「日本書紀」の国生み伝説と王朝の由緒の記述を決定させたのであろう。そこには、周を始めとした大陸王朝への臣従や、官位叙任の事は勿論のこと、「太佰の末裔」という伝承さえ記述されていない。

中国の王朝系統としてではなく、そのずっと以前の地球開闢以来から続く、太陽の神の系譜を受け継ぐ、由緒ある貴き王朝であることが強調されるべきことであった。日出づる処の国故、国名は、「日本」であり、「すめらみこと」には、天の皇帝である「天皇」の漢字を当てた。太陽神の血統を継ぐ王朝の歴史書として、日本書紀は編纂されたのである。

(二)国名「日本」誕生

「日本」という国名は、白村江の戦いの後、既に天智天皇時代に使われていたとする記録がある。天智天皇三年、遼東半島の熊岳(熊津)城にある百済占領府の唐都督軍司令官が、旧百済領(任那)でゲリラ的戦闘を企てる新羅征伐に、協力するよう使いを差し向けて来たのに対して、天智天皇はこれを受け付けず、大宰府から送り返している。新羅は日本の傘下国であり、引き続き調を大和朝廷に納めているのだから、天智天皇の対応は当然の帰結であった。

その時、唐の使者を大宰府から送り返す際、大宰府の長官から牒書を発行し、その牒書発行者の職位を「日本鎮西筑紫大将軍」と記している。(日本書紀と同時代に記されたと推定される「海外国記」による)。大和朝廷の自尊心の高ぶりを示す証拠は、その当時大和朝廷にはなかったと思われる職制、「日本鎮西筑紫大将軍」を使っていることである。唐の都督軍司令官の職位が、例えば安東大将軍といったものであったと思われるが、これに対抗する、張ったりの職位として「日本鎮西筑紫大将軍」を使用したものと考えられる。

また、約五百年後の十二世紀に、高麗で編纂された「三国史記」の新羅本紀の中に、

「文武王一〇年(紀元六七〇年)倭国更号日本、自言近日所出以為名」

「倭国が日本と号を変えた、日の出る所に近いためと、自ら言っていた」という記録がある。日本書紀完成以前に、既に日本と国名を改め、近隣の国々に新国名を名乗っていたようである。

国号変更の動機には、次の様な事情もあったのではないだろうか。倭国号は、周王朝に、従順なる者の意味で「倭」と呼ばれた国号である。形式的とは言え周王朝からの禅譲によって継続してきた漢民族王朝が、「倭」と呼ぶことに不快感はなかった倭国も、鮮卑や匈奴の血統をもつ隋や唐に、従順という意味の「倭」という国名で呼ばれるのは面白くなかったと言う事だ。格下の民族王朝に「従順な国」などと呼ばれたくない。大和朝廷の傘下諸国は大和朝廷を貴国、ないし聖王の国と呼んでいるのだ。

だから、聖徳太子以来の共通認識である、西の「太陽の没する国」に対する、東の「太陽の昇る国」が我が国という意識を基に、この意識の持つ血統上の優越性、及び格上を意識した上で、「日本」という国名に改めたのであろう。

ともあれ、大和朝廷は「日本書紀」完成の半世紀前、宗主国としての自尊心と軍事強国であるとの自信から、百済再興を図って唐に対して果敢に対抗し、白村江の海戦いを戦った。そして敗戦の憂き目を見た後、列島に引き上げ、強い自尊と自立の気概の中で、唐との力の差を冷静に把握して守りを固め、「日本」と国号を改めた。太陽と大自然を祭る太古の祭礼を、正しく引き継ぐ聖王の国としての自覚を以って、自然への祈り方の違う国、唐との対等外交を貫いて行く事を決定したのである。

六、大乗仏教と縄文精神

白村江の戦いに敗れた日本は、唐に対して自尊心だけでの無謀な行動は行わなかった。日本は、独立自尊を保ちつつも、唐の先進性を認めて、仏教文化、律令、行政制度などを貪欲に吸収して、聖徳太子以来の課題であった天皇中心の中央集権国家建設に挑んでいく。

幸いな事に、唐時代は、大乗仏教とその哲学の絢爛たる結実期であった。玄奘三蔵の時代であり、日本文化の基本潮流を決定づけた華厳経研究の最盛期であった。同時に、中国における大乗仏教経学開花の最盛期でもあった。この時代の仏教哲学が日本に伝播し、縄文時代からの倭人の宇宙観と混ざり合い、今日の日本を特徴づける文化として開花して行くのである。

「男女、貴賎に係わらず人は仏心を内在し、修行によって誰でも成仏する」という平等主義、修行の努力が報われるという現実主義、そこに生じる実力主義と自由主義の芽を宿す仏教は、天地が逆立ちしても女が皇帝に成ってはならない、とした儒教国家中国において、高宗の后であった武則天に対し、女が皇帝になっても良い、と言う思想的根拠を与える哲学となった。(倭国では、天照大神以来、女帝を拒む思想はない。)

唐朝における女帝武則天(紀元六九〇年~七〇五年)は、その遠祖が周の武王であると宣言して、国号を「周」とした。また宮廷においては、儒教者を遠ざけ、仏教者を近侍させ優遇した。女帝武則天死後の揺り戻しは強く、その後の中国は、儒教を国教として、大乗仏教を弾圧した。仏教に比し、儒教は、人間が作り上げた秩序を維持する手法として、便利な教えであったのだ。

そのため、中国の大乗仏教は一部の寺の中に閉じ込められてしまい、民衆の宗教としては衰退してしまった。朝鮮においても、李氏朝鮮が儒教を国教として、中国以上に仏教弾圧を徹底した。寺院を破壊し尽くすと共に、僧を賤民の最下層に位置付けた。このような、中国、李氏朝鮮における仏教弾圧によって、中世以降、北東アジアにおける大乗仏教国は、日本のみとなっていた。

日本書紀の神代の段で、天照大神が機織をするように、神々は、仕事をある種、神聖な行為と捉えた。大乗仏教も日本の神々と同じであった。儒教の様に、身体に汗する仕事を、無知ないし知的下等民の行う事とはしなかった。
自然の神々に親しむ日本の人々にとって、儒教には、自然の摂理と何処か違う、微妙な違和感を感じさせるものがあった。江戸時代初期の経世家、熊沢蕃山をして「余は朱子にも陽明にもなずまぬ」と言わせる、本物の世界と違う何かがあった。縄文の昔から培われた日本人の精神性が感じ取るものに比べて、何か足りないものが儒教にはあった。

儒教が徳川幕府によって強く奨励された江戸時代でさえ、儒教は武士の教養科目の一つと言う範囲を出ることができなかった。茶道、華道、武士道、さらには近江商人道など、日本文化を特徴づける、それぞれの道の精神性の修行の核には成りえなかった。

縄文の昔から受け継いで来た、自然との融合の中に神を感じる集団意識、その集団が抱く世界観、宇宙観は、言葉に表されて来てはいなかったが、生活の所作として、また人々の振舞いや祭りなどの儀礼の中に現れていた。それらは意識する事もなく受け継がれて、日本人の暗黙智と言うべきものとなっていた。これを日本人の精神性と表現しても良いだろう。

この日本人の暗黙智(精神性)を、的確に形式知として文書化していたのが華厳教であった。華厳経は、人の住む世界を哲学として語り、その上で、哲学を超える悟りを要求する。寺院に学ぶ僧に対しては、華厳経の形式知から学び暗黙知とし、さらに宗教的叡智の覚醒にいたる修行を、要求している。宗教的叡智の覚醒の境地を、四法界最上の境地として事事無碍法界と言った。この宗教的叡智の覚醒段階が、縄文の暗黙智(精神性)と同じ水準の世界観、宇宙観である。自然界の生命循環に身を委ね、自然と一体になる境地である。

この境地を現代科学風に言えば、自然界を総べて生命現象と捉える複雑系の科学の世界観そのものであり、自己の存在を含め、そこに存在する相互作用と不連続性を、生命現象の極致として達観する境地、と言う事が出来るだろうか。

在家の人々に対しては、仕事に打ち込む日々の精進の中から、この叡智を獲得することが出来るとしている。自分の職業に励むことを通じて、心の清浄化と安心立命、高い人格と精神性を獲得でき、皆々成仏できるとしている。ここに言う成仏の概念は、優れたものがカミとみなされる縄文の考え方に通じるものであろう。

古代の日本人は、既に文書化されている大乗仏教典で説かれる仏が、彼らの個々の神として覚醒されていると、素直に感得出来たのであろう。それ故、本地垂迹説が自然に受け入れられ、神仏習合となったのだ。
古代の日本人が、儒教を国教とせず、仏教を国教としたのには、そこに必然の根拠が在ったのだ。日本は、中国大乗仏教の絢爛たる至高の果実を、空海、最澄らによって受け継ぎ、東アジアで唯一の大乗仏教国・日本として、仏教哲学に基づく秩序の構築、華厳哲学的文化揺籃の国家となって行ったのである。

因みに、華厳哲学が庶民の生活に「法」として直接影響して来るのは、明恵上人に感化された、鎌倉幕府の執権、北条泰時が、その哲学を関東御成敗式目に反映させ、武士の法として政治を行った事からである。華厳哲学の現実主義、自然主義、実力主義、平等主義は、原始共同体意識を色濃く残す日本の人々に、道理の通った考え方として素直に受け入れられていったものと思われる。そして、鎌倉仏教と言われる分かりやすい仏教宗派の活動により、宗教としても庶民に広く受け入れられていったのである。仏と言う概念の前に、人々は皆同じ人間として、貴き存在であるという考え方と共に。

関東御成敗式目の根底にある、実力主義、現実主義、合理主義の考え方は、「役割を果たす者がその地位に着き、役割を果たせない者は、その地位を退く、権利の上に安住し責任を果たさない者は、その地位を失う」という考え方でもある。公家政治から武家政治への変遷を正当化する論拠でもあり、ご恩と奉公の実ある関係において、それぞれの地位に在る者の責任の果たし方が、自ずと律せられる法でもある。知行地において責任を果たせない者は、責任を果たし得る者に取って代わられる、緊張感ある御成敗式目であった。

森羅万象に仏が宿る、山川草木悉皆成仏、一念永遠、永遠一念、一即多、多即一、色即是空、空即是色、悪人なおもて往生す、等の仏教の世界観や宇宙観、人生観は、縄文の暗黙智(精神性)を強化し、知らず知らずの内に、日本に住む人々の意識に沈澱し、受け継がれて行った。匠の技の結晶である、刀などの道具類の中に、美を見出す精神性は、カミを見出す縄文の暗黙智(精神性)がそうさせるのであろうか。それぞれの道に精進して到達する、ある種の境地が、そこに「美」を発見させる。

そういう文化が、鎌倉、室町、江戸の美意識と匠の文化を育て、明治以降の日本をスムーズに近代資本主義の世界に引き入れ、戦後の日本的資本主義経済の発展を形作ったと言う事もできよう。

想像力豊かに古代を思えば、バイカル湖方面の太陽神を崇めるモンゴロイド十部族が、数万年前に日本列島に渡来し、列島を拠点として次第に西に展開し、中国大陸太平洋沿岸まで、その居住領域を拡張した。

そこを拡張の頂点として、およそ四千年前の殷王朝誕生前夜の大陸においては、東夷の一部族、夷羿の率いる集団に、他の九部族が敗退し、黄河や長江河口域周辺の太平洋沿岸から撤退した。そして、東海の九夷と呼ばれるようになった。

倭人邑国連合の古代史は、この九部族の数千年に亘る、永い歴史の物語であったと言えるのかもしれない。

また、日本が、世界で唯一の大乗仏教国であった必然性は、自然に恵まれた地域に居住し、自然と人間の営みを同じ生命循環の中に捉える、縄文人の感性にその源があったと言える。その感性は、それぞれの存在をあるがままに認め、尊重する精神を生み、日本列島を、Y染色体ハプログループの出アフリカ三グループ共に、揃って継承される世界の特異地域として、出現させていると思われる。

室町時代以降の、華厳的美意識の開花、文化の盛隆も、自然を見つめ、自己をその一部として自然と融合する精神性が、源であった。日本文化の底流は、縄文の精神性であると言われるのも、こうした事によるものであろう。
二十一世紀、持続可能な文明に必須の精神性は、我々の古代の先祖たちによって、既に育まれていたのだ。

太古からの日本の歴史は、かくも魅力的な縄文のロマンに満ちた営みであったのだ。

つづく……

*父が自費出版をした1冊目の本*


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