手を伸ばす~映画『あんのこと』~

現実に起きた事件をモチーフにしています。

映画『あんのこと』(入江悠監督、2024年。以下、本作)の冒頭のテロップに身構えそうになる。

冒頭の主人公・杏の表情と、続く退廃的なシーンにひるみそうになる。

しかし、身構えることも怯むことも、してはいけない。
それでは本作が見せたいものを見られなくしてしまう。

冷酷な言い方だが、本作は「映画」だ。
スクリーンの中の杏が、どんなに酷い・辛い状況に陥っても、手を差し伸べるどころか、背中をさすってあげることさえできない。声も掛けてあげられない。

我々観客に出来るのは、彼女を見守り、彼女に起こったこと、彼女がしたことを、座席にどっしり座って、目を逸らさず、ちゃんと受け止めてあげることだけだ。
自分にそう言い聞かせながら、スクリーンと対峙する。

21歳の主人公・杏(河合優実)は、幼い頃から母親に暴力を振るわれ、十代半ばから売春を強いられて、過酷な人生を送ってきた。ある日、覚醒剤使用容疑で取り調べを受けた彼女は、多々羅(佐藤二朗)という変わった刑事と出会う。
大人を信用したことのない杏だが、なんの見返りも求めず就職を支援し、ありのままを受け入れてくれる多々羅に、次第に心を開いていく。
週刊誌記者の桐野(稲垣吾郎)は、「多々羅が薬物更生者の自助グループを私物化し、参加者の女性に関係を強いている」というリークを得て、慎重に取材を進めていた。ちょうどその頃、新型コロナウイルスが出現。杏がやっと手にした居場所や人とのつながりは、あっという間に失われてしまう。行く手を閉ざされ、孤立して苦しむ杏。そんなある朝、身を寄せていたシェルターの隣人から思いがけない頼みごとをされる──。

本作公式サイトより
(俳優名は引用者追記)

本当に悪い人はいない、なんてことは言わない。
でも、「誰々が悪い」と犯人を特定し糾弾したところで、実在した杏の境遇は変わらなかった(だろう)し、本作の狙いもそこにはない。

上映前の舞台挨拶に登壇した多々羅役の佐藤二朗と桐野役の稲垣吾郎は、「二人は本気で杏を救いたかった」と語った。
その言葉に嘘はないことは、観ればわかる。

でもきっと、多々羅や桐野だけでなく、現実世界に生きる我々を含めた皆がちょっとずつ悪くて、或いはズレてて、その「ちょっとずつ」が「社会」という大集団の中で許容できないほどのひずみになってしまう。
その犠牲になるのは、歪でゆがんだ「社会」から漏れ落ちてしまった杏や母親(河井青葉)のような人々であることが多いのが現実。
本作はただ、「その現実を知って、その人たちに起こったこと、起こっていることを受け止めて欲しい」という想いで作られている。

でも、それでは救いようがないし、現実も変えられないではないか。
そう悲観しそうになる。
しかし本作は、ある意味、杏がもたらした「希望」で終わる。
つまり皆、ちょっとずつ悪くて、ちょっとずつ良いのだ。
杏が誰かの「希望」となったように、我々も誰かの「希望」になり得る。
その「希望の光」が、漏れ落ちた人を照らすサーチライトとなる。
照らされた人たちは、スクリーンの中ではなく、現実、目の前にいる。
その時我々は、自分の手を差し出すことができる。


……と、ここで「完成披露舞台挨拶付先行上映」の初稿本文を締めた。
その後、河合優実さんのインタビュー記事(2024年5月31日付朝日新聞夕刊)を読んで、本稿が非当事者側からの感想であることに気づいた。
本作は、当事者の方々に対して「手を伸ばせば、誰かがその手を掴んでくれる」というメッセージを発してもいる。
『この映画を本当に見せたい人には、届かないかも知れない。撮影中に監督とも話していました』と語る彼女は、それでも何とか、この映画に出会って欲しいと願っている。

この映画で「私は杏だ」と気づけば、きっと誰かの助けを求めて手を伸ばすはず

上述したとおり、我々はその手を掴むことができるはずだ。そのために……
彼女は続ける。

「例えば桐野の目線になって想像してほしい。電車で隣に座っているこの子、同じクラスの隣にいたあの子が、杏のようにつらい状況にあるのかも知れない、と」

双方が手を伸ばす。そしてその手は必ず、もう一方にリーチするはず……
本作は、そんな希望を託した物語だ。

メモ

映画『あんのこと』(完成披露舞台挨拶付先行上映)
2024年5月8日。@イイノホール

本作のラストは「希望」だと書いた。
公開に先駆けて、2024年6月5日に日本映画専門チャンネルで放送された番組「6.7『あんのこと』公開記念 俳優・河合優実 特別インタビュー」によると、彼女は入江監督から『彼女(杏)の人生を生き返しましょう』という手紙をもらったそうだ。
それを受けて彼女は『(俳優として役について)色々考えてきたことを捨てて、とてもシンプルな、その人が生きているところを見てみる、という、言葉の解釈以上に、そういうスタンスを感じて嬉しかった。今後悩むことが、この映画でたくさんあるだろうけれど、このお手紙に(よって)原点みたいに立ち返ってこれるなと、すごい思いました』と振り返っている。
「彼女の人生を生き返す」
それはつまり、実在した杏さんを「誰かの希望となった者」として生き直すことであると同時に、撮影中の河合さんや入江監督自身が拠り所とする「最終地点としての希望」でもあったのだろう。

本文で『目を逸らさず』と書いたが、本作、目を逸らすことさえできないほど、自然に引き込まれる。
それは、ほとんどが手持ちカメラで撮影されている(撮影:浦田秀穂)からで、そのカメラの動きと揺れは、そのまま杏を見守る我々の視点となる(ただし、後述する唯一の時間軸の入れ替え後、見守る視点は段々遠のいてゆく。最終的に自宅のある(恐らく)公団アパートの階段のところで別れてしまう。カメラ=視点は、階段を上がる杏を見上げる(見送る)かたちになる。その後、杏が部屋に入ったシーンからは、ほぼドキュメンタリー、或いは、三隅紗良(早見あかり)に経緯を説明しているかのような構成になっている)。

引き込まれるのは物語の構成も関係していて、冒頭のシーンは別として、本作はほぼ、時系列に沿って進んでいく。唯一逸脱するのは、唐突に三隅紗良が挿入されるシーンで、だから、上述したように、そこからは紗良に経緯を説明する回想、と捉えることもできる。

本作、カメラワークも良いが、音響デザイン(音響効果:大河原将)も素晴らしい。
驚いたのは冒頭シーンに続く、退廃的な部屋のシーン。
正面からは小さく女の喘ぎ声が聞こえ(その喘ぎが激しくなるにつれ、音量が下がっていった気がする)、サラウンドからは耳障りな音楽というかノイズのようなものが終始鳴っている。男の注射シーンと相まって、何も説明しなくても、ここで何が起こっているのかわかってしまう。
また、日常の環境音、生活音も綺麗にデザインされていた。だからこそ、コロナ禍に入ったときの静けさが逆に不気味で、それがあの時の不安さ、不気味さを想起させるものとなった。さらに言えば、母親に見つかって連れ戻されるバス車内の杏のシーンが全く無音なのも、彼女の心境を表現していて素晴らしかった。

『冷酷な言い方だが、本作は「映画」』
と本文に書いたが、最終盤、半狂乱の杏がベランダに出てしまうシーンで、彼女を止められない歯がゆさと無力感に『「映画」の冷酷さ』を恐ろしいまでに実感した。

観終わってスッキリするような映画ではない。
でも、本作から感じ取った「歯がゆさと無力感」は、逆に言えば、現実世界における「希望の光」に転化する可能性を秘めている。




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